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2017年12月24日 - 2017年12月30日

2017年12月25日 (月)

自由主義という名の独裁体制

 前のブログで書いたオランダのヘルト・ウィルダース率いる「自由党」は党首だけが公認党員であって他は彼の取り巻きに過ぎないようだ。党の中で決めごとがあるときも党首と異なる異見をぶつけても「そんなことはあまり意味がないだろう」と一蹴され無視される。こうして「効率よく」党の方針や政策が決まる。

 彼は「自由」を主張し、EUでは各国の自由が認められないと攻撃する。彼のいう「自由」は異なる意見とのディスカッションの自由ではなく自分の主張を押し通す「自由」なのだろう。その方が黒白がはっきりするし。分かりやすいからだ。
 この風潮はいまのトランプ大統領や安倍首相にもある面で共通しているように思われる。かつて民主党政権は「決められない政権」と言われ、政権の座を降りた。それに代わって登場した安部政権は「決めることができる政権」を看板とする。そして「決めるためには、余計なディスカッションは不要である」と言わんばかりの議会運営である。トランプもしかり。異見を唱える側近はすぐ「クビ」になる。
 この風潮はグローバル資本時代にカリスマ的資本家経営者や投資家が腕を振るうようになったことの影響かもしれない。資本主義社会は「自由主義」を看板とするが、実はこの「自由」は競争に勝つために資本主義的法則(いわゆる市場の法則)にのっとって決断し実行する「自由」であり、それには独裁的経営者が必要なのである。ガタガタいう役員と論争を起こして決断できない経営者はたちまち競争に負けてしまうからだ。そしてこのことが経営陣内部での「忖度」を生み出す。「空気を読め!」という暗黙の了解だ。
 いまの政治もこれとほとんど同じになっている。そこには本当に何が正しいのか長い時間を掛けてでも自由なディスカッションをして物事を決めるという風土はなくなってしまっている。効率重視という名目で異見は抹殺される。トップダウン志向である。
  そういう意味でもはや本来の自由は死んだ。残るは形だけの「自由」である。それは毒にも薬にもならない「自由な意見」であり、人に害を与えないなら何をしてもいい、という程度の「自由」である。今日は平和に見えても明日は何が起きるか分からない。しかし成り行きは「お上」に任せるしかない、というわけだ。だからこの潜在的不安の中で若者達はスマホの中のバーチャルな世界に「自由」を求めるしかなくなっている。
 こうして一見平穏で平和に見える社会だが、その底では当然のことながら矛盾が鬱積し、不満といらだちが渦巻き始める。そしてテロや無差別殺人事件などが起きる。こうした政情で別のカリスマが登場し、この潜在的不安や不満をくみ上げるような主張をすればたちまちこの人物が新カリスマとなっていく。現状ではそれを繰り返していくのではないだろうか?
 われわれはそんな「いやな時代」に生きているのだ。

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「ポピュリズム」と「リベラリズム」という対立の基礎にあるもの

