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2017年9月3日 - 2017年9月9日

2017年9月 9日 (土)

伊藤誠氏の講演「資本論と現代資本主義」を聴いて

 ある人から今日、水道橋で表記の講演会があるという情報を得て、マルクス経済学者として高名な伊藤誠氏の話を一回聴いてみるのもいいかな、と思い参加してみた。

 伊藤誠氏は宇野弘蔵の後継者と見なされている人で東京大学名誉教授であり日本学士院会員でもある。いうなれば現在のマルクス経済学界の「権威」である。
 この講演会は資本論発刊150年記念行事の一環で、演題は「資本論と現代資本主義ー新自由主義をどう捉えるかー」である。実はこの講演会が社会主義協会の主催であることは会場に行くまで知らなかった。あのかつて向坂逸郎らが主導した社会党左派系のグループである。いまは分裂してその一つが「新社会党」などという知名度のあまり高くない政党を結成しているらしい。
 伊藤氏の話は資本論が書かれたマルクスの時代の背景からその後その帝国主義段階への発展とレーニンの帝国主義論、そしてロシア革命を経て1930年代の大恐慌を挟んで登場するケインズ型資本主義とファシズム型資本主義、そしてそれらとソ連型社会主義の対立、その後第2次世界大戦の惨状を経て、ファシズムが敗れ、戦後ケインズ型資本主義陣営は「高度成長」を成し遂げたが、やがてそれが行き詰まり、それへの「反省」として登場した「新自由主義」という歴史的流れについての概要解説であった。
 伊藤氏は資本論が書かれた時代を資本主義の「自由主義」段階と表現していたのが気になった。なぜ産業資本主義ではなく「自由主義」なぼだろう?
商品経済が共同体の内部ではなく共同体間に登場する必然性やその「外来的」性質が労働力と商品にする形で矛盾を露わにしていった経緯についてはなかなかおもしろかった(もっともこれについてはすでに50年も前に宇野弘蔵が述べているのだが)。またマルクスの労働過程論についても私がそれを「デザイン本質論」の基礎に据えようとしている考え方と交わる点があり興味深かった。
  しかし、帝国主義段階の話に入るや、ロシア革命で登場した社会主義をめざす運動について、それが「ソ連型」になっていった経緯(トロツキーとスターリンの対立の挿話しかなかった)やその後、20世紀末にそれが資本主義陣営に事実上敗北して崩壊していった理由などについてはほとんど触れなかったことは大変残念だった。
 同様に資本主義陣営についても大恐慌からどのようにしてケインズ型資本主義が生まれ、それと同時にファシズム型資本主義も生まれたのか、といった話もなく、そのケインズ型がなぜ新自由主義に取って代わられたのかについてもあまり深く突っ込んだ話はなかった。
 特徴的だったのは、伊藤氏が最後の方で、「19世紀のマルクスがめざした社会主義に対してロシア革命で生まれた20世紀型社会主義は「国家主義」型であり、21世紀型社会主義は新自由主義からの影響も受けて、国家だけを頼りにしてはいけないという方向に向かいつつあるのでは」と言っていたことだ。そして地域での互酬性を基礎にした経済共同体やベーシックインカムといった考え方も積極的に取り入れて行くべきだと言っていた。「ベーシックインカム」が資本論の視点からはどのように位置づけられるのかも何も語られなかった。
  資本主義陣営の現状の認識はまだしも、資本主義の克服を目指してきた社会主義運動における論争や問題点に関してはずいぶんと浅くおおざっぱで、深刻な反省や総括がないまま最近西欧の社会民主主義者間に流行している思想の流れに乗っかってしまっているという感じであった。
 少なくとも社会主義を標榜する経済学者なら、レーニン以後の社会主義の変貌やスターリンによるその歪曲、そしてそのバリエーションや毛沢東主義の登場など、たとえばいまの北朝鮮や中国に見る「社会主義」の目を覆うような変貌と堕落ぶりがどうしてこうなったのかについて何も触れないというのはおかしいのではないか?ましてこれを「労働者国家」などというのではどうしようもない分析としかいいようもない。
 そもそもロシア革命でめざされた社会主義がなぜかくも変貌・堕落してしまったのか、その反省から得られる理論的成果から得られるはずの新たな段階の視点から、資本論で述べられている資本主義社会の基本的矛盾の発展系としての現代資本主義とどのように対決すべきなのか、その上でわれわれが資本主義社会の矛盾を乗り越えてめざすべき社会主義社会とはどのような社会であるべきなのかが求められなければならないのではないか。 それこそもっともいま世界中の働く人々が求めている問題なのではないか?
 

