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2018年1月17日 (水)

社会主義理論学会第76回研究会に参加して(その4)修正版

(前回から続く)

 国分氏の主張は、要するにポスト・スターリン主義社会でも国家や市場経済は存続し、資本主義経済体制での株式会社制を労働者の持ち株会社として転換し、そこに共同占有社会(富の個人分有と生産手段の占有)という形を実現して行くというものであろう。どこかで見たことのある主張であるが、これはどう見ても社会主義社会などではなく資本主義の「改良版」である。国分氏の主張の一番の問題点は、スターリン主義体制へのどのような批判に基づきこうした主張が出てくるのかであろう。
 レーニンは確かにマルクスの考え方を継承して、それを眼前のロシアの状況を踏まえてそれに適応させるべく党綱領の草案を考えたであろうが、だからといってそれがスターリン主義の源流となったと単純に言うことは出来ないはずだ。
  前述したようにレーニンがあくまで過渡期社会への対応措置として実行しようとしたプロ独や生産手段の国家所有といった政策をスターリンは絶対化し、プロ独を一党独裁体制へと変貌させ、それに基づく一国社会主義建設を至上命令としてしまったことが本来の社会主義への道を閉ざさせることになったのだと思う。
  むしろ本来の意味でのプロレタリアート独裁を徹底させていくことにより、それを生産手段の社会的共同所有の形態にまで高めて行くことができれば、社会主義社会はかつてのスターリン主義的「社会主義国」とはまったく異なる姿になり得たのではないだろうか?
  前衛党はプロレタリアートを指導する立場にありながら、同時に彼らが直面する現実的諸問題からさまざまなことを学ばねばならないし、プロレタリアートが完全に支配階級となることができ、階級社会が終わりを告げたときには「党」も消滅することになるはずだ。
  そこには社会的共同体の生産と消費を管理しそれを運営する労働者の組織が必要であるが、それは労働者自身の主体的判断で運営され、だれかの指令やノルマに従うものではない。
 それと同時にこうした社会共同体は、ある地域全体を一つの単位とした生産管理と行政が一体化した組織が共同生産体制を形成することになると考えられるが、それらの地域社会共同体はさらにそれらの複数連合体を作らざるを得ないだろう。それぞれの地域の条件や特徴があるからだ。当然それらの地域共同体間での物流や情報網などのインフラ網は必須であるがそれはもはや資本の商品流通やその手段としてではない。
  これら非階級社会の連合体はグローバルに結びつきどこに「国境」があるのかも定かではないだろうし、それを「非政治的国家」と呼ぶが呼ばないかはあまり問題ではなく、むしろそれがブルジョア国家とどう違うのかが問題であろう。
  ブルジョア国家はそれを実質的に支配する資本家階級の私的所有権と利権を護るための「共同体」であり、そこでは労働者も資本家もともにその国家を維持し、護るための法律があり、その下で「合法的に」労働の搾取が行われている。そして何よりも「自由競争による市場」を前提としたブルジョア国家どうしの際限のない利益獲得競争が必然となり、互いに自分の利害を護りながら競争に打ち勝つために「政治的戦略」やそれをバックアップする「暴力装置」を必要とすることが特徴である。
 現在の「グローバル資本家」達はしかし自分たちの国境を越えて全世界で資本を流通させ回転させねばならなくなっているので、つねに、一方で「経済的互恵関係」を主張しながら他方で同時に軍事力の増強を必要とし、それによる国境や領海の管理に怠りない。こうしたブルジョア国家のもとに置かれた労働者階級はその上部構造である支配的イデオロギーに染め上げられて「愛国心」を高揚させられ、一朝事あれば、支配階級のために戦争に駆り出され命を捧げさせられる。スターリン的一国社会主義はこうしたブルジョア国家と区別がつかない国家として大量の労働者・農民達をこうした国家間の戦争に送り出したのである。
 これは資本主義社会の経済がグローバルに発展すればするほど激しくなる対立で、ブルジョア国家とはこうして一つの国家において経済的国家と政治的国家が矛盾的同一性を保っていると考えられる。経済的には一国では成り立たず、しかし国家間の競争と利益争奪戦は避けられないという矛盾だ。
  プロレタリアートが主役となった社会共同体ではこのような矛盾は当然なくなっているはずだ。戦争をこの地球上からなくすためには世界中の労働者階級が、すでに形成されつつあるグローバルに結びついた経済的基盤の上でこうした共同社会連合を目指して手を結ぶことができるようになることを目指すのはいわば歴史の必然といえるだろう。そしていまそれを意識的に進めるための国際組織が絶対に必要であろう(スターリン体制はそれを放棄してしまった)。
 国分氏が「一国一工場」制という場合の「一国」はこうした労働者の共同体内が生産体制としてあたかも一つの生命体のように有機的に結合され、それぞれの労働者の主体的判断の下で運営される状況を指すのであれば理解できる。しかしそれはスターリン体制では実現され得なかったし、資本主義社会の株式会社制でも当然実現できるはずがない。
  株式会社の従業員全員が株主となってその会社を運営したとしても、市場経済が存続し、相変わらず労働者と資本家の関係は存続するであろうし、賃労働という形の労働力の商品化はなくならないであろう。それは相変わらず私的所有にもとづく商品経済社会であって、社会的富を私的に占有しようとする欲望がつねに社会を支配し、それに成功した者が支配階級となる社会は存続するだろう。
 そういう意味でこの国分氏の主張は私にはまったく評価できない。
 最後に、この「社会主義理論学会」への参加者を見るとほとんどが(私を含めて)中高年の人々であった。若い人はほとんどいなかった。そのこと自体、つまりこうした学会での研究がいまの若い学生や労働者にとってリアリティーがあるものなのか、そこが大きな問題であると感じた。
 以上
 

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コメント

学会での研究はまったくリアリティが感じられません。
本多静六さんの著書の方がしっくりときます。

マルクスだレーニンだと語るのではなく、現在の生活の延長として考えないといけないと思います。

学費、食費、住居費、衣服費、教育費、老後の資金、人生100年時代の所得の稼ぎ方など。

それらを網羅しつつ、いかに将来の夢や希望を語れるのか。そこが欠けているなら学者は象牙の塔に閉じこもっているだけに感じられます。

投稿: 迷える子羊 | 2018年1月17日 (水) 12時12分

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