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2016年12月11日 - 2016年12月17日

2016年12月15日 (木)

デザインの基本問題をめぐってーその5(デザインの矛盾と教育のはざま)

 私は何十年もかかって苦しい試行錯誤の結果、得てきたデザインに対するこのような自分の考え方は決して間違っていないと確信している。それでは、資本主義社会全体が変革されたあとでなければ、こうしたあるべき労働やデザイン的行為の研究は社会的に役立たないのか? それまでは資本主義的分業種であるデザイナー育成のための矛盾に充ちた教育や研究に従事しながらそれを否定する理論を世の片隅で「異端」として思索を続ける矛盾した(疎外された)存在でしかないのか? 言うまでもなくこれは私自身の問題であって、私が何のためにこの世界に生まれこの矛盾に充ちた人生を送ってきたのかに関わる疑問でもある。この疑問には未だ明確な答えは得られていない。しかし、いま言えることは次の様なことである。

 私が大学でデザインを学んでいた頃は、いわゆる高度成長期のただ中であった。世界中で盛り上がるデザインという領域への期待感や川添登の「デザインとは何か?」などに鼓舞されてワクワクしながらこの世界に飛び込んだのであった。しかしその後、さまざまな形で現れた「高度成長」の矛盾への反発は学生運動の嵐となって吹き荒れた。 しかし、その後、社会は新たなバブルの時代に入り、そこでは有名デザイナーの作品がとんでもない価格で買われる世の中になって行った。その意味でデザインは注目された。そしてそれは崩れるべくして崩れ、その後に長い「冬の時代」が訪れた。
やがてアメリカ発のIT革命が再び資本主義経済を活気づかせたが、その中で、デザインはソフト的世界やインターフェース・デザインへと活路を見いだしていった。また他方では大企業を中心にインフラ的部門の規模の大きな構想へのデザイン能力が要求されるようになっていった。しかしこの要求に従来の様なデザイン教育では応えられず、それに応えるべく、様々な科学技術や社会科学、人文科学を横断する領域として新たなレベルでの「デザイン」がトップレベルの大学や学会間で目指されるようになった。
 しかし他方では急速にグローバル化が進む資本家企業のもとで、その労働の国際分業化が「生活水準の差」をもとに国別に進み、各国での社会格差がどんどん進んでいっている。そこでは一方で一握りの富裕層が既得権を守るためにあらゆる権力を用い、そして他方では大多数の「余裕なき人々」がそのもとで労働を搾取され、資本家企業の生みだす商品のデザインは富裕層を対象とする驚くほど高価な高級商品のデザインと貧困層を対象とする安価な量産商品のデザインに二分されて行った。前者は有名デザイナーやドイツ、日本、イタリア、フランスなど付加価値的ブランドを持つ国々のデザイナーたちが手がけ、後者は多くの場合、中国や東南アジア諸国など労働賃金が安い国々のデザイナーが手がけている。
そして今世界は激動期の予兆に充ちている。再びおそろしい混乱と戦争の時代がくるかもしれない。大規模インフラ革命を目指す高級インテリデザイナーたちのトップダウン的「グランドデザイン」はこうしたボトムの現実を踏まえない限り砂上の楼閣に終わってしまうだろう。そしてやがて私たち生活者もまたスマホのゲームに没入できるような「平和な日々」に安穏としてはいられなくなるだろう。
 こうして世界は刻々と変化し、その中でデザインをめぐる問題の位置も刻々と変化している。
 しかし、この刻々と変化する歴史的現実の中で 私(たち)は日々生活し、生きねばならない。私は現役時代には、毎年、学生たちを就職させるための努力をしなければならなかった。労働力市場への売り込みである。事あるごとに私の持論を講義の中にちりばめたりしたが、これは学生たちにはおそらく理解ができなかったであろう。この苦渋に満ちた日々は私のリタイアとともに終わったが、もしかすると私と同じ思いをしているデザイン教育者が他にもいるかもしれない。そういう人たちのために言っておこう。
 取り敢えず、いまのデザイン教育者としての生活を護ろう。矛盾した理論や教育であってもそれを教える教育労働者としての自分の社会的存在は誇るべきである。資本主義社会の中で疎外された労働を行わざるを得ない労働者は、やがて必ずその矛盾に気付かざるを得なくなるだろう。そしてその矛盾との対決の中にこそ自分がこの時代に生きる存在意義があるのだということに気付くだろう。私たちの労働や生活の中から見えてくる様々な社会的矛盾を心にしっかりと留め置こう。それはやがて心の中に蓄積し、世の中の歴史的変化の中でひとつの理論として結晶化しいつか社会変革への巨大なエネルギーに結びつくに違いない。
 デザイン能力は決して資本家企業の「売るためにつくる」能力ではない、それはもともと生活者自身が持つ自身の生活を生み出す能力であった。そしてやがてすべての生活者がその能力を再び取り戻す日がきっと来るだろうと信じつつ。

