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2018年9月

2018年9月30日 (日)

ステファーノ・バルトリー二「幸せのマニフェスト」をめぐって (それへの批判2)

(3) バルトリーニが指摘する「権力をもった少数者の利害関心の影響力が多数者である民衆のそれよりもずっと大きくなり、政治システムは少数者の目的に従って変えられていく。政界のエリートたちは、世論を操作し導くことことを学んでいる」という「ポスト・デモクラシー」状況は前回述べた商品所有者による社会的経済システムの支配する資本主義社会の成立過程つまりその存在理由からいってもその社会システムを維持発展させるために必要な政治・思想的統治機構としてはある意味で当然なのである。そこでは支配階級の社会観や世界観が「支配的イデオロギー」として社会常識化されるため、人々は無意識のうちにこの「支配的イデオロギー」によって洗脳される。

 そして「平等な諸個人」から代議員が選ばれる選挙は商品の販売競争とほとんど同じ状況で行われるのである。 もともと権力を持たない労働者階級と支配的権力をもった資本家階級があたかも「商品売買で対等な個人」として見られる社会の政治的統治システムでは、選挙民はいわば「購買者」として「候補者商品」を選択する。そしてさんざん「購買者」に「候補者商品としての差別化」 を訴えるが、当選するやいなやこの社会の実質的支配者である資本家階級のやり方に添って、その商品の「差別化」は、支配階級によるリアルな経済的・心理的圧力のもとで「リアルポリティックス」という形となって、深刻な対決とはならず、つねに背後にある本質的で重大な問題は見えてこないのである。そして選挙民はそれにあきあきして政治に関心が持てなくなっていくのである。 

 だから政治資金の規制とかマスコミへの規制などは、それをやらないよりはやった方がよいかもしれないが、ほんの少しの気休め的効果しかもたらさないのであって、被支配的立場の人たちが支配的立場の人たちによる統治に対して持つ不満をかわすための手段でもある。

 ちなみにマルクスが考えていた直接民主制は、あくまで労働者階級自身が社会的生産の主役であることが条件であり、その上で「社会的に統治される者が統治する」という形が生み出されなければならないのである。

(4) バルトリーニのいう「働き方を変える」ための提案は私にとっては受け容れ難いものと感じられる。彼は「内発的動機付けによる労働」が「幸福感の向上」には必要であるとして、そのための処方箋をいくつか挙げていたが、そもそもなぜ労働が外発的動機付けによって行われる「苦役」であり、労働時間を減らそうするとがなぜ経済的成長と相容れないのか、そして労働を自発的に行えるように外から仕向けなければ生産性を上げられないのか、が問題である。

 マルクスが「経済学・哲学手稿」で指摘したように、人間は元来、共同(協働)社会を形成することで生活する「類的存在」であり、その社会の構成員である諸個人は、その社会での役割を能力に応じて分担し労働することによって自分が何者であるかを自他共に実証し認識する存在である。それが資本主義社会にあっては、自分の能力の証明である労働力を売り渡さねば生きて行けない人たちを、自分たちの富を増やすために必要な「道具」として用い、それによって社会的に必要な生産が行われるのであって、そこでは基本的に労働は自分の内発的動機によって行われることはない。高度な頭脳労働であってもそうである。

 この資本主義的労働の本質的矛盾をそのままにして、外側から内発的動機付けを行おうとするのは、労働者の労働における疎外感を「やりがい」という意識に変質させるための「支配的イデオロギー」で洗脳することで自分たちの経済的目的にうまく適合させるための方策以外の何物でもない。それは一見、やりがいをもって自分の仕事を行う前向きで模範的な労働者を生み出すように見えるが、実はそれによって労働者が自発的に長時間労働を行ったり、残業を厭わなくなることを目指しているのである。

 日本では悪名高き 「裁量労働制」や「高プロ」という働かせ方として存在する。 これは結局過労死や精神的疾患を増やし、労働者階級は結局自分たちが資本家たちの共同体にとって必要な道具以外の何物でもないことを知らされるのである。

 バルトリーニのいう「幸せを生む人間関係性」を獲得するには、こうした「対症療法」だけでは不可能であって、基本的に非人間性の本質をもつこの資本主義社会のメカニズムを変えていかねばならないはずだ。それは自己実現と自己表現の手段である労働力を私的利害達成の手段として用いる他者に売り渡さねば生きて行けない労働者にとってはまだ遠い彼方にしかないのである。本当の「幸せ」を働く人たちの手に取り戻すことは、この資本主義社会の本質的非人間性を見抜き、その理論的理解を深めることから始めなければならないのだと思う。私もそうしているし、若くて優秀な研究者であるバルトリーニ氏にもぜひそうして欲しい。

(以上)

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2018年9月29日 (土)

ステファーノ・バルトリー二「幸せのマニフェスト」をめぐって (それへの批判1)

 以上がバルトリーニの考え方であるが、それに対して、私が感じたことを、2回に渡って「批判」として述べることにしよう。

 まず彼による現代資本主義社会における諸矛盾の指摘は、ある意味で当をを得たものといえるだろう。しかしそれは現象面を見た限りの指摘であって、こうした矛盾は少しでもまじめに生きようとしている人には誰でも感じられる疑問として現れる。問題はその深層にあるより本質的な矛盾をつかみ、それとこうした矛盾の現象面との関連を構造的に把握できるかどうかにかかっている。
 (1) まずバルトリーニは現代資本主義社会がどのように形成されてきたかを考えるべきであろう。形成過程こそ、その存在理由なのだから。
  それは16世紀からの300年あまりの商品経済の発展の到達点として19世紀ヨーロッパ特にイギリスでの産業資本主義社会という形での自律形態を完成させた。それは、富の私有にもとづくその自由な売買による利益の追求が社会的規範となり、私的な個人どうしがそれぞれ所有する商品の売買によって欲望を達成する社会の成立でもあった。

  しかしこの成立過程で、商人たちが自分たちの富を用いて社会的生産に必要な生産手段をまるご買い取り、それによって自ら自律的に生活するために必要な手段を失った農民や労働者はつねに自らの労働力を売りにだし、その労働力を日々再生産するために必要な生活資料を資本家の所有する商品として市場から買い戻さねば生きて行けない状態を強いられことになったのである。

