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2018年3月

2018年3月31日 (土)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(5)

 なぜ私が過剰資本の不生産的処理の問題にこだわるのかについて若干記しておこうと思う。

 資本主義社会はその本質上、生産手段を所有する資本家が、労働力をその再生産に必要な生活資料の価値で買い取り、それに必要な価値生産時間を超えた時間労働させることによって不払い労働分としての剰余価値を取得しながら社会的に必要な生産物を商品資本として生産するという形ではあるが、歴史上一定の時期までは資本の利潤と蓄積を追求する競争の中で、急速に生産力を向上させてきた。

  しかしその蓄積される資本と高度化した生産力によって資本が過剰化し、それによって生じる矛盾が様々な形で現れる様になり、新たな資本の投入によっても予期された利潤を生まなくなった。しかし資本主義体制ではその過剰化した資本を本来あるべき形である社会共有財に転化することは原理的に不可能であり、生産的消費(生産手段の補填増強や労働力の増員などによる社会的富の増大のための消費)に追加資本を回すことでは過剰化した資本を処理できなくなったと考えられる。
  そのため、それをこうした生産的消費に直接結びつかない形で処理する様になっていったと考えられる。それが例えば軍需生産物の増産、無駄と言える様な過剰な消費材の際限ない増産、そして第三次産業的な部門への莫大な投資などによって資本を何とか過剰化させないで凌いでいるのが現在の資本主義体制であると思う。これはまさに爛熟期を過ぎ「腐朽化した資本主義社会」であると言えるだろう。
 そしてこの歴史的に特殊な「腐朽化した資本主義体制」に相応しい形態での社会的分業化が進行していると考えられる。
  いわゆる情報技術の進展によってすでに進んでいた頭脳労働と単純労働に大きく別れる分業化は頭脳労働のさらなる分化とヒエラルキー化が進み、資本家も「人格化した資本」としての機能がそれに相応しく分業化され、資本運用の意思決定権を持つCEOを中心にそれを補佐する経営陣という形に分業化し、時にはそれらが「分社化」して独立した資本家が担当している。そして今ではその上に全ての運営資金を支配する金融資本家が銀行や持株会社などを通じて君臨しており、事実上資本家の本質的役割であるマネーのやりくりによる資本の増殖に携わっている。
 資本家の仕事を含めてこれら全てが「社会に必要な労働」という形をとって忙しく動き回り、日々資本の蓄積・増殖に寄与している。この資本の蓄積と増殖がこの社会では「経済成長」と呼ばれ、これが「成長」すれば、労働者もその分前を少しばかり多めに頂けると考えられている(アベノミクスがその典型例)。こうして「コンピュータ社会」、「情報化社会」、「ユビキタス・ネットワーク社会」、そして「IoT」などなど次々と打ち出されるキャッチフレーズのもとで、新興資本家たちは旧資本家の硬直化した体制を更新すべく快活に明るく振る舞い、彼らによって推進される「イノベーション」によって不要化され、次々と「下流」に落ちて行く技術労働者たちは孤独で先のない状態に置かれることになる。
 いま蓄積する社会的富(いまは資本として)がわずかな人々(独占資本家)の手に握られ多くの人々(労働者)が貧困化して行くという現実を見て、ただ富の偏在や格差拡大を批判して格差縮小や富の再分配を主張するだけではダメで、こうした社会全体の分業形態、労働形態、そしてそれらによって回転する生産と消費のメカニズム全てを変革して行くことなしには本当の改革はありえないと思う。
  それは社会全体の在り方の変革であり、同時に人間(諸個人)の実存そのものの変革でなければならないと思うのだ。
 こうした次世代社会への長期的展望を見据えた現実批判の基礎に、本来生産的であるべき社会的富の蓄積が過剰資本として生産を圧迫しそれを不生産的方法で処理しなければならないという矛盾への認識が必要であると私は感じている。
 人は共同体社会における「(現在の)生きた労働」において、自分がどの様な存在であるのかを表現し、その労働の結果を「(過去の)死んだ労働」として対象化しつつ、その蓄積を「未来の社会」への寄与となしうる、そんな社会を私は望む。
 社会的総生産物の再生産という問題は、生産物に含まれる価値形態をcは対象化された労働の形態つまり過去の労働の成果であり、vは現在の生きた労働であり、mは未来のためのその蓄積であると考えれば、人は過去の労働の成果(生産手段)を用いながら現在の生きた労働を行うことで社会全体を維持させ、mとして蓄積されるその成果を以って社会を未来に向けて発展させて行く。そのために必要な社会的労働と生産手段の配分に必要な条件だといるのではないだろうか?
 

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2018年3月25日 (日)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(4)修正版

 前回に書いた様に、新たな資料を得て、これをもとに考察を重ねた結果、今のところ、次のような結論に達した。

 資本の蓄積が順調に行われるためには、社会的総生産物において、I(v+m)=IIcという単純再生産の条件(ここで Iは生産手段生産部門、IIは生活消費材生産部門、cは不変資本部分、vは可変資本部分、mは剰余価値部分を指す)を充たす価値関係がまず必要であり、その上でI(v+m)>IIcを行う必要があるが、その場合、資本家の収入部分である mの一部から、新たな追加資本が過程に投入されねばならないが、その追加される資本においても I(v'+m')=IIc'という均衡関係が維持されなければならない。(ここでc', v', m' は追加資本のc, v, m部分を指す)
 もしこの関係が維持されていれば蓄積は過剰資本を生ぜずに行われるが、この追加資本分の関係が I(v'+m')>IIc'となってしまう場合はそこに過剰な資本が生じることになり、 I(v'+m')<IIc'の場合は縮小再生産となってしまう。(アンダーラインは修正部分)
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(以下は全面書き直し部分)
 この過剰資本状態が生じるのは生活消費財生産部門で必要な生産手段の需要を超えて、生産手段が生み出される状態であり、逆に縮小再生産となるのは生活資料生産部門で必要な生産手段の生産がその需要を満たしえなくなった状態であると考えられる。
 縮小再生産状態は今の場合考察の対象外なのでここではのぞくことにする。
上記の様な過剰資本状態は、いずれ過剰資本を蓄積させ、これが拡大再生産を阻害して資本家にとっての収入部分を減らすことになる。
 そこで個々の資本家は様々な方法でその過剰資本を処理することによって、自分達の収入部分を減らさずに増加させようとするであろう。しかし、彼等の行為は常に「市場の法則」の中で行われねばならず、社会的総生産において上記の均衡が計画的に維持されて拡大再生産を行う事は出来ない。そこで「市場の法則」の中で、結果的に過剰資本の処理が可能となった方法を資本家階級全体が推し進めることになる。それを大きく二つのケースで考えれば、次の様な二つが考えられる。
(A)戦争で用いる武器や戦争関連製品の生産を増加させ、これによって生産手段生産部門での過剰資本を不生産的に処理する(武器は破壊のための道具であり再生産には決して結びつかない)。
(B)過剰に生活消費材の生産を促し、それによって生産手段生産部門での過剰資本を不生産的に処理する。
 差し当たりこの(B)のケースがここでの問題であるがその場合なぜこれが「不生産的処理」なのかである。
ここでは直接的には労働賃金の上昇が行われ、それによって労働者が生活消費材の購入に支払う貨幣を増やすが、それは一方で労働者の生活資料を増やし、「豊かな生活」を演出させるが、同時にそこに支払われた貨幣は再び資本家の手に戻り、次の投資に向けられる。
 労働者が生活のために何を必要とするかが、社会全体の需要を形成するはずであるが、それがむしろ資本拡大のための手段とされてしまい、如何に人々の「消費への過剰な欲求」を掻き立てるかが、資本家階級社会の目的になっている。
 だから社会的生産の主人公であるはずの労働者階級が「消費者」として位置付けられ、それを促すために自ら所有する生産手段を利用している資本家階級が「生産者」として位置付けられてしまう。
 生活消費材は労働者階級自身が要求する本来の需要としての質や量としてではなく、資本家が過剰消費を促しそれによって過剰資本を処理するための手段として、つまり本来の生産的消費としてではない形で供給されることによって需要を超えた過剰な消費を歯止めの効かない状況で生み出していると言える。そしてそれが資本家階級全体にとっては過剰資本の不生産的処理となっており、実質的には過剰な資本が存在するにも関わらずこれを彼等にとっての利潤をもたらす手段としている。
 以上の様に捉えた上で、Sさんからの指摘をとらえ直すと次のように言えるのではないかと思う。
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(以下は修正の必要がないと思われたのでそのまま残した部分)
 前回でとらえ直したY.Sさんの指摘の(1)についてはすでに一応回答し直しているが、
(2)の労働賃金の高低差は労働力の養成費や労働力市場で決まる労働力商品の価格(人手が足りなければ賃金は高騰し、余れば下落する)であって、そこにvm部分を入れることなどあり得ないのでは?という指摘に関しては、その通りだと思う。私が「資本家の取得するmの一部をvに忍び込ませる」と言ったのは、追加資本分として資本家が用意するm'部分をそのような言い方で示したということであって、ここに述べられているような追加資本の持つべき「法則」を深く認識していなかったためであることを認める。(3)については労働者へのサービス産業はある意味で消費生活の社会化ではないか?という指摘に関しては、サービス産業は確かにそういう性格を持っているが、しかし現状ではそれが資本にとって過剰資本拡大への回避手段になってしまっており、そこに、過剰な消費を促すという本来の目的ではない動機が全面化していると思われる。
(4)ファミレス、居酒屋などはそこに資本が参加するのは労働者の需要があるからだ、という指摘に関しては、今の労働者階級がなぜそのような需要を生じさせているのかを考えれば、家庭内で食事を楽しむ時間もなく家族形態そのものが崩壊状態にあるためとも言えるのであって、そこに資本がつけ込んで新たな「儲け先」を見つけているわけで、それは決して肯定できるものではないと思う。
 さしあたり、私は以上のように把握しているが、これにも誤解や無理解があるかもしれないので、読者からの批判を受けたいと思う。
 