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2016年12月14日 (水)

デザインの基本問題をめぐってーその4(あるべきデザインとは?)

 これまで述べてきたように、いまの職能としてのデザインは資本主義社会の形成過程で生みだされた資本主義生産様式特有の分業形態の一つとして登場した職能であり、それゆえ、それ自体は「デザイン」というカテゴリーを生みだす基礎とはなっているが、同時に歴史的特殊性としての基本的な矛盾をはらんでいるのである。

 しかし、そのことによってはじめてその否定のもとに「本来あるべきデザイン行為」というものの姿が明らかになってくるのである。それはちょうどマルクスが資本主義社会の労働がもつ矛盾を否定的にとらえる中から、本来の労働過程とはどのようなものかを明らかにし得たのと同様である。
 マルクスは資本論第一巻の第5章「労働過程と価値増殖過程」の中で、資本主義的労働という歴史的形態の中に否定的に含まれている普遍的な労働過程について述べている。その中で次の一節は有名である。いうまでもなくここでの「労働過程」は普遍的な意味での労働者のそれである。
「クモは機織り職人に似た作業をし、蜜蜂はその蜜房の構造によって、多くの人間の建築家を顔色なからしめる。しかし、最悪の建築家でも、もとより最良の蜜蜂に優るわけは、建築家が蜜房を築く前に、すでに頭の中でそれを築いているということである。労働過程の終わりには、その初めにすでに労働者の表象としてあり、したがってすでに観念的には存在していた結果が、出てくるのである。彼は自然的なものの形態変化のみをひき起こすのではない。彼は自然的なもののうちに、同時に、彼の目的を実現するのである。彼が知っており、法則として彼の行動の仕方を規定し、彼がその意志を従属させねばならない目的を実現させるのである。」(向坂訳岩波版より引用し一部の表現は引用者が修正)
 この部分はかつて川添登が「デザインとは何か?」(角川新書版)マルクスが述べた労働過程のこの部分を引用している。しかし、川添は残念ながら「人間疎外」は人類が文明を生みだした時から存在したものであり、その疎外を取り除くのがデザインの役割であるとしてマルクスの意図を解しなかった。そして資本主義的分業の中でそれがどのように歪められ疎外された労働の一部となっていったかについては何も問題としなかったため、あたかもこの労働過程がそのままいまの職能としてのデザイナーの使命であるかのように受け止めてしまったのである。
 マルクスがこのように労働過程の本質を明らかにしたことにおいて、もっとも強調しているのが「労働者の目的の実現」であるといえるだろう。それは労働とは何なのかということと同時に社会という共同体における一人の人間の在り方と社会との本源的関わり方をも示唆することなのである。
  このシリーズの「その2−(デザイン論)」ですでに触れたが、いまのデザイン論および方法論研究では、デザイン主体の目的意識の形成過程はデザイン行為の外にある。それは誰かの意図としてデザイン過程にやってくるのである。デザイン行為の疎外がそのまま「普遍化」されているのである。しかし、私はそこで疎外された側面こそが重要であると考えている。
  デザイン主体がまず自分と外部の対象的世界(自然・社会など)との間で生じた問題状況を「問題」として主体的に受け止め、それがどのような「問題」であるかを認識する過程が重要である。それによって初めてその問題を解決するための方法や手段つまり目的が明らかにされ得るのである。その思考過程で初めて問題が解決された際のイメージが頭の中に生まれてくる。これがマルクスがいう、「労働者の表象」であり、「彼の頭の中に観念的に存在している結果」である。これが主体的に獲得された「解」の表象(イメージ)であれば、それが現実の解決として実現された結果は、達成された目的としてその過程の「表現」になるのである。私はここがもっとも重要な側面であると考えている。
そしてこのような労働過程の側面は生活者が行うどのような労働にも含まれているべきであり、「デザイナー」という分業種のみがその対象となるわけではない。私はそうしたあるべき労働の姿こそ、生活者が資本家階級から取り戻すべき能力であると考えている。これに関する昨年のデザイン学会での発表概要を下記にアップロードしておいたので参照されたい。
 いまの資本主義的分業としてのデザイナーの労働ではこのもっとも重要な側面が疎外されており、それは資本家企業の経営者の意図として外からやってくるのである。例えそれがデザイナー自身の意図のように見えても、彼が資本家企業に雇用された(あるいは下請け企業として行う)労働者である以上それは疎外された目的意識とならざるを得ないのである。したがって、どんなにデザイナーが環境問題や人間的倫理観にもとづいて仕事を行おうとも、それが資本主義経済体制を支える社会的分業の一環である以上、企業の利潤に結びつかなければ存在意義がなくなるのである。
 そこで、こうした「あるべきデザイン行為」の研究は資本主義的分業形態に特有なデザイナーという職能の登場によって初めて浮き彫りにされた「デザイン」という領域を対象としながらも、それとは一線を画し、その否定として、さらに高い次元で求められる、あるべき労働の側面として深められなければならないだろう。
(続く)