 そこで「平等」とされている商品所有者は実は社会的に必要なモノの生産に必要な生産手段を所有する人たちと、自分の労働力しか持っていない人たちに大きく別れており、その二つの階級間での商品の売買、つまり労働力を買って自分の所有する生産手段と労働力を結合させて社会的に必要なモノを商品として生み出し販売する人たちと、労働力をその人たちに売って生活に必要な商品を買い戻すことで生きていかざるを得ない人たちという決定的に不平等な関係での商品の売買で成り立っているのである。

 生産的労働の場ではあらゆる労働手段(機械設備など)は、一定の労働時間でいかに多くの商品を生み出せるかという資本家の「合理化」視点から生み出され、労働内容はそれに合わせて細分化・並列化されることで著しく生産性を向上させていったのである。
 この状況はエンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」に見る様な悲惨な労働現場と生活状態を生み出し、やがて労働者のやむにやまれない抗議行動から政府が労働者への保護政策を打ち出さざるを得なくなっていったのだ。
 バルトリーニのいうような「あらゆる機械の助けを借りて働き方をより快適で生産的なものにして行けば労働の重荷は軽減されるだろうという期待」など実際には誰ももっていなかったのである
 そして資本家にとっても労働者階級が絶滅してしまえば自分たちの富もありえなくなるという事態が現実化し国家レベルでの法体制や労働への一定の配慮へと押し進めていったといえる。
 そしてこの結果生み出される富は、生産力の向上とともに資本家にとってはそれが過剰資本としてプレッシャーになっていくという逆説的事態をもたらした。本来は社会的に必要な富が増大すれば社会全体がリッチになるはずだが、それが私的な富として蓄積されるためにこうした矛盾が現れるといってよいだろう。まさに資本主義的富の生産の矛盾である。
 そこでこうした事態に対してケインズらの経済学者が「有効需要の創出」を重視しはじめ、困り果てた資本家階級もそれを「総資本」の立場の代表機関である国家の政策として打ち出させる方向に向かったのである。
  労働者階級の購買力を高めそこで消費される生活資料商品は資本の再生産に直接結びつかないため過剰資本とならないことに気づいたのである。資本主義的富の生産の「逆説的矛盾」への資本家的対処である。
 こうして公共投資と金融政策を駆動力として雇用と労働賃金を向上させどんどん消費させることで経済が成長するという「消費駆動型」資本主義体制が出来上がったのである。
 (2) しかしここでも資本主義体制そのものが持つ基本的矛盾、つまり富の私的所有を求めるための市場での自由競争が前提となった社会的労働が行われ、労働者階級は相変わらず労働力商品として資本の下僕であり続ける。だから資本家にとってどんなに「経済成長」がもたらされても、労働者階級は相変わらず社会的生産体制の主役にはなれず、資本家の「おこぼれ」を待つことしかできず、その「おこぼれ」によって資本家のマネごととして「モノを買う」ことで幸福感を得ようとするのである。
  そして労働面では、「富裕国」では頭脳労働者が増える一方で「貧困国」では長時間の単純肉体労働が拡大され、その「貧困国」での大量の低賃金労働がもたらす莫大な富を蓄積するグローバル資本は自国の頭脳労働者にその「おこぼれ」によって労働への「インセンティブ」を与えようとする。
  しかし、資本家的「合理化」は当然頭脳労働の場にも適用される。だから労働は競争の圧迫に晒されストレスフルになり精神的負担を増す。最近のAI(人工知能)の導入はこうした状況への資本家側の「合理化」であって、そこでは人工知能というストレスも精神的負担もなく文句一つ言わない「ソフトウエア・ツール」が生きた人間の労働者の存在理由を小さくして行く。 そこで人間の労働者はそのプレッシャーに耐えるためそれを消費面で補おうとする。そのため労働者はより高い賃金をもとめていっそう働き生産資本家に貢献する。そして商品の購買面でも流通・商業資本家に貢献する。これがバルトリーニのいう「幸福の逆説」である。
 しかしいまやこの「幸福の逆説」も限界点に達しつつある。モノの消費では幸福を得られないことを人々は日々感じつつあるからだ。
(続く)

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ステファーノ・バルトリー二「幸せのマニフェスト」をめぐって (その問題点2)

 次にバルトリーニの処方箋の一つ「働き方をどう変えるか」について見てみよう。

 バルトリーニは、労働を人間に対する一つの「原罪」と見て、この苦しみからの解放を求めて経済成長が目指されてきたという。あらゆるの機械の助けを借りて働き方をより快適で生産的なものにして行けば労働の重荷は軽減されるだろうという期待のもとに経済成長が行われたが、その期待が裏切られたという。そして「富裕国」においては肉体労働の面では労働の重みからの解放が劇的に進んだが(その反面で「貧困国」での過酷な長時間単純労働が拡大した---野口による注 )、別の問題を生じており、それは精神的ストレスやプレッシャー、忙しさといった形で現れているという。

 そしてアメリカなどの現代の労働者が一人当たりの給与水準がどんどん高くなっているのに対し、「労働の満足度」はずっと低いままだと指摘する。そしてこの「労働の満足度」は人の生活での幸福度の大きな部分を占めており、生活における満足度への影響が大きいという。

 その上で「労働の満足度」の相対的低下は労働時間の長さとともにその質の低下が要因だと指摘する。そしてこの労働の質の低下は「内発的動機付け」の欠如という問題と密接に関係しているという。

  バルトリーニはこのように満足度の低下した労働の働き方をどう変えるべきかを提案する。彼の主な主張は内発的動機付けの促進であり、そのためには「興味の持てるような仕事」「ストレスの低い仕事」「意味のある仕事」「人間関係・社会関係構築の手段となる仕事」を行えるようにすることだという。具体的には次の様な5つの提案をする。

 (1)働く人の自由裁量と自律性を高める。(2)圧力、管理、インセンティブなど労働組織の中でストレスを生み出す要素を減らす。(3)仕事のプロセスが面白くなるように、労働内容をリデザインする。(4)労働と生活の他の側面を両立可能にする。(5)職場の人間関係の質を改善する。---- ちなみにこれを見て私はこれは企業の労務管理者や自民党政府の「働き方改革」の視点にそっくりだと思った。

 その上でバルトリーニは、こうした提案に対する次の様な反論を想定する。こうした提案が労働の満足度は向上させるが労働生産性を低下させ、経済システムの競争力を低下させるのではないか?という疑問に、彼はこう応える。実際にはこうした労働の満足度の向上は労働の生産性を上げる結果をもたらしている。さらに彼はいう、経済的インセンティブ(報酬)により労働意欲を高めようとする試みは、さまざまな失敗例がしめすように労働の質の低下をもたらすことが多い、仕事の中身が興味深いものであることの方が重要であり、「人間は明らかに面白くない仕事であっても、自分が担当する仕事の中に何らかの興味深い要素を見つけるものである」というのである。

