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2016年10月23日 - 2016年10月29日

2016年10月29日 (土)

ビットコイン考

 さきほどNHK-TV「深読み」でビットコインのことが取り上げられていた。この中で、ビットコインは現実に流通過程で用いられているのであって、「仮想通貨」ではなく現実通貨であるという解説がされていた。またビットコインに将来性があるかどうかという思惑でこれを安いうちに買って、高く売ろうとする株の投機屋のような人々がいるという話もあった。そしてビットコインは国家が法律で決めた貨幣(日本では円)と異なるシステム(世界中から誰でも互いにネット上で取引を監視できる「ブロックチェーン・システム」)での信用を用いており、どちらが信用度が高いかどうかがいま問われつつある。そして一番問題なのは各国での税金をどう扱うかという問題だ、と解説されていた。

 確かにビットコインは国境を越えた新たな通貨システムであり、しかもボトムアップ的な仕組みから生まれているという点が興味深い。このシステムが世界中に普及していくと、例えばベネズエラの様にインフレ率700%もの国では国家通貨よりビットコインの方が遙かに信用度が高く、これが事実上の通貨になってしまう可能性は強い。そうなるとその国にその国の通貨で税金が納められなくなり、国家財政が破綻する。そして次に問題なのは、その国で働く労働者は国家通貨ではなくビットコインで賃金を受け取るようになれば、そこでたちまち、同じ労働をしていても他国の労働者とこれほど賃金が違うのは何故か!という怒りが爆発し、おそらく、その国で働く労働者はいなくなるだろう。こうなれば国家消滅である。こういう事態を防ぐためにおそらく資本主義国家は自国の国家通貨とビットコインの間の互換性あるいは換算制について何らかの法的な措置を取らざるを得なくなるだろう。
一方、アメリカのニューヨーク州イサカでは中央政府の通貨に対抗して「イサカ・アワー」という地域通貨を持っているそうだ。そこでは労働時間によって決まる「価値」が通貨として通用している。
 こうした事実を知るにつけ、ビットコインの持つ経済学的意味が意外に深いことが分かる。これをきっかけとしてそもそも通貨というものの意味を根源から捉え直さねばならないからである。
  資本主義的経済学の基礎を築いたスミスやリカードが主張していた「(投下)労働価値説」のもつ矛盾が、マルクスによって批判され、資本論において本来の労働価値説が主張されたのは150年以上も前のことである。当時通貨は金本位制であり、価値の目に見える担い手であり基準であって、信用は金や銀そのものの価値であった。
  しかし当時もすでに紙幣が存在し、手形や株といった信用証券の取引があり、やがて金融資本が支配する時代になってからは、「信用通貨」が主流となった。第2次世界大戦後は、金本位制も崩壊し、世界基軸通貨であるドルがアメリカの経済力を背景に通貨の信用の中心となった。しかし20世紀後半になると市場の国際化が拡大し、貿易上各国での貨幣価値の差が大きな問題となり、変動為替制が取りこまれ、貿易での通貨換算が通貨市場の相場で決まるようになり、さらには日々変動する為替レートの差をカネ儲けの手段にする人々も登場した。
  また、またこうした国家通貨とは別の地域やグループ内でのみ通用するローカル通貨としてのポイントカード制が普及していった。さらに20世紀末から今世紀にかけて普及したコンピュータネットワークはインターネットという形で日常生活の中に入り込み、それを前提としたビットコインのような国境を越える信用通貨システムが登場したわけである。
 しかし、問題はこうした「信用通貨」の一番大元になるはずの価値は、実はマルクスの主張する労働価値説に基づく価値であると思う。アメリカのローカル通貨「イサカアワー」はその意味で正当な方法であると思う。 現実には市場での需要・供給の関係で実際の価値より高い(あるいは安い)価格で取引されることがほとんどであるが、高い価格がつく場合は市場で高く売れるという思惑が動くのであり、市場での商品の交換が通常の生活に必要とする商品の交換を媒介するのに必要な貨幣量を超えて流通量が増えている(つまりインフレ状態)場合には、この思惑によるとんでもない価格の取引が成り立つと考えて良いであろう。このような過剰に流通する貨幣が「信用貨幣」である場合にはこれに歯止めがかけられず、やがてバブルを引き起こし、この「虚偽の信用」が崩れることになる。だから国家が中央銀行などを通じてこれを管理しなければならなくなるのであるが、現在の日本では逆にこの国家の信用を逆手にとって国がインフレ政策を推し進めようとしているのである。
 しかし、「市場の法則」はある意味で資本主義的リアリズムに徹しており、やがてこの虚偽の信用が崩れることになるだろう。なぜなら本来の社会的生産と消費を媒介するに必要な貨幣の価値が実体からかけ離れて取引されなければ国の経済が「成長」(もちろん虚偽の成長である)しないというのは、すでにその経済システムが破綻していることの証拠であり、結局自らの生みだした「市場法則」によって自らを滅ぼすことになるからである。これが資本主義経済の歴史的運命といえるだろう。
  ビットコインは、その2重にも3重にも階層化された資本主義的信用制度の上に出来上がったシステムであり、その意味ではつねに崩壊の危機の上にあるといえるだろうが、他方でその方法としては、将来、労働価値説を流通過程において実現させるための手段となりうる可能性も同時に含んでいるのではないかと思う。