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2016年12月13日 (火)

デザインの基本問題をめぐって−その3(デザインの価値とは?)

12月6日のブログ「デザインの価値についてー<デザインによる価値創造の実態>」を若干修正してここにもってきました。

 一般に「価値」といえば個人的な価値観と経済的な価値とがあまり区別なく用いられるが、この両者はキチンと区別すべきである。個人的価値観はその人の人生観とか美意識によって判断の基準となる「価値」をいうが、経済的価値は商品の価格として表現される社会的な意味での価値である。
 いまある要求あるいは欲求があって、それを充たすためにあるモノを作るとしよう。その結果できたモノはある目的を達成する手段であったり対象であったりするので、使用価値をもっている。だからそれは目的に応じた機能を果たすのであり、「有用性」をもっているのである。
 しかし、それが社会的に通用する目的を持っているならば、あらゆる人にとって共通の価値をもっていなければならない。商品経済社会において、商品は購買者にとって主観的な価値の表現でもあり、同時に売り手にとってもこれとは異なる意味での交換価値を持っていなければならない。その場合交換価値の社会的基準となるのが、価値である。それはそのモノが作られるためには、社会的に平均どのくらいの労働が必要であるかで決まる。使用価値がモノのもつ質的な側面であるのに対して価値はその量的側面といってよいだろう。
しかし、商品経済が社会全体に行き渡った資本主義社会においては、モノは最初から売るために作られ、それを作るために消耗(移転)した生産手段の価値部分とそれに要した労働力の価値(資本主義社会では労働力までもが商品として扱われる)が含まれるが、労働力の価値は労働者が日々労働力を養うために生活の中で消費する生活資料の価値で決まる。これが労働賃金である。資本家はこれらを、商品を生みだすに必要な「費用価格」ととらえる。しかし、実際は商品が作り出されるときには、労働者は自分の価値以上の価値(剰余価値)を生みだし、商品の価格にはこれが含まれる。したがって商品は市場での競争によって一般的には資本家に利潤をもたらすといえるが、その個々の利潤は様々であり、資本家はつねにもっとも多くの利潤が得られる価格で商品を売ろうとする。
 そこで登場するのがいわゆる「付加価値」である。「付加価値」は通俗的には、商品に価値を付けるという意味で用いられるが、それは本来の労働価値とはぜんぜん違うものである。「付加価値」 とは資本家ができるだけ実際の価値より高く売ろうとするために商品に実際の価値以上の「価値」を付加することであり、例えば、恣意的な希少性、欲しくなるような魅力的デザイン、有名ブランドなどなどである。これは実際の商品の価値とは無関係に需要を高める目的で成される価値の偽装であり、本来の価値とは無関係である。しかし、使用価値に示される様なモノの質的側面と、個人的価値観(これはきわめて曖昧なものである)をたくみに結びつけ、購買者に価値以上の価格で高く買わせようとする「騙しのテクニック」なのである。購買者はそれを自分にとって新たな使用価値と思い込まされて価値以上の高い価格で購入し、そのことが同時に価値以上の利潤を販売者にもたらしているのである。つまり「デザインによる価値創造」などといわれるのはデザインによって何か特別新たな価値が付与されるのでは決してなく、利潤をもたらす交換価値(つまり市場価格)の創造のことなのである。
  デザイナーはもちろん他の労働者と同様に商品の価値を生みだす労働の一部を担っているが、それが同時に「付加価値」の付与となるような頭脳労働を提供させられている労働者なのである。デザイナーの労働の成果は資本家にとって利潤の獲得量に大きく影響する。だから一般的にはデザイナーは現場の労働者より賃金が高めに設定されていることが多い。まして個人的価値観をくすぐり、高い価格でも買いたくなるようなデザインができる「才能」をもったデザイナーの能力は労働力商品(賃金あるいはデザイン料)として高い価格で売れる。
 ところで、商品を作るために必要とされた労働は、様々な資本主義的に分割された労働種によって支出された労働の合計である。デザイナーやエンジニアの労働は一般に商品の一つの品種につき一度(もちろん何ヶ月もの時間を要するが)開発段階のみに必要とされるが、生産現場の労働者の労働はつねにすべての商品の生産に均等に必要とされる。つまり一つの商品に含まれる労働量でいえば、生産現場の肉体労働により支出された労働の量の方がデザイナーの労働で支出された労働量より遙かに比率的に多いのである。これは開発エンジニアなどの頭脳労働一般に言えることかも知れない。
  その差は特定の商品がロングセラー商品など(それ自体が悪いとはいわないが)として長期間大量に生産されればされるほど大きくなり、そうした商品の中に含まれるデザイナーの労働部分はごくわずかな部分に過ぎなくなるのである。もちろん、生産現場の労働者一人当たりの労働量は細分化され並列化された工場ではわずかな量かもしれないが商品一個に対象化される労働量はそれらの合計されたものである。
こうして資本主義社会で最初から売るために作られるモノは必然的にその使用価値もそれを生みだす労働そのものにおいても歪められ、本来のモノづくりの姿とはかけ離れたものになっているのである。
(続く)

