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2017年7月2日 - 2017年7月8日

2017年7月 6日 (木)

デザイン論における私の基本的主張(その4)

(前回からの続き)

 (7)いまデザイン研究の中で「次世代社会のデザイン」を打ち上げた人たちがいる。しかし、これも結論からいうと、いまの社会システムの中でのデザインのあり方の本質的矛盾を問うことなく行えると考えるのは、あまりにも現実社会を知らなすぎる「インテリ」の思い上がりに過ぎず、単なる妄想であるといってもよいだろう。
 現実社会を見れば、「商品を売るためのデザイン」は実に綿密な「計画的行為」であるが、その一方でそのデザインされた商品が投入される市場はまったく無政府状態の「自由競争」が前提となっている。
 そしてこの無政府的市場競争こそ「自由社会」のキモなのだと主張する人々がこの社会を支配している。つまり資本主義経済社会の「デザイン」は無政府的競争という「アンチ・デザイン(無計画性)」を前提としてるのである。
  彼らは、これに反対し彼らの無政府的競争の中でいつもその犠牲となるのは現実に社会のために働く自分達だと異議申し立てをする労働者や生活者に対して決まってこう言う、「計画経済なんていうものはすでに滅びた社会主義の主張であって、人々の自由を奪う人権無視の管理社会以外の何物でもない」と。
 たしかに20世紀を揺るがしたいわゆる「社会主義国」のあり方はまったくひどいものであったが、それは、例えばマルクスが求めていた「本来の共同社会(Communism)」とはまったくかけ離れたむしろ真逆の社会であったということも事実だ。
 だが、それならばこういうべきであろう。
  ではいまの「自由競争」の社会で、なぜ、一握りの人々が社会的富の大半を自分ものとしてしまい、一方で貧困を世界規模で増大させているのか?
  なぜこれほど地球環境が破壊され気候変動が襲い、資源の枯渇が問題となり、このままでは人類の未来が危ういと分かっているのにそれを誰も止められないのか?
  いまの経済学は、無駄な消費を拡大し環境を悪化させ、そのために限られたエネルギーを無駄に使うことでしか「経済成長」できないというのならそれはまさに「不経済学」ではないのか?
  閉じられた地球環境の中で限られた地球の資源を世界中の人々が計画的に維持し用いることができるように考えるのが本当の経済学ではないのか?
 (8)そして最後にこう言おう。
  デザインはその「広い意味」では計画一般を意味し、その意味で国家の経済政策などもデザインであるといまのデザイン研究者は主張する。そういう意味で「社会のデザイン」を主張するならば、「グローバリズム」と称して世界を支配している政治経済体制は結局次世代の世界を「デザイン」することもできず、ただ一部の人たちの「自由な」利益獲得競争のために、世界中の働く人々を混沌と貧困に陥れているのではないのか?
それはいったい誰のための「デザイン」なのか?
 その「デザイン」の犠牲になる多くの人々の血と汗の結晶を独り占めする人々やその「おこぼれ」を頂戴している人々の生活の「デザイン」を飾り立てているだけなのではないのか?
 もともとデザイン能力とはすべての働く人々や生活者が持っていた能力ではなかったのか?
 その能力をそれらの人々の手から奪い取り、一部の人々の利益獲得競争の道具にしてしまったのはいったい誰なのか?
 われわれが目指す社会は、すべての生活者が自分の生活や人生のデザインを自由に行うことができ、そのことが同時に個々の人々の存在意義を社会全体がその構成要素として認め合うことで、互いに争うことなく、必要なものを必要なだけ生み出すことで成り立つ社会ではなかったのか?
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 さて、最初ちょっとばかり私のデザインに関する主張を記録に留めておこうと思い書き始めたものが、こんなに長い文章になってしまった。
 実はまだまだ言いたいことは山ほどあり、「腹膨るる思い」なのだが、この辺でガス抜きのために一発オナラででもして、止めることにしておこう。「ブーッ!」

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2017年7月 5日 (水)

デザイン論における私の基本的主張(その3)

(前回からの続き)

