« 2016年12月25日 - 2016年12月31日 | トップページ | 2017年1月8日 - 2017年1月14日 »

2017年1月1日 - 2017年1月7日

2017年1月 6日 (金)

人工知能の「物神化」をめぐって

 今朝の朝日新聞「我々はどこから来てどこに向かうのか」シリーズで「頭脳」と称して人工知能(AI)の進化について述べられている。この記事も他のマスコミの一般的傾向が顕著に顕れており、最近の AI技術の急速な進歩によって数十年後にはAIが人間の知能を超える「シンギュラリティ」が訪れるというものだ。そしていずれは人間の意識の内容をすべて外部のAIに移すことが可能になり、そうなれば人間の肉体と意識は切り離されて、肉体が死んでも意識は永遠に生きのびることができるようになるだろう、つまり人間はAI装置という機械に置き換えられてしまうだろうというものである。

 ここで問題なのは、人工知能がいつ誰によって何のために生みだされたものなのかである。人工知能は基本的に人間の道具である。しかし肉体的機能の延長としての道具ではなく、脳神経系機能の延長としての道具である。
 歴史を遡れば人類は道具を使うようになり道具を自ら生みだせるようになってから生物学的に急速に進化してきたといえる。特に頭脳はそれによって著しく進化した。しかし、本来道具は自分自身が置かれた状況においてその環境(他者という存在も含む)と自分との間に生じた不適合状態(問題)を解決するための手段として用いられ生みだされてきた。その意味で道具を用いた行為は目的意識的であり、その結果はある意味で自己と環境との関係の表現でもあった。
 ところが、人類の共同体が文明社会として発達し、そこに社会を支配する人々とその支配の元で様々な労働により実質的に社会を支える人々に分割されていった。そこに道具の意味に変化が生じたと考えられる。道具は支配される人々にとっては自分の生活を維持する手段でもあり、支配者の富や支配を維持するための道具でもあるようになった。
  そして資本主義社会が登場するに及んで、人々が生みだす富の私的所有の表象である貨幣や資本が物神化され、それを獲得することが社会的行為の目的とされるようになり、物神化された貨幣や資本の人格化である資本家達の富を生みだす手段として道具が位置づけられるようになった。
そしてこの過程で資本家の元に雇用されそれら資本家の所有する道具を用いて富を生みだす労働者は、その労働力を資本家に売り渡し日々資本家の富を生みだす労働を行うによってしか生きのびることができなくなった。そこでは労働者にとって道具は自分たちの目的を達成させる手段でもなく、それによって自己表現をすることもできない存在として自分たちを支配するものとなってしまった。
そしてその必然として「産業革命」が起きたのである。最初は肉体の延長としての機械が発達し、やがて20世紀になっていわば血管や神経系の延長である電気通信系機器が発達し、最後に20世紀後半になって脳の延長である人工知能が発達したのである。
 現代はその延長線上にあって、資本を生みだす道具としての機械やAIがまるで社会を支配しコントロールするかのようにとらえられるようになった。道具を生みだす技術の物神化である。AIは特にその特徴が顕著に顕れている。
 しかし、こうした形での道具の「進化」においてもそこに潜在する本質的な技術能力というものはおそらく将来的な人類の進化にとって必要不可欠なものとなるだろうことは確かである。しかし、その現実形態はいまの状態ではむしろ人類にとって破滅的な結果を及ぼしかねない。本質的技術力が人類にとって普遍的な力になりうるためには社会の成り立ちそのものが大きく変化しなければならないだろう。
 こうした背景のもとでAIの未来を考えることができないと、まるで人類がAIに乗っ取られてしまうかのような錯覚に陥ってしまう。資本やその物的形態にしか過ぎない機械やAIに奉仕することが生きることであり人類の普遍的姿であるなどと誤解してはいけない。AIが人類に取って代わってしまうなどという妄想はそういうところからしか生まれ得ない。
  一握りの人たちの富を増やすために働くのではなく、一人一人が自分のためにも他者のためにも働いて社会という共同体をともに支えていくことが本来の姿であり、道具はそういう社会でこそすべての人々にとって主体的な目的意識を実現させる手段なのであり、普遍的に人類を進化させる手段になり得るのだと思う。
 これが元人工知能学会のメンバーでもあった筆者の思いである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月 4日 (水)

相変わらず底の浅い朝日新聞の現状分析(ちょっと長いが我慢して!)

 朝日新聞が今年の初頭から「我々はどこから来てどこへむかうのか」という特集記事を掲載している。不安な時代を迎えた「いま」を情勢分析しようというのである。今朝の第3回は「成長信仰」と題して経済成長万能論を批判している。