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2016年10月26日 (水)

「ブルジョア・民主主義」の矛盾

 「ブルジョア」という言葉は左翼用語として嫌われているが、ここでは敢えてこの言葉を現在の民主主義の在り方への批判として使うことにしよう。

 いま、民主主義は危機的な状況にある。それは北朝鮮などのような独裁体制に対して「正義の味方」として掲げられる「民主主義体制」が、本音では独裁的政治を求めているという矛盾として現れている。
 例えば、アメリカの大統領選である。オバマ政権やそれに対抗する共和党のこれまでの振る舞いを「既存勢力」とみなし、それにノーを突きつける選挙民たちは、いわゆるポピュリズムの流れを形成し、トランプの様に過激な発言を繰り返し既存勢力に対抗するポーズをとる候補に熱烈な支持を表明する。そしてフィリピンのドゥテルテ大統領を熱狂的に支持する大衆もそれに近い。そして少し形は違うがロシアのプーチン大統領を支持する人々にも似たような状況があるように思う。そして「決められない政治」を繰り返した「リベラル派」に対抗して登場した安倍政権を 「リーダーシップのある政治家」として支持する日本の大衆も同様だろう。
 こうした「リーダーシップのある政治家」を支持する大衆はいわば「民主主義体制」の中で「衆愚化」された人々といえるだろう。衆愚化された大衆は自分たちが政治的に無力化された状態に置かれていることをそうとは自覚せず、自分たちは生活の中から感じる不満をぶつけることが政治的参加だと思い込まされている。政治家はそれらを組み上げてうまく政治に反映してくれる能力のある人として捉えられている。そして政治家がいろいろな人たちの意見を聞いて考え方を変えるとそれを決断力に欠けた「ブレる政治家」と揶揄し「ブレない政治」を望む。そしてリーダーシップを要求する。
だから政治家たちは互いにこの衆愚化された大衆に「分かりやすい言葉」で相手を攻撃したり派手なパフォーマンスで人気取をし政権を獲得・維持しようとする。そして大衆はますます衆愚化されていく。その悪循環がいまや世界中の政治状況に現れている。このままではきわめて危険である。
 ではなぜいまの「民主主義」がこうした矛盾を抱えているのかを考えてみよう。いまの「民主主義」が資本主義的商品経済体制の生みだした政治形態であることは前にこのブログでも書いた。貴族・王族(日本では幕藩体制による武家支配)といった旧既存勢力が商品経済体制の足かせになり、それと対抗する「自由市場」の獲得を主張する中から生まれたと考えて良いだろう。そこでは商品売買の自由、商品売買者の平等な権利、自由な競争の保障といったことが社会体制として組み込まれていった。これを理論化して初めて経済学という分野を築いたのがアダム・スミスでありリカードであった。しかしその中で生活者は自らの生活を生み出すための土地や生産手段を商品売買で資本を蓄積した資本家たちに持って行かれてしまい、自分の労働力を商品として彼らに売り渡たしそれによって自らが作った生活手段を買い戻さねば生きて行けなくなっていったのである (賃金奴隷化)。
 支配階級となった資本家たちは、自らは「自由と民主主義」の実践者と自認するが、それは他方で賃金奴隷化(外見的には「勤労者」であり奴隷には見えない)された労働者階級の存在と存続によって支えられている。だから労働者階級が明らかに賃金奴隷であることが覆い隠されるような政治支配体制を必要とする。それがいまの「ブルジョア民主主義」政治体制である。これは本質的に本来の民主主義体制ではないのであって単に外見的にそれを装っているに過ぎないのである。
 具体的に政治論争がどのように展開されているかを見ればそれがよく分かる。日本では「経済成長こそが国民を豊かにする」とされ、政権はそのためにあらゆる政治的権力を用いている。しかし実は資本家階級にとっての「経済成長」であって、生活者である労働者階級はそのための手段として必要化されているに過ぎないのである。しかし野党も政権側と同じ穴のムジナであるため問題の本質に関わる論争はまったく起きず、社会保障の財源を獲得するために消費税を増やすといえば野党もそれに従い、生活者の生活状態が良くならないと分かると今度は、政権維持のために与党が消費税値上げの時期を延長すると言いだし、野党はそれにイチャモンをつけるが、そもそも「消費税」なるものの欺瞞性に関しては何も本質的な論争にならない。
  こうして国会では野党は何も本質的な論争を仕掛けることができず、枝葉末節なできごとで審議拒否などすることしかできない状態である。これでは労働者階級が資本家階級の支配に制限を加えようとする法案など通せるわけがない。
 アメリカ大統領選でも両候補の論争はまったく馬鹿げたことの中傷合戦でしかなく、肝心の政策論争はなにもない。彼らは明らかに大衆を利用しているのである。
 本来論争とは、自分の主張に対して反論をする相手の主張をそれとして受け止め、その上で自分の主張に誤りがあればそれを考え直し、今度は相手の主張の誤りを問う、という形で互いに批判を繰り返しながら徐々に真実に近づくことが目的であるはずだ。こうした本来の論争が保障されないような政治は本当の民主主義とはいえないし、そもそも真実を覆い隠すことの上に成り立っている虚偽の「民主政治」はそれ自体変革の対象とされるべきなのだと思う。