*付記:以上が前半部分に大幅な修正を行った結果。これに伴って「過剰資本の不生産的処理についての考察(1〜4)」も一部修正してあります。2018.03.29

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2018年3月22日 (木)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(3)修正版

 前回のY.Sさんからの指摘を読み直してみて、それに対する私の回答は必ずしもY.Sさんが指摘された問題への適切な対応ではなかったと反省している。Y.Sさんの指摘で重要と思われる要点を改めて列挙すれば以下の点ではないかと思われる。

(1)私が提起した「過剰資本の不生産的処理」の方法としての労働賃金への資本家の剰余価値の一部の追加(私はこれをvmとした)があるとすれば、資本家はそれに投資する際に利潤率が下がるにも拘わらずそのようなことをするのか?
(2)労働賃金の高低の差は、その労働力の養成費と労働力商品の市場価格として高低差(人手不足なら賃金が上がる)なのであって、それ以外の何物でもないのではないか?
(3)労働者へのサービス産業はある意味で消費生活の社会化なのではないか?
(4)ファミレス、居酒屋などに関してそこに資本が参入するのは労働者の需要がある以上否定できないのではないか?
 そしてY.Sさんの指摘には直接はなかったが、その指摘の背景にある疑問、つまり実際に資本家に利潤を生み出している以上、それを「不生産的処理」と言えるのか?という疑問があるように思われる。
 これらについてもう一度キチンとした答えが必要であると考えるが、いずれもかなり高度な問題であって、私の提起が基本的に誤りであるかどうかを含めてもう少し検討したいと思う。
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 そこでその前にまず、先日「資本論を読む会」でM.Mさんからもらった資料(越村信三郎著「図解資本論」の一部と大谷禎之介著「図解社会経済学」の一部 )を読み、そこに書かれてあるマルクスの拡大再生産論に関する指摘などを改めて読み直してみた。
 マルクスが資本の蓄積が始まり社会的総資本の拡大再生産が進むための必要条件について述べられており、それは生産力が高まり、資本構成(c/v)が高度化しても過剰資本を生み出さずに社会的に拡大再生産を進めるためには、I(v+v'+m')=II(c+c')という均衡が保たれなければならないということが指摘されている(ここでv'は蓄積された資本のうちからv部分に追加された部分でありm'は資本家の利潤に追加された部分、c'は生産手段に追加された部分である。)。つまり I(v+m)>IIcという拡大再生産の表式は I(v+v'+m')=II(c+c')が成り立たないと破綻なく進まないということであり、蓄積された資本のうち再生産に投じられる追加部分の各部門への価値構成は、単純再生産の条件である I(v'+m')=IIc'を充たさなければならないということであると私は理解した。
 もしこの均衡が崩れればそこには資本の過剰が生じ、恐慌というリスクが待ち構えていると考えて良いだろう。もちろん恐慌が何故起きるのか、に関しては単に過剰な生産物だけが原因ではなくもっと様々な要素が考えられなければならないのであるが、それについてはここでは触れないことにする。
 とりあえず、このようなマルクスの指摘については私の指摘の中では触れてこなかったし、それへの曖昧で即時的な認識が「vmのvへの追加」という言い方になっていたように思う。Y.S さんの指摘の(1)に関しては、この辺の私の認識の浅ささがあったように思う。
 要はこれが直ちに「過剰資本の不生産的処理」とは言えないということであって、
この追加資本がI(v'+m')=IIc'という関係を保ちながら社会的総資本がI(v+m)>IIcを実現しえなくなった時に過剰資本が生じ、それが資本主義体制全体を圧迫しその拡大を妨げるようになったときに、初めてこれを「不生産的に処理」する必要が出てきたということである。
 この辺は今少し深く考えてみないといけない問題なので、少し時間を頂きたいと思う。しかし
これに対する異論や反論がその前にあれば、 もちろん ウエルカムである。
(アンダーライン部分を修正)

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2018年3月19日 (月)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(2)

このY.Sさんからのメールへの野口からの返信です。

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Y.S さん
 ご指摘に対する私からの回答を以下の添付書類で送りました。
よろしくお願いします。
野口尚孝
(以下添付書類)
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Y.S 様
 私の「過剰資本の不生産的処理についての考察」へのコメントありがとうございました。
ご指摘の件ですが、まず問題になるのは「過剰資本」とは何か、ということですが、これを私は、資本家にとって追加資本を投資してもそれに見合う利潤が得られなくなった状態の資本を指すと考えています。蓄積される資本が利潤を生み出せなくなっていくことは、資本の回転がうまく行っていないということでもあるので、資本家は何とか回転を速めて利潤を取り戻そうとすると思います。放っておけば過剰資本は蓄積を無意味な存在と化し、やがて回転を止め「恐慌状態」となるからです。
 しかし現代の資本主義体制があの1930年代の大恐慌時代を経て、その後その生産力が高度化していくにも拘わらず、外見上この過剰状態を示さず、資本家に利潤を与え続けているのは何故か?という疑問が次の問題です。
 大内は「国家独占資本主義」の中でその疑問に対し、それが大量消費という状況を生み出し、そこで過剰資本を不生産的に消費させるシステムができあがってからだと言っているのですが、国家が中央銀行を媒介とした金融政策で貨幣を増刷し、流通貨幣量を増やすことで資本の回転を上げ、これを推進していることを指摘していますが、それ以上のことは言っていません。
 私はこの大内の把握は基本的には正しいと思っています。しかし、これをもう少し理論的に整理できないか考えていました。そこでとりあえず、マルクスの社会的総資本の再生産表式によって説明できるのではないかと考えたのが、前述のブログです。I(v+m)>IIc という拡大再生産表式が保たれなければ資本の蓄積は生産的に増加しないので(恐慌の場合はこれが保たれなくなる)、過剰生産状態であってもこの表式が成り立つ様な状態を維持しているのだと考えました。つまり過剰生産を過剰でなくするためにそれを不生産的に使わなければならない状態に陥っていると解釈しました。そうなるとI(v+m)>IIcにおいて生産的資本として用いられるcやv部分ではなくm 部分が増加するしかないと考えたのです。つまり資本家の利潤の一部として自分のために消費する部分を生産的資本として追加するためにはそれを不生産的に消費する分野に投じるしかないと考えました。
それがmの一部をvに忍び込ませて労働者階級の消費欲を掻き立ててII 部門の資本家による生活消費財商品の回転を速めることでそこに利潤を生み出し、それを生産手段部門の資本家にも分配することで全体としてI(v+m)>IIcを保たせる、のだろうと考えました。
 Y.S さんのご指摘のように、実際の労働賃金の高低の差は労働力の養成費の違いであるとともに、労働力市場での労働力の「価格」の違いでもあるのですが、いわゆる「最低賃金」という概念からすると労働者が生活を維持しながら資本家の求める労働力の再生産ができるための最低の水準がvに当たるのではないかと思います。それ以上の部分はむしろ本来資本家にとっては本来は無駄な出費であり、「不生産的要素」であると考えるでしょう。
 しかしそれが資本家にとって「無駄な出費」ではなく、間接的に利益をもたらすためには本来のm部分の一部をvに追加するという方法を考えたのだと思います。従ってまずこのとらえ方が基本的に間違っているかどうかが問題ですね。
 次に、ご指摘の「過剰生産が現代資本主義に恒常的に存在するものではないのでは?」という問題ですが、確かに投資すべき資本は中央銀行のオーバーローンで拡大し、資本家達はそれによって莫大な利益を獲得しているのですが、それが何に投資されているかが問題です。クルマや高額家電製品の生産に投資されてきた資本は確かに労働者階級の生活を一見豊にしてしてきたように見えますが、それは同時にそれらが生み出す廃棄物による環境汚染やエネルギー消費の爆発的増加による資源枯渇問題などを必然的に起こしてきました。これはいわばアンコントローラブルな社会的消費(私はこれを過剰な消費と呼んでいます)の拡大がもたらす必然的結果です。
「IT革命」にしてもこれがもたらすさまざまな社会的弊害の面をも見なければならないと思います。
 いまやそうしたアンコントローラブルな過剰消費が「先進資本主義国」では飽和状態になり、同時に地球的規模での環境問題・資源問題などが大きく立ちふさがってきたために資本は過剰資本を再び処理しきれなくなってきているのではないでしょうか?
 最後にサービス産業の拡大についてですが、企業のいわゆる「アウトソーシング」は私はサービス産業の拡大ではないと思います。それは現代資本主義に特有の分業形態の進展だと思いますし、それはもともと資本の生産性を高める目的で行われるものです。また医療、教育。保育、介護などはむしろ本来社会的に必須な労働分野であってそこには労働者自身が生み出した剰余価値部分が彼らのために当てられなければならないのだと思いますが、それを資本家階級が私的財産と化しているので、労働者が賃金の一部を税金として支払い、そこから政府がこうした事業に支出し、新たな資本家企業として成り立つ様支援しているのだと思います。結局この分野もあらたな労働の搾取を生み出しているのです。これは直接には生産的分野ではないにしても間接的には生産的労働を補助する部分といえるのではないでしょうか?
 ファミレス、や居酒屋などは、労働力のリフレッシュに必要な部門といえるでしょうが、これはあきらかに不生産的消費部門だと思います。たしかにこれらは一旦投資された後はサービス労働を搾取しながら利潤を確保しているわけですが、その投資は生産的資本に転化されるものではなく、いわば不生産的に消費されることによって生み出される利潤なのだと思います。
結局こうした形での過剰な資本の不生産的処理がなければ生産的資本そのものが成り立たなくなっているのが現代資本主義の特徴ではないでしょうか?
 以上、ご指摘の問題に対して私が考えていたことを繰り返すような形になってしまいましたが、その辺をどうお考えなのかについてまたさらに本質に突っ込んだご指摘を頂ければ幸いです。
 2018.03.19  野口尚孝
 

