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2017年6月25日 - 2017年7月1日

2017年6月30日 (金)

第64回日本デザイン学会春季大会初日の基調講演について

 今日から、拓大で開催されている表記学会で初日の基調講演を聞いてきた。

演者は内田洋行のデザイン子会社であるパワープレイス(株)シニアディレクターの若杉浩一氏である。
 初めは何をしゃべり出すのか分からなかったが、九州弁でダジャレを連発しながら「笑ってほしいときには笑ってくださいね」と会場に向かって言いながら自分でクスクス笑っている。変わった人だ。早口なので何を言ってるのか聞き取れないことが多かったが、そのうちだんだん何を話したいのかが分かってきた。
 彼は九州の大学を卒業した後、内田洋行に就職したが、自分のやりたいデザインがさっぱりできない。いくつかヒット商品も出したが、自分が「これだ!」と思っても会社では「そんなもの売れないよ」と一蹴される。それでも抵抗しながらやっていくうちに「あいつはできの悪いやつだ」と目されたのか「窓際」に配転され、女性の販売員たちと混ぜられてデザインとは関係のない仕事をさせられた。しかし彼はどうしても自分の思い描くデザインをやりたかったので、ふてくされてストレスいっぱいの状態が続き挙げ句の果てに事実上会社をクビになった。
  しかし、あるとき九州の田舎を訪れた際、そこで杉の木を使っていろいろなものを作ろうという運動をやっている人と出会い、意気投合して「日本全国スギダラケ倶楽部」という活動の中に自分のデザイナーとしての居場所を見いだした。この運動は、いま日本中で人手がなくて放置されている山の杉林を巨大な森林資源としてとらえ直し、スギを使った家具や道具を生活の中にどんどん取り込んでいこうという運動だ。
 そこから彼は実にエネルギッシュにさまざまなスギ材を使ったプロダクトを生み出し、それを全国各地に拡げていった。この運動の中で彼は一切金儲けは考えず、むしろお金を使っていろいろなデザイン提案を行った。そのうちいったん辞めた会社からももう一度デザインの仕事に引っ張られ、その会社の製品も手がけることになった。その後彼は様々なデザイン賞を受賞するまでになり、いまでは「MUJI」の仕事も手がけている。
 これを単なる「成功譚」として聞いてはおもしろくも何ともないのだが、彼のデザイン観がおもしろい。
  彼は要するに現代社会のモノ作りがどこかで間違っていると観じている。「売るためにデザインするのではなく必要だからデザインする」のが本当のデザインではないのか?と考える。そしてそれがたまたま「売れた」のなら分かるが、最初から「売れるモノしか作らない」のはおかしい。その結果、いまの社会ではどこに行ってもどこかで見たことのある様なモノしか売っておらず、しかも「売れる場所」である大都会がデザインの「消費地」となり、地方は置き去りにされている。それなのに、大都会では大家族が核家族に分解し、個々がバラバラになってしまい、ともに支え合って生活する環境が崩壊している。そこでは自分たちの生活を自分たちの手で生み出そうとする力は失われ、企業のデザイナーは売るためのモノしかデザインしないがそれは必ずしも社会が本当に求めるモノではない。生活者はただどこかの会社がデザインし売っているものを買うだけの生活になってしまっている。企業では「デザイン・イノベーション 」とか何とかいっているが、これは絶対におかしい!と彼は感じている。そしてこの「スギダラケ倶楽部」の活動にも見られるような、自分たちの求めるモノは自分たちの手で生み出し、それを生活の中で使っていくという本来のデザインに戻るべきだし、それこそが持続的社会を可能にすると考えている。
 この彼の現代デザインに対する基本的認識は私のそれとほとんど同じである。私が「モノ作りの創造性--持続可能なコンパクト社会の実現にむけて」(海文堂 2014)という本の中で述べた次世代社会に求めるデザインの姿とほとんど同じであるといってもよいほどだ。その意味で彼のデザイン観に多くの共感を感じた。
 ただ一つだけ気がかりなことは、彼がいまの会社のトップになり経営陣という立場にたったときに、いつのまにか資本の論理によるデザイン観を持つようにならないとは限らないということだ。いかに「良心的企業」であったとしてもそれが資本主義経済の論理の中に置かれていれば、好むと好まざるとに関わらずその論理のもとで動くことしかできないし、その経営を行う者は「人格化された資本」とならざるを得なくなるからだ。