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2016年12月12日 (月)

デザインの基本問題をめぐってーその2(デザイン論)

 前回でデザインの基本問題研究のスタート点について述べたが、今回はそれにもとづいて、こうしたデザインの現状での根本的矛盾に気づいていないデザイン研究の現状における理論的問題についていくつか触れてみようと思う。

 (1)デザイン方法論およびデザイン論:

 デザイン方法論が確立した当初はデザイナー(設計者)の仕事とはどのようなものであり、何が求められているのかを明らかにすることであった。しかし、やがてそれは様々なモノづくりの領域で様々な形で行われているデザイン業務に共通する内容は何か?という問題から始まり、デザインとは何か?という本質論的な内容になっていった。この問題をもっとも抽象的なレバルで一般化しようとしたのが「一般設計学」であった(これについて詳細は参考文献を参照して欲しい)。そこでは設計(デザイン)過程が、要求機能の把握から始まり、その実体概念への写像の過程として基礎数学的に記述されている。この理論のデザイン研究者への影響は大きなものであって私自身もその影響を強く受けた。

 しかしこの理論の決定的欠陥は、デザインの目的意識が外在的であり、外から与えられたものとして位置づけられていることであると思う。デザインの目的意識形成過程はデザイン過程内部の問題ではなくその外部にある政治的あるいは社会倫理上の問題とされる。この理論でデザイン過程の論理的記述にはデザイン目的の発生・形成過程は含まれない。そして現実には生産手段を持ち、デザイナーを含む様々な労働者を雇用し、モノづくりの主導権を握る資本家の意図としてデザイナーの外からやってきた「デザイン目的」をいかに適切な判断と処理のもとで達成させるかが「高度な論理と抽象度」において問題とされているのである。

  しかしこのような前提では、いかにそれ以後の過程が論理的に記述されていようとも、本来のデザイン思考が同時にデザイン主体の主体的な問題把握であり、その表現であることは不問に付され、それがなぜデザインされねばならなかったのかというもっとも基本的動機が無視されるのである。生産物はデザイン主体の意図とは無関係に外からの意図でつくられ、デザイン主体のコントロールの外に置かれる。そしてそうした生産物の集積された結果が地球全体をアンコントローラブルな危機に陥れているのである。