 (4)ではデザイン行為とは純粋に個人の主体的内面の問題なのか?答えはノーだ。デザイン行為は「人間とは何か?」という問題を含むと同時に諸個人が「諸個人」たる根拠としての共同体つまり社会の問題でもあるのだ。
  それはデザイン行為が同時に人間の表現行為でもあり、そこにはその主体が何を問題として把握し、それをどう解決したかが表現されているからだ。デザインされた結果としての人工物はその意味でデザイン主体の「表現体」であり、この「表現体」を媒介として個人と個人のコミュニケーションが成立し、共同体を形成している。だからデザイン行為は個人の内面の問題であると同時にその個人が構成員である共同体社会におけるその個人の位置と関係を示すものでもあるといえる。それは芸術的表現と同根であるといえる。しかし、より直接「生活」に結びついている。
 しかし、今日の「デザイナー」は資本主義経済体制の中で、その頭脳労働力を「商品」として雇用者に売ることで生活をしている頭脳労働者の一種であるため、自らの意図とは関係なく雇用者やクライアントの意図を代弁する形でしか「デザイン」できない。非常に凝縮していえば、「売るためのモノやコトをデザインする」ために生活の中に「ニーズ」を恣意的に生み出しそれを手段として利用する。それは彼自身の内面の表現でもないし、社会と彼個人のコミュニケーションの媒体でもない。「デザイン」されるモノやコトは最初から彼の外からの「要求」で生み出され、彼の内発的意図の発露ではないし、その結果も社会全体をあるべき方向に持って行くことなく、ただ富裕な個人の美意識を満足させるか、社会的には長期的展望もない無秩序や無駄の再生産しか生み出さない。
 (5)このような「疎外されたデザイン行為」しか行い得ない今日の「デザイナー」の仕事はその美意識においては、この社会を事実上支配する人々、正確に言えば資本家とその追随的支援者(俗に言えば「富裕層」や「中間層」--- デザイナーもここに属すことが多い)の美意識を表現しているが、実際にデザインされたモノを作っている人々(多くは諸外国で低賃金で働く労働者)の美意識は表現していない。いやそうした人々は自らの美意識など持ち得ない状況で生活していると言う方が正しいだろう。
  もちろんこうした美意識の中には20世紀初頭に見られた「ザッハリッヒカイト」の様に普遍性を持った美意識もあるが、それはつねに「商品化」の手段に用いられることで歪められ、単なるスタイルと化し、本来の思想的方向性を失ってきた。
 そして「デザインの創造性」(実はこれが筆者の専門なのであるが)はこうした社会でつねに求められる「目新しい美」や、次々にもたらされる「イノベーション」といわれる技術的「ビジネスチャンス」を商品として実現させるためにデザイナーに要請される能力であるといえるだろう。
  それはこの社会(腐朽段階の末期資本主義社会)では無駄な消費を生み出すに過ぎない「創造性」であるといっても過言ではない。そこから生み出されたモノやコトはほとんどの場合、社会や諸個人がその将来を見据えて本当に求めているものではない。
 本来のデザイン創造性とは、こうした現在の「疎外された創造性」を否定の中から生み出され、「つくる人」と「使う人」が本質的同一性のもとに結びついた社会においてはじめて発揮される能力であるといえる。
 (6)コンピュータが普及しだした頃から、「自動デザイン」は可能か?という問いがあった。筆者もこうした論争に加わったことがあったが、結論から先に言えば、なぜそれが必要なのか?であり、それは資本主義生産様式の中での「生産の合理化」のためにしか意味がない、というものであった。
  これまでに述べたように、デザインとは主体の内面の表現であり、同時に社会における諸個人のコミュニケーション媒体という意義をもっているのであるが、その過程を「自動化」することに何の意味があるのか、ということだ。「芸術の自動化」も同じことがいえる。
 このことは、今日、AI(人工知能)がやがて人類の能力を超えて人類を支配することになるのではないか(シンギュラリティ)と危惧されている問題とある意味で関係する。
  そもそも人間は自分の生物学的肉体の限界を超えるために、その延長として道具をつくってきたのであるが、それが産業資本主義段階では手足の延長としての機械という形をとり、やがて脈管系の延長として電気通信系機器が発展し、最後に頭脳の延長としての人工知能が開発されてきたのである。これらほとんどすべてが資本主義生産様式のもとで急速に発展したため、その社会の基本原理(人間の生み出したモノの抽象化された存在である「資本」がそれを生み出した生身の人間を支配する社会)のもとで本来の道具の地位を逆転させ道具が人間を支配するかたちで「物神化」されていった結果であろうとおもう。
  しかし道具は道具なのであって、要は人間が自ら生み出した道具に支配されているような社会を基本から覆して、本来の形にもっていかねばならないということを意味しているのだと思う。
(次に続く)

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2017年7月 4日 (火)

