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2018年4月21日 (土)

「民主主義」の背後にある矛盾

 最近海外ニュースを観ていると、フランスで国鉄労組や航空会社のパイロット組合のストライキが続いており、かなりの労働者がそれに参加している様だ。しかし、繰り返されるストにパリの駅では乗客たちの反発が強まっている様だ。いつものパターンである。かつて日本でもこうした光景が繰り返された。そしてそれは「庶民の日常生活に与える影響が大きい」という理由で、労組側への暗黙のプレッシャーが強まり、やがて交渉は妥結する。労働者は「庶民」から区別され、「庶民」はつねに正義なのである。

 ストは労働者の権利であることが主張されながら、それは反面で労働者の「エゴ」と経営者の「寛容さ」との間せめぎあいの様な受け止め方をされる様になり、行き着く先は「労使協調」というところに「落ち着く。「会社が利益をあげれば労働者も潤う」という意識がそこに根強く存在する。
 こうしてストやデモの様な場面では常に「労働者」と「一般庶民」は区別されるのである。この「労働者たち」と「一般庶民」を区別する見方はどこから来るのか?
  実はこれこそが「暗黙の支配的イデオロギー」なのだと思う。この「暗黙の支配的イデオロギー」の裏には、「庶民の日常生活を護る」という形で、現実に階級社会である資本主義社会をあたかも労働者も資本家も一体となって国を構成している社会、つまり階級など存在しない社会として見せるという機能を果たしていると言える。
  この「暗黙の支配的イデオロギー」とはその社会での「社会常識」という形で現れ、こうした「社会常識」の上に成り立っている政治形態がいまの「民主主義」なのである。
 この「民主主義」は、例えば全ての住民が投票権を持ち、住民の 選挙によって選ばれた代表者が政治を行うという形であり、「自由」で「平等」な社会での普遍的政治形態であると考えられている。
 しかし、ここでの「自由」はつねに「エゴ」と裏腹であり、「平等」は「画一化」と同義語になっていく。だから自由に意見を言うことが、勝手な主張ばかりして社会の秩序を乱していると言われ、何が何でも「格差是正」と叫ぶのは画一化だ」と言われるとにもなる。
 そうなると今度は、「能力あるものが社会の指導層になることは当然だ」という意見が「正論」として受け止められ、能力ある経営者のもとで皆が協力して一体になって働くのが良い社会だ、という主張が常識化され、やがて「強いリーダー」への要望が強まり、独裁的指導者が容認されて行く。
 こうして近代の歴史では「民主制」は結局烏合の衆の不毛な論議をもたらす主張がリアリティーを持つ様になり、それへの反動が「強いリーダー」を求める要求になり、やがて独裁色の強い指導者が登場して権力を振るう様になる。やがてまたその反動で再び「リベラル」を標榜するグループによって「民主制」が登場するということが繰り返された。民主制と独裁制はいわば同じものの表と裏の関係の様に思える。
 いまの社会が「強いリーダー」のもとで「消費を拡大することが社会を豊かにする」という「社会常識」のもとで、過剰な消費を促進させることでしか経済が発展しなくなっており、有限な地球においてはいつか必ず破綻を来すことが明らかになってきていながら「リベラル派」含めて誰もそれを止めることができない。
  それは全ての社会的分業形態がその矛盾を誰にも止められない様な社会構成として存在し、あらゆる人々はその中に組み込まれて働いているからである。
 そこには個人的性格や主張がどうあろうとも、社会を支えるために必要な様々な種類の労働が、労働者の労働力を買い取り支配する一握りの人たちの手に握られ、「自由市場」という激しい生存競争の場のもとで彼らがその労働の産物(これが価値であり資本である)を売買し合うことで「成長」する階級と、自分の能力を「労働力商品」つまり価値・資本を生み出す商品としてそうした階級に売りに出さねば生活できない状態にされている絶対多数の労働者階級(いわゆる庶民の本質的立場)がいて、この社会全体は成り立っているのだ。
 全ての分業種つまり資本家企業においてこうした労働力の売り買いが「雇用契約」という形を通して行われ、「強力なリーダーシップの経営者たち」によって買い取られてその指揮監督のもとで行われる労働の過程で、自らの労働力を再生産するために必要な生活資料の価値分を超えた労働によって生み出される剰余価値が無償で吸い取られ、それが労働者自身を支配する資本の力になっていく社会、それが資本主義社会である。
  「強力なリーダーシップの経営者たち」にとっては、競争に勝つことが使命であって過剰消費による地球資源・環境の破壊がもたらすであろう破滅的危機などどうでも良い。そしてそこに雇用されて働く労働者たちはただ所属する分業種において様々な形で「強力な経営者」のための資本増殖への機能を果たす歯車としてしか存在意義がない。
  こうした社会をその普遍的姿として位置付けようとする「社会常識」のもとで「民主的選挙」が行われる。その当然の結果として選ばれた支配層を代弁する立場でしかない政治家たちはグローバル資本の渦中にある世界で「国の総資本を代表して」他国と利害をせめぎ合う。
 こうした世界における基本的矛盾が土台から克服され、本当の意味で階級のない社会での生産と消費が実現されないない限り、その矛盾を覆い隠す様な「自由」や「民主主義」はニセモノであるとしか言いようがない。

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