« 2017年8月20日 - 2017年8月26日 | トップページ | 2017年9月3日 - 2017年9月9日 »

2017年8月27日 - 2017年9月2日

2017年8月30日 (水)

「戦争はイヤだ」の中身が問題だ

 今朝のNHK-TV「あさイチ」で「戦争はイヤいまこそ考える」というテーマを放映していた。中東で戦乱の中で取材活動をしてきた柳沢さんの意見はなかなかリアルであった。その中でイスラエル人で日本に在住して家具職人をやっている人が日本の子供たちに彼の体験を話すという取材があった。彼は国民皆兵のイスラエルとその中での、彼自身がそうであった若い兵士の心情について語っていた。彼は小学校では「人を殺してはいけない」と教わっているのに、イスラエルの国状からパレスチナを空爆することになってしまうのは「仕方ない」と考えていた。しかし、あるとき、イスラエル空軍がパレスチナの病院や学校を空爆し、多くの子供達が死んでしまったことがあり、それをきっかけに「これが仕方ないといえるのだろうか?」という疑問を持つようになったというのだ。そこからおそらく彼の生き方は大きく変わっていったのだろう。

 戦争とは「人を殺してはいけない」という人間にとって基本的な倫理観を「こういう状況では戦争も仕方ない」として捨てさせることになるのだ。柳沢さんはこれを「思考停止状態」といっていた。たしかに「思考停止状態」になって、個人的には何の恨みも憎しみもない人たちを「敵」として「殺してもよい」という決定的な自己矛盾を「仕方ない」としてしまうことの恐ろしさが戦争なのだと思う。

  戦争が終わって戦勝国となった国の人々にはそれが正当化され、敗戦国になった国の人々はその矛盾に気づかされ罪の意識を負い続けることになる。
 その背後には、現代社会の人間が一個の個人であると同時に「○○国民」あるいは「○○民族」という「幻想共同体」の一員としての意識を持つ、いわば一個二重の実存を持たされているという現実がある。
  同じ言語を話し、同じ生活習慣をもつ人々が共同体意識をもつのは自然なことであるが、近代国家においては、現実に生活を支え合う具体的な共同体社会と、外側から政治的に「枠」を与えられた「国家」とが一致しなくなっていく。日本などはそれがほとんど一致している珍しい国なのだと思う。
  イスラエルはこれとはまったく対極的で、人為的に突然国家が作り出された。世界中に散らばってナチスなどから迫害を受けていたユダヤ人たちが、戦後連合国の支援を受けて、パレスチナ人の住む土地に事実上彼らを追い出して「ユダヤ人国家」を作ったのである。そもそもの最初から「戦争は仕方ない」という状況を生む必然性があったのだ。
 こうして自然発生的な共同体社会と人為的で政治的な「近代国家」との自己矛盾がその矛盾の爆発として戦争を生み出し、その中で凄惨で非人間的殺戮が「仕方ない」として正当化されるのである。
 あの惨めな敗戦を味わった日本人は、いま誰しも「戦争はイヤ、これだけは避けねば」と頭の中では理解しつつ、北朝鮮からミサイルが飛んでくると、「このままでいいのか?」「アメリカは頼りになるのか?」と思うようになり、やがて「日本もこれに対抗できる軍事力を持たねばならない」という国家上層部や政治家たちの意見に従っていくことになりそうである。これが「思考停止」の第一歩である。
 いまさら「非武装中立」などは非現実的だ、という意見はいま「戦争はイヤだ」という日本人の大半の意見であろう。安倍政権はその「空気」に乗っかって憲法改定を試みようとしている。やがては自衛隊を「国軍」に昇格させ、「合法的に」軍備をもつ。
  しかし、その先に待っているのは「自国を護るためには仕方ない」と戦争に突入するか、あるいは仮想敵国と競争で軍事力をエスカレートさせ、馬鹿げた巨大核戦力をもってその「抑止力」に頼るかであろう。
 はたして「非武装中立」は非現実的なのであろうか?私はそうは思わない。軍事力を持つことは相手に戦争を起こす口実を与えることになる。その意味で軍事力を持たない国の方がずっと侵略しにくいはずだ。何も軍事力を持たない国をもしある国が侵略したとしても、それはその国にとっても国際的にも「正当化」することはできないだろう。何も抵抗しない人々を理由もなく大量に殺戮することはその侵略国の兵士にとっても自己矛盾を直接突きつけられることになるだろうし、おそらくそれを遂行することを不可能にさせるだろう。
  侵略された国の人々はいったん屈辱を味わうことになるかもしれないが、これは「正当な屈辱」であり、これに耐え、やがてその侵略が不当な行為であることへの人類全体への正当なアピールにつながり、必ずや反戦への世界的な共感を得ることになるだろう。
 「国を護るために」戦争に突入することで、何の罪もない、しかも親しい隣人となり得たかもしれない人々の大量の命を不当にも奪いながら「お国に奉仕した」として祀られるよりははるかにずっとましな生き方なのではないだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月27日 (日)