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2016年10月24日 (月)

「NHKスペシャル マネーワールド」を観て

 ここ3回に渡って「爆問コンビ」が登場して資本主義の現在と未来について語る NHK-TVの番組があった。その中で現在世界の超富裕層65人の財産合計が下層階級36億人の財産合計と同じだという事実について語られていた。

 これはいまの資本主義社会での人々の格差が急速に拡大しているということを意味するが、この番組では従来資本主義がわれわれに繁栄と豊かさをもたらしてきたにも拘わらず、1980年頃からそれがおかしくなってきた、という論調だった。1970年代後半からアメリカを中心とした資本主義社会の「成長」が行き詰まり始め、日本ではその後1980年代にいわゆるバブルが始まり、80年代の終わりになってそれがはじけたという経過をとったが、ここが資本主義社会のひとつの曲がり角であったことは確かなようだ。 その後、1990年代には一方でいわゆる「社会主義圏」が崩壊し、他方ではアメリカを中心とした「IT革命」が始まり、インターネット時代に突入して行き、資本はそこに活路を見いだした。資本主義社会はここでいっとき「一人勝ち」して再び繁栄を取り戻すかに見えたが、「成長」は思ったほど進まず、かえって「格差」が拡大していった。日本ではバブル崩壊後長い「冬の時代」が続いた。そして21世紀に入って2008年にはアメリカでの「リーマンショック」に始まる世界的な恐慌に近い状態があり、それ以後は一時的に景気が回復するかに見えたが相変わらず「成長」は低迷し、その間に「格差」が急速に増大していったのである。

