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2018年9月20日 (木)

「格差」を付けられる人間の能力と価値

 このように均一化された生活とそれを構成する生活消費財の購入に使える収入の差として可視化され差別化される社会は、その社会としての成り立ち自体が格差を生む仕組みになっている。

 そこで働き社会に貢献している人々はその「能力」をオカネで買い取られなければ生活していけない。「能力が高い」とみなされた人は高い賃金で雇われる。だから生活資料の購入により多くのオカネを支出することが出来る。
  ところがこの働く人たちの「能力」を評価する人たちはそれを社会にとって必要度が高いと判断するのではなく、企業に利益をもたらし企業のために貢献してくれる能力が高いとして評価する。つまり働く人たちの「能力」は企業により多くの利益をもたらしくれるかどうかによって決まる。社会にとって必要かどうかはそのための手段でしかない。
  そしてこの「社会にとって必要」という場合の「必要」それ自体も企業によって作為的に生み出されていく。例えば「これからはインターネットとAIが結びついた生活が常識となる」と言われ、そのために必要な能力が「社会にとって必要な能力」とされる。しかしそれは働く人たちの側から発せられた目標ではなく、企業側が利益の増大を図るために描く「次世代社会」のイメージ宣伝によってそういう能力が「売れる」ようになるのだと思い込まされる。
  だから若者たちはそういう能力を養うことを目標として努力を傾けるようになる。その中でこういう能力を身につけられない人たちはますますその存在価値を失って落ちこぼれていく。 こうして「社会的必要」が産業界の主導によって生み出され、その中で労働力の「格差」が拡大していく。
 生活資料を構成するモノたちと同じように働いて生活を営む人々の能力(労働力)自体も商品として価格付けされる。人間としての能力を賃金の差として可視化し人間の価値の差とする社会で、それらの「格差付け」された人々が企業の目的に従って働いて生み出す商品の購入により成り立つ生活がその購買力の「格差」として再生産される。
 しかし働く人たちの能力は企業に利益をもたらすかどうかで格差付けされるようなものではないはずだ。それはどのような内容であれ等しく社会のために必要な労働として質的には平等に判断されるべきであり、その働いた平均的時間の長さによってのみ収入の差が出ることになるはずだ。
 年収何億円もの人気スポーツ選手と、月収25万円たらずで不意の停電が起きないよう毎日汗水流して配電線の補修工事を行っている人たちの、いったいどちらが社会的な必要度が大きいといえるのか?
 そうした、いわれなき能力の格差がどうしてその生活内容自体の「格差」にならなければならないのか?人間の能力は商品ではない。だからそれに価値付けなどできるはずもないのだ。

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