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「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(1)

 先日「過剰資本の不生産的処理についての考察」というブログを4回に渡って連載しましたが、これについてY.Sさんからコメントを頂きました。メールでの個人的やりとりだったので、より広く多くの人にこの問題をディスカッションしてい頂く機会とするため、Y.Sさんの了承を得て、それをこのブログに載せることにしました 以下、少し長くなりますがメールでのやりとりの再現です。

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野口さん
長野のY.Sです。
野口さんのブログについては少し前に(野口さんのMLへの投稿を見て)読んだの
ですが感想をまとめるのが遅くなってしまいようやく少しまとめてみました。
あくまで感想ですので誤解もあるかもしれませんし体系だったものではありませんが
何かの参考にしていただければと思いお送りします(添付しました)。
もし誤解や失礼がありましたらご指摘・ご容赦下さい。
(以下添付書類)
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野口尚孝さんのブログ<過剰資本の「不生産的処理」についての考察>について
                             2018.3.18 Y.S
 一言で言って過剰資本のはけ口を労働者の賃金にm部分を含ませて循環させそのことによって拡大再生産も可能にさせるというのはちょっと無理な発想ではないかと感じます。大内力の本も読んでいないので大内がどのような趣旨で言っていたのかも分からないのですが。。。
 ほとんど資本家層に近い超高給労働者については多少そのようなこと(奢侈品消費による不生産的消費、等)も言えるかもしれませんし、過剰生産の圧力を減らすというよりはむしろ文字通り「資本の手代」として飼い馴らすために餌を投げ与えるという意味ではそういうこともあると思いますが(連合系等の労組役員等の「労働貴族」)。。。
 それに、例え、「労働者の賃金にm部分を含ませる」ことにより残りのm部分の投資効率が上がるとしても、それ以前に投資できるm部分が減っているわけですから今期の利潤率は下がることになるわけです。将来の利潤率を上げるために現在の利潤率を下げるなどということを資本はわざわざするでしょうか?
 一般的には労賃はやはり生活資料の価値によって決まるだろうし、それに高い・低いがあるのは基本的には教育費(労働力の養成費)の違いからきていると思います。現代資本主義は超巨大企業を出現させ、また技術も非常に高度化しています。そうしたことを反映してそれなりに高度の教育を受けた(直接の教育だけではなくある程度生活環境全般等も含まれてくると思いますが)管理的・技術的人材も多数必要としていると思います。だから彼らの”奢侈品”消費は一見してmの一部分の不生産的消費のように見えるかもしれませんが、彼らが労働者の一部である限りにおいては基本的には労賃=労働力の価値=生活資料の価値なのではないかと思います。
 また、「過剰生産」というのは現代資本主義では恒常的に存在するというものでもないと思います。現に戦後の(世界的な)高度成長の時代には自動車や電機、石油化学等々の新しい技術革新とその普及と結びついて投資すべき資本はむしろ不足し中央銀行等の”オーバーローン”によって拡大してきたのではないかと思います。70、80年代以降でもIT革命による新分野の開拓やMA化等はある面では似たような側面もあると思います。もちろん、金・ドル交換停止以後世界中にドルが氾濫し、また戦後循環が一応成熟して以降は各国とも金融緩和・財政出動等が恒常化してきてお金は有り余っているが投資先がないといった状況が強まってきていることは事実ですが。
 サービス産業の拡大は産業向けのサービスと消費者(労働者)向けのサービスとありますが、前者は今まで企業内で行われていた機能のアウトソーシング(それによる効率化)によるものだし、後者については私は「消費生活の社会化」(一面では、消費生活の内部にまで資本が入り込んできたということでもありますが)の進展(医療・教育・保育・介護等はもちろんですが、ファミレス、居酒屋等々も)と関連があると考えています。前者の場合には、むしろそれによって資本全体としての効率は上がり剰余価値も増えるであろうし、後者の場合には、ある意味では不生産的ですが、消費者がそれを求めている(必要としている)以上は(「生のモノ」を提供しても売れないのですし)無下に否定することはできないと思います。後者の場合においても、最初の物的投資そのものは生産的資本の剰余価値からの控除かもしれませんが一旦投資された後はそれ自身を維持するだけではなくサービス労働を搾取しつつ利潤も確保できると言ってもいいのではないでしょうか。
(続く)

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2018年3月16日 (金)

「語り得ぬもの」をも語るコトバの表現力

 ウイットゲンシュタインは「論理哲学論考」の最後の部分で「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と結んでいる。実にカッコイイ表現だと思う。この「論理哲学論考」は言語の持つ論理性とその表現可能性について短い命題や論理的表現の繰り返しで簡潔に述べた名著であるが、私は最近、この「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」についてさまざまな疑問を感じている。

 B.ラッセルは数学基礎論の専門家としてこの「論理哲学論考」にはあきらかに誤りがあるが、と指摘しながらも高く評価している。私は彼が「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と書きつつ、その簡潔な詩の様な叙述によってそこに何かしら文学的表現を意図しているようにさえ思えるのである。

 こんなことを思う様になったのも、加齢とともに、コトバというものの持つ論理表現機能からは説明できない要素が非常に重要だと感じるようになったからである。例えば「行間を読む」とか「言外の意味」は昔から言われてきたことではあるが、詩や文学的表現はコトバの持つ論理表現以外のコミュニケーション機能をフルに用いている。つまり「語り得ぬもの」を語っているのである。もちろんしこうしたコトバの言外の意味を指令書や業務文書の中に見いだしてその背後にいる人の暗黙の意図を「忖度」するなどというのはコトバの機能の間違った用法であろう。

 「語り得ぬもの」は話し言葉と書き言葉によってかなり違うようにも思う。音声により聴覚に訴える言語はどこかで音楽的表現につながるし、どこかで人間の深奥にある本能に触れる。書き言葉による表現は文字という記号や図形が持つ論理表現性を用いた記録性に重点が置かれているが、その中に含まれる形態的表現の視覚芸術につながる要素を持っていて、「美しい」と感じる感性にも触れる。

 このどちらもが人間社会の中で諸個人が自分と他者の間で交わすコミュニケーションの手段として用いる言語の機能であるといえるだろう。そしてそれはその共同体社会がどのような形で成り立ち、その社会を構成する諸個人がどのようにその中で役割を演じているのかによって形態が違ってくるのだと思う。だから地域や歴史によってそれの言語体系や形態は大きく異なる。しかしまた、それがどんなに違っていてもその基本的部分は翻訳可能であり、人類共通の論理体系を含んでいるように思う。

