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2017年10月8日 - 2017年10月14日

2017年10月13日 (金)

イメージ広告商戦としての選挙運動に惑わされるな

 衆議院選挙運動が始まった。各党の選挙広報がマスコミでデカデカと報じられる。どれを見てもあまり言ってることの違いが分からないキャッチフレーズ。これは商品市場で自社商品を売り込むために行う広告戦略と同じ手法が用いられているからだろう。

 もちろん憲法をめぐる諸問題(改憲、安保法制、共謀罪など)などは政党によって大きく考え方が異なるが、 社会の現状認識においてはほとんどすべての党が「少子高齢化対策と子どもの教育の機会均等化、格差是正」などを政策の基本に据え、その上で自民は「国難からニッポンを護り抜く」公明は「希望を持てる安心安全な社会」、野党側は共通して「安部一強支配打破」を掲げながら、希望は「しがらみのない政治」立憲は「草の根ボトムアップ社会の実現」共産は「憲法と人権を守る民主的政治」などなど、ややニュアンスの異なるフレーズを掲げる。
 しかし、与党側の主張では、社会の現状認識がワンパタン化しており、なぜ「少子高齢化や学校に行けない子どもが増え、景気が良いといわれるのに社会格差が増大し過労死や過酷な労働が減らないのかなどについてはぜんぜん言及されていない。野党を含めてそうした問題と各党の政策の違いがどう結びついて問題を解決しようとしているのかはさっぱり明確ではない。
 もちろん最初からどの党に入れるか決めている有権者も多いだろう。商品市場と同様「この会社は大企業なので信用ができるから」「私はずっとこの会社の商品を買ってきたから」「知り合いや周囲の人たちがみなこの会社の商品を買ってるから」といった理由で特定の政党に決めているのだと思われる。つまりもっともしがらみに左右される「非主体的」な人々である。こう言う人たちは憲法を巡る諸問題や社会の矛盾の実状など真剣に考えたことはないのだろう。
 しかしこうした「しがらみ」にとらわれない有権者(その多くは都会で働く労働者)は投票でこれらの「政党商品」の中から自分の「好み」の商品(政党)を選ばされることになる。そして市場の論理が基調であるこの社会では、会社に当たる政党はいかに商品を購買させるかという戦略を立てて、「虚偽」の法律違反すれすれの「合法的だまし」のテクニックを用いるのである。本当は「保守の集まり」なのにまるでその党に入れれば「革命」でも起きるかのごときフレーズも用いられる。
  それにはまず短いキャッチフレーズで「顧客」の注意を引き、同時に写真やポスターでのイメージ戦略という「印象操作」を行う。企業の市場戦略で用いる顧客の心理操作である。どの「商品広告」を見ても、すぐにゆたかで明るい社会が実現できそうなイメージや雰囲気をアピールしている。だから「購買者」たる有権者は迷わされてしまう。
 だがこの心理操作に騙されてはいけない。いまの市場原理に基づく社会の基本は「騙しのテクニック」であり、はっきり言って、中身の貧弱な商品を如何に実際の価値より高く見せるか、なのである。多くの場合、商品を買ってしまったあとは、その中身に失望してもそれは購買者の責任として片付けられてしまう。選挙戦もこの例外ではない。そしてかのヒトラーもこうした心理作戦を駆使して合法的選挙で政権を取り、独裁体制を確立させた。
 だからこういう状況では「主体的棄権」というのも一つの意思表示になると思う。投票率が低ければその中でいくら第一党になっても「国民の過半数の支持を得た」とは言えないからである。
 しかしこれではあまりに消極的だと考えるのであれば、たとえ少数派であっても取りあえずこれらの「政党商品」の中で一番自分の考えに近い主張をしていそうな党を選ぶ。そして選挙でその政党から幾人かの候補が当選すれば、その政党を下から突き動かして内部議論の場を生み出していき、そこでの議論の過程や結果を公表しながら支持者を徐々に拡げて行く。そしてむしろ政党による上からの政策実行ではなく、政党を窓口とした下からの結束を社会的に拡げて行くことで大きな力を生み出して行くというやり方だ。
 これには働く人たちの企業のカベを越えた横のつながりとそれらを一つの大きな力に組織して行く仕組みが必要で、こうした組織を通じて現状の「連合」などに見られる様な労働組合の腐敗に対抗して行けるようにすることが必要であろう。それによって初めて今日の社会の仕組みが基本的に持つ矛盾を明らかにすることができるのではないだろうか?
 今度の選挙もこうした展望への糸口になるのであれば、そこに一筋の光が見えてくるかもしれない。
 

