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2017年8月19日 (土)

いまなぜ若者はテロリズムに走るのだろう?

 また無差別テロがバルセロナで起きた。このところヨーロッパでは毎月のように一般市民など「ソフト・ターゲット」を標的にした無差別テロが相次いで起きている。

 これらのテロがIS組織と関連が問われるのが常であるが、ISのメンバーではなく直接のつながりも薄い場合も多い。いわゆる「ホームグローン・テロ」がほとんどである。
 こうした動きは20世紀まではほとんどなかったように思う。強いて言えばオウム真理教などがその先鞭ではなかっただろうか?そしていまの無差別テロがそれらとも違うのは、ほとんどの場合、「自爆テロ」であることだ。つまり自分の命と引き替えに無差別に市民を殺害するという形である。それはおそらく2001年の9.11事件が始まりではなかっただろうか。
 かつて太平洋戦争中の日本の特攻隊は、国家や軍の指揮のもとに行われた自爆攻撃であったが、いまの自爆テロは自らの「主体的」意志に基づくものである。
 こうした「主体的」自爆テロは、銀行強盗などのようなカネ目当ての利己的犯罪とは全く質の違う、「自己犠牲」を常とする犯罪である。
 もちろんこうした自己犠牲が「主体的」意志のもとに決行される背景には宗教的あるいはイデオロギー的信念があることがほとんどである。これを「狂信」といってしまえばそれまでなのであるが、ヨーロッパの文化的生活の中で育った若者がなぜそのような行為に走ることになったのか、これは現代社会の病巣を探るには重要なテーマではないだろうか?
 ひとつはよく言われるように、西欧文明の生活の中での「差別」の問題があるだろう。単に同じ街に生活する異国人や異民族であるだけでは感情的・感覚的な差別はあっても互いに命を掛けるような対立はありえないだろう。命をかけて対立するようになる背景には、互いに死活問題となるような生存・生活権の掛かっている問題が存在する場合であろう。例えば、自分たちの職が奪われる危機に瀕した場合、相手の生活行動が自分たちの生活行動を侵食する様な場合などであろう。
 しかし、そのような場合にたとえ血で血を洗うような殺し合いに発展したとしてもそれがそのまま「自爆テロ」につながることは少ないだろうと思う。
 やはり「自爆テロ」の背景には、いまの社会で自分の存在意義を感じられなくなり、将来に希望を見失い、 そして自分がいま生きている意味が、自分にそうした絶望感を植えつけた世の中すべてを破壊するような行為に出て、その中で自分の命を燃え尽き果てさせることにあるのだと考えるようになることではないだろうか?
 こうした精神状態が表面には現れなくとも潜在的に心の中にあるときに、ISなどのような組織から流されるプロパガンダにつき動かされ、自爆テロを実行しようという気持ちに動いていくのではないだろうか?
 一口に言えばいまの社会が内包する「閉塞感」とその中での自己の存在意義の喪失感である。そしていまの社会は表面的には、華やかで楽しいことやおもしろいことがたくさんあるが、そうした外面的「幸福」の裏側に常にある「閉塞感」や「自己喪失感」にふと気づかされたとき、若者の心は言いようのない絶望感と孤独感にさいなまれることになるのではないだろうか?むしろ心の底に潜在するこうした「閉塞感」や「自己喪失感」から逃れ、自分に「それなりに幸福ではないか」と言い聞かせるために目先の「おもしろさ」や「楽しさ」に埋没していくのではないだろうか?
 私はこうした悲惨な精神状態に追い込まれている若者が日本にも想像以上に多いのではないかと察している。これが私の杞憂であればよいのだが。

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