 しかし、コトバの表現機能は、そうした共通の論理体系だけではなく、そのコトバが語られた背後にある様々な状況や歴史があって表現するときの具体的状況やニュアンスなどで初めてその一言の意味に深いものを感じさせるのであろう。例えば、私事を持ち出して申し訳ないが、もう20年も前に、認知症を患って介護施設に入っていた老母に会いに行ったとき、母は会っても私の顔を忘れていたのに、別れるときになって、私の手を握って 「帰りたい!」と一言いった。その母を振り切って部屋を去るとき、私の背中を見ていたであろう母の思いがどんなものであったか、今になってますますそれが痛切に感じられるのだ。

  母は戦争中、父とすでに不仲になっていたが、空襲をさけて新潟の実家の近くに3人の子どもを連れて疎開することになった。当時私はまだ4歳で鉄道の駅から2里半もある疎開先まで歩ききれず、途中、母に負ぶってもらって行った。そして戦後再び東京の父のもとに帰ってきてからも子供達のために田舎にヤミ米の買い出しに出かけていた。そんな思い出が母の「帰りたい!」の一言によって一気に私の脳の中を駆け巡るのである。

 いずれにしてもコトバが持つ力は侮れない。それは人類が共同体社会を築くことによってしか生きていけないことの証左でもあるのだから、その用い方にも慎重でなければならないと思う。

 

 

 

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2018年3月13日 (火)

過剰資本の「不生産的処理」で維持される資本主義体制のもたらす諸結果(3)

 このような社会形態が現代資本主義体制のもたらした結果であることはいうまでもないが、さらに最後に、この過剰資本の不生産的処理のもう一つの典型としての軍需産業について考えてみよう。

 軍需産業はいうまでもなく、その生産物である武器や兵器は文字通り破壊と殺戮のための道具であり、戦争で大量に消費されるだけで何ら生産的な要素をもっていない。そしてこれらの武器や兵器は、つねに「お国を護るため」と称して大量にしかも「合法的に」生み出されるのである。そして過剰資本が常態化したいまの資本主義経済体制にとってはそれが格好の過剰資本の処理方法なのである。

 こうした武器・兵器などを製造販売するのは現代資本主義社会の巨大産業であるが、かつて東西冷戦を背景にアメリカでは国家予算の1割を超えるほどの軍事予算が組まれ、核戦争に備えた最先端兵器の開発が進められた。そこで核ミサイルや水爆などの技術が開発され、ソ連のそれに並ぶ核兵器とともに一旦戦争ともなれば人類のほとんどすべてが消滅する危機に立たされた。これは一方の資本主義社会にとっては巨大な過剰資本の処理形態であり、国家統制経済下のソ連でも高度な軍事技術産業による経済的効果と労働力の配分先の確保に不可欠となった。

 しかし実際に核戦争を起こすことは両陣営にとっても不利であるため、ありあまるその軍事力は朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸・イラク・アフガン戦争などで大量に用いられ、多くのこれらの国々の労働者・農民たちの命はいうまでもなくアメリカの若者達の命をも奪ってきたのである。

 もちろんアメリカでも軍需産業の生み出した新技術がその後、民生機器や生活消費財に応用され次々と新しい家電製品や通信機器などを生み出していくことで、例の「大量消費社会」での過剰資本の処理にも大きく寄与していた。

 その後ソ連が崩壊し、「資本主義の一人勝ち」と言われる状況がやってきて、資本が急速にグローバル化して行った状況で、アメリカの一極集中力が衰え始め世界市場を駆け巡る過剰流動資本が世界中で安い労働力を奪い合うようになった中で、さまざまな形で再びいわゆる先進資本主義諸国で軍事産業に活況を与えることになっていった。

 それは21世紀になって、水面下で進むアメリカ・ロシア・中国・EU・日本などの間で起きつつある巨大資本同士の確執が関係した民族・宗教対立などでの武力衝突が活発になったことが背景にある。こうした民族・宗教紛争は実は世界中で激しくなりつつある労働者への搾取や圧迫に対する闘争の別の形での現れでもある。

 そうした紛争で用いられる武器や兵器は主としてアメリカ、ロシア、フランス、中国、イスラエルなどで作られている。中でもフランスはいまや世界第2位の兵器輸出国である(中国と2位の座を争っているが)。「共和国前進」を舞台に登場したマクロン大統領はかつてのナポレオン閣下よろしく盛大な栄誉礼がお好きであり、表面的にはドイツとともにEUの盟主として「リベラル派」の「顔」のように見えるが、その手はイエメンで殺戮を繰り返すサウジアラビアや、中国との対立やパキスタンとの国境紛争などで戦闘機が必要なインドへの武器輸出で血塗られている。その兵器輸出から上がる収益はフランスの国家財政を大きく潤している。

 またプーチン率いるロシアはかつてのKGBの組織を活用してアメリカの内政に情報戦でちょっかいを出したり、自分の政敵を毒薬で暗殺することを常套手段としているようだが、シリアでいまなお行われているアサドらによる虐殺に武器の売り込みで全面的に支援している。毎日何十人も殺される小さな子供達はその最大の犠牲者である。そしてロシアはそれによって莫大な利益を得ているのである。

 そして中国は独特な一党独裁による国家統制型資本主義体制で急速に成長し、「一帯一路」政策による世界資本への支配権確立が目指され、それを実施するための軍事的防衛線が築かれつつある。いわゆる「海のシルクロード」はインドを取り囲むように設置され、そこに中国の軍事基地が設けられつつある。そこにもインドの軍事力拡大のモチベーションがあるのだ。

 そして日本の安倍政権はこれらをにらみつつ、アメリカを後ろ盾にして自国の軍事力を高めることを画策している。かつての「ものづくり立国」時代の技術がまだ生き残っていれば、やがては日本でも「経済活性化」のためとして軍需産業が復活するだろう、いやもう復活しつつあるかもしれない。

 こうして現代資本主義体制に不可欠となったこの「過剰資本の不生産的処理」は他方で社会全体を支えている労働者階級に莫大な犠牲を強いつつますます拡大しているのである。

以上

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2018年3月 9日 (金)

過剰資本の「不生産的処理」で維持される資本主義体制のもたらす諸結果(2)

 こうして労働者階級の内部は上層と下層に分断され、互いに対立する関係となっていった。上層部の労働者は資本家階級に抱き込まれ、非正規雇用を中心とした下層労働者は連帯の基盤となる組織も思想も失いバラバラに孤立した現代版「ルンプロ」になっていった。

 この労働者階級の分断と「格差拡大」の背景には、労働賃金に上積み(va+vmとして)される資本家の利潤の一部(vm)の必要最低限度の労働賃金部分(va)に対する割合(vm/va)の違いとして現れる。上層部の労働者はこれが高く、下層労働者は低い。

 そして実は上層の労働者にも下層への転落の危機は常にある。それはいわゆる「技術革新」や「流通革命」などによりこれまでの労働内容が不要になることがしばしば生じるからだ。例えば、様々な異なったデータから何か有意な要素や意味を読み取ろうとする高度な情報分析労働は、AI によるデータマイニング技術の発達により駆逐される。また国内の生鮮食品産地からの買い付けを巧みに操作して卸売価格を維持してきた仲買人は格安の外国産食材の大量輸入により職を失う、などなど挙げればきりがないのである。

 こうして下層に突き落とされた労働者はva部分のみの賃金で何とか生活を維持しなくてはならない。そこで100円ショップのような生活資料を格安で販売する資本家が登場する。この百均などで売られる格安商品は当面の役に立つがすぐダメになり廃棄されるようなものが多いが、それを生産する労働者(いわゆる「低賃金国」の労働者が大半である)はさらに低賃金の過酷な労働によって搾取されているのである。

 そして上層の労働者の生活を潤す、高額生活資料や奢侈品は、高級ブランド品や有名デザイナーがデザインした製品や工芸家の作品であったりする。これらの生産物を生み出すためには社会的平均労働時間をはるかに超えた製品、例えば伝統的手作りの製品とか、何ヶ月もかけて制作した作品などもあるが、多くは一般の工業製品と同様な生産方式で作られ、それが「有名ブランド」が付けられることによって驚くほど高価で売れるようになるものが多い、いわゆるブランド商品である。

  例えばグッチやイヴサンローランなどの衣服や装身具がブルガリアなどの低賃金労働者によって作られていることはよく知られている。つまり社会的平均労働量の支出を表す本当の価値は同じでもブランドが付くだけでそれが高価な価値を持ったかのような商品に変貌するのだ。これは価値が市場における需要供給のバランスで決まる価格としてしか表現されない資本主義経済特有の形態であり、「不生産的」領域の典型である。いずれにしても高額な賃金を獲得している労働者はこうした製品を購入するためにvm部分を支出する。そして生活意識の上でも彼らは資本家と区別が付かなくなっていく。