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2017年10月12日 (木)

西会津の「お天気お母さん」という生き方

 今日NHKアーカイブで放映していた「お天気お母さん」と呼ばれている西会津で農業を営む鈴木二三子さんという人物の一年間の記録が紹介されていた。この人は、子どもの時豪雨のために先祖代々引き継いできた田んぼをことごとく流されてしまった経験から、人間には制御不能のとてつもなく大きな自然界の法則性を察知して農業をまもるためにその変化に備えなければならないと実感した。そして高校を卒業した後も、クラスの仲間の多くが都会に就職していった後も農業を続ける決意をした。

 それからは、稲作方法に関する文献や肥料の科学的解説などの学術文献を親に購入してもらい、さらに自分自身も毎日の農作業での周囲の環境や天気についてつぶさな観察と記録をとり続け、膨大な資料をもとにその年の夏から秋にかけての天気を予想するようになった。その熱意は半端ではない。おどろくべき観察力と世界中から情報を集めるパワーは並ではない。学者顔負けである。
 ところが最近になって、気候の変動が激しくなり、その予想の振れ幅を超える変動が起きることが多くなった。しかし彼女はそれがなぜ起きるのか、あくまで資料を駆使してそのメカニズムを察知しようとし、またその激変への備えをどうすればよいかを冷静に考えた。
 鈴木さんはこうした農作業の中で化学肥料や殺虫剤は確かに有効だし、日本の農業はそれによって大きく進歩したと思うが、ただ収穫量を増やすことに終始していては結局長い目で見れば自然界のバランスを破壊し、農作物が取れなくなる可能性があることを悟った。そしてあくまで自然農法で稲作や野菜の栽培を行った。
  しかしそのため収穫量は半減し、苦労することが多かった。そしてそういう農業の実情を子供達にも理解してもらい、それなりに農業を続けていってもらうために子供達を農作業につれて出る。そしてある作業を子どもに任せたら、自分は余計な口出しはせず、たとえ失敗しても自分でその原因を知り、どうすれば良くなるかを考えられるようになってほしいと考えている。
 こうした実績をあげる彼女の評判は新潟や秋田など他県にも知れ渡ることになり、最近では各地に講演に出向いているそうだ。しかし彼女は少しも偉そうな態度をせず、あくまでもフツーの農家のお母さんなのである。
 この全くの「アマチュア科学者」であり、しかもそれが趣味などという半端なものではなく農業の実践に役立つ知識を自ら開拓していくという姿勢に、私は大きな感動を覚えた。
 こうしてごく普通の人々が自力で問題を解決し、それを他人とも共有していくという姿勢はこの社会の未来に一筋の光を感じさせる。
  誕生から教育、就労、結婚、子育て、老後の生活、そして死まで人生のすべてのシーンを「ビジネスチャンス」の対象として位置づけられ、一方で労働力を売り渡すことで資本の目的ために自分の能力を捧げ、他方で日々の生活ではそうした「疎外労働」から生み出され資本に利益をもたらすために作られた商品の「消費者」となり、労働賃金のほとんどすべてをその購入によって再び資本に環流し、そのようにして人生のすべてを資本に捧げ尽くすことが人間の幸せなのだろうか?
 はなやかに見える都会でサラリーマンとして暮らす労働者たちはこの過疎の農村で暮らす鈴木さんの生き方に学ぶことが多いのではないだろうか?