資本論を学びつつ感じたこと

 ここ数年、「資本論を読む会」という資本論学習会に参加しているが、いま第2巻の後半部分、有名な再生産表式の論述のある第3編「社会的総資本の再生産と流通」に入ったところである。資本論第2巻以降はマルクスが亡くなってしまったのでその遺稿をエンゲルスが託されて完成させたものである(そのために最近マルクスの残した遺稿が明らかになるにつれエンゲルスのそのまとめ方に疑問を生じる事態も起きている)。

  第1巻「資本の生産過程」でももちろんそうであるが、まず驚くのはマルクスの膨大な量の先行研究調査である。ロンドンの大英博物館図書館に通っていたマルクスはそこにあるあらゆる経済学関係の文献に目を通していたと思われる。
 経済学・哲学草稿で述べられた彼の思想の輪郭はその後、「哲学」という外観を払拭して「経済学批判」に向かった。この段階でおそらくマルクスは当時もっとも権威をもっていたヘーゲルの哲学の背景を成す弁証法的論理学を批判的に摂取し、それを「頭で立っていたものから足で立つものへ」と止揚していった。人間がどのような思想で歴史を解釈してきたかではなく、どのような生き方をしてきたか(誰が何をどう生み出しそれを誰がどう消費してきたか)をを知ることからその上に築かれた理論や思想をとらえようとするようになったといえるのではないだろうか?
 そこで彼自身のものとなった弁証法的論理が彼の思考方法から研究方法まで徹底的に再構成させることになったと思われる。いわゆる下向・上向という構造をもった眼前の客観的事実から出発してその背後にある論理の構成に向かう抽象の方法が、資本論の背景にある。
 マルクスはこの眼前にあるまぎれもない客観的事実から出発する分析を徹底的にやったのである。これが「足で立つ弁証法的態度」なのだと思う。それまでに自分が摂取した理論や思想を底辺に持ちながら、あくまで徹底的に眼前の客観的事実を知ることによってその理論や思想を検証しつつ批判的に発展させる、そしてさらにその批判的に発展させた理論で客観的現実を再び観察し分析するという繰り返しである。
 上流階級の出身でありながらこうした彼の生き方ゆえに、妻とも別離し、イギリスで亡命者として困窮生活に追いやられ、エンゲルスの支援を受けながらも無理が重なって病気と戦いながらこの資本論の第1巻を完成させただけで逝ってしまったマルクスの思いを察するにあまりある。研究者のはしくれとして我が身を省みると、そのいい加減な生き方ゆえに穴があったら入り込みたい気持ちになる。
 そこで自らに言い聞かせることとして、資本論を学ぶときは、マルクスの意図を自分なりにキチンと受け止め、それをあったがままの姿で理解することがまず絶対に必要であること。決して自分の思い込みや勝手な解釈あるいは勝手な政治的意図などで「理解」してはならないということ。少なくとも未完成のままである資本論がもしマルクスなりに完成したと思われるようになったとしたらどのような内容になっていたのかを考えることが必要であろう(宇野弘蔵は勇敢にもそれを「原理論」として完成させようと試みたがそれが成功したか失敗したかはやがて歴史が証明するだろう)。
 そして資本論はこうしたマルクスの生涯を掛けた研究者としての誠実な努力の結晶であると同時に、その誠実な努力を維持させ支えて続けていたのが彼の現実社会への強烈な批判と、それを新たな社会への変革の力にしようとする意志の強さだったことを忘れてはならないこと。つまりなによりもマルクスの理論的研究成果である資本論をわれわれなりにキチンと受け止めて、それを未だに外見的には「繁栄」を維持しつつ崩壊しきれずに内部から腐臭を発散している資本主義社会の現状をどのようにとらえ分析し、次世代社会構築に向けた変革への力にし得るのかが問われているのだと思う。
 というわけで、自分が置かれている現状(もう老い先が短い年金生活者)を客観的に受け止め、そこからいったい何が出来るのかを考えねばならない(決して「置かれた場所で咲きなさい」などとはいうまい)と思う今日この頃である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年8月20日 - 2017年8月26日 | トップページ | 2017年9月3日 - 2017年9月9日 »