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2017年2月25日 (土)

「障害者は社会に不幸をもたらす」という思想について

 相模原の重度障害者施設であった元施設員の男による大量殺人事件が話題になっており、今朝の朝日新聞でも自身が障害をもった大学教員K氏と娘が重度障害者の元大学教員S氏のインタビュー対談が載っていた。両者とも「障害者問題」が他人事ではない存在なので、考え方は説得力があった。特にS氏はかつて1968-71年頃の東大紛争で助手共闘の主役的存在であった人なので私もよく知っている人だ。インタビューの中身は本日の朝日朝刊を見て頂ければ分かるのでここでは紹介しないことにする。

 私は、この中で論じられている問題をもっと基本的レベルで考えてみる必要があるのではないかと思った。特にこの殺人者が自分の行為を正当化している「確信犯」であると同時にこの男の考え方に基本的に賛同する人たちがかなり多く存在するという事実に関してである。
 S氏が言うように、この社会では価値を生みだすことのできる人が存在価値があり、そうでない人たちは社会にとってお荷物でしかない、という考え方はある意味でこの社会の論理を「社会常識化」している人たちにとって共通認識であろう。せいぜい「人道に反する行為」とか「社会的公序良俗に反する行為」とかいうことで反対するか、「人は存在するだけで意味がある」といった哲学的言説によってこの殺人に反対するかもしれない。
 表向き「人道に反する行為」としている政府高官達も実はかつて麻生財務大臣が思わず漏らしてしまったように、「お年寄りはさっさと行って頂けるように」しなければ、増え続ける社会保障予算を賄えなくなる、と考えているのは本音であろう(ここでは話しの成り行き上高齢者と「障害者」を同じ位置で扱っている)。なぜなら、こうした考え方が社会を支配している階級の人々にとっては「真実」だからである。
 いうまでもなく、社会を支えるためにそれぞれの場で働く個々の人たちが「価値を生む」存在として社会的に存在意義があると見られるようになったのは資本主義社会になってからである。そこでは「価値」を所有できる人たちが社会をコントロールし、だれでも働いて価値を得て所有する権利があるとされる。
 しかしそれを裏から見れば働いて価値を生み価値を所有できない人は社会をコントロールする権利がなく、努力の結果富を所有できた人たちの寛大な「人道意識」と「良心」による行為によって生かしてもらっている存在と見なされる。
 しかし、ここでもっと基本的なレベルで考えて見れば、人類は社会という「第二の自然環境」を形成してその中でそれぞれの能力をそれぞれれの場において発揮しながら本来の自然環境との物質代謝を繰り返しながら社会全体を支えていく中で、自らの「個」としての存在と「種の保存」を同時に維持発展させていく生物である以上、その「社会」という共同体の本質を考えなければいけないと思う。
 生物学的に見れば、人類のような高度に発達した生物はその種の維持において当然ある確率のもとで正常な状態でない個体が生まれる。これはある意味で生命体のもつ必然である。そして人類以外の生物ではこの正常な状態で生まれてこなかった個体は「淘汰」に任され、例えば他の生物の餌食となっていく。
 しかし人類においては、社会共同体の中で存在するため、「個」は共同体の担い手として存在し、「共助」の関係を形成する。そこでは、他者と自己の関係は実存としての自己が「他在」としての他者を前提としている。だから「障害」を持って生まれてくる人は、ある意味で自分の「他在」的な姿でもあり、自分の可能的存在(あったかもしれない姿) なのである。だから共助を本来の姿とする働く人々にとっては社会全体でこうした人たちの存在を支えなければいけないし、それは当然のことなのである。
 人類の歴史の中でもこうした「障害者」は社会の「内存在」としては認められず、疎外され、密かに死に追いやられた時代が長く続いた。
 しかし、いまや資本主義社会は高度な生産力のもと莫大な剰余価値を生みだす社会であり、しかもこれが本来あるべき社会的共有財としてではなく、資本家という「個」の所有物になっている時代である。そこでは個々の労働者による労働の成果が「他在」としての資本として資本家の私有財産になっていると同時に、資本家にとっては自己の私有財産の「他在」であるはずの労働者の労働は単なる「道具」としてしかみなされていない。だから働けない者は道具として役に立たないモノと考えられる。そしてこの社会を正当化する思想においてはこれが暗黙の「社会常識」となっていく。
  長い労働者達の闘争の結果として、少しずつ「税金」という形で社会保障のための予算が組まれてきているが、未だに資本家達の「道具」にされてしまっている労働者たちが生みだす莫大な剰余価値の大半が馬鹿げた市場競争のために注がれているため、社会保障の姿は本来の姿からはほど遠く、労働を搾取されている階級がその生きるための賃金から税金(例えば消費税)としてこうした社会保障の財源を捻出せざるを得ない状態である。
 いまわれわれは、支配的イデオロギーとしてのあやまった「社会常識」から解放されなければならないのだと思う。そうでなければいつまでたっても建前上は「人道的見地から障害者の生命は保障されねばならない」が、本音は「はやく行ってしまってほしい」という思想からは解放されないだろう。
 
 

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