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2017年7月 4日 (火)

デザイン論における私の基本的主張(その2)

(前回からの続き)

(3)そしてデザインの概念規定や理論研究に関しての問題であるが、それらの研究を「科学研究」の一環として自然科学などと一緒にとらえるのは間違っていると思う。なぜなら、デザイン行為そのものは科学の対象ではなく、むしろその成果を適用して行われる実践的行為だからである。それはよく言われる様な「科学」と「工学」の違いに似ているとも言えるが、もっと根源的な違いがある。
 「科学」は人類がさまざまな文明を形成しつつその試行錯誤の中で見いだしてきた自然界の法則性への認知の積み重ねであり、それが近代資本主義社会というある意味で「合理的」な社会が登場することによって、その生産過程の中でそれを応用する形で実益を上げることで、「科学」へのモチベーションを一気に高めた結果、科学研究と工学研究という相互刺激的関係を加速し、著しい発展を遂げたのだと思う。
 しかしここでも科学が人間の自然界への認識深化の成果である一方で、工学は生活や社会と直接に関係する実践の立場であって、それが資本主義社会の産物であったとしても、その本質は人間の普遍的行為としての「技術的実践」というものに根拠があるといえるだろう。
 この「技術的実践」は、人類が何かの目的でモノ(人工物)を生み出したときから始まったといえ、その本質は、それまでに知り得た自然界の法則性を、ある目的のために意識的(意図的)に適用することであるといえる。そしてわれわれのいう「本来のデザイン行為」はそうした技術的実践の一つの側面として位置づけられる。
  「技術的実践」はあらゆる人間の意図的行為の中に存在し、ある目的を実現させるためにある自然法則を手段として適用することの中に現れるが、その過程でその自然法則を担っている対象がどのように「手段」として機能し、目的実現を可能にさせるかについて、実際にその行為が行われる前に思考において先行的に想定し、それが実行される以前にそのプロセスや結果をあらかじめ可視化させ把握しておく行為であるといえるだろう。これが「デザイン行為」の原型であるといえる。
 したがって、ここではまずその行為の「意図」として目的意識がどのように形成されてきたのかが重要な問題である。それは最初から明確な形をもって現れるのではなく、最初はきわめてあいまいな「直感」として現れ、その実現方法を繰り返し試行錯誤的に考えながら過去の実例などと比較しつつ明確な解決目標として具体化させていく過程を含んでいる。
 さらに重要なことはこの目的意識の形成過程はそもそも目的意識発生の端緒となった「問題」の発見と把握に掛かっているのである。何かの事実に直面したとき、そこに初めて「問題意識」が発生し、眼前にある客観的事実が自分とその事実の間で発生するある種の齟齬としてつまり「問題」として見えてくるのである。この「問題発見」はその解決に向けた「目的意識」へとポジティブなメタモルフォーゼを遂げていくのであるが、そこにデザイン行為のもっとも重要な「主体性」の問題を含んでいる。
 もう一度現代デザイン論に戻れば、そこではデザイン行為一般は「要求仕様」から出発するとされるが、これは資本主義的職能として登場した「デザイナー」あるいは「エンジニア」の特徴であって、人間が本来持っている能力としてのデザイン行為は、まずそのデザイン行為の目的を主体的に持っていなければならない。そしてその目的はデザイン主体自身が発見した「問題」の解決に向けて形成された目的意識から出発するのである。
 要するに 「何のためにデザインするのか」である。 それは決して自分の外から誰かによって「要求仕様」として押しつけられるものではない。そうであるからこそ、その解決としてのデザイン結果は彼にとって意味があるのであり、本来の意味で彼がその一部を形成している社会全体にとっても意味のあるものになるのである。
 さらにいえば、一般設計学では「機能」に関する定義や記述もあいまいである。しかし、「機能」とはデザイン主体がその目的の実現に向けて「手段」として用いる対象がその「目的・手段」関係の中に置かれることによって初めてその機能を発揮しうる位置を得るのであって、したがってその結果の評価やプロセスについての評価はデザイン主体の意図との関係に掛かっているのである。「機能」は決して客観的に与えられるものではない。それは主観と客観を媒介する存在なのである。
 こうしてデザイン行為そのものに関しては、デザイン主体・設計主体自身の「問題意識」および「目的意識」という主体的内面の問題と切り離すことができないのであり、客観性をモットーとする純粋な「科学」の対象にはなり得ないもの(一般設計学はそのことに気づいておりだから数学的論理という形で設計行為を定義づけている)である思う。だからこそ、それは「デザインする自分とは何か」あるいは「社会と自分とのつながりは何か」という問題をつねに含んでおり、人間論でもあるし、自己の対象化という意味での表現論でもあるといえる。しかし、また脳科学や認知科学などはデザイン行為を「外側から」見るという意味で客観的にとらえることは出来るし、それも必要なことであるといえるだろう。しかしそれだけではデザイン行為の中身は到底とらえきれないのである。
(次回に続く)

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