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2017年6月28日 (水)

現代の「既得権階級」とは何だろう?(その3:まとめ)

 2回にわたってこのブログで書いてきた現代の「既得権階級」に関する考察をその要点でまとめてみよう。

 (1)現代のいわゆる「既得権階級」とは、現実には賃労働と資本という矛盾的自己同一関係を基礎にしてその上に作られている社会の仕組みを普遍的な社会の形として暗黙のうちに認め、その仕組みや論理を「社会常識」という形でイデオロギー化することで、現実の階級関係を見えなくさせ、その上にあぐらをかいて世界中の労働者の生み出す富を「自由」に取得し所有できる既得権を持っている人々のことであるといえるだろう。
 (2)その「既得権階級」の構成実体は、本来の資本家階級はもちろんのこと、賃労働によって生きている労働者階級の一部、特に「中間層」と言われる上層部(主として知識労働者)の多くが含まれている。そしてもっとも過酷な状況に置かれている労働者たちや、そうした労働者の家族(特に子供)、そして労働できなくなった高齢者や障害者などが、その「既得権階級」から「落ちこぼれた」と見なされている人々であり、この格差は拡大している。
 (3)「既得権階級」の生み出すイデオロギーは例えばアメリカの民主党や共和党などのような「左派あるいは「リベラル」と右派あるいは「保守派」という形で対立する形をとり、両者の間の政策の違いや論争を通じてつねに軌道修正をおこなっているかのように見える。これをこの社会では「議会制民主主義」と言っている。そして社会の矛盾はこうした左派と右派の政策論争の中で解決されていくかのような幻想を生み出している。こうした左右の対立では新興資本家たちが旧来の資本家達の「既得権」を批判する意味で「左派陣営」を形成することが多い。また労働者階級上層部の人々もこうした「左派」を支持することが多い。
 そしてこれまで、「落ちこぼれ」と見なされてきた人々はこのどちらかの側を支持することで自分たちの生活が良くなると思い込まされてきた。だから彼らはときに右派あるいは保守派といわれる部分を熱烈に支持することもあるし、実際にそれによってある部分で生活が改善されたこともあったが、しかし本質的な矛盾は解決されず、つねに別の形をとって現れた。
 (4)この構造、つまり社会の基本的な仕組みにおける矛盾を覆い隠すイデオロギーによって真実を見ることができなくされている人々が、虚偽のイデオロギーを暗黙の前提としてその上で「左派」とか「右派」といった対立軸を形成し、そこに代議委員を送り込むことで本来それでは本質的に解決できない社会の矛盾を解決しようとする構造そのものがいま必然的に崩壊に直面していると考えられる。
 (5)この状態を脱するには、まず、いまの「支配的イデオロギー」のもつ虚偽性を明らかにし、社会の仕組みにおける矛盾の真実を、リアルな現状分析から突きつけることである。その上で、いまの「議会制民主主義」と言われる政治形態が本来の民主主義ではなく、たんに外見的形式だけがそう見えるという事実をあきらかにすること、それを通じて虚偽のイデオロギーが蓄積している「社会常識」という地層の下に埋もれてしまっている真実の岩盤を掘り起こし、その上に確固とした未来を実現できる社会を築き上げるための運動や組織を生み出していくことが必要なのではないだろうか?
 どこかの資本家企業に雇用され、あまり楽しくない労働を一日中行いながら生活し、会社が他企業との競争に負けていつ「合理化」で失業したり配置転換になるかとびくびくしながら生涯を送るのが人生なのではなく、それぞれの場でそれぞれの形で働くことで社会をともに支えながらともに自分の存在意義を確認し合える共同社会の実現は、夢ではなく、現にいまではそれが一つの国の中だけではなくグローバルな形で世界中の人々がそうした形での連帯共同社会を生み出しつつあるのだ。それが「既得権階級」の「支配的イデオロギー」によってゆがめられ、空虚な「民主主義」か国家主義や民族主義などという形を目指すべきであるかのように思わされているだけである。
 もし世の「有識者」が本物の「インテリ」であるならば、そこに向かって真実を語ることができなければならないだろう。