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「抑止力」は誰が何を「抑止」するためか?

 今朝のNHK-TV「深読み」で安全保障問題について討論をやっていたが、その中で「抑止力」についてが問題になっていた。北朝鮮がアメリカを挑発するためミサイルを発射したり核実験を行ったりしている昨今、日本もアメリカの安全保障によって守られているから大丈夫といえるのか?とか日本の自衛隊はアメリカから高額で購入する武器や情報がなければ防衛がなりたたない現状でそれらを日本独自に供給できるようにすべきではないか?などの意見が出されていた。

 その中で、現代においては、抑止力として必要な軍備を持たない国はバチカン市国以外に存在しないという発言もあり、一国としてそれに相応しい軍事的抑止力を持つのは当然だ、とする「空気」が充ちていた。さぞかし安倍首相はおよろこびであろう。
  だが番組でも誰かが言っていたように、「抑止力」とは互いに際限もなくエスカレートする必然性をもっている。相手に脅威を与える武力を持てば相手も簡単に襲ってこなくなるだろうという動物でも分かる単純な論理である。そしてそれが「国家」の場合その先にあるのは戦争であり大量殺戮である。
 ここで、よく考えてみよう。抑止力とは何なのか?誰が何を「抑止」するためのものものなのか?例えばいま「アメリカを火の海にする」と息巻いている北朝鮮のトップやその独裁下にある軍幹部の連中は別として、フツーの人たちは、それぞれ自分としては「アメリカを火の海にする」必要など何も感じてないはずだ。 むしろ莫大な軍事費のために自分たちの日々の生活が犠牲になっているような国より、もっと自由に見えるアメリカにあこがれているのではないだろうか?
  大部分のそうしたひとたちの心情を「アメリカからの軍事的侵略から護るため」と称して途方もない軍事費をきりがなくエスカレートさせていくトップの連中こそ、「朝鮮人民民主主義共和国」という国境線に閉じ込められた人々にとっておぞましい存在なのだと思う。
 そしてさらにこうした北朝鮮のほんの一握りの指導者に対して日本の政府はただただ抑止力の強化を訴えるだけである。番組の中でも「外交が重要だというが外交政策はつねに抑止力とセットとして考えるべきだ」とある論者が言っていたが、その「外交」とはこれら一握りのトップの連中との「外交」を意味するのだろう。
 しかし、現実にはそうした「政府間の外交」から外されている大多数の北朝鮮の人々とわれわれ日本のフツーの人々はお互いに個人的に何も恨み事はないし、フツーの隣人として付き合っていくべきだと思っているだろうし、そうできるはずだ。
 つまり「抑止力」とはそれらを要求する政府に代表される「国家」の支配的権力をもつ連中が自分たちを護るために必要なのだろう。
 いまや世界中の人々は経済的共同体(本来の意味での)としてはほとんど互いにつながっており、同じような立場にある人々である。しかし、そうした人々から何らかの利益を吸い上げ、それらの人々を事実上支配したり実効的な支配力を持った連中(たとえある場合には「自由・平等」が国是となっていても)が互いに戦争を仕掛けるモチベーションをもっているのである。そして莫大なカネを吸い上げる軍需産業がむしろ自分たちの利益となるようなそれらの連中こそ「抑止力」としての軍隊を必要とするのである。
 それら社会の実権を握る支配者たちのもとで日々の生活を営んでいるわれわれにとっては、同じ立場に置かれている世界中のどの国の人々とも戦争を起こす必然性などまったくないはずだ。
  むしろ「自由・平等」と言い聞かされながら、内実はまったくもって自由でも平等でもない日々の生活やその中で支配的イデオロギーをあたかも「普遍的社会観」のように言われて洗脳され続けているわれわれ自身が「思考停止」から目覚めなければならないのだと思う。
 そもそも「自由・平等」とは相手を競争で打ち負かし富を手にする自由などではないはずだ。すでに「社会常識化」された支配的イデオロギーの歴史的限界に気づき、その矛盾を克服して真にこれからの社会があるべき姿を考えねばならないのではないだろうか?

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