 そして彼は、経済的インセンティブが効果的なのは労働の成果が道理に合う形で測定可能である場合と、仕事があまりに面白くなくて内発的動機付けが存在しない場合であるという。

 最後に彼はこう締めくくる「私的利益を重視する経済体制である資本主義ですら、職業倫理や労働倫理としての内発的動機付けに基礎づけられていなければうまく機能しない。人々が対立ばかりする社会では、資本主義は続かないのだ」と。

 正直言って、私は彼は資本主義社会における賃金労働者の実存にある深く根本的な矛盾に気づいていないし、結果的にはそれを気づかせないようにして、労働者をうまく働かせようとする視点と同じであるといわざるを得ない。

 そこで次にバルトリーニに対する私の立場からの批判をまとめて述べることにしよう。

(続く)

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2018年9月28日 (金)

ステファーノ・バルトリー二「幸せのマニフェスト」をめぐって (その問題点1)

 バルトリーニは、こうした現代社会の矛盾を克服するために、「今日の経済・社会機構は、幸福感の向上とは異なる目標---主に経済的目標---ばかり見ている。われわれがもし幸福感に満ちた生活を欲するのであれば、そのような生活の促進を目指す社会を構築しなければならない。生き生きとしたコミュニティや豊かな社会関係の発展を妨げる社会的・経済的・文化的制約を取り除く必要がある」としてその具体的な処方箋について述べている。

 その処方箋は「関係の豊かな都市をつくる」「子どものために政策」「広告に対する政策」「民主主義を変える」「働き方をどう変えるか」「健康のための政策」と、それらに対する反論に対する見解を述べている。

 敢えて上記6つの項目の重み付けをするならば、「民主主義を変える」と「働き方をどう変えるか」が上位に来るだろう。なぜなら後の4つはこの2つの問題に大きく影響されるからだ。そこでこの2つの問題についてここでは取り上げることにしよう。

 まず「民主主義を変える」について見てみよう。バルトリーニは「ポスト・デモクラシー」について次の様に言う、「権力をもった少数者の利害関心の影響力が多数者である民衆のそれよりもずっと大きくなり、政治システムは少数者の目的に従って変えられていく。政界のエリートたちは、世論を操作し導くことことを学んでいる。有権者の投票行為は、政治家たちの選挙キャンペーンの影響を受ける。選挙キャンペーンは広告業界から拝借した洗練された宣伝技術を駆使して、政治を公衆に<見せる>ようになっている。一方で政党の政策プログラムはますます無内容になり、政党間の違いもはっきりしない」。こうした選挙には年々莫大な資金が必要となっていき、政治資金が潤沢な政党が選挙に勝つようになる。従って、その選挙資金は経済的支配権を持った巨大企業の支援がなければ調達できなくなっていく。こうして「富裕な1%の人々のための民主主義」が常態化し、大多数を占める民衆は政治について無関心になって行く。まったくその通りだと思う。

  彼はさらに次のように指摘する。いま移民問題を巡って、グローバリズムと反グローバリズムの対立が激化しているが、ここでの移民に対する拒絶反応が極右勢力の台頭を促している。そこではこの「ポスト・デモクラシー」が大衆先導的ポピュリズムを生み出す。しかし大量に流入する移民は加害者ではなくむしろグローバル資本の被害者なのだ。そして彼はいう、「そのため(問題解決)には、貧困国の少ない資本(労働力という観点から見れば莫大な資本であるー野口による注)を巧妙に搾取するグローバル金融権力の利権を解体しなければならない。また大規模な貧困問題をかかえている国で新しい世代の消費者を増やそうと目論むグローバル企業の利権をも解体しなければならない」と。まったくその通りだと思う。

  バルトリーニはこうした「ポスト・デモクラシー」変革への処方箋として次の様な提案をする。まず、「政党助成金と政党のマスメディアへのアクセスを支配するゲームのルールの変更が必要である」とし、「これらへの規制と政党支出の上限の設定を組み合わせれば好ましい結果が得られるであろう」と言う。それに加えて、彼は選挙結果の取り消しを保証する電子投票の導入を提案する。これはある意味での直接民主主義への接近であると彼は考えているようだ。

 この提案は提起された問題が深刻な割にはまったくそれに深入りしない対症療法としか言えない。こうした規制や投票方法の改善がもし可能であってもそれによってこの「ポスト・デモクラシー」状態がなくなるとは決して思えない。

 何が彼をこのような対症療法的解決案に留まらせているのか?それは彼が問題とする現代資本主義社会のもっとも基礎にある矛盾について彼がまったくアプローチしていないからだと思う。それについては最後にまとめて述べるつもりである。(続く)

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2018年9月27日 (木)

ステファーノ・バルトリー二「幸せのマニフェスト」をめぐって (その主張)

 数年前にこのブログでも取り上げたセルジュ・ラトゥーシュらとともに、現代ヨーロッパでの「ポスト開発派」の一派である、イタリアのステファーノ・バルトリーの著書「幸せのマニフェスト」—消費社会から関係性の豊かな社会へ(中野佳裕訳、コモンズ、2018)を最近読む機会があったので、その感想と問題点について書いておこうと思う。この本についての書評は「週間読書人」9月21日号にも書いたので、ここではより深く突っ込んだ批判を書くことにしよう。