デザイン論における私の基本的主張(その2)

(前回からの続き)

(3)そしてデザインの概念規定や理論研究に関しての問題であるが、それらの研究を「科学研究」の一環として自然科学などと一緒にとらえるのは間違っていると思う。なぜなら、デザイン行為そのものは科学の対象ではなく、むしろその成果を適用して行われる実践的行為だからである。それはよく言われる様な「科学」と「工学」の違いに似ているとも言えるが、もっと根源的な違いがある。
 「科学」は人類がさまざまな文明を形成しつつその試行錯誤の中で見いだしてきた自然界の法則性への認知の積み重ねであり、それが近代資本主義社会というある意味で「合理的」な社会が登場することによって、その生産過程の中でそれを応用する形で実益を上げることで、「科学」へのモチベーションを一気に高めた結果、科学研究と工学研究という相互刺激的関係を加速し、著しい発展を遂げたのだと思う。
 しかしここでも科学が人間の自然界への認識深化の成果である一方で、工学は生活や社会と直接に関係する実践の立場であって、それが資本主義社会の産物であったとしても、その本質は人間の普遍的行為としての「技術的実践」というものに根拠があるといえるだろう。
 この「技術的実践」は、人類が何かの目的でモノ(人工物)を生み出したときから始まったといえ、その本質は、それまでに知り得た自然界の法則性を、ある目的のために意識的(意図的)に適用することであるといえる。そしてわれわれのいう「本来のデザイン行為」はそうした技術的実践の一つの側面として位置づけられる。
  「技術的実践」はあらゆる人間の意図的行為の中に存在し、ある目的を実現させるためにある自然法則を手段として適用することの中に現れるが、その過程でその自然法則を担っている対象がどのように「手段」として機能し、目的実現を可能にさせるかについて、実際にその行為が行われる前に思考において先行的に想定し、それが実行される以前にそのプロセスや結果をあらかじめ可視化させ把握しておく行為であるといえるだろう。これが「デザイン行為」の原型であるといえる。
 したがって、ここではまずその行為の「意図」として目的意識がどのように形成されてきたのかが重要な問題である。それは最初から明確な形をもって現れるのではなく、最初はきわめてあいまいな「直感」として現れ、その実現方法を繰り返し試行錯誤的に考えながら過去の実例などと比較しつつ明確な解決目標として具体化させていく過程を含んでいる。
 さらに重要なことはこの目的意識の形成過程はそもそも目的意識発生の端緒となった「問題」の発見と把握に掛かっているのである。何かの事実に直面したとき、そこに初めて「問題意識」が発生し、眼前にある客観的事実が自分とその事実の間で発生するある種の齟齬としてつまり「問題」として見えてくるのである。この「問題発見」はその解決に向けた「目的意識」へとポジティブなメタモルフォーゼを遂げていくのであるが、そこにデザイン行為のもっとも重要な「主体性」の問題を含んでいる。
 もう一度現代デザイン論に戻れば、そこではデザイン行為一般は「要求仕様」から出発するとされるが、これは資本主義的職能として登場した「デザイナー」あるいは「エンジニア」の特徴であって、人間が本来持っている能力としてのデザイン行為は、まずそのデザイン行為の目的を主体的に持っていなければならない。そしてその目的はデザイン主体自身が発見した「問題」の解決に向けて形成された目的意識から出発するのである。
 要するに 「何のためにデザインするのか」である。 それは決して自分の外から誰かによって「要求仕様」として押しつけられるものではない。そうであるからこそ、その解決としてのデザイン結果は彼にとって意味があるのであり、本来の意味で彼がその一部を形成している社会全体にとっても意味のあるものになるのである。
 さらにいえば、一般設計学では「機能」に関する定義や記述もあいまいである。しかし、「機能」とはデザイン主体がその目的の実現に向けて「手段」として用いる対象がその「目的・手段」関係の中に置かれることによって初めてその機能を発揮しうる位置を得るのであって、したがってその結果の評価やプロセスについての評価はデザイン主体の意図との関係に掛かっているのである。「機能」は決して客観的に与えられるものではない。それは主観と客観を媒介する存在なのである。
 こうしてデザイン行為そのものに関しては、デザイン主体・設計主体自身の「問題意識」および「目的意識」という主体的内面の問題と切り離すことができないのであり、客観性をモットーとする純粋な「科学」の対象にはなり得ないもの(一般設計学はそのことに気づいておりだから数学的論理という形で設計行為を定義づけている)である思う。だからこそ、それは「デザインする自分とは何か」あるいは「社会と自分とのつながりは何か」という問題をつねに含んでおり、人間論でもあるし、自己の対象化という意味での表現論でもあるといえる。しかし、また脳科学や認知科学などはデザイン行為を「外側から」見るという意味で客観的にとらえることは出来るし、それも必要なことであるといえるだろう。しかしそれだけではデザイン行為の中身は到底とらえきれないのである。
(次回に続く)