 さらにvm部分は、観光やレジャーなどにも大量に支出される。何十万もする海外旅行や豪華列車ツアーが人気を呼び、豪華ホテルなどでの行き届いたサービスを満喫する。そしてこの分野での「売り上げ」を大きく延ばす。またゲームソフトやアニメなどが一大産業となり、そこには親が比較的裕福な若者達が群がる。しかしまたほとんどvm部分にあずかれない下層労働者も住む家がなく安宿に泊まりながらスマホのゲームなどで孤独な生活に救いを求めることも多い。そうした産業は労働者階級の格差を包み込みながら発展していく「不生産的」分野である。

 しかしこうした「不生産的」産業は前に述べたように社会的再生産における「奢侈品」(IIb部分)として資本家が労働者への不払い労働で獲得した剰余価値(m部分)から支払われた貨幣で買われる商品であり、決してmを超えることのない(m>IIb)存在なのである。それが今日ではただ労働者階級の賃金の一部(vm)という仮の姿を以て労働者の手から支払われるに過ぎないのである。

 そして生活消費財商品以外のすべての労働者階級の日常生活そのものが「商品化」される。例えば、誕生と同時にベビー用品、育児用具やヘルパーさんの仕事が必要となりそれらはすべて商品化される。そして教育にかかる費用も莫大なものになる。将来労働力市場で高く売れる労働力を養うために労働者階級は労働賃金から多くの部分を子どもの教育費に支出しなければならないのだ。これはvm部分が多くない労働者には重くのしかかる。資本主義社会では社会を支える労働力の育成はほとんどすべて労働者個人の負担によってなされるのである。そしてそこにまた「教育産業」という特有の資本形態を生み出し、これが多額の利潤を上げる。

 さらにこうして一人前の労働者になっても、やがて結婚し、新しい生活を営む上で必要な住居が大きな負担となる。これは本来生活必需品として労働賃金のva部分に含まれるべきものであるが、それが驚くほど高額(そもそも人間の作ったものではなく価値のないはずの土地が高額な商品として売買されることがその要因である)で、賃貸住宅にしてもその月々の家賃は重くのしかかるし、持ち家とも成れば、長期ローンを組んで借金として労働賃金の何十年分までもが「先取り」されるのである。そして、この借金をやっと返済し終えたときにはこの労働者は定年を迎え、退職する。つまり生涯掛けて生活必要資料を購入するためにその労働者としての人生を送ったことになるのである。

 そして最後に老後の生活はわずかな年金をもとに残された時間を自分の失ってきた人生を取り戻すことに使われる。だがやがて老化する身体や頭脳は衰え、「要支援」の生活を余儀なくされる。そこに投入されるべき社会保障はもともと彼ら労働者階級が生み出した価値の一部(m 部分として)でありながら、それを十分に使うことさえままならず、政府や支配階級からは「カネを掛けても仕方のない」存在であり「早く逝って欲しい」存在として扱われるのである。

 これがいまの典型的な労働者階級の人生であり、それがまさに「賃金奴隷」であるということの証明である。

(続く)

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2018年3月 8日 (木)

過剰資本の「不生産的処理」で維持される資本主義体制のもたらす諸結果(1)

 前回まで4回に渡る連載投稿「過剰資本の不生産的消費に関する考察」で分析した資本主義経済体制がもたらす様々なその現実形態について考えてみよう。

 上記の分析で私はマルクスの社会的総生産における拡大再生産の条件というある意味で普遍的な観点に基づいて、それが現代の資本主義経済ではどのような形で行われているのかについて考察した。その結果は要約すれば次の様なものである。
 資本主義経済体制は、資本家が私有する生産手段の一部が生産過程で生産物に移転した価値部分(c)と、労働者が賃金と引き替えに資本家に売り渡し彼のための労働で消費する労働力を自ら再生産するために必要な生活資料の価値部分(v)を生み出す労働、およびそれを超えて行われる労働(不払い労働)が生み出し資本家の私的利潤となる価値部分(剰余価値: m)を含む労働が対象化(c+v+m)された商品の販売によって受け取った貨幣によって私的所有財産部分を増やしながら、同時に再び生産手段と労働力を購入することで生産を続け、拡大していくことができる体制になっているという資本主義経済のいわば基本形態が前提である。
 この体制は、しかし市場の流通を通じて資本家同士の「自由」で無政府的競争に勝ちながら利潤を拡大させていく過程で生産の「合理化」や労働時間の延長などによって、どんどん生産力を高めることとなり、やがて資本家の生産手段を生産的に消費できる限界を超えて生み出される過剰資本が蓄積され、これが拡大再生産を阻むことになるのである。
 この矛盾を乗り越えるために今の資本主義体制では、労働賃金部分(va)に資本家の私的利益の一部(vm)をv=va+vmとして忍び込ませ、それが労働者による生活消費財の消費を拡大させ、その回転を速めることで資本家にさらに多くの利潤(m')を獲得させていくという仕組みである。過剰資本をいわば過剰消費(不生産的消費 )によって「有効利用」する処理形態である。
 そこでこうした資本家の「おこぼれ」ともいうべき労働賃金に上乗せされたvm部分を受け取りそれを高額生活資料商品の購入や娯楽、レジャーなどに消費できる労働者階級が登場し、彼らは「豊かな中間層」と呼ばれるようになった。しかしこの「おこぼれ」はもともと決して労働者自身の私的財産として蓄積されるものではなく、絶えずそれを消費に回し資本家の手に大きくなって回収されるために資本家によって前貸しされた部分である。だからもともと「豊かな中間層」の消費生活は資本家の蓄財の手段であり、資本家達とその代表政府は、過剰消費のもたらす環境破壊や資源枯渇などにお構いなく、いつも「消費拡大」を叫び続けるのである。
  そしてあたかも「労働者の生活を豊かにするため」かのように言う賃上げやボーナスは、その前貸し金以上の利潤を資本家達が獲得するための手段に過ぎないのである。
 しかしこの「豊かな中間層」は、「個人の自由」を第一とし、労働者の権利をこうした個人生活の豊かさを保障するために行使することに終始し、あるときは「会社を護るため」資本家達とともに彼の競争相手に勝つために犠牲をいとわない。つまり自ら「支配的イデオロギー」の一環を担う存在になってしまった。
  そして肝心の「賃金奴隷」的存在としての本質から逃れ、自ら社会的生産活動の主体性と主導権を握るための階級的連帯と闘いを放棄してしまったのである。それが労働者階級の中にいわゆる「リベラル派」的な特有の思想状況を生み出した地盤であり、こうした地盤の上に出来たのが「連合」のような労働組合組織である。
 ところがこの資本主義体制は、その必然としてグローバルな資本家同士の競争を激化させ、そこではいわゆる「低賃金国」の労働力を獲得する激烈な競争が展開される。拡大再生産を続けるためには、労働賃金として支払われる労働力の再生産費(v)に対する剰余価値部分(m)の比率(m/v)が高くなる必要があるからである。
  この状況で、「低賃金国」で生産された安い生活資料商品が「先進諸国」に輸入され、それらの国々での生活必需品が一気に値下がりする。いわゆる「価格破壊」が起きる。すると一見、労働賃金が変わらなくても実質「可処分所得」は増える様に見える。したがってその「可処分所得」は高額消費財や娯楽、レジャーなどに回される。こうした「不生産的」産業領域に投資する資本家は莫大な利益を上げ、これらは市場での原理にしたがっていわば資本家階級全体として平均化されて各資本家を潤す。
  その増えた m' 部分は今度は、それでも過剰になる資本を「低賃金国」の労働者が消費する生活資料商品の市場に投資され、そこは低賃金労働の搾取の場であると同時に巨大な生活資料商品市場に変わっていく。その「低賃金国」の支配政権はこれを「経済成長」という。
 そして国内の労働者は「高賃金化」した生産的労働から徐々に排除され、「付加価値」を生み出す不生産的産業に吸収されていく。こうして例えば日本の「ものづくり」産業は衰退していったのだ。そして生産的労働の労働力商品市場では高度な頭脳労働によって労働市場で「高く売れる」労働力を持つ労働者のみが生き残っていく。
 こうして「中間層」の上層部と、そこから排除され下層に落ちていった労働者群の「格差」が増大する。下層に落ちた労働者達はその階級としての拠り所を失い、「ポピュリズム」や過激な思想に押し流されていく。
(続く)

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2018年3月 2日 (金)

過剰資本の「不生産的処理」についての考察(4)