 バルトリーニは、西欧やアメリカに代表される現代資本主義社会は消費拡大が経済成長を支えるという「経済成長神話」が支配しており、そこでは働いて得た収入でものを買って消費することを生きがいにしようとする生活が一般的になっている。それにも拘わらずその生活は幸福感がない。そのためさらに新たな商品を買えるようにより多く働いてより多くの収入を得ようとするためにストレスが溜まっていく。こうして労働者の所得は増え、消費は拡大され、経済は成長する。しかし人々は少しも幸福感を持つことがない。
  バルトリーニはアメリカにその典型を見るこうした状況を「防御的資本主義」と呼ぶ。こうした生活では失われて行く自己の人間としての存在価値への不安や不満を補うためにモノを買うことでそれを補おうとし、幸福感の基礎である人間的関係性が経済成長の犠牲になっていると指摘する。
 さらにこうした「防御的資本主義社会」の悪循環は広告産業やマスメディアによって人々の消費欲求(ニーズ) が恣意的に生み出され、充たされない不満感が繰り返し促進され、それが常態的な過剰消費を加速する。そしてそのために地球全体で「開発」による自然環境破壊や気候変動が進むとともに、孤独や断絶感、他者への不信感などの拡大という形で社会的な人間関係性が失われていく。
 ところがこうした状況に政治家たちはブレーキをかけることができない。なぜなら、選挙によって選ばれた政治家たちはこうした状況を生み出している大資本によって政治資金も政策も実質的に牛耳られているため、人々の不満や不安への抗議を代弁できなくなっているからだ。これを彼は「ポスト・デモクラシー」という。
 バルトリーニはこうした「社会の病」の原因として次の様な事を挙げる。現代社会は「消費主義文化」であり、そこでは生活における内発的動機付け(友情や連帯、市民感覚)よりも外発的動機付け(お金による動機付けなど)を重視する。こうした文化はモノの所有を重視し、他人をモノと同様に見る傾向を生み、他者との関係を悪化させるとともに自分自身との関係も悪化させ、自己表現や自律性、自己評価を低下させる。
 こうした消費主義は市場経済システムの産物であり、「消費主義的な人間は彼らが準拠する(市場経済の)価値体系が内発的に動機付けられた活動に対するニーズをあまり重視することがないにも拘わらずそのようなニーズを持ち続けるため」幸福度が低いのだと主張する。そしてそのような状態をマスメディアが促進するため自体はますます悪化する。
 バルトリーニは、こうした問題の根源には人格形成期における子どもの教育のあり方の問題があるという。
 彼はこう主張する。それは教育において人間が本来持っている「可能性の感覚(物事を試す能力、環境に働きかけてそれを変えていける能力)」を失わされるからだ。その能力はより好ましい生活を目指すための試行錯誤を可能にする。ところがいまの教育システムでは経済的・社会環境を所与のものとして前提し、個人がそれに適応できる能力を育てようとするため、可能性の感覚は圧縮されてしまう。
  そのため、子どもはなかなか自立した大人になれないし、世代間の断絶も生まれる。現代人は子どもの頃から自分の人生は強いられた道だということを学ぶ。この感覚は結局、社会や生活をコントロール不能なものとして見るような意識を育てることになる。
 バルトリーニはこうした「病んだ社会」への、それに取って代わるべき「社会関係財」を重視した社会への処方箋として、他者との比較と競争ではなく自己表現としての「可能性の選択」ができる子どもの教育、広告に対する規制、マネーと政治の切り離し、外的動機付けではなく内発的動機による働き方、健康のための政策、公共空間を重視した都市生活、 などについて具体的に提案している。
 バルトリーニの主張のポイントは、経済成長を主要な目標とする現代資本主義社会の病理を克服し「脱物質主義的文化」に向かうためには、まず社会がモノに対する所有や消費への利己的欲求を充たすための手段としての経済的動機付けに支配されるのではなく、社会的共有財を重視し、それを中心とした生活における豊かな関係性に基づく幸福感のある社会の構築が必要であり、それを支える内発的動機にもとづく労働が重視される必要があるという点であろう。ここまでの彼の主張はおおむね賛成である。しかし、これを変革するための方法や提案については疑問を感じざるを得ない。次にそれについて考えてみようと思う。
(続く)

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2018年9月25日 (火)

10万アクセスを超えました。

 このブログを2007年に初めて、やっと10万アクセスを超えました。しかし特定のページにアクセスが集中しているので、もうすこし他のページも読んで頂けることを期待したいです。

 以前NHK-TVで放映していた中国深圳の三和人材市場のドキュメンタリーについて感想を書いたところ多くのアクセスがありました。多分ツイッターかなにかで取り上げられたのでしょうね。そのときは中国からのアクセスも少ないながらありました。
 しかし昨夜このドキュメンタリーが再放映されて再び多くのアクセスがありましたが、今回は中国からのアクセスはありませんでした。中国政府当局がアクセス規制をかけているのでしょうか?
  いまアメリカと貿易戦争で覇権を競っている世界第2位の経済大国で、その底辺で希望を失い「オレたちはもうその日暮らしの三和ゴッドから抜けられないね。絶望的だよ」と自嘲的に言い放つ若者たちは何をどこに訴えていいのか分からないのでしょう。「好景気」といわれる日本でも「格差」の拡がるいま、他人事ではありません。おそらくアメリカでも底辺では似たような状態でしょう。
 それにしても当初はこのブログへの意見や反論があると考えていたのですが、あまり反応がなく、ブログというものは一方通行なのだということが分かりました。意見交換をのぞむならばどこかにそのためのサイトを立ち上げねばならないのかもしれませんが、このトシになるとなかなか新しいことを覚えるのが大変で未だそこまで行きません。
 とりあえず何か意見がありましたら「コメント」にでも書き込んで頂ければ幸いです。

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2018年9月21日 (金)

S. バルトリーニ著「幸せのマニフェスト」書評について

 ステファーノ・バルトリー二著「幸せのマニフェスト」という本が「コモンズ」から出版されました。この本の書評を「週間 読書人」9月21日号に書きましたので、興味のある方は読んでください。

 現代ヨーロッパでの「21世紀型左翼」ともいえるS. ラトゥーシュの思想に代表される 「脱開発」派の流れを汲むバルトリー二の現代消費社会への痛烈な批判とそれに対する対案が具体的に書かれた本で、ラトゥーシュとは一味違うさまざまな具体的データに基づいた内容です。近々このブログでも詳しい感想を書くつもりです。

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2018年9月20日 (木)

地球規模で拡大する格差社会と大量の難民

 こうした「格差」は日本だけではなく国と国との間でも起きている。いまヨーロッパやアメリカでは中東やアフリカ、そして中米などの国々から大量に流れ込む移民で社会が混乱している。