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デザイン論における私の基本的主張(その1)

 前々回に第64回デザイン学会研究発表大会に関する感想を述べた私のブログで偉そうなことを書いてしまったのでここで私の主張の核心部分だけ書いておこうと思う。間違っているかもしれないが、そうであれば遠慮なく批判してほしい。批判は「非難」ではなく本来その背後に建設的な意図があるものなのだから。

 (1)まず、「デザイン」という概念が独自に取り上げられ、研究対象になった背景として、近代社会つまり資本主義経済社会が成立していく過程でいわゆる産業革命があり、資本主義経済社会特有の分業形態が登場し、それらが資本主義特有の社会構造を作っていったのであるが、その中で歴史上初めて「設計技術者(エンジニア)」や「デザイナー」と呼ばれる職能が登場し、その職能内容がひとつの概念として扱われるようになったという事実がある。
 つまり「設計」も「デザイン」も資本主義社会特有の概念であるのだが、他方でそれこそ人類が到達した文明社会の到達点であると考える人々は、そこで登場した職能やそれを根拠とした概念を普遍的な形とみなし、そのままその歴史的根拠を人類の文明発生にまで求めようとする。だから、「デザインの歴史は古代文明発生から始まる」とされてしまう。
 ここでは普遍的な人間の行為が歴史的に特殊な形態として現れた現在の「デザイン」をそのまま普遍的な形としてとらえてしまう。例えば資本主義社会に見られるさまざまな分業形態の中に見られる「○○デザイン」という形の共通部分を集めるだけで、それを「デザイン一般」とか「広い意味でのデザイン」として扱い、それをそのまま「デザインのルーツは人類文明の歴史とともに始まった」として過去に投影してしまうため、現在の「デザイン」を歴史を超えた普遍的な形としてとらえてしまうことになり、「本来あるべき姿」を描くことができなくなってしまうのだ。
 人間の認知の順序はむしろ逆であって、現代の「デザイン」の置かれている現実やその概念規定のおかしさに気づき、その背景にある職能における矛盾をあるがままに抽出し、その「否定」の上に「本来あるべきデザイン」とは何なのかを考え、それによって初めて「本来あるべき姿としてのデザイン」を考えることが可能となり、その原型が人類の歴史の中にどのような形(疎外形態)で存在してきたかを見ることができるのだと思う。
 こうした歴史的視点がないと「われわれが求めるデザインの姿」が見えなくなると同時に人類社会の未来への展望も描くことができなくなるのではないだろうか。
 (2)次に、こうしたいまのデザインに対するアプローチの仕方の問題点が、例えばデザインとは何か?といった概念規定への研究にどのような形で現れているかを見てみよう。
 それは基本的には、デザイン行為の一般化としてとらえられる問題(例えば「一般設計学」など)において、デザイン行為の出発点が「要求仕様が与えられる」ことから始まる様に描かれていることである。この「一般化」は、すでに述べた様に、さまざまな職能としての「○○デザイン」の共通点をまとめた「一般化」なのであって、それらに共通する矛盾を否定する立場からの「本来あるべきデザイン」という意味での抽象化ではないのである。眼前の事実への否定的直感を媒介にしていないとこういうことになる。
 例えば、デザイナーが上司あるいはクライアントから要求仕様を受け取り仕事を達成し、出来上がった製品が市場で売られ、それがよく売れて、社会に広く使用されたとしよう。このデザイナーを雇用した企業の経営陣は彼の仕事を高く評価するだろうし、彼はそれによって自分の社会的存在意義を感じるだろう。
  しかし、その製品はそれ以前に同じ会社が売りまくった製品のモデルチェンジであって、その製品がすでに古い仕様であることを気づかせ、買い換への欲求を刺激すべく新たなデザインを出したのであって、これは事実上まだ使える製品を廃棄させる動機を生み出すことになる。これを人は「技術革新」の結果だから仕方ないというかもしれないが、もしそうなら前モデルを責任をもって回収し、そのリサイクルに要する費用までもそれを作った会社が負担するのが本当であろう。それをせず、廃棄物の処理は公共的事業に任せ、「購買者」に新たな負担をさせることでその「技術革新」の結果を売り込むことが社会的に正しいといえるのか?
 さらいえば、そうした本当に社会的な必要性があるかどうか分からないような「技術革新」を結局は「売って利益をあげる」ための手段として用いているという事実に、もしデザイナーが気づいても、これを雇用主やクライアントに申し立てすることなどありえないのだ。なぜなら、デザイナーはそうしたことを行うために登場し雇用されている分業種なのだから、それに意義を申し立てることは自身の存在意義を自ら否定することになるからだ。
 このようにして、デザイナーの仕事は社会全体としてみれば、あまり意味のない社会的需要を「要求仕様」として突きつけられ、そうしたものをつねに生み出し続けることを強いられ、それをデザイナーの「創造性」だとされてしまう。その結果、社会全体として過剰な無駄が生み出され、まだ使えるモノが廃棄され二酸化炭素などの廃棄物が大量に排出され、自然環境が汚染されると同時に限られたエネルギーや資源が枯渇していく。
 このデザイナーという職能というポジションからは「あるべき社会のデザイン」の幻想は生み出し得ても、それを現実に生み出すことなど決してないだろう。
 こうして本来のデザインの概念規定は現在の「デザイン」の否定から出発せざるを得ないのである。
(次に続く)