 こうして本来資本家にとって不生産的な消費が資本家に莫大な利潤を獲得させているのであり、それは際限のない「無駄な消費」の拡大とそれによる自然環境の破壊と資源の枯渇などの破滅的結果をもたらしているのである。

 これまでの分析で、20世紀後半から変貌した資本主義経済体制がそれまで恒常化して生産的資本を圧迫してきた過剰資本を、資本家の利潤としてのm部分の一部を労働賃金にvmとして上乗せする形で労働者に前貸しし、その貨幣が労働者の生活資料と交換されその消費を拡大させることで「不生産的消費」を拡大させ過剰資本をそのような形で(回転を速めながら)処理させることで生活資料商品を生産する資本家の手に増大した利潤として取り戻されることで、結局資本家階級全体がそれを分配して潤うという構造であることが分かった。この循環過程で不生産的消費が「不生産的」であるにも拘わらず資本家の蓄積(m部分)をスムースに増やせるように国家が中央銀行を通じて貨幣発行量や貸し出し金利のコントロールを行ない貨幣流通の速度を速めることによって資本家階級の利潤増大を支援しているのである。だから事実上生活資料商品の物価が上昇し、労働者にとっては実質賃金が減少するにも拘わらず「インフレ政策」が必要なのだ。明らかに矛盾である。

 こうした歴史的背景のもとで登場したのがvmによって潤う労働者、いわゆる「中間層」つまり富裕化した労働者階級である。かつてマルクスの時代には労働者階級窮乏化説が主流であったが、現代の資本主義では労働者階級は窮乏化せず、富裕化することで生活資料を次々と買い換えながら消費していく「豊かな生活」を営んでいるように見える。だから「自由で豊かな生活ができるのなら資本主義社会でいいではないか、誰でも努力次第で起業して新興の資本家にもなれるし、いまさらあのかつての独裁的で自由のない息苦しい「社会主義」などに変えなければならない理由などどこにもない。」と考える人たちが多い。

 しかしこれまで述べたことによって実はそうでないことが分かる。労働者は生活資料を大量に消費させられ、労働者の「増えた所得」と見える部分は結局資本家の手に回収され資本家を肥えさせる手段なのである。だから労働者階級は実際には生産的労働を行っているにもかかわらず「消費者」とよばれており、その労働の目的や形態を彼の目的実現のために決定する資本家が「生産者」と呼ばれるのである。

 また富裕化した労働者階級の一員が起業し、既成の資本家達が営む企業が巨大化して経営体制がさび付き「小回り」が効かなくなっている状況を縫って「自由競争市場」の原則の中で新規事業(例えば最新のAi技術を用いた新製品の開発など)に参入し、莫大な利益を上げながら「成長」する(Microsoft, Apple, Google, Amazonなどのような)新興資本家達はそのような形で資本主義体制自身を「更新(Version up)」し世代交代を促しながら「活性化」させているのであるが、これもそうした起業家への既成資本家からの巨額の投資によって支えられている。つまり既成資本家の蓄積したm部分からこうしたリスク含み(新興資本家同士の競争によってこれらの多くは消滅して行く)の投資に余剰となった貨幣が回されるのである。

 いずれにしても巨大化した資本の「おこぼれ」によってそれらの新興資本家達は起業し、資本主義体制自体を更新するのであるが、中間層化した労働者階級の支出する過剰消費に回すために前貸しされたvm部分が資本家の手に戻るときにさらに増えているという過剰資本の「不生産的拡大」のサイクルが基本的にそれをサポートしているのである。こうして「自由で豊かな消費社会」によって加速度的に過剰消費を増大させ、それによって地球規模での環境の破壊や資源の無駄遣いを速めている。

 さらには、こうしたグローバル資本がつぎつぎに労働力の安い国の労働者への搾取を拡大させることで、いわゆる「開発途上国」では農業が破壊され、大量の農業人口の工業労働者への移動が加速している。世界中で一方では人口がどんどん増加しながら他方では耕作地は荒廃し食料の供給が減少していっている。もちろん一方では巨大資本による農業の大規模経営化と工場化が進み、農民は農業労働者としても資本に吸収され、それによって大資本が集中的に農作物を工場から大量出荷することになるかもしれないが、いずれにしてもこうした低賃金労働によってもたらされた価格の安い生活資料が「先進諸国」に輸入され、「価格破壊」を起こすことで、その国の労働者の最低賃金(va)水準を引き下げることとなり、それがvaとvmの差を増大させ「格差拡大」の基礎を与えることになる。

(部分的な修正があります)

 しかもその農業資本家が経営破綻に陥ったときには一気に食料供給が滞ることにもなる。この事実はやがてこの地球上に大規模な危機と混乱をもたらすことが目に見えている。しかしこれまで述べてきたようにいまの資本主義体制のシステムはその本質上これを防ぐことができないのである。

 そしてもう一つ、最後に、一方で資本家の「おこぼれ」をちょうだいすることで富裕化する労働者(彼らの多くは資本家に多くの利潤をもたらす労働部門での高度な頭脳労働力を提供する知識労働者(高プロ)である)がおり、他方でその「おこぼれ」に与れなかった労働者(彼らの多くは高度な頭脳労働力を養成するための教育を受ける余裕がなかった人たちである)の貧困化が急速に進んでいる。いわゆる「格差」拡大である。

  たとえば高度消費社会化した資本主義国では労働賃金のVa部分自体が増加している(生活必需品全体の価値が増加している)ので、いわゆる「開発途上国」の労働者が必要とする生活資料の価値部分よりそれがはるかに大きくなっている。したがって同じ労働をこなすことができる労働者であればこうした低賃金ですむ労働者の住む国での労働力を購入する方がはるかに有利となるので、「高度消費社会化」した国の労働者は雇用主である資本家たちから冷遇されvmとしての「おこぼれ」を頂戴できないばかりか、va部分すらもらえない状態となり、やがては失業することにもなるのである。

  いま「高度消費社会化」したいわゆる「先進諸国」において、資本のグローバル化に比例して国内にこうした貧困化した労働者がどんどん増えつつある。当然彼らはもっと安い賃金で働く移民労働者の入国を阻止しようとする。こうして同じ被搾取階級としての労働者でありながら、互いに国境を挟んで対立するという悲劇的な形をとってマルクスの労働者階級窮乏化説はいまも依然として生きているのだ。

 しかしこれを「格差」是正の問題として把握し、富の再配分を考えねばいけないという主張(例えばピケティーなど)は問題を単純化しすぎている。なぜなら、さまざまな形の労働で社会全体を支えている労働者階級の労働の目的やあり方を、生産手段を私有する資本家階級が支配し、労働者の労働の結果が生み出した富を、資本家階級の所有物とする社会システムが続く限り、つねに「社会的富」は資本家階級のために存在し、労働者階級はその労働力の再生産に必要な価値とそれにせいぜい付け加えられる「おこぼれ」にあずかることでしか生き延びることができない。そればかりかパリ協定は無視され、世界中の資本家が互いに利益獲得競争に勝つために蓄積された資本の大半を「無駄な消費の拡大」に投入することで生き残りを掛けており、そのシステムがやがてもたらすであろう致命的矛盾の爆発と破壊を誰も回避することができないのだから。

(おわり)

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過剰資本の「不生産的処理」についての考察(3)修正版

 この追加資本が過剰となるのは、I(v'+m')>IIc'となる場合であって、生産手段部門の「生きた労働」への追加資本の投入が、生活手段部門で必要とされる生産手段の需要を超えている場合であると言えるだろう。

 その場合、常に必要最小限の労働力再生産費として支払われていた労働賃金(v)がそれによって限定されていた生活消費材の消費量がネックとなり、生活消費材の生産は頭打ちとなる。そこでこのv部分へ追加資本m'の一部を追加して労働者の生活消費材への購買力を付けさせることによって生産手段部門から新たに追加される生活手段武門向け生産手段への需要を増やすことで、この過剰を切り抜けようとするだろう。言い換えれば、拡大再生産I(v+m)>IIcを実現させるために必要な追加資本がI(v'+m')=IIc'という均衡を保つためには、生産手段部門での「生きた労働」への追加と同時に生活手段部門での「死んだ労働」へも追加が行われなければならないが、それはまた間接的には労働者階級全体に生活手段の消費を拡大させねばならないことになる。これは結局労働賃金の上昇がなければならず、言うなれば資本家も収入の一部を労働者に賃金の追加分として提供しなければならないことになる。しかしもちろんこれは労働者階級へのサービスなどではなく、結局その追加文が再び自分の手に戻るからであり、しかもそれが増加して戻ることになるからである。