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2017年10月10日 (火)

マルクス経済学はノーベル経済学賞の対象から外されている

 毎年ノーベル賞の時期になると日本人が受賞するのではないかと期待が高まり、マスコミはそれに身構えている。今年は文学賞に日系イギリス人のカズオ・イシグロ氏が受賞したために、「日系」というだけで大々的に取り上げられた。いつも下馬評に上がる村上春樹氏は今年もダメだったので、出版社は大きく計画がずっこけて、慌てて村上氏の本を引っ込めてイシグロ氏の本を大増刷し始めた。出版業界とはこういうものなのだ。

 ところで、経済学賞にはアメリカの経済学者リチャード・セイラー氏が受賞した。心理学を応用した「行動経済学」という分野を築いた功績だそうだ。彼は受賞の記者会見で「「研究でもっとも重要なのは経済の主体は人間で、経済モデルはそれを組み込まねばならないという認識だ」と述べている。つまり、これまでの経済学は人間を主体として考えていなかったということである。そう、それが資本主義経済の本質だからである。
  資本主義経済学は、人間の存在や人間の社会的労働の意義を、資本の増殖や蓄積を基調とした「経済成長」の手段として位置づけそれを「社会全体の成長」と同意義に捉えているために、その理論がいくら人道的、自由主義的思想という外被をかぶっていても本質的に人間主体ではないのである。そして心理学的手法で経済学に貢献するということは、経済的効果におよぼす人間の心理を読み解き、それを経済モデル構築のために役立つ形で利用しようということであろう。
 実はマルクス経済学はこうした資本主義的経済学とは本質的に異なる立場であって、人間が人間本来の生き方や社会的役割を自らの主体的意志決定によって決めて行ける社会を生み出すために、経済学的理論をその手段として用いているのであって、それは深い哲学的人間観に基づいており、資本という存在が人間の労働が生み出した富を基体としながら人間のあり方や社会的役割までをも支配する存在となっている資本主義社会の仕組みを徹底的に批判したのである。
 そしていまのノーベル賞という「権威」を与える立場にある審査委員会は、こうしたマルクス経済学を「非科学的なイデオロギーに基づく偏った理論」あるいは「すでに死んでしまった過去の遺物」としか考えていないために最初からマルクス経済学者を受賞の対象から外しているのである。
 一方で、物理学や生物、医学、化学などの分野は、まさに唯物論の世界そのものであって、疑う余地もない自然界の法則性はまさにマルクスの思想とまったく同じ基礎の上に立っているといえる。これを「偏ったイデオロギー」などという人はおそらくいないだろう。マルクスは実はこれと同じ土壌の上に、経済学の理論を打ち立てようとしたのである。
 残念ながらいまではマルクスの理論は世の中の片隅でしか生きられないが、やがて必ずこの理論が再び世界を、そして歴史を動かす時が来るに違いないと思う。
 しかしそのためには、資本主義の現状分析だけではなく、いま「社会主義」といわれている旧ソ連や、今の中国、そして北朝鮮などの国々で行われている政治や経済政策などがいかに本来のマルクスがめざした世界と異なるあるいはその正反対の形になってしまっているのかを徹底的に暴き出し、批判を加えて行ける立場を持てなければならないだろう。そういう視点こそ「社会主義理論研究」といえるのではないだろうか?

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2017年10月 8日 (日)

社会主義理論学会第75回研究会「ロシア革命100年」に参加して

(修正版)

本日(8日)慶応大学三田キャンパスで開催された表記学会の研究会を聞きに行ってきた。最初の講師は、ジョレス/ロイ・メドベージェフ著「ロシア革命一世紀を生きぬく視覚」の訳者である佐々木洋氏で「ウラジミール・レーニンからウラジミール・プーチンまでー異論派R&Zh・メドベージェフ兄弟のロシア革命百年観ー」という演題、2番目は最近、佐藤優との対談で有名らしい山崎耕一郎氏の「ソ連崩壊をどう総括するか」であった。

