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2018年3月 2日 (金)

過剰資本の「不生産的処理」ついての考察(1)

 20世紀後半からの資本主義経済体制の「消費社会化」といわれる変質について、何度かこのブログで、それは恒常的に過剰資本に悩まされるようになった資本主義生産様式が、労働者の賃金をある程度高めることでそれによる生活資料財の消費拡大という形で無駄な消費を生み出すことで過剰資本を不生産的に処理するシステムを確立した体制だ、と述べてきた。この考え方は 1970年頃に大内力が「国家独占資本主義」の中で主張していたとらえ方に基づいたものである。

 しかし、ここで労働者の賃金を生活資料に消費することが果たして「不生産的」といえるのか、疑問であると感じてきた。実際、労働者の賃金は資本家にとっては労働力の再生産に必要な価値部分であり、労働力なしには剰余価値も得られないわけであるから「不生産的」とはいえない。さらに言えば、この「不生産的」と言われる消費がなぜ資本家にさらなる利潤をもたらすのか、という問題である。そこでこの問題についてずっと考え続けてきた結果到達した現段階での私の理解を記しておこうと思う。

 社会的総資本が蓄積され増大して行くには少なくとも前年度の総生産物が翌年の同様な規模での再生産を可能にする単純再生産の条件を満たし、その上で拡大再生産の条件をも満たさなければならないが、資本主義社会はこの再生産過程を、貨幣資本(G)→生産資本(P)→商品資本(W')→貨幣資本(G')という資本形態のメタモルフォーゼとして行われる資本の循環過程の内に実現する。この中のPは生産手段(Pm)と労働力(Ap)という商品であるが、Pmはすでに資本家が前年からの蓄積の一部として所有するGを以て購入した生産手段部分であり、これに労働力を購入し、生産手段を用いた労働過程を行わせることで労働力の再生産に必要な生活資料の価値部分を生み出させると同時にそれを超えた新たな追加価値部分(剰余価値)を含む商品W'を生産し、これを流通に投入することで新たな剰余価値分を含むG'獲得する、というプロセスである。 このうち労働力の再生産に必要な価値部分は労働者自身の労働によって生み出されるにも拘わらず、それを資本家から買い戻さねばならず、この労働力再生産に必要な生活資料の買い戻し分が労働賃金として労働者に前貸しされるのである。そして剰余価値部分は翌年度に必要な生産手段を購入する部分に加え資本家自身の生活資料や奢侈品、享楽的消費などにすべて消費される。

 資本家が蓄積を他の資本家たちとの競争の中で増やしていくためにはその再生産の規模を単純再生産のそれを超えて拡大させねばならないが、これを突き進めると資本蓄積が増大し、生産力が高度化するが、やがて資本が過剰化する事態が訪れる。資本の過剰化はその回転過程のうちでおそらくさまざまな要因をきっかけにして起きると思われるが、基本的には拡大再生産が行き詰まる形になる。つまり増加した資本分を生産過程に追加してもそれに見合う利潤を生み出せなくなるのだ。金融は破綻し、流通は滞り、生産はストップする。倉庫に商品の在庫が山積みになり、倒産や失業者が巷に溢れることになる。恐慌である。

 1930年代にはこれが恒常化し、一方でソ連などの非資本主義社会圏が地球の大きな部分を占め始めていたので、これを資本主義体制の「全般的危機」と呼ぶこともある。

 この過程で独裁政治による経済統制を強めて資本の回転を国家主導で行おうとする動きが登場し、ナチズムなどが台頭した。イギリスやアメリカではそれに対抗して「民主政権」のもとで新たな資本主義経済システムの導入を試みた。これも資本主義経済に国家が介入して中央銀行を通じて貨幣発行量の調整などを行うことで資本の回転をコントロールしながら一方で労働者の賃金を上げながら他方でいわゆる公共投資によって大規模インフラ建設などを行い、失業者をそこに吸収しながら、自動車や家電製品などの高額商品を労働者階級に消費させることで過剰資本を処理していった。しかしこれは当初うまく行かなかったが、結局第2次世界大戦という事態に突入する中で莫大な規模の軍需費などへの不生産的投資を拡大させることで難局を切り抜け、そして戦争によりナチズム的国家統制資本主義陣営が崩壊し、戦後に本格的にこのアメリカ型の新たな資本主義システムが開花することになった。

 ここまでは私の考察というより、ほとんどが既説に基づいたとらえ方である。問題は、「大量消費社会」「大衆化社会」「マス社会」そして「国家独占資本主義」などと呼ばれるその新たな資本主義体制がどのようなものであるかということである。

 まず過剰であるはずの資本蓄積がなぜ恐慌のような劇的な行き詰まりを見せずに拡大し続けていられるのかという問題がある。それは、現実には資本の回転過程や循環過程の具体的な要素や形態についての経済学的分析が必要であり、私のような非専門家には手に負えない問題である。しかし、基本に帰ってみればそれは資本の拡大再生産過程が曲がりなりにも大きく破綻せずに進んでいるということだろう。

(続く)

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