 それは労働賃金である v部分に密かに m部分の一部を忍び込ませているとも言えるだろう。vは資本家にとっては本来あくまで労働力の再生産に必要な「最小限度」の価値であるが、それに資本家達が利潤として自己の所得とすべき m部分の一部を忍び込ませ、この部分を労働者階級の消費拡大のために回すことにより、労働者階級も高額な生活資料商品の購入にそれを使うことができる様になり、生活消費材商品の一部となった追加資本の回転の結果これを忍び込ませた時より大きくして資本家の手に再び取り戻すのである。

 マルクスは II部類の生産物を IIa IIbに分け、生活資料である IIaに対して本来の奢侈品である IIbはすべて資本家の所得である mによって消費される対象であると指摘している(従ってつねにm>IIbとなる)。いまの資本主義経済体制はこの IIb部類(マルクスは亜部類と呼んでいる)を vに含まれる IIa部類の中に忍び込ませ、m部分をそのような形で回転させることで過剰となった資本を蓄積に振り向けさせているのだとも考えられる。

 この v部分に忍び込ませた m部分は労働賃金として支払われるが、それは最初から生活に必要な最小限の価値部分に上積みされた形の資本家の所得の一部を労働賃金に忍び込ませて前貸しする「偽りの所得増大」の姿であるといえるだろう。だから「成長」による賃金上昇や高賃金の内訳には本来の vに対するこうした資本家的 m部分の姿を変えた部分の比率が年々増えているのである。そしてその「恩恵」に与れない人々は本来の最低限どの vで甘んじなければならず、その最低賃金は一向に上昇しないのである。

 さらにいえば、労働者の「奢侈品化した生活資料」は本来の資本家的奢侈品と決して同じ位置づけではなく、クルマやパソコン・スマホ、ハイテク家電製品など「高額生活資料」という形をとっている。しかし労働者の中でも比較的リッチな部分は本来の奢侈品も購入することができるし、実際に外見的にどこまでが「生活必需品」でありどこからが奢侈品であるのかを見極めることは困難である。こうした前提的事実を踏まえて、過剰資本の処理形態としての不生産的消費についてさらに考えてみよう。

 先に述べた資本家の可変資本部分 vは労働力商品の購入費として資本家から貨幣の形で支払われ、労働者側は自らの労働力をそれと交換に資本家に売り渡す。この時点で vは「可変資本」ではなく労働者への生活資料の前貸し貨幣形態となる。そして資本家はその労働力を可変資本の機能としてつまり労働により自ら価値とそれを超えた価値を生み出す商品として、彼の所有物である生産手段とともにその利潤獲得のための手段として用い、不払い労働分としての剰余価値部分を得る。いかに資本家達が「社会に貢献するため」と主張しようとも、この資本の論理を実現する人格化した資本であるという事実は変わらない。

 だから資本家は労働者の労働内容や形式など一切について支配権を持つ。労働者はたとえ彼が生活手段の生産に携わっていてもそれを資本家の利潤獲得の手段として行わねばならない。労働者が自らの手で生み出した生活資料は最初から資本家の所有物なのであるから。したがって彼は自らの労働力を再び資本家に売ることができるためにその再生産に必要な生活資料を生活手段商品の「生産者」である資本家から労働賃金と引き換えに買い戻さねばならない。この労働者による生活資料の購入とその消費はしたがって労働者にとっては彼自身の労働力再生産のための生産的消費であるが、資本家の目的にとっては生産的消費とはいえず、本来この部分は少ない方が資本家にとってはベターであるという意味でむしろ不生産的消費であるといえる。

 資本家が労働者に貨幣として支払らう v部分の価値は、労働者自らが労働の中で生み出した労働力の再生産に最小限度必要な生活資料の価値部分(これをVaとする)であるが、現在の資本主義体制ではこのVaを超えて資本家が獲得した不払い労働部分による価値部分mの一部から付け加えられた部分(これをvmとする)がV=va+vmとして資本家によって忍び込まされている。

 一方で賃金は現実には労働力商品市場において、労働者間の競争や労働力の需要と供給の関係で決まる労働力の「価格」として貨幣で支払われる。その際、資本家と労働者の間で交わされる契約により賃金額や労働条件などが決まるが、そこではvavmの区別はつかない。しかしこの時点でも資本家側の「質の高い労働力への出費」など、思惑で賃金額が決まるのでほとんどの場合密かにvm部分が入っている。例えばこれから「成長」が見込まれるAI産業などに必要な「人材」と見れば、vaに対して多額のvm部分を加えることでその頭脳労働者を獲得しようとするだろう。資本家がその労働力購買に投資する額と彼がそれによって得るであろう利潤量とのバランスで決めるのである。 

 しかし、いくら社会に必要な労働であってもそれが単純労働であったり、例えば海外から流入する低賃金労働者を使っても可能な場合には支払われる労働賃金は限りなくvaそのものに近づき、ある場合にはvaにすら達しないことがある。周知の通り「最低賃金制}などあってなきがごとき現在である。

 このva部分とvm部分の区別がはっきり目に見える形として現れるのが、すでに雇用された労働者達と雇用主である資本家との間で行われる「労使交渉」の場である。ここでは「ベースアップ金額」や「ボーナス金額」として現在の賃金に上積みされる部分が明記される。これがvm部分である。この上積みされた部分つまりvmは労働者の「可処分所得」という言葉で表現されている。

 さて、こうして高給取りの労働者は最初からvm部分を含む賃金を得、さらにそれに上積みみが加わることになるが、それは生活必需品価値の最低限度を超えた買い物を可能にする。いわゆる「高額生活資料商品」はこうした市場を得て労働者の購買欲をそそる広告や宣伝産業にも莫大な利潤を与えながら拡大する。前述のようにその「高額生活資料商品」はどこまでが必要な生活資料なのか、どこからが奢侈品商品なのかの区別はなかなかつかない。逆に言えば、その商品が本当に彼の労働力の再生産に必須のものであるか否かによって決まるといってもよいだろう。しかし資本家にとっては生活資料と奢侈品は両方とも彼が労働者の不払い労働から獲得したm部分から支払うので本質的区別はない。

 実際には流通販売部門の資本家が市場では生産資本家への支配権を握っているが、これは生産資本家の資本回転における流通過程を分担する資本家であり、本質的には生産資本に従属している。結局ここで得られたm部分はm/c+vという形で平均利潤として生産手段部門の資本家達にも分配され、資本家階級全体を潤すことになる。ここで資本家の手に蓄積される m部分は回収されたvm部分よって過剰資本化せずに資本家の収入とされるが、これを資本家により再生産過程で本来の生産的消費として生産手段の拡張に用いられる部分と不生産的消費に回される部分に分かれる。そして生産的消費に用いられる部分は、つねに不生産的に処理される部分の量によって規制される。なぜなら、前者が後者を超えた時点でそれは本来の過剰資本となるからだ。

 言い方を変えれば、つねに不生産的部門が増大しなければ生産的に用いられる資本部分も増加しない。だから産業構造としては不生産的部門の比率が必然的に高くなり、mvmによって消費される IIb部類の奢侈品産業やレジャー、観光、ギャンブル産業などが「成長」する。IIbに牽引されて拡大する生活資料生産部門(II)で用いられる生産手段 cを生み出す生産手段部門(I)でもそこで働く労働者の生きた労働が生み出す価値部分 (v+m)はより大きくなっていき、社会的総資本の再生産はI(v+m)>IIcを実現することになる。

(アンダーラインは修正部分)

(続く)

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過剰資本の「不生産的処理」についての考察(2)修正版

 ここでまずマルクスの社会的総資本の再生産に必要な条件として有名な再生産表式を確認しておこう。単純再生産は、I(v+m)=IIc という関係が成り立たないと成立しないし、拡大再生産には、I(v+m)>IIc という関係が成り立たねばならないという考え方である。

 一定期間(ここでは年間)に社会的に生み出される総生産物は大きく分けて生産手段(I部類)と生活手段(II部類)に分かれるが、社会全体としてみればその成員の生活維持に必要な生活手段(日々の生活に必要な食料、衣料、家財などなど)を生産することが目的であり、そのために必要な生産手段をも作り出さねばならない。ここで I はある年度に社会的に生産される生産物(資本家的には商品)全体のうち、生産手段部類の生産物を、II は生活資料部類の生産物を表し、これらはすべて資本家的には年間価値生産物として現れ、そこには不変資本部分(c)と可変資本部分(v)、そして剰余価値部分(m)という価値部分が含まれる。これを次の様に表せる。 I(c+v+m)+II(c+v+m)

 ここでcは生産物を生み出すのに必要な生産手段の生産に費やされた労働の内、それを用いて生み出す生産物の内の移転する価値部分である。vとmcを用いて新たな生産物を生み出すために支出された労働による価値部分であるが、このうちvは労働者が自ら生活のために消費するに必要な価値として生み出した部分であり、mはそれを超えて一日の労働時間中に生み出され生産物に対象化された価値部分である。

