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2017年7月 5日 (水)

デザイン論における私の基本的主張(その3)

(前回からの続き)

 (4)ではデザイン行為とは純粋に個人の主体的内面の問題なのか?答えはノーだ。デザイン行為は「人間とは何か?」という問題を含むと同時に諸個人が「諸個人」たる根拠としての共同体つまり社会の問題でもあるのだ。
  それはデザイン行為が同時に人間の表現行為でもあり、そこにはその主体が何を問題として把握し、それをどう解決したかが表現されているからだ。デザインされた結果としての人工物はその意味でデザイン主体の「表現体」であり、この「表現体」を媒介として個人と個人のコミュニケーションが成立し、共同体を形成している。だからデザイン行為は個人の内面の問題であると同時にその個人が構成員である共同体社会におけるその個人の位置と関係を示すものでもあるといえる。それは芸術的表現と同根であるといえる。しかし、より直接「生活」に結びついている。
 しかし、今日の「デザイナー」は資本主義経済体制の中で、その頭脳労働力を「商品」として雇用者に売ることで生活をしている頭脳労働者の一種であるため、自らの意図とは関係なく雇用者やクライアントの意図を代弁する形でしか「デザイン」できない。非常に凝縮していえば、「売るためのモノやコトをデザインする」ために生活の中に「ニーズ」を恣意的に生み出しそれを手段として利用する。それは彼自身の内面の表現でもないし、社会と彼個人のコミュニケーションの媒体でもない。「デザイン」されるモノやコトは最初から彼の外からの「要求」で生み出され、彼の内発的意図の発露ではないし、その結果も社会全体をあるべき方向に持って行くことなく、ただ富裕な個人の美意識を満足させるか、社会的には長期的展望もない無秩序や無駄の再生産しか生み出さない。
 (5)このような「疎外されたデザイン行為」しか行い得ない今日の「デザイナー」の仕事はその美意識においては、この社会を事実上支配する人々、正確に言えば資本家とその追随的支援者(俗に言えば「富裕層」や「中間層」--- デザイナーもここに属すことが多い)の美意識を表現しているが、実際にデザインされたモノを作っている人々(多くは諸外国で低賃金で働く労働者)の美意識は表現していない。いやそうした人々は自らの美意識など持ち得ない状況で生活していると言う方が正しいだろう。
  もちろんこうした美意識の中には20世紀初頭に見られた「ザッハリッヒカイト」の様に普遍性を持った美意識もあるが、それはつねに「商品化」の手段に用いられることで歪められ、単なるスタイルと化し、本来の思想的方向性を失ってきた。
 そして「デザインの創造性」(実はこれが筆者の専門なのであるが)はこうした社会でつねに求められる「目新しい美」や、次々にもたらされる「イノベーション」といわれる技術的「ビジネスチャンス」を商品として実現させるためにデザイナーに要請される能力であるといえるだろう。
  それはこの社会(腐朽段階の末期資本主義社会)では無駄な消費を生み出すに過ぎない「創造性」であるといっても過言ではない。そこから生み出されたモノやコトはほとんどの場合、社会や諸個人がその将来を見据えて本当に求めているものではない。
 本来のデザイン創造性とは、こうした現在の「疎外された創造性」を否定の中から生み出され、「つくる人」と「使う人」が本質的同一性のもとに結びついた社会においてはじめて発揮される能力であるといえる。
 (6)コンピュータが普及しだした頃から、「自動デザイン」は可能か?という問いがあった。筆者もこうした論争に加わったことがあったが、結論から先に言えば、なぜそれが必要なのか?であり、それは資本主義生産様式の中での「生産の合理化」のためにしか意味がない、というものであった。
  これまでに述べたように、デザインとは主体の内面の表現であり、同時に社会における諸個人のコミュニケーション媒体という意義をもっているのであるが、その過程を「自動化」することに何の意味があるのか、ということだ。「芸術の自動化」も同じことがいえる。
 このことは、今日、AI(人工知能)がやがて人類の能力を超えて人類を支配することになるのではないか(シンギュラリティ)と危惧されている問題とある意味で関係する。
  そもそも人間は自分の生物学的肉体の限界を超えるために、その延長として道具をつくってきたのであるが、それが産業資本主義段階では手足の延長としての機械という形をとり、やがて脈管系の延長として電気通信系機器が発展し、最後に頭脳の延長としての人工知能が開発されてきたのである。これらほとんどすべてが資本主義生産様式のもとで急速に発展したため、その社会の基本原理(人間の生み出したモノの抽象化された存在である「資本」がそれを生み出した生身の人間を支配する社会)のもとで本来の道具の地位を逆転させ道具が人間を支配するかたちで「物神化」されていった結果であろうとおもう。
  しかし道具は道具なのであって、要は人間が自ら生み出した道具に支配されているような社会を基本から覆して、本来の形にもっていかねばならないということを意味しているのだと思う。
(次に続く)

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