 ヨーロッパでは東西冷戦終焉後EU圏の拡大で国境が低くなり人々やモノの国境を越えた移動がしやすくなった。そして西ヨーロッパの高度消費社会化した国での労働力不足を補うためトルコや東欧などから多くの人々が西に移り住んだ。これはいわば「許容範囲」であったが、シリア内戦などを機に中東やアフリカから大量の貧困化した難民が流れ込んでくると、EU全体でこれに危機感を持つ国が増え、自国の生活様式や雇用を守るため難民を阻止しようとする動きが急速に拡大した。
 アメリカではかつて世界一の生活水準を誇った自国で高賃金化した生活になじんだ白人労働者たちが、いまその賃金水準ゆえに雇用にありつけなくなり、貧困化していく状況にあって、トランプ大統領が自国の雇用を守るためと称して低賃金でも働く移民労働者の入国を厳しく規制するようになった。
 こうした動きの背景には、東西冷戦後、世界中に進出拡大したグローバル資本がまだ高度に資本主義化されていない国々で、生活資料への出費が少なくても生活できることを理由に労働者を低賃金で雇用し、そこで作り出した生活資料商品を割安で高度資本主義諸国相手の市場に投入することで莫大な利益をあげるようになったことがある。
 こうしたグローバル企業は最初は低賃金労働の確保に走ったが、その結果大量に生み出されたそれらの国々の賃金労働者たちが資本家のもとで生み出した生活資料を購入して生活するようになり、賃金労働者としての均一化した生活のパターンに組み込まれていくようになると、そこを新たな生活資料商品の市場として活用するようになる。
 これまで非資本主義的な国々でその地域社会独自の伝統的生活スタイルで生活していた人々が、オカネがなければ生活して行けない資本主義的生活様式に組み込まれていったのである。そのためそれらの国々の人々はグローバルに均一化された資本主義的生活様式での水準で測られるようになり、グローバルに「貧困化」が可視化されるようになったのである。それによって同じ労働を行っても賃金が何十倍も違う国があるという現実を人々が知るようになったのだ。つまり国際的な格差の現実化である。
 そこに紛争による生命の危機と生活の破壊がやってきて、それらの人々はまともな生活を求めてヨーロッパ諸国にどっと逃れ出ることになったと思われる。
 つまり、高度化した消費主導型資本主義国の内部で拡大した「格差」が生んだ貧困層と、世界レベルで生み出された格差が顕在化させた貧困国の人々との間で「労働力商品」どうしの競争状態を生み出しつつあるといえる。
 本来同じ立場にあって貧困化させられた人々が互いに生活を守るために競争し合い対立し合っているのである。これこそ世界を実質的に支配しこれらの貧困層を生み出してきた張本人であるグローバル資本にとってその事実を覆い隠すにはまことに好都合な状況なのである。
 この問題はおそらく今後より深刻さを増し、国際的生活水準の差と労働力の価格の差がなぜ生じるのかという問題は国々の格差をなくそうとする動きにつながっていくのではないかと思われる。いまこそ「万国の労働者団結せよ!」という言葉がリアルで喫緊な意味を持つのではないだろうか?
 

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「格差」を付けられる人間の能力と価値

 このように均一化された生活とそれを構成する生活消費財の購入に使える収入の差として可視化され差別化される社会は、その社会としての成り立ち自体が格差を生む仕組みになっている。

 そこで働き社会に貢献している人々はその「能力」をオカネで買い取られなければ生活していけない。「能力が高い」とみなされた人は高い賃金で雇われる。だから生活資料の購入により多くのオカネを支出することが出来る。
  ところがこの働く人たちの「能力」を評価する人たちはそれを社会にとって必要度が高いと判断するのではなく、企業に利益をもたらし企業のために貢献してくれる能力が高いとして評価する。つまり働く人たちの「能力」は企業により多くの利益をもたらしくれるかどうかによって決まる。社会にとって必要かどうかはそのための手段でしかない。
  そしてこの「社会にとって必要」という場合の「必要」それ自体も企業によって作為的に生み出されていく。例えば「これからはインターネットとAIが結びついた生活が常識となる」と言われ、そのために必要な能力が「社会にとって必要な能力」とされる。しかしそれは働く人たちの側から発せられた目標ではなく、企業側が利益の増大を図るために描く「次世代社会」のイメージ宣伝によってそういう能力が「売れる」ようになるのだと思い込まされる。
  だから若者たちはそういう能力を養うことを目標として努力を傾けるようになる。その中でこういう能力を身につけられない人たちはますますその存在価値を失って落ちこぼれていく。 こうして「社会的必要」が産業界の主導によって生み出され、その中で労働力の「格差」が拡大していく。
 生活資料を構成するモノたちと同じように働いて生活を営む人々の能力(労働力)自体も商品として価格付けされる。人間としての能力を賃金の差として可視化し人間の価値の差とする社会で、それらの「格差付け」された人々が企業の目的に従って働いて生み出す商品の購入により成り立つ生活がその購買力の「格差」として再生産される。
 しかし働く人たちの能力は企業に利益をもたらすかどうかで格差付けされるようなものではないはずだ。それはどのような内容であれ等しく社会のために必要な労働として質的には平等に判断されるべきであり、その働いた平均的時間の長さによってのみ収入の差が出ることになるはずだ。
 年収何億円もの人気スポーツ選手と、月収25万円たらずで不意の停電が起きないよう毎日汗水流して配電線の補修工事を行っている人たちの、いったいどちらが社会的な必要度が大きいといえるのか?
 そうした、いわれなき能力の格差がどうしてその生活内容自体の「格差」にならなければならないのか?人間の能力は商品ではない。だからそれに価値付けなどできるはずもないのだ。

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「格差」とはなんだろう?

 いま社会的格差が問題となっている。「差別」は、性差別、障がいによる差別などさまざまな内容を含む問題であるが、「格差」という場合には収入の差による生活水準の差を指すことがほとんどである。

 しかし、「格差」が何で最近特に問題になっているのだろう?それは次の様なことではないかと思われる。
 「格差」が問題となるのは、それを比較する「格」の基準があるはずだ。例えば収入の差といっても収入が少なくても質的に高い生活が保たれていればそれは「格差」とはいえないだろう。「格差」が問題になるには質的に同じ内容の生活があって、それをある基準で「水準」として判断できなければならない。
 昔はそもそも人々の生活の質が同じ基準では測れない形だった。例えば農民や職人の生活ではそれなりの仕事や生活の質とそれに対するプライドがあり、武士階級の生活とは同じ基準では比較できない。しかし皮肉にもこうした「目に見える階級社会」が崩壊し、誰もが自分の能力を発揮する機会を与えられ、 自由な競争を通じて自分の生活の向上を図れる(ように見える)社会が生まれたために、逆に生活の格差が顕在化したといえる。
 
