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2018年3月16日 (金)

「語り得ぬもの」をも語るコトバの表現力

 ウイットゲンシュタインは「論理哲学論考」の最後の部分で「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と結んでいる。実にカッコイイ表現だと思う。この「論理哲学論考」は言語の持つ論理性とその表現可能性について短い命題や論理的表現の繰り返しで簡潔に述べた名著であるが、私は最近、この「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」についてさまざまな疑問を感じている。

 B.ラッセルは数学基礎論の専門家としてこの「論理哲学論考」にはあきらかに誤りがあるが、と指摘しながらも高く評価している。私は彼が「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と書きつつ、その簡潔な詩の様な叙述によってそこに何かしら文学的表現を意図しているようにさえ思えるのである。

 こんなことを思う様になったのも、加齢とともに、コトバというものの持つ論理表現機能からは説明できない要素が非常に重要だと感じるようになったからである。例えば「行間を読む」とか「言外の意味」は昔から言われてきたことではあるが、詩や文学的表現はコトバの持つ論理表現以外のコミュニケーション機能をフルに用いている。つまり「語り得ぬもの」を語っているのである。もちろんしこうしたコトバの言外の意味を指令書や業務文書の中に見いだしてその背後にいる人の暗黙の意図を「忖度」するなどというのはコトバの機能の間違った用法であろう。

 「語り得ぬもの」は話し言葉と書き言葉によってかなり違うようにも思う。音声により聴覚に訴える言語はどこかで音楽的表現につながるし、どこかで人間の深奥にある本能に触れる。書き言葉による表現は文字という記号や図形が持つ論理表現性を用いた記録性に重点が置かれているが、その中に含まれる形態的表現の視覚芸術につながる要素を持っていて、「美しい」と感じる感性にも触れる。

 このどちらもが人間社会の中で諸個人が自分と他者の間で交わすコミュニケーションの手段として用いる言語の機能であるといえるだろう。そしてそれはその共同体社会がどのような形で成り立ち、その社会を構成する諸個人がどのようにその中で役割を演じているのかによって形態が違ってくるのだと思う。だから地域や歴史によってそれの言語体系や形態は大きく異なる。しかしまた、それがどんなに違っていてもその基本的部分は翻訳可能であり、人類共通の論理体系を含んでいるように思う。

 しかし、コトバの表現機能は、そうした共通の論理体系だけではなく、そのコトバが語られた背後にある様々な状況や歴史があって表現するときの具体的状況やニュアンスなどで初めてその一言の意味に深いものを感じさせるのであろう。例えば、私事を持ち出して申し訳ないが、もう20年も前に、認知症を患って介護施設に入っていた老母に会いに行ったとき、母は会っても私の顔を忘れていたのに、別れるときになって、私の手を握って 「帰りたい!」と一言いった。その母を振り切って部屋を去るとき、私の背中を見ていたであろう母の思いがどんなものであったか、今になってますますそれが痛切に感じられるのだ。

  母は戦争中、父とすでに不仲になっていたが、空襲をさけて新潟の実家の近くに3人の子どもを連れて疎開することになった。当時私はまだ4歳で鉄道の駅から2里半もある疎開先まで歩ききれず、途中、母に負ぶってもらって行った。そして戦後再び東京の父のもとに帰ってきてからも子供達のために田舎にヤミ米の買い出しに出かけていた。そんな思い出が母の「帰りたい!」の一言によって一気に私の脳の中を駆け巡るのである。

 いずれにしてもコトバが持つ力は侮れない。それは人類が共同体社会を築くことによってしか生きていけないことの証左でもあるのだから、その用い方にも慎重でなければならないと思う。

 

 

 

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