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2017年4月22日 (土)

1970年代デザイン運動の断片的記録といまの私の位置(その1)

 このところ世界情勢が緊迫してきたため、このブログでの政治・経済的内容が増えてしまって、デザイン問題の記述が著しく減ってしまっていた。

 そこで、デザイン問題研究における私のいまの立ち位置を再確認すべく、古いノートなどを読み返していたが、偶然書庫の奥から古い資料が発見されたので、その中にあった1971年当時の「デザイン問題研究会」(1968年頃から盛り上がりを見せた全共闘運動など広範ないわゆる新左翼的学生運動がそろそろ行き詰まりを見せていた1970年後半、当時T大学助手であった私が学生達と一緒に立ち上げた研究会である)の記録をひっくり返してみた。
 まず、「デザイン問題研究会」の記録の一部にあった1971.11.2 シンポジウム「デザイナー運動への展望」の記録から抜粋し、3回にわたって、このブログで当時の状況を浮かび上がらせ、そこからいまの私の立ち位置を考えててみよう。
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 この「デ問研」シンポは、T大ストライキ実行委員会の学生たちを中心に一般公開されたシンポでパネリストには日宣美(日本宣伝美術家協会)粉砕闘争で活躍したグラフィック・デザイナーの安藤紀男氏と建築家でラディカルな著書「怨恨のユートピア」の著者である宮内康氏が招かれた。
<まず安藤氏のスピーチ>: 
 68年当時明確な位置づけはなかったが美術系大学の政治意識の低さに抵抗し、高揚した学園紛争や、ゲバラへのあこがれがあって運動を始めた。流行の先取り的運動だったが、それが運動の限界でもあったといえるかもしれない。
 70年11月の「広告批判シンポ」に出席したが、これは広告労協という団体が主催したものだが、商品ができていないのに広告しなければいけないとか、在庫整理のためのマイナーチェンジを「ニュー何々」として広告させられたり、性能の悪いクルマを良いように見せかけて広告させられたりする。全体に懺悔的な形で業界のデザイナーだけが知っていることを多くの消費者に伝えなければならないと思った。
 デザインは、人間の創造的精神で人間が昔から潜在的に持っていた能力かもしれないが、職業としての確立はあくまで産業の要請に基づいている。その意味で資本の手の内から逃れられない矛盾を持っている。
 デザインで飯を食う労働者(デザイナー)は一方でその専門性によって加害者的になっている。しかし自分として自分の職業を否定するのは迷いがある。これをあらゆる労働者に共通の問題としてとらえる必要があるだろう。資本主義体制の打倒がなければ根本的解決はありえない。だが68年当時の運動、日宣美フンサイ→万博(70年大阪万博)フンサイ→70年決戦という図式の論理だけで具体的プログラムもなく街頭闘争へ飛び出した。ここに問題があったと思う。
<司会者からの質問>:どのようにしてその状況を克服できると考えていますか?
<安藤氏>:悪いことをやらされる→それを消費者に流す→大衆運動として企業を規制する。という図式だがこれを組織化していくことが難しい。職能として潔白を保つことなどできず、やらざるを得ない。それが犯罪的である→そして政治闘争へ、ということだ。
 今にしてみればデザイナーであることに固執しなくても良かったと思う。資本主義的分裂(分業)の中でメシのための仕事と本来やるべきことを両立できると考えるのは幻想だ。
<続いて宮内氏のスピーチ>:
  60年安保当時東大の学生だったがデモで国会突入した。活動家としては二流だったと思う。その後、もう一度建築をやり直そうと思い大学院に進み、原広司らとRASというアトリエを持った。70年闘争では東大闘争に大いに関心があったが運動としては70年建築家行動委員会に参加し万博フンサイ運動などもやった。
  建築家としての自己否定が中心だが自分の原点でも闘いを作り出して行くべきだと考え、在職中の理科大で学生とともに運動した。大学教員という社会的地位は再び得られないと思うと躊躇したが結局自己否定をトコトン突きつけるため自ら進んでクビになった。現在「設計工房」という事務所を持っているが、安藤氏と同様の悩みを持っている。建築家として何をすべきか?という考えは幻想だ。だが職能を否定してどうやって生きていくのか、これがだれにも分からない。
 自分としては、建築の問題から国家権力の問題へと3段階論法的に行ってしますのは抵抗がある。その中間あたりでウジャウジャしていたい。建築家としての自分と市民=労働者としての自分に2極分解してしまっている。とりあえず問題にぶつかったとき、プロとしての特権意識を捨てて、それを抑圧された大衆の一人として考え、決断して行きたい。
<次に主催者側からのパネリスト野口のスピーチ>:
 この研究会(デ問研)の存在は69年のI学科闘争を抜きにしては語れない。当時デザイン教育の資本主義的再編に伴うカリキュラムの強化の中で旧制工芸時代の教員とあらたに後から来たいくつかの他専門分野の教員との間の確執、授業内容の統一性の欠如、などが直接のきっかけで、学科のデザイン理念と各教員のそれとの関わり方への追求という形で大衆団交が行われた。その後、学内で盛り上がった自衛官通入学への反対運動と合流し、T大闘争という形に発展した。
  その中でI学科ストライキ実行委員会が結成され、無期限ストに突入、その間に「デザイン問題」に関する自主講座が生み出され、闘争の補完的役割を果たした。
 やがて弾圧の強化による闘争の後退、そしてスト実自体の大衆性喪失という状況の中、70年年冬の合宿でデザイン運動史の再検討、新たなデザイン運動への展望などが目指され、夏合宿ではデザイン問題を独自に追求する組織が提案され、大学祭への取り組みとして11月に第1回シンポジウム「現代デザインを問う」が開催され、そこでデザイン問題研究会が発足した。
 そのシンポでは、若手デザイナーが抱えている問題を取り上げ、デザイン界の動向とこれまでの運動の持っていた問題点などが検討されたが、そこでは次の様な2つの傾向が指摘された。
1.社会的問題をデザイナーの立場で解決しようとする→提案対置主義
2.デザインそのものの否定そこからドロップアウトして政治闘争へ→政治闘争主義
 これらは疎外された運動の両極として互いに補い合ってきたし、いまもその延長上にあるといえる。この第1回シンポでは、総じてデザイナーの直面している問題を「デザイナー意識」でまとめあげてしまっているため、問題の本質をとらえ損なっている。その克服をいかになすべきか?資本主義的疎外労働の一つである設計労働を行う労働者が直面する問題として再把握する必要がある。
  資本主義社会が成立することで初めて職能として誕生し、意識的にとらえられるようになったデザイン、だがそれは同時に疎外された形で。そこに貫かれている普遍的人間労働の一部としての設計労働との矛盾。これを当初は「設計労働の質的変革へ」ととらえたが、このデ問研の文化サークル運動としての位置と場所性を踏まえてその目的意識の持つ限界性を自覚すべきと考えている。
 いまわれわれの抱えている問題は、設計労働者が直面している問題が、いかなる形での設計労働の疎外なのかを把握し、そこからあるべき設計労働の本質を追求する設計労働論を構築することだと考える。
 しかし、そこから具体的な運動をどのように展開すべきなのかはまだ見えていない。
(以下次回につづく)

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