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2017年7月 3日 (月)

都議選の結果に思うこと

 マスコミでは昨日の都議選の結果がトップニュースになっており、海外でもニュースになっている。自民党が公明党と袂を分かち劣勢となり、小池知事の「都民ファースト」が公明党や一部保守勢力を取り込み、民進党や共産党などの野党グループからも一部支持を得て圧勝した。

 フランスでマクロンが大統領選に勝って、その後国選で自らが属していた「前進」を「共和国前進」として保守や左派政党の一部を取り込みながら再編成し圧勝したのと似ている。
 これらの選挙の特徴は一見「革命」のように見えるが実は単なる「雰囲気」と「流れ」ではないだろうか?いまの政治はほとんどこれに支配されているといってもよいような気がする。
 マスコミやインターネットを通じて話題となったニュースがたちまち拡散し、そうした話題で「炎上」する。商業マスコミは「売れる記事」を貪欲に求めており、センセーショナルな記事が社会を騒がせて「売れる」ことを狙う。それが繰り返されてある「流れ」ができ、「雰囲気」が生まれる。人々はそれに乗っかって判断する。だからこの「流れ」と「雰囲気」が留まるとたちまち「民意」は混沌となり、やがて別の流れや雰囲気が生み出されていく。
 政治家達は巧みにこうした「流れ」や「雰囲気」を利用する。こうして自民党政権→民主党政権→自民党(安部)政権と政権が変わってきた。フランスやアメリカでもよく似た状況である。しかし、こうした「流れ」や「雰囲気」では常に必要以上の「期待」が渦巻き、やがてそれから来る「裏切り・ 落胆」が繰り返され、徐々にいらだちや過激な言動や増えていく。しかし肝心な問題はいつも取り残されたままである。 取り残され忘れられている領域に実は重大な問題が隠されており、誰もそれを取り上げない。
 ある意味これが現代の「民主主義」の最大の欠陥ともいえるのではないだろうか?「民意」といわれるものが、恣意的に生み出された「流れ」や「雰囲気」に乗った一種の流行に過ぎず(いわゆるポピュリズム)、そのため「民意」そのものがつねに深められ問題の本質やキーポイントに迫るような思考を妨げられている。だからいつも浮ついたしかし苛立って不満が爆発しそうな状態が生み出される。そして政治家はむしろそれを巧みに利用して自らの政治的権力を獲得し維持していこうとする。これが本当に民主主義といえるのか?
 小池「都民ファースト」もマクロンの「共和国前進」も似たようなもので、やがてその中身のなさがバクロされ、重要問題が取り残されたまま、無為無策や混乱で政治がかき回されることになるだろう。
 怖いのは、そうした混乱の後に必ず「強力なリーダーシップ」や「決められる政治」をカンバンとする強権的政権が支持を受け再びより強固になって登場することだ。こうしていまの「民主主義」は再び「独裁的政権」を生み出すことになる。
「民」はもっと賢くならねばいけない!