 ここで重要なことは生産物を生み出すための労働過程において、労働対象(これから特定の使用価値を持つ生産物としてつくられるべき対象、具体的には原料、素材など)とそれに働きかける労働者の労働それ自体、そして労働者と労働対象を生産物に加工するために必要な労働手段という要素が必要である(労働対象と労働手段は生産手段というカテゴリーに入れられる)。この三つの要素が労働過程において「生きた労働の火に舐められる」ことによってその労働の成果として生産物が生み出される、ということである。これはあらゆる社会に共通する普遍的カテゴリーとその動的関係の把握である。

 ここで「価値」という概念を考えねばならないが、労働過程で生み出される直接的目的の実現としては使用価値である。ある具体的必要に応じて生み出される生産物なのであるから。しかし、これは生み出されたと同時に「過去の労働の対象化された結果」として「価値」という規定を与えられ、それはそこに消費された労働の量を表す労働時間によって測られる。これを社会全体として見れば、それは社会的分業を構成する各個別の分担労働の成果を社会的に分配し、それに要する生産手段と労働力の社会的配置(人員配置)を行うために必要な指標とその根拠として「抽象的人間労働の結果あるいは労働量」としての価値という規定を受ける。資本主義社会ではこれを商品の流通という形で行う。

 このように捉えれば、生産物に含まれる価値構成(c+v+m)はcとしての過去の労働の成果の必要部分(生産手段)を用いて生きた労働によってv+mという新たな価値部分を付け加えられた結果であるといえる。だからこうした生産物が毎年繰り返し同じように社会全体で再生産されるためには、単純再生産表式で表せるように、生産手段生産物と生活手段生産物の間に I(v+m)=II(c)という関係が成り立たねばならないといえる。つまり生活手段を生産するにはそれに必要な生産手段を生み出した過去の労働の成果の一部が(c)として前提されなければならないし、逆に生産手段部類の生産物を生み出す生きた労働I(v+m)は自らの過去の労働から生み出された生産手段を用いて生み出された生活手段部類の生産物IIcを消費しなければならない、ということである。そして残りのI(c)は生産手段部類の生産物を生み出すために用いられる過去の労働の成果であり、II(v+m)は生活手段部類の生産物を生み出すために費やされる生きた労働である。こうして社会的再生産においては過去の労働の成果と生きた労働によるその消費の関係が生産手段部類と生活手段部類の生産物間での価値の交換関係として表現される。

 これを前提として拡大再生産表式、I(v+m)>IIc について考えてみよう。この表式の意味することは、社会的総生産物のうち、生産手段部類の生産物価値を生み出すのに必要な生きた労働(剰余労働分を含む)が要する社会的平均的な労働時間の合計が、生活資料部類の生産物価値を生み出すに必要な生産手段に対象化された過去の労働のうち生産物価値の一部として生産手段に移転した部分に要した平均的労働時間よりも大きくなければならないということだろう。そのためには単純再生産の場合に資本家の収入としてもたらされた m(剰余価値部分)の一部から新たな追加資本が過程に投入されねばならない。しかしその新たに投入される追加資本はただやみくもに追加されれば良いとうわけではなく、その価値配分は、I(v'+m')=IIc'という形になっていないと拡大再生産が順調に進まなくなる(ここでc',v',m'はそれぞれ新たに追加された資本部分を示す)。つまり生産手段生産部門で新たな生産手段を生み出すために必要な「生きた労働」への追加資本と、生活手段生産部門で必要な生産手段の追加に必要な「死んだ労働」の価値部分が等しくなければ再生産過程は順調に行われえない。

 しかし、元来無政府的「自由競争」の市場の運動の中では、この追加資本の均衡的配分を計画的に行うことは不可能である。このため拡大再生産においては常に追加資本が過剰資本を生み出す危険があると考えられる。そしてそれがしばしば恐慌という形を採ると言える。

(アンダーラインは修正部分を示す)

(続く)

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過剰資本の「不生産的処理」ついての考察(1)

 20世紀後半からの資本主義経済体制の「消費社会化」といわれる変質について、何度かこのブログで、それは恒常的に過剰資本に悩まされるようになった資本主義生産様式が、労働者の賃金をある程度高めることでそれによる生活資料財の消費拡大という形で無駄な消費を生み出すことで過剰資本を不生産的に処理するシステムを確立した体制だ、と述べてきた。この考え方は 1970年頃に大内力が「国家独占資本主義」の中で主張していたとらえ方に基づいたものである。

 しかし、ここで労働者の賃金を生活資料に消費することが果たして「不生産的」といえるのか、疑問であると感じてきた。実際、労働者の賃金は資本家にとっては労働力の再生産に必要な価値部分であり、労働力なしには剰余価値も得られないわけであるから「不生産的」とはいえない。さらに言えば、この「不生産的」と言われる消費がなぜ資本家にさらなる利潤をもたらすのか、という問題である。そこでこの問題についてずっと考え続けてきた結果到達した現段階での私の理解を記しておこうと思う。

 社会的総資本が蓄積され増大して行くには少なくとも前年度の総生産物が翌年の同様な規模での再生産を可能にする単純再生産の条件を満たし、その上で拡大再生産の条件をも満たさなければならないが、資本主義社会はこの再生産過程を、貨幣資本(G)→生産資本(P)→商品資本(W')→貨幣資本(G')という資本形態のメタモルフォーゼとして行われる資本の循環過程の内に実現する。この中のPは生産手段(Pm)と労働力(Ap)という商品であるが、Pmはすでに資本家が前年からの蓄積の一部として所有するGを以て購入した生産手段部分であり、これに労働力を購入し、生産手段を用いた労働過程を行わせることで労働力の再生産に必要な生活資料の価値部分を生み出させると同時にそれを超えた新たな追加価値部分(剰余価値)を含む商品W'を生産し、これを流通に投入することで新たな剰余価値分を含むG'獲得する、というプロセスである。 このうち労働力の再生産に必要な価値部分は労働者自身の労働によって生み出されるにも拘わらず、それを資本家から買い戻さねばならず、この労働力再生産に必要な生活資料の買い戻し分が労働賃金として労働者に前貸しされるのである。そして剰余価値部分は翌年度に必要な生産手段を購入する部分に加え資本家自身の生活資料や奢侈品、享楽的消費などにすべて消費される。

 資本家が蓄積を他の資本家たちとの競争の中で増やしていくためにはその再生産の規模を単純再生産のそれを超えて拡大させねばならないが、これを突き進めると資本蓄積が増大し、生産力が高度化するが、やがて資本が過剰化する事態が訪れる。資本の過剰化はその回転過程のうちでおそらくさまざまな要因をきっかけにして起きると思われるが、基本的には拡大再生産が行き詰まる形になる。つまり増加した資本分を生産過程に追加してもそれに見合う利潤を生み出せなくなるのだ。金融は破綻し、流通は滞り、生産はストップする。倉庫に商品の在庫が山積みになり、倒産や失業者が巷に溢れることになる。恐慌である。

 1930年代にはこれが恒常化し、一方でソ連などの非資本主義社会圏が地球の大きな部分を占め始めていたので、これを資本主義体制の「全般的危機」と呼ぶこともある。

 この過程で独裁政治による経済統制を強めて資本の回転を国家主導で行おうとする動きが登場し、ナチズムなどが台頭した。イギリスやアメリカではそれに対抗して「民主政権」のもとで新たな資本主義経済システムの導入を試みた。これも資本主義経済に国家が介入して中央銀行を通じて貨幣発行量の調整などを行うことで資本の回転をコントロールしながら一方で労働者の賃金を上げながら他方でいわゆる公共投資によって大規模インフラ建設などを行い、失業者をそこに吸収しながら、自動車や家電製品などの高額商品を労働者階級に消費させることで過剰資本を処理していった。しかしこれは当初うまく行かなかったが、結局第2次世界大戦という事態に突入する中で莫大な規模の軍需費などへの不生産的投資を拡大させることで難局を切り抜け、そして戦争によりナチズム的国家統制資本主義陣営が崩壊し、戦後に本格的にこのアメリカ型の新たな資本主義システムが開花することになった。

 ここまでは私の考察というより、ほとんどが既説に基づいたとらえ方である。問題は、「大量消費社会」「大衆化社会」「マス社会」そして「国家独占資本主義」などと呼ばれるその新たな資本主義体制がどのようなものであるかということである。

 まず過剰であるはずの資本蓄積がなぜ恐慌のような劇的な行き詰まりを見せずに拡大し続けていられるのかという問題がある。それは、現実には資本の回転過程や循環過程の具体的な要素や形態についての経済学的分析が必要であり、私のような非専門家には手に負えない問題である。しかし、基本に帰ってみればそれは資本の拡大再生産過程が曲がりなりにも大きく破綻せずに進んでいるということだろう。

(続く)

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