 いまこの社会で生活する人々の生活資料はすべて商品として量産化された同じようなモノによって構成され、労働者を雇用する企業も「自由競争」の原則に従って市場の動向から見て人気の出そうな商品ばかりを市場に送り出す。だから市場には似たような商品ばかり並ぶようになる。
 その中で「生活の質」がどんどん均一化され、同質化される。例えば同じようなデザインの家や部屋に住み、同じような家具や調理器具に囲まれ、同じような食べ物を食べ、TVや新聞を通じて同じような情報が流れ込み、同じようなスマホで会話をやりとりし、ストレス解消にゲームをやる。休日にはすでに観光娯楽産業の広告でメニュー化されているレジャーに浸る。一日24時間、1週7日間、ずっと繰り返される生活のパターンや生活を構成する部分や内容が均一化されているのだ。だから少し収入が増えるとこの均一化された生活を「差別化」しようと高価な商品を買って生活にリッチ感を採り入れようとする。そこで企業は意図的に供給量を限定したり高級イメージのブランド商品などによる「高付加価値商品」で平均より高い市場価格での利益を得ることができる。
  もちろん「均一化」は「単純化」とは同じでない。旧社会でのシンプルな生活形態はその社会の生産技術の未発達によるものだが、現代生活の「均一化」は生産技術が高度で多様な生産物を生み出せる技術を擁しているにも拘わらずそれが「均一化」されているのだ。
 
 このような均一化された生活形態を維持するために購入される生活資料の総額の差によって「生活水準の差」が分かれ、その段階が「格差」となって現れる。そしてそのために必要な収入の差が客観的な「格差」の指標となる。
 そして人々は雇用の機会を求めて都会に集中し、地方は疲弊して行く。そのため地方文化は滅び、都市中心の均一化された「サラリーマン文化」が社会を支配していく。やがてリッチになった一部の都会の人々や外国人を相手に疲弊した地方文化を観光収入の手段として再復活しようとする。しかしそれはいわば「フェイク」な地方文化でしかなく、結局都会の均一化された「サラリーマン文化」にあきあきした人々の心を癒やす補完物でしかなくなる。
 こうして生活の質が均一化されるに従って「格差」は目に見える形となり、生活を構成するモノ(生活資料)を購買できる度合いを表す収入の差がその差を図る基準となっていく。
 ではなぜ「自由平等」と言われる社会で「格差」が拡がっていくのか?
これについてはこの「自由平等社会」を支える経済的土台の問題を考えなければならない。
(次回に続く)

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2018年9月10日 (月)

ヨーロッパにおける「反リベラル派」の複雑な様相

 日本ではそれほど深刻な問題になっていないが、ヨーロッパでは中東の紛争地から逃れてくる大量の移民に対して拒否反応が強くなっている。人道的見地から移民を受け入れることを主張するのが「リベラル」で、これに真っ向から反対して移民排斥を主張するのが「極右」であるという単純な図式を考えやすい。

 「リベラル」派は「人道的見地」という普遍的な原則をそのまま現実に適用しようとしているが、実際に長年築かれてきたその土地の生活文化や人間的結びつきのあり方に、それと全く違う背景を持った人たちが大量にやってきて生活を始めれば、誰しもが違和感や危機感を持つだろう。だから「リベラル」派の主張に違和感を持つ人々が移民排斥を主張する人々に共感を持つのは当然ともいえる。

 しかし、移民排斥グループの中身は「極右」として片付けるにはあまりに複雑である。確かにこのグループには「ネオナチ」の様な本物の「極右」もいるが、ヨーロッパの人々はあの第2次大戦に至ったファシズムのもたらした結果を身体で知っており、ドイツ人などはその反省から来る「痛み」をずっと引きずってきた。だからそう簡単に本物の「極右」が政治的主導権を握るとは思えない。
 一方で移民排斥グループの中には、グローバル資本による経済と生活文化の世界支配に対する大きな危機感を持ち、それに対するもう一つの選択肢としてセルジュ・ラトゥーシュに代表されるような「ローカリズム」を標榜するグループがある。このグループの人たちはグローバル資本の支配に危機感を感じており、資本主義社会の経済成長至上主義に対抗して「成長なき社会発展」を目指してローカルな自治・自尊の社会を掲げ、地産地消、ローカル通貨、商品販売ではなく贈与による交換などを主張している。またステファーノ・バルトリーにらが主張する「コモンズ」と呼ばれる社会共有財の拡大にもとづく人間的結びつきを重視するグループによる社会提案なども実際に試みられている。
 こうしたローカリズムや社会共有財の重視などはかつてのファシズム的民族・国家主義とは異なる新たな潮流であり、19世紀のトマス・モアやラスキン、モリスなどのユートピア思想にも似た内容を持ったものとも考えられる。そしてこうした人たちが移民排斥の主張に共感を持っているのである。
 こうした潮流をどうとらえるかという問題はあらたな課題であるが、一方で戦後のヨーロッパにおける政治的「左派」の歴史においては、ヨーロッパの社会主義および共産主義運動の戦後の流れの中で、ソ連圏に代表される「社会主義国家」の一党独裁的国家主導型経済と生活に拒絶感が強く、ケインズ型資本主義とほとんど区別の付かない「社会民主主義」や「ユーロ・コミュニズム」という流れを生み出した。
 この流れは、他方でソ連型「社会主義国家」をマルクスの思想そのもととして扱い、社会主義イコール「全体主義」「自由のない国」という烙印を押してきた右派政党の流れに対抗し、平等な社会、自由な個人、といった普遍性を旨とする「リベラル」派の流れの一部を作ってきたと考えられる。
 しかしこの「リベラル」派は資本主義社会の本質的矛盾を認識していなかった。そのため、「社会主義」圏が崩壊し、「社会主義国」を自称する中国が資本主義的市場経済を導入して、一躍グローバル資本の仲間入りをする事態に対してなすすべもなく、資本主義経済を普遍的経済システムとして受け入れた上で、市民主義的「リベラル」を主張する形になっていったと考えられる。
 この中途半端な「リベラル」派の考え方がグローバル資本主義のもたらす過酷な現実に対応しきれなくなったのだと思う。そしてそれに対する人々の反発がさまざまな主張を内部に持ちながら「移民排斥」という直反発的反応として現れているのではないかと思う。
 これを「リベラル」と「極右」の対立として単純にとらえること自体非常に危険である。むしろ「リベラル」の矛盾を「左」と「右」から突く反応といえ、これを「極右」と烙印を押す前に、いまの「社会主義国家」の矛盾やリベラル派の矛盾をキチンと把握するためにもう一度資本主義経済システムの本質的矛盾について真摯にとらえなおしていく必要があるのではないだろうか?そのためには「資本論」をキチンと読んで理解することが必要なのではないか?