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2017年7月 2日 (日)

第64回日本デザイン学会春季大会の感想

 昨日表記学会の研究発表会やオーガナイズド・セッションを覗いてきた。「慮るデザイン」という大会テーマには違和感を感じた。思いやりがあるとか先を見越したという意味らしいが、私にはどうもその前に取り組まねばならない大きな問題が忘れられているのではないかと感じたからだ。そして各セッションの発表の題目を見る限りどこに「慮るデザイン」が反映されているのかまったく分からなかった。

 さらに、一頃、「モノのデザインからコトのデザインへ」というキーワードで一世を風靡した情報デザイン関係の研究グループも「当事者デザイン」というテーマセッションを開いていたが、これも結局なぜいま「当事者」なのかよく分からなかった。また12〜3年前に現役時代の私が幾人かの人々との協力の下で立ち上げ、その後不本意なかたちで手を引かざるを得なくなったデザイン創造性研究部会の発表もタイトルを見るかぎりあまり研究の蓄積と進展がなく、対象が拡散してしまっているようであった。
 もっとも「堅い」領域であるデザイン理論・方法論研究を進めているグループもどうも「多空間モデル」の科学的正当性に関する議論はどこかにぶっ飛んでしまい、もっぱらそれを実用面で応用する研究に行ってしまったようだ。どうも設計論とかデザイン論とかはその正当性を巡るディスカッションがないまま、例えば「一般設計学」もそうであるが、ある種の権威主義的雰囲気の中で「正当性」が既成事実化されてしまうような気がする。
 こうした中で結局デザインとは何か、という問題は内容希薄な抽象論に陥ってしまい、そこから一歩も進歩しなくなると同時に、その研究対象自体の曖昧さから、領域がどんどん周辺へと拡散し、研究発表数は増えても中核となる部分の研究は取り残されたままになっているのではないだろうか?
 その原因として考えられることは、一つには、ここで扱われている「デザイン」や「設計」という概念が、実は産業革命以後の資本主義経済社会という歴史的に特殊な社会の中で生まれてきたその社会特有の「分業種」にもとづく概念をあたかも歴史を超えて普遍的な概念であるかのように扱ってしまっていることがある。
 「デザイン」という言葉の意味は、産業革命以後の資本主義経済社会でひとつの分業種として登場した「デザイナー」という職能がその根拠であり、「設計」も同様に「設計技術者」というその社会特有の仕組みの中で登場した「職能」である「エンジニア」が根拠であるといってよいだろう。
 そして、これら資本主義社会的分業種が、人間が本来持っている普遍的能力の一側面を、その社会特有の問題点や矛盾を体現する形(例えば「使うためにつくる」を「売るために作る」ことの手段とするように)で歪んだ形で具体化したものであることを見逃すべきではない。それにも拘わらず、さまざまな資本主義的分業種の中にさまざまな形で登場するこの歪んだ形で具体化される「○○デザイン」をそのまま抽象化して、「広い意味でのデザイン」として、あたかも人間が本来持っている普遍的能力そのものであるかのようにとらえることから生じる混乱が「デザインの定義」を曖昧で中身のないものにしていると考えられる。
 そしてこうした矛盾や問題点が生み出すさまざまな社会的問題、例えば、デザインの創造性が本来必要な社会全体の進化に寄与するものとしてではなく、一部の企業の利益を増やす商品の販売促進の手段として用いられ、企業間のいわば無政府的市場競争の中で恣意的に生み出される「ニーズ」によってどんどんモノが売られ、その機能を全うしないうちに捨てられ、廃棄物の山が築かれ、環境は破壊される。資源やエネルギーはこうした過剰で無駄な消費を生み出すための商品の過剰な生産のためにどんどん無駄遣いされ、枯渇していく。
そして、そうした無駄で過剰な消費や過剰な「サービス」を促す機会を「ビジネスチャンス」としてとらえた「イノベーション」がどんどん進められる。その一方で本当に社会にとって必要なことが「経済的に採算が合わない」という理由で置き去りにされていく。どうすれば商品を買ってもらえるかに関しては綿密に「デザイン」されるが、売れたあとはそれがどう使われようと、どう捨てられようほとんど気にしないばかりか、そうした商品が世の中に溢れることでどのような社会的影響が生じるかについてはまったく「デザイン」されていない。これが本当にデザインなのか?
 この現状に「何かがおかしいのでは?」と気づいている人々は多い。デザインの理論研究はまずこの現状と事実に目を向けることが必要なのではないだろうか?

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