 いまのデザイン研究においては、「職能としてのデザイン」とそれを含む一般的な「広い意味でのデザイン」という設定がなされ、前者は実践的職能教育の基礎として後者はデザイン一般の理論の基礎として位置づけられている。したがってデザインの否定的現実への認識を媒介とせずに直接職能としてのデザイン行為が一般化され抽象化される。資本主義経済特有の職能としての様々な形のデザイン労働者の疎外された労働内容をただ単に抽象すればそこにはデザイン目的は疎外されているのが当然のことであり、これでは何等デザイン行為の本質的な問題の究明にはならない。いくらデザイン思考過程の抽象的記述が成されたとしても、そこからは肝心のデザイン主体の社会との関わりにおける論理と倫理の問題が疎外され、本来の意味でのデザイン論にはならないのである。

(2)デザイン文明論:

 デザインの職能としての歴史的な意味での矛盾に触れず、それを一般化したデザインを普遍的なものとしてとらえるとき、デザインは中立的な存在と見られ、デザインが生みだす矛盾は単に、外から来る目的意識が不適切と判断されればこれをデザイナーが拒否すればよいという風にかたづけられてしまうのも上記の様なデザイン観にもとづいているといえるだろう。

この場合にはデザイナーという職能があたかも「生産者(つまり資本家)」からも「消費者(つまり生活者)」からも独立した中立的立場にあるかのようにとらえてしまうのであるが、これが、デザイナーこそが文明の形成者あるいは社会プランナーであるというとらえ方にまで行き着いてしまうことが多い。川添登のデザインに対するとらえ方はその典型であった。これはまったく非現実的なことであるのだが、様々な業界に「デザイナーブランド」という付加価値によって莫大な利益をもたらす一握りの著名デザイナーがあたかも社会のファッションを意のままにデザインできるかのように振る舞うことがその主張に現実的幻影を起こさせているのかもしれない。

(3)デザインの評価方法:

 職能としてのデザインという立場からは、これと違ってデザイナーの仕事の結果をデザイナー自身ではなく、「客観的な基準」で評価する方法が研究されている。この場合はデザイン行為における目的意識の疎外が、デザイン結果の疎外という形をとったともいえる。なぜなら、デザイナーにとって目的意識は外から来たのであってそれを適切に処理し、「目的」を達成したかどうかを自ら判断することは原理的にできないからである。

 したがって彼はこれを「消費者のニーズ」という形をとって外からやってきた目的意識を正しく受け止めたかどうかで判断することになる。しかし「消費者のニーズ」は種々雑多であり、これは「ターゲットユーザ」としてあらかじめ想定されたその商品の買い手になる人々の好みや生活傾向を調べ上げる「マーケット・リサーチ」によって集められたデータを統計的に分析し、その結果に基づいて「客観的」に行われなければならない。これがデザイン評価方法の研究である。

 ここで重要な問題は、「消費者のニーズ」とは何かという問題である。ほとんどのデザイナーやデザイン研究者は、あたかも「消費者のニーズ」こそがデザインの目的意識であり、消費者のニーズに応えることが「良いデザイン」を生みだすための必須条件と考えている。しかし、「消費者のニーズ」とは、前述のように資本主義的商品経済社会の形成過程で、生活材を自ら生みだす能力を資本家の「売るための商品」を生みだす能力として奪い取られてしまった生活者が、それらの生活資料商品を購買することでしか生活を成り立たせることができないという矛盾的な状況を前提として、資本家によって恣意的に生みだされた「欲求」が基礎になっているといえる。

それは資本家的商品の購買によって資本家に利益をもたらしてくれるための手段的な位置に置かれた生活者たちに「外からやってきて内在化させられた欲求」なのである。デザイナーは、その生活者にとっても「外からやってきた目的意識」である「消費者のニーズ」を商品を生みだす目的意識であるかのように受け止め、これをもとに「売れる商品」を考える。資本家たちは、市場での競争に勝つために次々と「魅力的なデザイン商品」をつくり、「消費者のニーズ」をかき立ててこれをどんどん買わせる。その繰り返しが招いた結果がどうなったかはすでに前回述べた通りである。

 (続く)

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デザインの基本問題をめぐって−その1(端緒的問題)

 昨年の日本デザイン学会で口頭発表した「デザインの基本問題−1」に続いて今年もその続きを発表するつもりだが、ここで「「デザインの基本問題」をとらえる視点について書いておこうと思う。

