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2016年11月27日 - 2016年12月3日

2016年12月 1日 (木)

デザイン行為の本質についてーM先生との話で考えさせられたこと

 先日、デザイン学会などで古くからお付き合いのあった、京都のある大学のM先生がつくばの自宅に帰られているところをお訪ねしていろいろと話をしてきた。

 M先生は地域の内発的発展ということをテーマにされてたが、その中で「遊び仕事」という問題を取り上げている。「遊び仕事」とは生活に副次的に必要な労働であるがそれが同時に「遊び」的な楽しみの要素を色濃くもっている行為のことである。
例えば、丹後半島周辺の漁村に見られる「イか釣り」は、食べたいと思ったときに釣りに行く、 竿とおもりのついた糸、バカシ(疑似餌)などを使って月の明るい夜の時間にイカの棲息する場所に近づき、真上からイカを釣る。釣ってきたイカは家族全員で食べても余るので近所に配る。そして子供達もそれに参加し釣りの道具づくりや、一緒に釣りに出かけてそこで楽しみながら釣りの技術を学ぶ。
ここには、共同体での生活を支える労働そのものが「与えられた仕事」ではなく自発的な労働であり、同時にそこに自分の共同体での存在意義が表現される。そしてその労働が生活の創造や楽しみにもなっており、しかもそれによって得られたモノが余剰であればそれを他者に分けてあげ、それと交換に別の生活資料をもらう。こういう共同体社会の原型が商品経済の支配する現代にも生き残っているのである。
 M先生との話で、こうした「遊び仕事」に必要な道具を自分でつくり出す楽しみなどに「デザイン行為」の原型が残っていると考えられることで私の「デザイン観」と近いものがあることを感じた。
 私の著書「モノづくりの創造性」の中で述べたように、私は人間のデザイン行為は人間のモノづくりの普遍的側面であると思う。もともと生活のために必要なモノをつくり出す労働の中に「デザイン行為」の原型があり、生活上での問題解決のためのモノづくりにおいて目的・手段関係の多層的な関係が意識の中に生まれ、そこに「計画」「予測」そして素材の性質への客観的法則性の把握、さらにはそのモノとしての実現の仕方そのものを通じた「問題解決の仕方」の表現(つまり内面的思考過程の外化)」そしてそれを媒介とした技術伝承があると考えられる。
 いまのデザイン論でも「広い意味でのデザイン」と職能としてのデザインという区別はなされているが、その二つの間にある深く重大な溝は問題とされない。
 近代のデザインはその発生の歴史を見れば、その職能としての本質が含む矛盾が見えてくるのであるが、いまの「デザイン史」研究ではそうした問題意識はほとんどない。
 近代資本主義社会の浸透によるモノづくりの近代化が推し進められ、中世的職人工房や農村での自給自足的モノづくりは破壊され、モノづくりの能力は、生活者の手から商人資本家に奪い取られ、その能力は商品をつくる能力に置き換えられ、分業化されたマニュファクチュア、そしてそれが機械に置き換えられ、やがて近代的大工場の中での大量の商品としてモノづくりに取って代わった。生活者が必要とする生活資料はすべて資本家の手によって商品として生みだされるようになり、生活者の多くはその資本家企業で労働者として働くために雇用され、与えられた賃金でその生活資料を買い戻さねば生きて行けなくなった。
 資本家的モノづくりの現場の細分化された労働を行う労働者から奪われた生産物全体の姿について考える能力を、そのモノづくりを支配する産業資本家に代わって「売れる商品」として考える専門家が必要になったのである。これが近代的デザイナーである。
 そこにはモノづくりの目的意識が最初から「売るためのモノ」として存在するので、目的・手段関係が逆転し、生活に必要なモノ(使用価値)を生みだすことが目的ではなく、むしろ「生活に必要である」ということが「売るための手段」とされてしまうのである。
 その結果、本来生活の中からボトムアップ的に発生してきた「必要」は、むしろ恣意的・トップダウン的に企業のデザイナーたちによって生みだされ、生活者はそれを「必要化」させられ、ただ買うだけの「消費者」にされてしまった。
 こうして恣意的でトップダウン的に生みだされた「ニーズ」によって次々と本来あまり必要でなかったモノが「魅力的な商品」として生みだされ購買される。そして当然のことながらそれらはどんどん廃棄されていく。これが地球規模で行われるようになった結果、資源枯渇や環境汚染、気候変動などを引き起こしているのである。
 こうして考えると、「クリエイティブなデザインによる価値創造」などという言葉がいかに欺瞞に充ちた「うそっぱち」であるかが見えてくる。ここでいう「クリエイティブ」とは新たな購買欲求を起こさせることであり、「価値創造」とは資本家達の利潤の増大を意味するのである。
  M先生の「遊び仕事」に見られるように、生活者が生活を自身で支え、その生活を楽しみながら生みだす過程こそ本来の意味での問題解決であり創造的デザイン行為なのではないだろうか? 近代資本主義社会の矛盾の中で生みだされたデザイナーという矛盾に充ちた職能の歴史的否定の上に、あらたな次元で生活者自身によるボトムアップ的デザインの実現出来る社会が求められているのではないだろうか?

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