 この記事の担当の原真人編集委員の分析によると、安倍政権が打ち出した、異次元の金融緩和による国債の買い支えやマイナス金利政策は「経済成長」を強引に生みだそうとする政策であったが、それが成功しておらず、世界的に見ても「成長」は横ばいを続けている。しかしその間にも我々の生活は便利になり、それなりに充実しており、豊かになっている。しかし経済成長という物指しにはこれが表れない、として経済成長の計算基準となっているGDPという指標の歴史について述べている。
 その中で原氏はダイアン・コイル、アンガス・マディソン、ウイリアム・バーンスタインなどの識者の見解を紹介し、イギリスの産業革命が「経済成長」の起点と考えられ、1820年頃から私有財産制度や資本市場が整い始めたため急速な成長が始まったとしている。そしてGDPという考え方は1930年代の世界大恐慌時代に登場したのであって、第2次世界大戦に向けた生産力の分析が必要だったからだったとしている。さらに京都大学名誉教授の佐伯啓思氏(朝日はこの御仁が大好きの様だが)の説として、国家が成長を必要としたのはもともと冷戦期に資本主義陣営が社会主義陣営に勝つためであって、それだけに過ぎず、なぜ成長が必要なのかという根源的な問いに、経済理論は答えがない、という意見を引用している。 
 そして原氏は、1970年代に「ローマクラブ」による「成長の限界」という報告書が大きな問題になったがその後、その問題意識は薄れ、「成長信仰」だけが一人歩きを始めた、としている。そして「成長」とともに機能してきた国家機構から独立した中央銀行の役割がそろそろ意味を成さなくなりつつあり、強引な成長政策でも「トリックルダウン」は起きず、高度成長期に育ち健全な思想や生活を維持していた中間層は崩壊し、格差が拡がっている。博報堂の調査によれば、人々は「日本の現状はこの先も変化がない、と考える傾向が強くなっているが、しかし身の回りで楽しいことが増え、いやなことが減った、と考える人が多くなっている。世界は低成長を受け入れる成熟社会になりつつあるとし、人々の意識が定常社会を前向きに受け止めつつある変化がはっきり示されていると結論している。
 さてここで、一番問題なのは、イギリスの産業革命などをもたらした資本主義経済体制の分析をもっとも早くからしかも深く行ってきたマルクスの見解が意識的に無視されているということだ。朝日新聞はマルクスの思想を「偏った思想」として考えている証拠であろう。
 この「エセ中立(リベラル)思想」が災いして朝日新聞のこうした記事はほとんどの場合底が浅く無内容である。
 そもそも「経済成長」とは資本の成長を意味するものであり、マルクスは資本論の中で、こうした資本の成長が何をもたらしているのかをつぶさにそして深く分析している。しかしその後、マルクスの存命時代になかった様々な歴史的変化が現れ、それに対応した資本主義体制の変貌があった。我々の世代はその変貌した資本主義体制がどのようなものであるのかをマルクスの分析と理論を武器にして(それは単なる資本論の当てはめではなく、ましてその歪曲などでは決してなく)リアルに行って行く必要があるのだと思う。
 例えば、資本主義体制の矛盾が頂点に達した結果起きた第一次世界大戦とそのさなか1917年のロシア革命に始まった「非資本主義体制」への挑戦が、当時の資本主義体制にどのような影響を与え、その後、資本主義体制がどのように変化したのか、そして同時にそれが他方で「社会主義」体制をどのように変貌させ、その後再び第二次世界大戦を起こす結果となったのか、さらに戦後生まれた「東西冷戦体制」の中で、資本主義体制、「社会主義」体制が相互にどのように影響し合い、1990年代の「社会主義」体制崩壊を招いたのか、そしてその後の「資本主義一極世界」がいまなぜ崩壊しつつあるのか、ということをしっかりととらえ直すことがまず前提である。そしてその上で、今起きていること、つまり朝日新聞が取り上げているような現実をどう分析するのかが問題である。
 その分析はこの欄だけでは到底収まらないので別の機会に行う予定であるが、とりあえず、ここで要点だけを書いておこう。
 1960-70年代の「高度成長期」とは戦後日本資本主義体制のゼロリセットから始まった資本の再蓄積への「成長」であって、それは一方で「社会主義圏」の存在をにらみつつ、他方で自国の労働者階級の反資本主義運動への歯止めをかける必要上から生まれたものであったということ。だから一方でインフレ政策をとり、他方でそれによる労働賃金の見かけ上の上昇を図り、労働者の生活資料の生産と消費のサイクルを資本の回転の中での成長の重要な契機として位置づけた政策だったということである。要するに労働者階級の生活資料生産と消費は完全に資本成長の手段とされてしまったのである。
 労働者の生活は生活資料の購入が加速されることによって物質的に「豊か」になったかのように見え、それが労働者の階級的意識や反資本主義闘争を崩壊させることに成功した。同時に労働者階級の多くの部分が「中間層」意識を植えつけられ、一定程度の資本主義批判や「個人の主張の自由」を認められながらも、それら全体がいわゆる「社会常識」(これがいまやステータス階級の意識として反発の対象とされている)を越えないものとして容認される社会を築いてきたのである。
 それがいま、「資本主義一極世界」となってグローバル化した資本にとってはいわゆる先進国の労働者階級に「高度成長期」にもたらされた相対的な高賃金が資本家にとっての阻害要因となって、世界中の労働賃金の安い国々の労働を搾取する(生産拠点を海外に移すという形で)様になっていった。そのためそうした資本の動きの中で莫大な資本を蓄積した資本家のもとに雇用されている労働者や高度な知識や特殊技術を持った労働者などは富裕層化し、そうでない企業にいた普通の労働者は貧困層に落ちて行かざるを得なくなった。
 いま「定常社会」といわれる中で貧困層に「定常化」される人々が増え続け、将来への希望を見失った人々はポケモンやお笑い芸人やスポーツ番組の中に「楽しいものが増えた」と感じつつ現実逃避の世界に浸っているのかもしれない。朝日の原さんそう思いませんか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年12月25日 - 2016年12月31日 | トップページ | 2017年1月8日 - 2017年1月14日 »