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2017年6月4日 - 2017年6月10日

2017年6月 7日 (水)

朝日新聞6日朝刊J.D.バンス氏のインタビュー記事をめぐって

 朝日新聞6日の朝刊「オピニオン&フォーラム」欄でのJ.D. バンス氏のインタビュー記事「取り残された白人たち」はある意味でこれまでの私の「トランプ観」に変更を加える必要を感じさせた。

 バンス氏はアメリカのいわゆるラストベルト地域の出身で、貧困の中の厳しい生活の中で育ちながら一度はベンチャー企業の投資家にまでなった人であるが、現在は作家で「ヒルビリー・エレジー」の著者である。したがって彼はラストベルトの生き証人の様な人だ。詳しくは新聞紙上を見てほしいが、朝日の記者のインタビューに答える彼から浮き彫りにされるラストベルトの状況は悲惨なものである。生きるために犯罪でも何でもやるし、悲惨な状況から一瞬でも逃れるため薬物使用が日常化している。街は寂れ、かつての製造業の工場は錆び付き、社会から見放された人々が彷徨する。
 そして、選挙のたびに労働者の味方のような顔をする既成政党は、この地方の現状には無関心で、あのオバマ政権下でもここは忘れられた地方であった。
 そして、このアメリカ社会から取り残され忘れられた人々を「発見」し、彼らを代弁しようとしたのが資本家トランプだった。自ら資本家として「うまくやって」成功したトランプは、しかしその資本主義社会で取り残されている人々の存在に気づき、自らウオール街に代表される既得権階級社会の仕組みのおかしさを変えねばいけないと思ったようだ。
 だからトランプはそうした人々の圧倒的支持を得た。しかし、バンス氏の言葉を借りれば、トランプは「問題を発見したが、その解決法が間違っている」(ということは結局問題を正しく認識していないということだが)というわけだ。
 一方、オバマ政権支持者などいわゆるリベラル派の内実は、ラストベルトが朽ち果てる中で成長したIT産業などを中心とした企業の労働者や新興資本家たちである。いわゆる「新中間層」といわれる人々で、彼らはいわば「アメリカン・ドリーム」の実現者である。
 しかしこの新中間層はラストベルトに取り残された人々には無関心である。ラストベルトの人々から見れば彼らはまさに既得権階級である。そしてそのリベラル派はトランプに対して「あいつは馬鹿だ!」と揶揄する。アメリカのリベラル派ジャーナリズムも彼らとほとんど同じ立場に立っている。
 ここで、考え直さねばならないことは、リベラル=労働者階級の味方、という図式は間違いであることはもちろんであるが、トランプ=資本家階級代表者、という図式も間違っているかもしれないということだ。もちろんトランプの辣腕資本家経営者としての発想や強引さ、傲岸さ、そしてメキシコとの国境の壁建設、パリ協定脱退や北朝鮮問題への対応に見られる危うさは誰の目からも明らかであるが、彼が発見したラストベルトの現状と、既得権階級社会の仕組みの矛盾への「直感」はある意味で間違っていないと思う。
 問題はラストベルトの現状がアメリカ社会に取り残された特殊な現象なのではなく、世界中にラストベルトと同じような状況が驚くほど多く存在し、それらが、いわゆるリベラル派支持層からも忘れ去られてしまっているということだ。
 資本主義的「経済成長」を遂げている国々ほどこうした状況が多く存在するだろう。それを単なる「格差問題」ととらえ、「格差の減少こそ最重要政治課題」などとうそぶく既得権階級代表政権の虚偽をまずは暴くべきであろう。こうした主張は表側で「自由・平等」というカンバンを掲げながら、その裏側には「自国の雇用を守るため」とか「自国第一」という主張が書かれ、他国の労働者と自国の労働者の間に壁を設けて、その連帯や団結を阻もうとするのだ。
 しかし、たとえもし、自国の雇用を守り賃金を下げないとすればその労働の成果は国際市場では不利な価格となり結局彼らのいう「経済成長」は阻まれる。そしてその被害は資本家経営者よりもむしろそこに雇用されている労働者に直接降りかかる。実質賃金の低落か解雇・転職という形で。そして「格差」は縮まらないばかりか拡大する。
 もはや世界中の労働者階級が誤った「自国第一主義」に惑わされることなく互いに手を結び合って、既得権階級であるグローバル資本と対決しなければならないところに来ているのではないだろうか?
 

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2017年6月 6日 (火)

三内丸山集落と白神山地(その2)

 (その1より続く) そして、彼らの共同体を支えていたのはその背後にある広大なブナ林であったと思われる。そこで得られる木の実や動植物の採取によって彼らは生活していたのである。そして彼らの共同体は数千年に渡って存続した後、他民族の侵入によって突然終わってしまった。しかし広大なブナ林だけは自然界のさまざまな変化に対応しながらそのまま今日まで存続しているのである。

 そこはまことに荘厳な気配に充ちていた。ブナの巨木はまるで人間どもを見下ろすように厳然としてそびえ、冬はすべての葉を落として雪に耐えて眠り、春になると再び美しい緑の葉をつけて大地を覆った。夏でも日差しの少ない森の大地には驚くほど多くの種類の植物が生きていた。命つきて倒れた巨木が朽ち果てて横たわり、そこにキノコが育っていた。
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 そしてこの 8000年も前から存続している広大なブナ林は、いまでも当時のように、遙か山並みの空に溶け込むあたりまで果てしなく続いている。
いま人生の終わりに近づいている私は、このような広大な大地の一部になることができれば、これまでのさまざまなつらく苦しい記憶は浄化され、安らかに大地を形成する元素に戻れると感じた。

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三内丸山集落と白神山地(その1)

 先日初めて、津軽地方の縄文前期の集落の蹟である三内丸山遺跡とその社会を支えた広大なブナ林が未だ手つかずで残っている白神山地を訪れた。

三内丸山集落蹟に復元された巨大な栗の木による列柱のモニュメントと巨大な茅葺きの集会所?は、当時のまだ階級社会が成立していなかった原始共同体の生活を思い起こさせるものであった。巨大な列柱モニュメントは何かの祭儀に用いられたと想像されるが、ムラのシンボル的なものであっただろう。そしてここで行われたと思われる祭儀は、おそらくは今の様なカリスマ的教祖への宗教儀式というよりは大自然を神として畏敬の念をもって扱い、その一部としての自分たちの共同体の存続と維持を祈念していたのではないだろうか。
集会所と思われる巨大な建物の内部は上座下座などの区別もなく同じ高さの土の床に座って話し合いをしたらしい。現代社会の様に、人生のすべてのシーンが金儲けの手段として利用され、恣意的に作られた空虚な「便利さ」や「おもしろさ」に囲まれることが生きる意味であると思い込まされながら老いて行き、結局社会から見捨てられるということは決してなかっただろうし、おそらくはシンプルで明快な関係のもとに共同体での支え合いの中で、力一杯の人生を生き抜き、現代よりもはるかに充実した日々を送っていたに違いないと思った。
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(その2)に続く。

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