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2018年9月 9日 (日)

「災害立国」日本での長期的防災政策の不在

 今朝のNHK-TV日曜討論で、最近度重なる自然災害に見舞われた日本の現状とそれに対する防災の問題が討論されていた。顔ぶれは大学の研究者、企業の経済研究所や公的援助機構の人、そして行政側からの人であった。

 いつもの政治家たちの様な政治的駆け引きを交えた論議と違って、真摯な討論だったと感じた。
 しかしその中でいくつか重大な問題があまり深く討論されていなかったのが気になった。それは次の様な問題である。
(1)電気、水道などの基盤インフラが経済的効率化のため中央集中型になっていることによるリスク集中化と局所的災害が広域へ一気に拡大するという問題。
(2)人口の大都市集中化による災害非難の問題。例えば東京の数百万の人が住む海抜ゼロメートル地帯からの非難の困難さと災害後の復旧の問題。
(3)「自分の身は自分で守る」自助努力の推奨と、単身高齢者の増加とその救助の問題の間の矛盾。
(4)国家の財政難を理由とした防災予算削減と急増する自然災害の「人災化」の問題。
などである。
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(1)は北海道の苫東厚真火力発電所の地震による停止が一気に全道の停電を引き起こした問題がきっかけであるが、東日本大震災での福島原発停止による首都圏での「計画停電」の問題もあった。完全電化やIoTなどによる便利で「スマートな」生活が大企業の宣伝でどんどん進んだが、それがかえって電気に頼りすぎる生活を生み、肝心の電源インフラの不全が問題となってきたのだ。また関空の高潮による水没もあの埋め立て地に空港を作ればこうした問題がいずれは起こることが分かっていたはずだ。なのに経済的な「費用対効果」の観点からこれがおろそかにされてきた。これは民間企業による開発競争で政府が巨額の公共投資をしなくてもインフラが出来ていくという「新自由主義」的政策の必然の結果であるといえるだろう。
(2)は、すでに何十年も前から言われていることで、地方は過疎化と高齢化が進んでいる一方で働き手が仕事を求めてどんどん大都市圏へ集中し、大都市人口集中化が進むことで、当然リスクの増大が問題になる。なぜこのような社会的アンバランスが起きるのか?これに根本的な手を打たねばこの先どうなるのか?このような分かりきった問題になぜ政府がもっと真剣な長期的計画を立てられなかったのかが大問題だ。
(3)「自助努力」の推奨は東日本大震災以来、「つなみてんでんこ」という古い言い伝えから学ぼうということで広められたが、その一方で独り暮らしの高齢者が増える地方や地域ではこの言い伝えは通用しない。コミュニティーが崩壊していく中で、「自助努力」が強調され、また行政からは「人手が足りなくなっていくので住民の自助努力が必要」と言われるのでは、あたかも「高齢者は災害でどんどん死んでくれて助かるのだ」とも言わんばかりに聞こえる。
(4)一方で「イージスアショア」など「仮想敵国」の攻撃に備えるなどと強調し、アメリカの軍需産業から法外な価格での兵器や軍事設備を買わされることに国家予算が割かれ、必ずやってくる大災害への長期的備えがまったくおろそかになっている(アメリカやイギリスでは防災予算が倍増しているのに日本では減らされている)という現状に、現政権を支持する人たちはどう考えるのだろうか?これはヨーロッパなどに比べて自然災害がダントツに多い日本での自然災害をよりひどい形で「人災化」させることになるのではないか?
 アベノミクス1だか2だか知らないが、その経済成長至上主義の結果はこうした国家的最重要課題に少しも生かされていない。
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政府御用マスコミのNHKの討論会ではこのような深い問題の討論を期待するのは間違えだろうと思うが。

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2018年9月 7日 (金)

「災害立国?」のための予算編成を

 大雨、洪水、台風、地震と今年の夏は災害オンパレードだった。その中で亡くなられたり、生活を破壊されてしまった人たちは本当にお気の毒だし、どこに怒りをぶっつけてよいのかも分からず鬱屈した日々を送られているのではないだろうか?

 日本はもともと災害の多い国で、そのことは歴史を紐解いてみるまでもない。しかし、このことがまた逆に地域の助け合いや結束力を強める力となっており、それが我らのパワーの源の一つにもなっていると思う。だからここで敢えて「災害立国」と言っておこうと思う。
 しかしこの「災害立国」においては繰り返される災害がどれほど教訓化されているのだろうかと首を傾げたくなる。例えば東日本大震災は「想定外」とされ、想定を超えた津波で原発が停止、冷却不能に陥り、メルトダウンした。その被害は甚大なものだった。それなのに、その後誕生した安倍政権は、原発を主要な電力供給源として維持し、40年を目途に今後も運用を続ける意志を表明した。しかし原発が廃炉となったとき、その後始末の目途はたっていない。廃炉に30年かけても核廃棄物の処理はまったく見通しが立っていない。なぜ50年先を見通した、原発に代わるエネルギー供給源の開発に力を注がないのか?
 事実今回の北海道での地震の際、苫東厚真火力発電所が発電不能に陥り全道が停電したときに、泊原発の電源が停止した。しかし緊急用ディーゼル発電機による冷却電源の維持は危うい橋渡りだったようだ。一歩間違えば、稼働停止中といえども核燃料の冷却が止まればやがて臨界を超えて大変なことになりかねない。
 この地震も「想定外」ということで片付けるのだろうか?わが「災害立国」には想定外などあってはいけないのだ。いつか必ずやってくる大災害に国家予算を十分に割くこともせず、妄想とも思える「仮想敵国」からの攻撃に備えたイージスアショアなどに莫大な国家予算を割いている。
 今年度何兆円も増額された防衛費に比べて確実視される南海トラフ地震などの巨大災害への準備に割く予算は少なすぎるのではないか?むしろこの増額される防衛予算のすべてを災害準備予算に回すべきなのではないのか?
 一方でアベノミクスによる円安でがっぽり儲けたグローバル資本の企業は内部留保が400兆円を超えるらしい。ただでさえ家計の苦しい働く人たちから消費税の増額であらたな税を搾り取るのではなく、 こうした企業こそ「災害立国」の政府に巨額の税を納め、災害準備予算の増額に寄与しなければいけないのではないか?

