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2017年12月 5日 (火)

「自由・平等・民主・公正・中立」とは何だろう?(修正版)

 先の総選挙で躍進した立憲民主党は「どんなイデオロギーにも偏らない公正中立な立場」の政党なのだそうだ。もうひとつの看板である「草の根的ボトムアップ」志向は私も支持するが、「公正中立な立場」とは一体なんだろう?

 前回のブログ「リベラル派がはらむ根本的問題点」でも書いたが、「リベラル」というのも一つのイデオロギーといえるだろう。そしていまではそれはいわゆる「中間層」を形成している知識(頭脳)労働者をバックに持った労働者階級の上層部と一部の新興資本家などのイデオロギーが結びついたものである思われる。
 「自由・平等・民主・公正・中立」などという概念は「保守派」も「リベラル派」もともに強調し、これが普遍的思想のように考えられているが、果たしてそうであろうか?
 確かにこうした概念はある意味で普遍性をもっていると思われるが、こうした概念が普遍的と考えられるようになったのは、近代になってからだ。つまりその背景に歴史性をもっているといえる。それはそれ以前の封建制や君主制という階級制が「保守勢力」として認識され、その歴史的使命が終わったと考えられるようになってから現れた新しいイデオロギーといえるだろう。それは旧勢力の体制では農業や手工業などで進化した生産力をベースにした社会の経済的運営がうまくいかなくなったという実態があったからであろう。
 そしてその新たな生産力を「富の所有」に結びつけて社会を発展させようとする資本家階級が登場したのであるが、それによってそれまでの体制は「旧勢力」あるいは「保守派」とみなされるようになった。そしてそれから250年ほど経ったいまでは、その資本家階級が支配勢力となりそのイデオロギーが「普遍的」とみなされるようになった。
 資本主義社会は一方で科学技術の劇的進化をもたらした反面で経済面での矛盾を露わにしてこの100年間で何度も危機に陥った。そのつど修正を施しながら生き延び、いまでは「社会主義に打ち勝った普遍的社会形態」と自負するまでになったが、実はその内実はボロボロで表面だけを何とか取り繕っているにすぎない。そのボロボロの内実があらゆる場面で噴出し、彼らはオノレの富を増やすことだけに奔走し、世界全体の先行きの見通しはまったくないようだ。つまり修正を重ねてきた資本主義体制はいまや世界レベルで合理的に人類社会を進化させるには不適切な「旧体制」となってしまったのだ。
 そうした状況に不満と不安を持った人々が新たな勢力の台頭を期待するようになっているが、それはともすれば「強いリーダーシップを持った」と称される独裁的政治家(トランプがその典型)であったりする。ちょうど1930年代の世界不況時代にヒトラーがドイツ民衆の圧倒的支持を得て登場したときのように。
 こうした独裁的政治家の多くは「リベラル」を「軟弱で結論をだせない連中の間違ったイデオロギー」として攻撃し、強力なトップダウン政治による経済発展を目指そうとする。
 実はすでに資本主義社会はこうした独裁体制のもとでないと効率よく動かなくなってしまったからである。「社会主義」を名乗る中国も内実は独裁的資本主義国家であるといえる。
 そしてこの独裁者でないとやっていけなくなった資本主義社会が支配権を確立していく中で表面に現れない形での抑圧と搾取を強められているのがいわゆる「開発途上国」の労働者階級である。
 経済的覇権を握っている「先進」資本主義国連合の経済的支配のもとで労働者が過酷な搾取を繰り返されている国々の労働者階級にとっては「先進」資本主義国の労働者階級が掲げる「リベラル思想」はまったく関心の対象にはなっていない。そんな高邁な思想より、明日も食っていけるかどうかの方がはるかに重大な問題だからだ。
 言い換えれば、「先進資本種諸国」の経済が世界経済を支配する中で実はそれらの国々の労働者階級はグローバル資本による「開発途上諸国」の労働者の搾取のおこぼれによって「中間層」の生活を維持できているにも拘わらず、彼らの犠牲を当然の前提として「リベラル」だの「強力なリーダーが必要だ」などと言い合っているのであって、「開発途上諸国」の労働者階級の悲惨な実像は彼らにとっては「人道的救済」の対象でしかない。
 そして同様に「先進資本主義諸国」内部でも忘れられた下層労働者階級 、例えば非正規雇用労働者や「自営業者」とされながら実際は労働基準法から除外された過酷な労働者であるような人々、そしてラストベルトの労働者たちのようなかつて資本家に莫大な富をもたらしながらその後社会の脱落者として切り捨てられた人たちが、毎日の生活に苦しみながら生きているのである。
 つまり「自由・平等・民主」は彼らのある種の「エゴ」の上に掲げられているスローガンなのであって、問題は「誰にとって誰からの自由なのか、誰にとって誰との平等なのか、誰にとって何が公正なのか」が問われなくてはならず、その視点からは「公正・中立」などという立場は本来ありえないのである。
 

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