 先日、大学時代のクラス会で、私と井上先生との著書「モノづくりの創造性」(海文堂)を買ったというクラスメートに感想を聞いた。彼は「はっきりいってぜんぜんつまらなかった」といった・「なぜ?」と聞くと、「オレのデザインに対するスタンスとはまったく違う立場で書かれていて、高いカネ払って買っても(¥1,800)意味なかった」となかなか厳しい。しかし、私は心の中で「それでいいのだ!」とつぶやいていた。なぜならそれが私の狙いだったからだ。
 私のクラスメートやいま第一線で仕事に燃えているデザイナーにとって、私の主張はいうなれば「異次元の内容」だと思う。しかし、実はその人たちに少しも気付かれていない大きな問題が「デザイン」には内在しているということを言いたかったからだ。
 昨年のデザイン学会での発表内容は職能としてのデザイナーの歴史とその誕生の秘密の中にある基本的矛盾についての指摘だった。それは一口でいえば、生活者自身がもっていた生活のために必要な生活材をつくり出す能力(モノづくり能力)が、資本主義経済体制の形成過程でそれをすべて商品として生みだすためにの能力として資本家たちが奪い取ってしまったことから始まる。
  資本家たちは市場の競争に勝つために商品の価格を下げ、販売量を増やす必要から、モノづくり労働を細分化し、並列化し、やがてそれを機械に置き換えていった。その過程で一方では資本家的労働手段としての機械を設計するエンジニアが頭脳労働者としての分業種として登場した。そして他方では商品全体を「販売を促進させるために魅力的にする」ことを専門とするデザイナーという分業種が必要になったのである。残念ながらこうした視点からデザインの歴史を研究した人を私は未だ知らない。
 これによって生活者は、一方で生産手段を奪われるとともに、他方ではそのモノづくり能力を労働力商品として資本家に売り渡すことで、その代価としての労働賃金で生活資料を買い戻さねば生きて行けなくなった。生活者は、生産の現場で働きながら、生産者としてではなく、「消費者」として資本家が作った生活資料を買うだけの立場となってしまった。「生産者」は実際にモノづくりをしている労働者ではなく、それを「売るための商品」として労働者に作らせている資本家(モノづくり企業の経営者)であるとされてしまっている。
 この矛盾が、デザイナーという自ら生活者でありながらそのデザイン能力を資本家に売り渡して商品を生みだす資本家の頭脳と目的意識を代行する職能を生みだした。
だから彼はつねに資本家のために「消費者の好みの動向」をしらべ、それに従って商品のデザインをする。つまりここではデザイナーの目的意識は生活者としての彼自身のものではなく、資本家の目的意識なのである。そして一方では資本家は「消費者の好み」をできうる限りコントロールしようとしてさまざまな宣伝広告やキャンペーンやを行う。そこにまた「広告デザイナー」という資本家の頭脳の代行者が登場する。
 こうして生活者は「消費者」として資本家と彼のブレーンたちが生みだす商品を買うことだけがその生活であり人生となる。そして資本家たちのアンコントローラブルで際限ない利益競争(彼らのいう「自由競争」) の中で生活者たちは際限もなくその購買欲をかき立てられ、どんどん商品を買い、まだ使えるモノをどんどん捨てる。だから地球上の資源は急速に少なくなっていき、地球の自然環境はどんどん破壊されていく。
 これが資本家たちが生活者からデザイン能力を奪い取った当然の結果なのである。
 この事実を理解することがデザイン研究のスタート点である。そしてこの事実を認めることから、その否定として本来の意味でのデザイン能力とはどのようなものであるのか、あるいはどうあるべきなのかを考えねばならないのだと思う。
(その2に続く)

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2016年12月11日 (日)

ある公園の少女像

 私が最近よく自転車でくつろぎに行く自然公園のバラ園の中に小さな少女のブロンズ像がある。リスが2匹その少女の側で遊んでいる。一見平和でのどかな風景である。

ところがこの少女は自分の手元の葉を可愛いリスがかじっていることに目を向けていない。あらぬ方向をじっと見つめたまま深く物思いに沈んだ悲しげな表情をしている。
 私は最初に出会ったときからこの少女の表情と態度が大変に気になった。そしてこのか細い身体の小さな目立たぬ女の子が持つ深い孤独とこれから迎えるであろう彼女の人生の重さをひしひしと感じ取ってしまう。
  このブロンズ像の作者の名はどこにも書いてない。しかし作者がこの像に込めた想いは 初冬の人もまばらな公園の光の中で、無言で人の生きることの悲しさと孤独を伝えてくれている。
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