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2018年5月21日 (月)

再び「誰が資本家?私は労働者?」について

 以前一度この問題に触れたことがあったが、いま国会で「働き方改革法案」が審議され、その中にいわゆる「高プロ」条項が含まれるために議論が混乱している状況を見ると、ここでもう一度一体誰が労働者なのか?について考えてみる必要があるようだ。

 マルクスが資本論を書いた19世紀中葉の時代には、労働者はまさに工場で油まみれになって12時間以上働く人々であり、炭鉱の地下で命がけで長時間労働を行う人々であった。しかし、21世紀のいま、働く人たちは、同じ賃金労働者であっても、たとえば管理部門では、コンピュータで様々なソフトを動かし、労務管理や財務管理、そして企画書作成などを行う人々もあり、生産場面では、やはりコンピュータで設計図を描き、シミュレーションで試作過程を短縮し、品質管理でもAIが用いられ、製造現場の労働者もロボットの監視役になっていたりする。19世紀とはまったく様変わりしている。
 一方で資本家はいうまでもなく「人格化された資本」として資本の目的意識を持ち、資本の戦略を身を以て実践する人々である。
 生産手段の私有化という資本主義の基本原理も、個人による文字通りの「私有」ではなく、企業という「法人」が所有する形である。そしてその企業はそこで働く人間や設備などを含めていわば「商品」として売買される。いわゆる企業買収である。
 さらには、その企業に出資や投資して経営権の一部を握る人々(株主などとして)が多数存在し、中には中産階級化した労働者も株主としてほんのわずかではあるが企業の経営に関与している。これでは誰が資本家なのか分からない。
 このように分散化され階層化された労働者階級と資本家階級が「階級」の存在すら見えなくしている状態で考えねばならないことは、これらが資本主義経済体制特有の分業形態であるということだろう。労働者は資本の生産過程での役割をその時代の技術的水準に応じて分割され分担させられる。そして資本家もその資本の意図の実現という機能を様々な形で分業化して分担している。
 これらの分業形態のどこに労働者と資本家を区別する一線があるかを考えてみれば、それは「労働賃金がなければ生活できないかどうか」であろう。労働者は生活のために労働し、資本家は企業利益という形で資本を増やすことを目的とし、雇用した労働者の労働力をそのための「道具」として用いる。
  たとえば、商品企画や経営戦略の作成などを行っていて自分たちの仕事の内容が企業の利益に直接結びつくものであっても、企業から賃金を受け取って生活している人が大部分であり、これらは一応労働者といえるだろう。彼らは企業を解雇されれば他の就職先を見つけなければならない。
 一方で、この会社に投資している人々は直接にその商品企画や経営戦略の作成は行わず、ただそれが利益に繋がるかどうかを「評価」するだけである。こういう人々はその持ち株がなくても生活できるし、その会社に雇用されているわけでもない。かれらは単に株式市場の動きによって株を売買しその差額によって労働者の生み出す価値の一部をピンハネするだけの資本家である。
 そして企業のいわゆる経営陣の人々は、自分たちの経営手腕で企業の利益を上げ従業員を養っていると自負し、多額の報酬を受け取っているが、実はこれは労働賃金とは全く別の「報酬」である。彼らはまさしく資本の支配権と意志を遂行する「機能資本家」なのであり、その「報酬」は労働者達の生み出した価値である。従業員を養うというポーズを取りながら労働を搾取し、会社の利益のために必要とあらば大量人員整理も辞さない。
 いわゆる「高プロ」は高度な頭脳労働によって企業の利益に直接結びつく労働を行うことで高額な賃金を受け取っている「労働貴族」であるともいえるだろう。しかし彼らも労働者のはしくれである以上は、長時間労働などで心身共に疲弊して労働力を破壊されるようなことがあればこれは一種の労災である(もっとも企業はこうした高度な労働力は失いたくないであろうが)。いくら裁量労働といえども彼らだけが長時間労働を許される理由はどこにもない。
 さらに世の中を見れば、一人社長といって建設業界などで大企業からの仕事を下請けし、自らの裁量で一日12時間以上も働いている「経営者」もいる。彼らはていの良い形で親会社から自立した企業の経営者という形を採らされることで、労働基準法から外されている実質的下請け労働者である。
 そしてもっとも困ったことは、実質賃労働者であるにも拘わらず、高額な賃金を受け取ってはたらく「労働貴族」たちがいまの資本主義社会では「中産階級」を形成し、彼らは自分たちを労働者階級の一員ではなく、「市民」なのだと自覚していることである。そして彼らは下層の労働者に対して一定の優越意識を持ち、自分たちは優秀だからこういう豊かな生活の恩恵に与れるのであり、能力のない者はそれなりに貧しい生活をしても当然だ、という潜在意識をもっているということだ。
 こうした「市民意識」を持つ人々は自分たちは「社会人としての良き常識」を持っており、人々に迷惑をかけることはしない。だからストライキなど反対だ、と言ったりする。
 しかしよく考えて欲しい。彼らが比較的リッチな生活を営み、「良識ある市民」として優越意識を持てるのも、実は下層の労働者の過酷な労働のおかげであり、もっと言えば世界中の「低賃金諸国」(こうした国々ではいまだにマルクスの時代の労働者と同様に過酷な労働が再現されているのである)での膨大な数の労働者の労働を搾取しているグローバル資本の「おこぼれ」を回り回って頂戴しているからに過ぎないのだということを忘れてはならないだろう。

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