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2018年10月18日 (木)

人類にとってAIとは何かを考える(その2 人間労働とは何か?)

 前回ではAIが人間労働を駆逐することはあり得ないと書いた。そこで今回は人間労働の本質について考え見よう。

 資本主義社会では賃金労働という形で資本に雇用されること、つまり労働力を資本家に売ることなしには社会的に必要な労働がなしえなくなっているが、その労働者の労働とは本来どのようなものかを考えてみよう。

 「人類」とは、生物学的分類であるが、「人間」は人文科学・社会科学的名称といえるだろう。なぜ人ではなく「人間」なのかといえば、人は一人一人バラバラでは生きて行けない生物だからだろう。必ず「社会」という共同体をつくり、その一員として生きて行く。つまり他者と自分の間の関係がその人の存在意義となるのだ。他人とは断絶して暮らしている人も、それが「断絶」であるのは他者との関係に基づく共同体が存在することが前提となっているからだ。

 マルクス流にいえば、「類的存在」である。共同体社会では各人が自分の能力に応じた労働を分担することで、その社会構成員に必要な生活手段(食料・衣類・住居など)とそれを生み出すのに必要な生産手段の生産を行うことで社会全体が維持されている。これが社会的必要労働である。だからこうした社会的必要労働はその構成員一人一人の個人的生活の維持と発展が前提となっており、社会的必要労働の分担と個人生活の維持は同じ一人の人間の労働の両面として統一されている。

 だから自分が何者であるのかはその共同体社会での自分の役割がそれを端的に物語っている。諸個人の社会的実存(存在意義)は同時にその主体である各個人の意識をそれぞれの「自己意識」として形成する。「自分」という実存がこうして出来上がる。だから諸個人の労働は自分が何者であるかを示す表現手段でもあるし、自分自身の自己意識の基礎でもある。それは個人としての尊厳の基盤でもある。つまり、労働は人間が人間であるために不可欠な要素なのである

 だからセルジュ・ラトゥーシュやステファーノ・バルトリー二らに代表される最近の 「ポスト開発主義者」たちが主張するような「罪としての労働の本質」という意識は間違っている。それは階級社会での労働の姿だ。彼らの主張する「労働から解放されて遊びを主とする幸せな生活」や「カドカワ」社長の川上氏のように「AIに経済を任せて、人間は仮想現実の社会で楽しく生活できれば良い」などという考え方は、はこうした労働の本質から言って、むしろ市民意識的に退廃し疎外されたあわれな人類の「夢」とでも言うしかないだろう。

 本来の共同体を支える各分担労働が生み出した労働の成果は、共同体構成員に必要に応じて分配される。その場合に種類の異なる個々の生産物に共通する、その分配に必要な尺度が必要である。それが社会的必要労働一般という見地からそれに要した労働時間である。どのような生産物であれそれが社会的な必要で生産されたものはそれに要した労働時間で計られる「価値」をもっている。つまり「生きた労働」の結果(死んだ過去の労働として)が価値となるのである。そして共同体維持のため働いた人々はその労働時間に応じた価値を持つ任意の生産物を受け取ることができる。それを生活の中で消費することで再び「生きた労働」の力、つまり労働力を生み出すのである。そして労働生産性が上がれば剰余生産物は共同体全体が蓄積すべき共有財として維持され社会全体に共通する目的で用いらる。

  つまり「生きた労働」のみが価値を生み出すのは、それが社会的に必要なものとして生み出されたからなのだ。AIは本質的に労働手段であり、それを手段として用いる主体にとっては価値を生み出すための道具であるが、同時にそれは「生きた労働」によって労働手段として用いられなければ価値は生み出せない。

 そういう本質をもった労働が生み出し、共同社会の基礎となるべき社会的富を共有財としてではなく、個人の私的所有にしようとする人々が社会を支配するようになると、事態は激変する。共同体の生産物を私有化し、これを商品として売り買いすることで儲けを得、私財を蓄積していく人々が社会的必要労働を支配することになる。それまで共同体を支えることが共通の目的であった個々の社会的分担労働はそこから切り離され、そうした支配階級の財を築くための手段となり、その目的に合うように分割され再編成され、そして新たにそれに適した形で開発された労働手段の従属物になる。そこではもう労働する人々は自分の能力を支配者に「商品」として売ることでしか生きて行けなくなる。自分自身の生存を維持するために労働し、その成果を支配者に提供することで再び、隷属的な生活を繰り替えさねばならなくなる。そこにはもはや「疎外された労働」つまり主体的な目的意識によらない外挿的なそれによる労働しか存在しない。人々の自己表現の手段であるはずの労働が資本家の利潤獲得のための道具とされ、労働手段と同じかそれ以下の存在意義として扱われる社会が現出する。

 だからたとえAIが頭脳労働の多くの部分を代替することになっても、どこかで必ず「生きた労働」が新たな形態で搾取される。現にいまハイテク商品の市場である「消費先進国」は、一方で、そのハイテク商品を過酷な低賃金労働で生産する労働者を必要としているのであり、また「先進国」の頭脳労働者も彼らを雇用する企業の国際競争の中で長時間労働を強いられている。そこに「合理化」のためAIが導入されて労働者が労働から「解放」(つまり労働から追い出されること)されたとしても、労働者は決してケインズの言ったように一日3時間労働で幸せな生活を営むことなどできるはずもないのである。

  これが「賃労働と資本」の関係として形成された階級社会の本質である。

(続く)

 

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