 参加者は59人だったそうで、主催者は「新記録」といっていた。この学会について私は詳細を知らないが、社会主義協会派の人たちが中心かと推測しそう書いたが、これは私の勘違いであった様だ。この学会は特定の派閥に属するものではなく、広く一般の人たちに門戸が開かれた学会だそうである。このブログを読んだ学会メンバーの一人から注意を受けたのでここに訂正しておく。
 佐々木氏の話はソ連内部でスターリンを批判しようとしたメドベージェフ兄弟についての話と、かつてはスターリン崇拝者だったがその後ユーゴ共産党の「反スターリン派」指導部になったミロヴァン・ジラス(この人物はいまのユーロ・コミュニズムの源流の一つらしい)などの話が中心で、要するにレーニンの10月革命が当時置かれていた状況とそれによるロシア革命の勝利がもたらした内部矛盾、そしてその後のスターリンの独裁体制の成立と内実などについてのドキュメント風の話だった。私にはあまりなじみのない人物の話が出てきたり、あの数学者B.ラッセルが革命直後のソ連に行ってレーニンらと直接話をしてきたという話などはおもしろかった。
  要は、ロシア革命の姿を「社会主義の実現」というステレオタイプ的視点ではなく、当時のありのままの形でリアルに描き出そうというものであったが、問題はそのロシア革命がなぜスターリン主義へと変質し、戦後の資本主義社会に対抗できなくなり、崩壊したのかという本質的な問題にはほとんど触れられていなかったことだ。
 そこで次の山崎氏による「ロシア革命の崩壊をどう総括するか」に期待をかけた。ところが、その内容はまったくもって期待外れであって、無内容なものであった。山崎氏によればマルクスの理論には「計画経済」という概念はなかったが、革命直後経済政策をどうすれば分からない状況で「5カ年計画」などでいろいろな実験をやってときに成功した時期もあったが結局失敗し、「停滞の時代」を経て行き詰まり崩壊した、と指摘し、その中で、「停滞の時代」の総括が必要だとした。しかし、その「総括」の内容は、重工業などは計画的経済ではうまくいったが、生活消費財の「できばえ」がまずく、西側のそれに完全に負けていた、そして労働者の創意工夫をくみ上げることができる指導部がいなかったことが「負けた」原因だとしている。
 しかし、第2次大戦前後の時期、「社会主義経済」の前に崩壊寸前だった資本主義が、「ケインズ型資本主義」を取り入れ、戦後いわば「資本主義的計画経済」に転向しその中で中央銀行からの貨幣発行量や市中銀行金利をコントロールすることでいわゆる「クリーピング・インフレ」政策を取ることで労働賃金を徐々に高め、労働者の生活消費財の生産と消費の回転を速めることで過剰資本を処理しつつ、労働者の階級意識を鈍らせて行くことに成功したという事実が触れられなかった。 このことが結局スターリン型「社会主義経済」を追い詰めていったのであり、ソ連崩壊にまでつながったということはきわめて重要な事実である。
  そしてその後、この「ケインズ型」も行き詰まり、「新自由主義」が登場するがそれがソ連崩壊とともに「グローバル資本」として世界経済を支配する形となり、その矛盾が移民問題や自国第一主義の台頭などという形でいまや爆発寸前に達しているにも拘わらずスターリン批判から社民主義へと「リベラル化」したユーロ・コミュニズムの流れはそれに対して何ら有効な手を打ち出せないでいる、という事実、この認識とそれへの深い分析がなければ、資本主義崩壊後の社会主義経済の創出再生などあり得ないとさえいえるだろう。
 こうした重要な問題に全く触れず、山崎氏は何と「スターリンはいまでもロシアでもっとも人気がある人物で、実は少数民族問題などでは優れた宥和政策を取り、以外とやさしい面もあった」などと言い出すに及んで、私は唖然として開いた口がふさがらなかった。しかも「資本論を読まなくても革命はできる、レーニンもスターリンもおそらく資本論をちゃんとは読んでなかった」と言い切った。レーニンやトロツキーがその革命論や帝国主義論などの中で行っている喫緊の問題への取り組みが何であり、その中で彼らが何に苦しみ、何が解決されずに残された問題であったのか、などもっとも重要な問題に何一つ触れずに「総括」などとよくも大見得を切って言えたものだ!
 いったい山崎氏は「社会主義理論」というものをどう考えているのだろう?当然そんな講演者に対してスターリンの民族問題での非情な政策の事実の指摘など反論も出たが、一部を除いて多くが感情的な「反論」であって的外れで冷静さを欠いていた。中に、ある女性が、「資本論はよく分からないけど、社会主義にもいいところがあるし、資本主義にもいいところがあるのだから、両方の良いところを持ってくればいいんじゃないですか?」となどと言っていた。
 私は帰り道、なんとも悲しい気持ちになった。
 なお、いうまでもなく、佐々木氏と山崎氏の発表は「学会」としての公式見解ではなく、あくまで個人としての主張であったことも付記しておく

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