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2017年6月27日 (火)

「有識者の見解」を巧みに利用する安部政権の保身作戦

 ニュースなどでも伝えられるように加計学園問題を巡る文科省元官僚や現官僚たちと首相・内閣グループとの対立は、都議会選挙での自民党の敗北につながりかねないということで、安倍首相は必死の巻き返しに出た。まずは、獣医学部新設に関する「岩盤規制」を破るために行った「特区」による「ドリル」作戦は中途半端だったために誤解を生んだので、むしろこれからどんどん獣医学部が必要なところに新設を認めるような方針でいきたい、と逆手の強硬姿勢を打ち出した。そしてそれと同時に、安倍首相得意の「奥の手」である「有識者」を集めた政権支援の記者会見を流した。ここで集められる「有識者」はもちろん安部政権の太鼓持ち「有識者」であり、例えば安倍政権に直結する地方自治体首長や自民党御用学者の竹中平蔵氏などなどである。この「有識者」たちは、いまの法的規制を「破るべき岩盤規制」と見なし、「規制緩和」こそが需要拡大や経済活性化につながると強調する連中である。

 しかし、考えてみればおかしな話であって、そもそもそうした「規制」は国会での議論を経て立法された法律なのではないか。そこに自民党も関与してきたわけであり、なぜどのようにその法規制が制約となっているのかを国会の場で正々堂々と議論し、そこでまっとうな手続きを経てその規制を改めようとしないのだろうか?
 小泉首相の時も、「郵政民営化」を規制緩和の象徴としてぶち上げていたが、郵政が民営化されたいま、一番困ってるのは過疎となった地方の住民である。「儲かる」ことだけがすべての社会であれば「民営化」があたかも経済活性化と同義語のように使われるが、そもそも鉄道や郵便事業などの様な公共サービスは「儲かる」ことを主体にやったのでは社会全体に公平なサービスができなくなるのは当然である。その矛盾はいま「経済活性化」の必然的結果としての人口の首都圏集中に伴い取り残された過疎地帯で明白に示されている。こうした公共サービスは税金をうまく使った形で経営するのがまっとうな方法だろう。
 そして小泉政権の「規制緩和」は「自由に働けるため」と称して雇用に関する法律に手を加えて、労働者の立場を護るための法律は企業側に都合良く変更され、その結果非正規雇用労働者を激増させいまの格差社会の引き金を引いたのである。 このときも竹中平蔵氏は小泉政権の「規制緩和」協力者としてそれを強力に推進させたことは記憶に新しい。
 そしていま、安倍政権は、再び自分のとりまきである「有識者」を巧みに使って、何もしらない庶民を彼のイデオロギーの賛同者に仕立て上げようと必死になっている。加計学園問題での官僚達の反乱や野党からの批判をあたかも「抵抗勢力」であるかのように民衆に対して「印象操作」しているのである。
 このブログの前回と前々回でも述べた様に、支配的イデオロギーを支える「インテリ」たちが果たす役割は、この強権的政権の中にある虚偽を覆い隠すことにある。庶民はこういう「インテリ」の言うことや記事を鵜呑みに信用すべきではない。そうでないと知らず知らずのうちに彼らに「洗脳」されてしまうからだ。

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