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2018年6月22日 (金)

朝日デジタル版「哲学者が語る民主主義の限界」の限界(その2)

(その1)から続く。

 一言でいって、若き支配階級のインテリたちが抽象論をもてあそんでいるに過ぎないという感じである。

 人権は確かに「人間として充実した意味のある人生を送るための条件であり権利」である。そしていまの民主主義はこれを実現するためのシステムにはなっていない。何故か?その原因を探る姿勢がこの二人のインテリ知識人においてはきわめて抽象的であり、さらにいえば「上から目線」なのだ。

 たとえば「民主主義の価値の中心は平等だ」と言い、決定に平等な参加が出来るためのメンバーシップが必要だという。しかしこれは具体的には何を指すのか?いまの人々も「国民」というメンバーシップを持たされているではないか。それもマイナンバーというIndexを付けられて。 それなのに、選挙で投票した政治家達は政治の場でトップダウン的行政を行い、選挙民はみなそれをあるときは反発しあるときは熱狂しながらも「われわれの選んだ政治の専門家がやることなのだから」と言って結局それに従うことになる。

  若き二人のインテリたちは民衆達にも「価値と知」が必要だ、と言うが、それはオカネもなく忙しくて時間もなく高等教育のチャンスも少ないフツーの人たちにとっては無理な相談である。
 また、彼らは、価値(Value)=事実(Fact)=権利(Right)だという。しかしたとえ科学的事実が探究されてもそれを認識し理解する人の立場(社会的位置関係)によってそれは違った意味(彼らはこれを価値といっているようだが)を持つ。そしてそれを自分たちの立場の権利に結びつけようとするだろう。
 また、「国民国家と民主主義は相容れない、民主主義と主権は相容れない」とおっしゃるが、ガブリエル氏のいう「主権のない民主主義を考えるべきだ」という主張もあまりに抽象的すぎて何を言っているのか分からない。
 問題は「主権」とは誰にとっての主権なのかではないのか?近代の民主主義体制自体が、フランス革命以来本質的には変わっておらず、要するに私的所有の権利と自由を手にした階級がその「平等」を主張して政治の舞台に登場したことから始まる。そしてその私的所有の元となる価値を日々の労働において生み出している人々はむしろその富を私有する人たちのための道具にされてしまっている社会がいまでも続いている。本来は社会的共有財となるべき社会的な富が個人に私有され、それを多く持つ人ほど社会的におおきな権力を行使できる社会になっているではないか。富を私有する連中は互いにそれを増やすための「自由競争」を繰り広げ、そのために働く人々は労働現場で酷使されている。いまはグローバルな競争の中で、「途上国」の労働者が過酷な搾取のもとに置かれ、「先進国」の労働者達はそれによって自国の支配層が得る莫大な富のおこぼれを頂戴して「中間層」の地位を維持している。
  最近ではこの状態が崩壊しつつあり、途上国の紛争(その本質は階級闘争)で生活が不可能となった人々が「先進国」にどっと逃げ込んできたため、先進諸国の労働者階級も排外主義に走り、「国民国家」はますます閉鎖的国益主義に傾いている。
 マルクス・ガブリエル氏はカール・マルクスの本をちゃんと読んでおられないようだ。
 要するに「国民国家」とはそういう機能をもった統治機構なのであって、「行政と住民は知識的に非対称性を持っている」などとおっしゃっても、それは国民国家では支配層が行政を行い住民は被支配層なのだから当然なのである。
 さらに、この状態を克服するために専門家達を参加させる「公聴会」が必要で、ある場合には議会だけに頼らずに国民投票も必要だ」などとおっしゃるのは、あまりに現実をご存じないし、こんなことでは事態は到底片付かないのだ。イギリスのBREXITの実状を見てほしい。
 さらにいけないのは、民衆に「倫理の教育が必要だ」などと主張するのは、支配層の支配的思想を小さいときからたたき込み「洗脳」しておけば、無駄な議論や混乱を防ぐことができるということでしょう。まるっきり支配層側の思想ではないか。
 こういう主張をする方々が「国民国家モデルをグローバルに拡張した連邦モデルを目指すべきだ」などとおっしゃってもそれがグローバルな支配構造をつくることでしかないのではないか?このような形で国境がなくなっても、相変わらず強権的行政に支配される庶民とその状態にあきらめを感じ、従うしかない彼らの状態は変わらないだろう。
 問題は、共同社会をともに支える労働を行う人々が、ともにその生み出された価値を共有でき分かち合える様な生産=消費体制(経済システム)を生み出すことが必要であり、それによって初めてともに共同社会の一員であることが自覚でき、協力し合う気持ちになれる体制が可能となるのではないのか。そこに自然に共同体としての倫理や結束がうまれ、それは国境を越えた共同体社会へと発展しうるようになるのだと思う。
 こうした普遍的な社会の形態を前提にするのでなければ「人権の普遍性」を唱えてみても意味がない。
 このような考え方は偏った左翼思想でしかも古い思想ですか?マルクス・ガブリエルさん、国分功一郎さん。

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