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2018年9月 3日 (月)

安部「自衛隊最高指揮官」の改憲を見据えた新防衛体制構想の愚

 以下はWebの時事新報ニュースの一部からの引用である。
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 安倍首相は3日午前、防衛省で開催された自衛隊高級幹部会同で訓示した。自衛隊違憲論を念頭に、首相は「自衛隊の最高指揮官としてじくじたる思いだ」と強調。「全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整えることは今を生きる政治家の責任だ」と述べた。 首相は、憲法9条に自衛隊の規定を明記することについて、自衛隊幹部の前で改めて意欲を示した。 年末に策定する新たな防衛大綱に関しては、「宇宙、サイバー、電磁波といった新たな領域を横断的に活用した防衛態勢への変革はもはや待ったなし」と指摘。「真に必要な防衛力のあるべき姿についてこれまでの延長線上ではなく、大局観ある大胆な発想で考え抜いてほしい」と語った。
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 まるで戦争中の東条内閣の演説を聴くようだ。つい最近、トランプ大統領が「アメリカ宇宙軍」を創設するとブチ上げて世界中からヒンシュクをかったばかりである。つまり安部防衛政策は憲法改定正当化のためのトランプ構想の日本版焼き直しに過ぎないといえるだろう。
 この安部防衛政策のために何兆円もの防衛予算が計上されその分われわれの生活に必要なさまざまな社会的共有財としての予算が減らされる。防衛産業の資本家たちはこの予算で資本を膨らませながら、「お国をまもるために頑張っている」と吹聴するだろう。
 一方で北朝鮮ではもはや核ミサイル開発に莫大な軍事予算をかけてアメリカと対抗するよりは国内の経済の立て直しが急務らしい。中国は経済的にも軍事的にもアメリカに対抗すべく着々と軍備を拡大しているが、これは対外的な中国脅威論に火をつけることで中国の孤立化を招きかねない。アメリカとて同じだろう。トランプの「宇宙軍」創設は対外的に軍事的脅威を増大させることになり、そのことがアメリカの人々の生活に大きな圧迫を強いることになるだろう。
 いまや際限のない核開発や軍拡を「抑止力」と考える戦略は根本的に間違っていることに世界中の人々は気がつき始めている。
 そんな中で、独り安部首相兼「自衛隊最高指揮官」は軍拡こそが「国を守る」手立てといまだに信じているらしい。困ったもんだ、この能なしは!

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2018年9月 2日 (日)

「ナバホ」の世界 再録

 高齢社会が進む中で最近マスコミなどでよく「よい死に方」や「終活」についてが屡々取り上げられる。そこで、7年以上も前にNHK BS-TVのある番組で放映されこのブログでも取り上げた「ナバホ」の世界の話を再録しよう。

 子宮がんが再発し、摘出手術を受けたもののいつ再発するか分からないという状況で生きる女優のHさんが、アメリカ先住民ナバホの居留地を訪問したときの記録である。

 なぜHさんがナバホの居留地を訪れようとしたのかその理由は見落としたが、Hさんは彼らの一人をガイド役としてその家族との夕食に参加した。ナバホの人々は広大な荒野の一角で羊を飼い、トウモロコシを栽培して実に質素な生活している。

 Hさんがまず彼らに投げかけたのは、「幸せとは何か?」という問いであった。ナバホの若い人々は、結婚して家族を持つこと、羊や牛を飼えること、などと答えていたが、少し年配の人たちは、美しく生きることだと答えていた。夜明けに祈りに出るときその夜明けは美しい、夕暮れもまた美しい、と彼らの中の一人の男が言った。この美しく生きるろいう言葉の意味が、最初あまりピント来なかったが、やがてそれが彼らが語り継いでいる一つの詩でだんだん分かってきた。そのナバホ語の詩はこういうものだ。

 私は晴れやかに美の中を歩む

  私の前にある美の中を歩む

 私の上にある美の中を歩む

 私の側面にある美の中を歩む

 そしてその歩みは美の中で終わる

 つまりわれわれはつねにどこにいても「美」に囲まれてているのだ。その中で生きているということこそ幸せなのだ、ということである。

 結婚を間近に控えているという一人の若い娘は、寂しくなるとときどき先祖に会いに行くという。Hさんは彼女と一緒にそこに行った。そこにはときどき動物の姿になった先祖たちがやってきて娘に語りかけるという。あるとき二羽のイヌワシが彼女の頭上を輪を描いて飛んだ。彼女はすぐにそれが祖父と祖母であることが分かった。彼女は自分が寂しいことを告げると二羽のイヌワシは彼女の心に「いつもおまえと一緒に居るのだから寂しがることはない」と語りかけてくれたというのである。 Hさんは彼女の話を聞きながら涙を抑えることができなかった。

 Hさんは、次に荒野のまっただ中の古い小屋でたった一人で生活するナバホの老人を訪ねた。老人は英語がうまくないこともあってか、無口でいつも笑わない。ガイド役の男が介添えをした。Hさんは老人がなぜこんな荒野の真ん中に一人で暮らしているのかを尋ねた。

すると彼は「私はここで生まれた、そしてここが私の住む場所だからだ」と答えた。疑問の余地のないほどシンプルで明快な答えである。

 そして最後に、Hさんは、この老人が「死」についてどう考えているかを問うた。それはいつも「死」を意識しているHさんにとってもっとも重い問いであったと思う。老人は介添えの男を通じて次のように答えた。

 われわれナバホは「死」については語らない。そんなことは考えない。それは考えてはいけないことなのだ。われわれはいつも美の中に生きている。それだけで充分ではないか?

 Hさんは「あ〜、そうなんだ。まったくその通り。もうグーの音も出ない」としばし感慨に浸っていた。

 最後にガイド役の男は、粗末な片張り太鼓を持ってきて、それを叩きながら上の詩をナバホ語で唄い始めた。哀調をもったアイヌの叙事詩の唄に似ている旋律だった。しかし、それは英語では表現できない力強い意味を持った言葉だと彼は言っていた。

 1万年も前にわれわれと同じアジアの一角に住んでいた彼らの先祖たちはベーリング海峡を渡って、アメリカの地に移り住んだのである。そしていまヨーロッパやアフリカなどから来た異邦人たちに先祖から受け継いだこの地を支配され、彼らの「消費文明」を押しつけられようとしている。

 しかし、彼らが護り続けている、「美」はそんなものよりもずっとシンプルで力強い「生」の世界を持っており、それがこの汚れきった文明社会に生きるわれわれの心を洗ってくれるのだ。

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