 これが何に起因するのかはおそらく「御用経済学者」たちが懸命になって考えているのだろうが、そもそも「資本主義」とは何であるのかを正しく理解していない経済学者にはおそらく解決出来ない問題だろうと思われる。
 能力ある者が努力によって富を増やすのは当然で有り、努力をしなかったり能力のない者はそれなりの格差がつけられても当然だ。そして「成長」は競争や格差によって生みだされ、自由な競争こそが経済に活力を生み、その頂点に立つ者の富が増えれば、そこからこぼれ落ちる「おこぼれ」によって下層の人間たちの生活も潤っていく、というのが資本主義的人間観であり社会観であろう。
 しかし事実は逆である。資本主義が世界中を支配していく中でよぎなく貧困に陥れられた人たちが血のにじむような生活を強いられながら働いて生みだした富をその枝々から幹へと伝えるマネーの流れを生みだし、それが最後に一番下の「富の溜まり」に流れ落ちてきて、超富裕層がそれを享受できるようにしているのである。彼らは働く人々が生みだす富の流れをすべて自分たちの「溜まり」に流し込んでいるのであって、そのマネーの流れの仕組みをつくり出すために「努力」し「才能」を発揮しているにすぎないのである。彼らにとって「社会全体のために必要な労働」はそのための単なる手段にすぎない。
 いま「超富裕層」と言われる人々が個人で私有する富は世界の何十億もの人々が血と汗の結果として生みだした富である。それを社会に「還元」する(累進課税などによって)ことで資本主義は正しい方向に戻る、などというのは全くの幻想であって、単なる「富の再配分」の問題などではないのである。
 本来は社会の中で生活者がそれぞれ自分たちの能力にしたがって分担して働くことで生みだした社会的共有物となるべき富を、不当に私有あるいは占有し、それを私的欲望に応じて限りなく増やして行くことのできる社会の仕組みこそが資本主義社会なのであって、そこに問題の核心があるということだ。
 いま資本家企業に雇用される労働者も努力次第で蓄財し、「起業」して新興資本家になれるということが資本主義的「自由」であるとされている。そしてそうなれるか否かが「能力や努力次第」とされている。しかし、そうした「能力」や努力はやがて激しい競争に晒され、大多数は蹴落とされて行く。その結果頂点に立つことができたとしてもそれはただ社会の格差の頂点に立つだけのことであって、自家用機や広大な別荘など所有してもなお有り余るマネーの使い道に困って慈善団体を作ったりするのがせめてもの「つぐない」なのだろう。
その過程でもっとも大きな犠牲を払うのはそうした競争に負けた資本家企業に雇用されて働く労働者たちである。これが何のための「自由」であり「競争」であるかはもはや明らかであろう。いまや起業する新興企業は年々少なくなってきている。マイクロソフト、アップルやグーグルなどアメリカンドリームの「なれの果て」の姿を見て、もう若者達も真実に気付き始めているのだろう。彼ら超富裕層といわれる資本家達は政府をもコントロールする力を持っており、そうした状況の中で格差がどんどん拡がっているのである。
  こうして「私的利益の追求」こそが至上の権利であって、人々の労働の成果である富は「能力ある資本家」のもとに蓄積されていく仕組みができ、社会的共有財として必要な富はこうした私的利益からの「課税」によってしか成り立たず、「被課税者」である富裕層からは自分たちの私的蓄財にとっての障害とみなされる。
 こうした資本主義社会の本質から言って、「経済成長」とは資本家の私的富の成長でしかなく、それが資本家間の過当競争によっていずれは頭打ちとなり本来の社会的共有財として有効に用いられることなく、 「過剰な富」として、無駄な消費や戦争で消尽させるしかなくなるのである。
  社会のためにそれぞれの場で働く人々は、つねに資本家たちの支配のもとで彼らの都合によって「雇用」されたり「解雇」されたりし、彼らの余った富のおこぼれを頂戴して生きて行かねばならない「賃金奴隷」であることを忘れてはならない。しかも働く人々の生活資料さえも資本家たちの富を増やす手段なのであって、それは生活者を豊かにしているかのように見せながら実は生活者の生活そのものを資本主義的体制の中に「抵抗なく」組み込む手段でもあるのだ。
 20世紀末から始まったといわれている「成長の頭打ち」と格差の増大は、これこそが資本主義社会の通常の姿なのであって、それ以前の「高度成長」時代の資本主義社会はピケティーも指摘しているように、むしろ「歴史的に特殊な条件」において成り立つ状態であったといえるのだろう。

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