 今朝のNHK-BS1で放映していた大越キャスターのオランダ・レポートは面白かった。

 オランダでは最近ヘルト・ウィルダース党首率いる「自由党」が移民排斥を主張して支持を集めている一方でそれに真っ向から反対し、人種・性差別反対などを主張する「緑の党」がやはり支持を集めている。これは移民問題をきっかけに「自国第一」を掲げて台頭しつつある右派ポピュリズムと旧来から「寛容」を自任する「左派」リベラルグループの対決という形をとっているように見える。
  同様な動きはオーストリアでも見られ、アメリカでは先の大統領選で「トランプ対サンダース」として話題を呼んだ、そしていまその延長上で世の中は分断されつつあるかのようだ。
 しかし、興味あることはいわゆる「右派」ポピュリズムを支持するのは低学歴の労働者層が多く、「左派」リベラルを支持するのは高学歴労働者やインテリを中心とした「中間層」が多いことだ。
 右派は資本家や金持ちを中心とした支配層で、左派は労働者や小市民を中心とした層が支持しているという古い図式はすでに崩壊しているようだ。
 大越キャスターのゲストとして登場した千葉大の水島教授は「ポピュリズムは現代社会の中で起きつつある問題を警告するアラートだ」と述べていたが、私はこの「ポピュリズム」対「リベラリズム」という形で現れている「対立」は底辺では同じ問題を抱えており、その表現の仕方が異なっているに過ぎないのではないかと思った。
 その大きな要因のひとつは20世紀末に起きた「社会主義圏」の崩壊と「社会主義」思想への失望、そしてそこから始まった資本主義体制の世界支配(グローバル化)であろう。「旧社会主義圏」で生き残った中国は鄧小平以後、経済的にはほぼ完全に資本主義化され、そこで発生した民主化への動きを封じ、逆に強力な一党独裁体制の元で効率よく急速に「経済成長」(つまり資本主義化)されていった。そしていまアメリカや日本を脅かしつつある資本主義大国となった。
 こうした中で世界経済を支配する資本家や投資家達が世界中を資本主義市場の競争激化の渦中に引き込み、安い労働力を求めてグローバル資本が国境を越えて労働者が生み出す莫大な富を奪い合うようになっていった。その一方で各国の労働者は国境の中に閉じ込められ、「生活水準の差」(これが何を意味するのかは重要な問題なのだが)による労働賃金格差を利用したその国の支配層による政治的・組織的搾取がその国の「経済成長」と「富」をもたらし、その国の内部では「格差」がどんどん増大して行ったのだと思う。
 この状況で石油産出国とそうでない国との間の確執や宗教的対立を内包しながら、経済的にも文化的にも資本主義の圧倒的な支配を受けているイスラムの人々の一部が西欧の資本主義体制に対抗してテロやイスラム主義の主張を掲げて対抗しようとしたがかえって内部矛盾が激化させてしまい、それを逆に利用しようとする欧米やロシアなどの資本主義大国の介入により悲惨な内戦状態にもつれ込んでしまった。
 そこからヨーロッパへの大量移民が始まった。それは移民を受け入れる側のヨーロッパ諸国の人々にそれまで社会の底辺を支えるために寛容に外国人労働者を受け入れてきた労働者層の人々が自分たちの職を奪い、自分たち独自のコミュニティーや文化を侵食されるという危機感を生んだ。それが排外主義的ポピュリズムの「分かりやすい」しかし中身のない思想に共鳴して大きな社会現象になっているのだと思う。
 一方で「リベラル派」は、これに対抗して人種差別や性差別反対を掲げるが、彼らの多くは実際に社会の現実を直視し体験したことがなく、「社会はこうあるべきだ」といういわば「抽象的正義」を掲げているのである。それはそれで正しいかもしれないが、現実に職を奪われ食うに困る羽目になっている人々にはそんなことは二の次で良い問題だろう。
 問題はなぜヨーロッパの下層労働者達が、本来そこで生きるべき場所を奪われたイスラム圏の下層労働者を「敵」として排斥しなければならなくなっているのかである。グローバルに資本という形の富がどんどん蓄積しているのに、それによって国による経済的格差やそこに住む人々の「生活水準の差」がなぜ大きくなるのか。
  西欧やアメリカ、日本などではグローバル資本の「おこぼれ」で潤う労働者階級上層部が「中間層」を形成しているが、実はそうした人々は「開発途上国」の低賃金労働者や貧しい農民達の労働の搾取から得られたグローバル資本企業の莫大な富の恩恵を間接的に受けているのである。中間層からは一方で新興資本家や投資家になり富裕層になっていく人もいるが、他方では現役時代に過酷な労働に耐え、資本家に莫大な利益を得させてやったにも拘わらず退職後、年金生活としてさみしい独居生活を送る老人や、その子孫の世代では子育てもままならず結婚も出来ない若者達が多数出ている。
 もしそこに外国から貧しい人々が大量に入ってきたらそうした人々は一斉に反発するだろう。本来ならともにグローバル資本の「被搾取階級」として国境を越えて共通の立場にあるはずの人たちと対立しなければならなくなるという悲劇。「ポピュリスト」も「リベラリスト」も問題をこうした事実から把握し直さなければ根本的解決は見いだし得ないだろう。
 

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