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2017年7月 4日 (火)

デザイン論における私の基本的主張(その1)

 前々回に第64回デザイン学会研究発表大会に関する感想を述べた私のブログで偉そうなことを書いてしまったのでここで私の主張の核心部分だけ書いておこうと思う。間違っているかもしれないが、そうであれば遠慮なく批判してほしい。批判は「非難」ではなく本来その背後に建設的な意図があるものなのだから。

 (1)まず、「デザイン」という概念が独自に取り上げられ、研究対象になった背景として、近代社会つまり資本主義経済社会が成立していく過程でいわゆる産業革命があり、資本主義経済社会特有の分業形態が登場し、それらが資本主義特有の社会構造を作っていったのであるが、その中で歴史上初めて「設計技術者(エンジニア)」や「デザイナー」と呼ばれる職能が登場し、その職能内容がひとつの概念として扱われるようになったという事実がある。
 つまり「設計」も「デザイン」も資本主義社会特有の概念であるのだが、他方でそれこそ人類が到達した文明社会の到達点であると考える人々は、そこで登場した職能やそれを根拠とした概念を普遍的な形とみなし、そのままその歴史的根拠を人類の文明発生にまで求めようとする。だから、「デザインの歴史は古代文明発生から始まる」とされてしまう。
 ここでは普遍的な人間の行為が歴史的に特殊な形態として現れた現在の「デザイン」をそのまま普遍的な形としてとらえてしまう。例えば資本主義社会に見られるさまざまな分業形態の中に見られる「○○デザイン」という形の共通部分を集めるだけで、それを「デザイン一般」とか「広い意味でのデザイン」として扱い、それをそのまま「デザインのルーツは人類文明の歴史とともに始まった」として過去に投影してしまうため、現在の「デザイン」を歴史を超えた普遍的な形としてとらえてしまうことになり、「本来あるべき姿」を描くことができなくなってしまうのだ。
 人間の認知の順序はむしろ逆であって、現代の「デザイン」の置かれている現実やその概念規定のおかしさに気づき、その背景にある職能における矛盾をあるがままに抽出し、その「否定」の上に「本来あるべきデザイン」とは何なのかを考え、それによって初めて「本来あるべき姿としてのデザイン」を考えることが可能となり、その原型が人類の歴史の中にどのような形(疎外形態)で存在してきたかを見ることができるのだと思う。
 こうした歴史的視点がないと「われわれが求めるデザインの姿」が見えなくなると同時に人類社会の未来への展望も描くことができなくなるのではないだろうか。
 (2)次に、こうしたいまのデザインに対するアプローチの仕方の問題点が、例えばデザインとは何か?といった概念規定への研究にどのような形で現れているかを見てみよう。
 それは基本的には、デザイン行為の一般化としてとらえられる問題(例えば「一般設計学」など)において、デザイン行為の出発点が「要求仕様が与えられる」ことから始まる様に描かれていることである。この「一般化」は、すでに述べた様に、さまざまな職能としての「○○デザイン」の共通点をまとめた「一般化」なのであって、それらに共通する矛盾を否定する立場からの「本来あるべきデザイン」という意味での抽象化ではないのである。眼前の事実への否定的直感を媒介にしていないとこういうことになる。
 例えば、デザイナーが上司あるいはクライアントから要求仕様を受け取り仕事を達成し、出来上がった製品が市場で売られ、それがよく売れて、社会に広く使用されたとしよう。このデザイナーを雇用した企業の経営陣は彼の仕事を高く評価するだろうし、彼はそれによって自分の社会的存在意義を感じるだろう。
  しかし、その製品はそれ以前に同じ会社が売りまくった製品のモデルチェンジであって、その製品がすでに古い仕様であることを気づかせ、買い換への欲求を刺激すべく新たなデザインを出したのであって、これは事実上まだ使える製品を廃棄させる動機を生み出すことになる。これを人は「技術革新」の結果だから仕方ないというかもしれないが、もしそうなら前モデルを責任をもって回収し、そのリサイクルに要する費用までもそれを作った会社が負担するのが本当であろう。それをせず、廃棄物の処理は公共的事業に任せ、「購買者」に新たな負担をさせることでその「技術革新」の結果を売り込むことが社会的に正しいといえるのか?
 さらいえば、そうした本当に社会的な必要性があるかどうか分からないような「技術革新」を結局は「売って利益をあげる」ための手段として用いているという事実に、もしデザイナーが気づいても、これを雇用主やクライアントに申し立てすることなどありえないのだ。なぜなら、デザイナーはそうしたことを行うために登場し雇用されている分業種なのだから、それに意義を申し立てることは自身の存在意義を自ら否定することになるからだ。
 このようにして、デザイナーの仕事は社会全体としてみれば、あまり意味のない社会的需要を「要求仕様」として突きつけられ、そうしたものをつねに生み出し続けることを強いられ、それをデザイナーの「創造性」だとされてしまう。その結果、社会全体として過剰な無駄が生み出され、まだ使えるモノが廃棄され二酸化炭素などの廃棄物が大量に排出され、自然環境が汚染されると同時に限られたエネルギーや資源が枯渇していく。
 このデザイナーという職能というポジションからは「あるべき社会のデザイン」の幻想は生み出し得ても、それを現実に生み出すことなど決してないだろう。
 こうして本来のデザインの概念規定は現在の「デザイン」の否定から出発せざるを得ないのである。
(次に続く)

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