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2017年7月 6日 (木)

デザイン論における私の基本的主張(その4)

(前回からの続き)

 (7)いまデザイン研究の中で「次世代社会のデザイン」を打ち上げた人たちがいる。しかし、これも結論からいうと、いまの社会システムの中でのデザインのあり方の本質的矛盾を問うことなく行えると考えるのは、あまりにも現実社会を知らなすぎる「インテリ」の思い上がりに過ぎず、単なる妄想であるといってもよいだろう。
 現実社会を見れば、「商品を売るためのデザイン」は実に綿密な「計画的行為」であるが、その一方でそのデザインされた商品が投入される市場はまったく無政府状態の「自由競争」が前提となっている。
 そしてこの無政府的市場競争こそ「自由社会」のキモなのだと主張する人々がこの社会を支配している。つまり資本主義経済社会の「デザイン」は無政府的競争という「アンチ・デザイン(無計画性)」を前提としてるのである。
  彼らは、これに反対し彼らの無政府的競争の中でいつもその犠牲となるのは現実に社会のために働く自分達だと異議申し立てをする労働者や生活者に対して決まってこう言う、「計画経済なんていうものはすでに滅びた社会主義の主張であって、人々の自由を奪う人権無視の管理社会以外の何物でもない」と。
 たしかに20世紀を揺るがしたいわゆる「社会主義国」のあり方はまったくひどいものであったが、それは、例えばマルクスが求めていた「本来の共同社会(Communism)」とはまったくかけ離れたむしろ真逆の社会であったということも事実だ。
 だが、それならばこういうべきであろう。
  ではいまの「自由競争」の社会で、なぜ、一握りの人々が社会的富の大半を自分ものとしてしまい、一方で貧困を世界規模で増大させているのか?
  なぜこれほど地球環境が破壊され気候変動が襲い、資源の枯渇が問題となり、このままでは人類の未来が危ういと分かっているのにそれを誰も止められないのか?
  いまの経済学は、無駄な消費を拡大し環境を悪化させ、そのために限られたエネルギーを無駄に使うことでしか「経済成長」できないというのならそれはまさに「不経済学」ではないのか?
  閉じられた地球環境の中で限られた地球の資源を世界中の人々が計画的に維持し用いることができるように考えるのが本当の経済学ではないのか?
 (8)そして最後にこう言おう。
  デザインはその「広い意味」では計画一般を意味し、その意味で国家の経済政策などもデザインであるといまのデザイン研究者は主張する。そういう意味で「社会のデザイン」を主張するならば、「グローバリズム」と称して世界を支配している政治経済体制は結局次世代の世界を「デザイン」することもできず、ただ一部の人たちの「自由な」利益獲得競争のために、世界中の働く人々を混沌と貧困に陥れているのではないのか?
それはいったい誰のための「デザイン」なのか?
 その「デザイン」の犠牲になる多くの人々の血と汗の結晶を独り占めする人々やその「おこぼれ」を頂戴している人々の生活の「デザイン」を飾り立てているだけなのではないのか?
 もともとデザイン能力とはすべての働く人々や生活者が持っていた能力ではなかったのか?
 その能力をそれらの人々の手から奪い取り、一部の人々の利益獲得競争の道具にしてしまったのはいったい誰なのか?
 われわれが目指す社会は、すべての生活者が自分の生活や人生のデザインを自由に行うことができ、そのことが同時に個々の人々の存在意義を社会全体がその構成要素として認め合うことで、互いに争うことなく、必要なものを必要なだけ生み出すことで成り立つ社会ではなかったのか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 さて、最初ちょっとばかり私のデザインに関する主張を記録に留めておこうと思い書き始めたものが、こんなに長い文章になってしまった。
 実はまだまだ言いたいことは山ほどあり、「腹膨るる思い」なのだが、この辺でガス抜きのために一発オナラででもして、止めることにしておこう。「ブーッ!」

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