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2018年11月29日 (木)

「生きがい」は会社のためか社会のためか?

 カルロス・ゴーンが拘置所で、「私が逮捕されたので、従業員の士気が落ちる」と言ったそうだ。確かにTVで見た映像ではゴーンは工場の現場を視察しながら従業員に励ましの言葉をかけていた。おそらく従業員はその言葉で「よし、このボスのためにも会社のためにがんばろう!」と感じただろう。

 しかし、かつて日産が経営危機に陥った際、彼は、容赦なく国内主力工場でだった村山工場を閉鎖し、大幅な人員削減を行った。「コストカッター」としての面目躍如である。
 つまり豪腕資本家経営者とは企業の利益を維持するためには容赦なく首切りを行って「合理化」をするが、首の繋がった従業員には、労働力商品として賃金で買い取ったその労働力の使用価値をフルに発揮してもらうため(つまり賃金として支払う生活消費財の価値分を超えて生みだされる剰余価値部分ができうる限り多くなるよう)に、「やる気」を起こさせ、励ましの言葉をかけるのである。
 そこで私は考えた。どんな人でも若いときに自分が何のため生きているのか、自分の存在意義は何なのか?という疑問を持つが、やがてさんざん苦労した挙げ句に得る結論は「置かれた場所で咲く」ことなのかもしれない。
 私はかつてこのブログで、例の「置かれた場所で咲きなさい」という宗教家の言葉がもてはやされたとき、それを批判して、「置かれた場所があるなら、置く人がいるはずだ、置かれた場所で咲きなさいとは、そういう立場の人が言う言葉であって、置かれた人が言うことではない」といった趣旨を書いた。
  その気持ちは今でも変わらないが、ここで一つ言っておきたいことがある。人生において、自分の存在意義を感じることができるということは、すばらしいことであることは確かである。自分が何のために生まれてきて、何のためにこうして生きているのか、その意味を感じ取ったとき、人は本当に幸せなのだと思う。しかしこの紛れもない事実において、大きな虚偽がまかり通っているのがいまの資本主義社会なのではないかと思う。
 いま世の中では社会的教育を受けた後、ほとんどの若者が、会社に就職する。労働市場(正しくは労働力商品市場)での動向は、就職率(つまり資本家企業による労働力商品の購買率)として常に大きな話題となり、「良い会社」に就職できれば人生の目的の半分以上が達成できたと感じる人が多いだろう。そしてその会社の中で与えられた仕事をこなせるようになり、そこで会社のために尽くせるようになることが人生の歓びとなり、誇りとなっていく。これはある意味で当然のことである。つまり「会社のため」を通じて「社会のため」になっているという意識であり、実感である。
 しかし、この「会社のため」の内実を見ると、生産部門では他社とのシェア争いに勝つためできるだけ商品の回転率を上げねばならず、次から次へと新製品を作らねばならない。そのため従業員は長時間労働を課され、「会社のために」と自分に言い聞かせて一生懸命働く。また販売部門では従業員が「お客様のご要望にお応えしてサービスできるよう、できる限り多くの商品を取りそろえております」といって顧客を持ち上げるが、その本音は、できるだけ多くの商品を売って儲けを増やしたいということである。だから世の中に廃棄物や不要品の山ができようともそれは買った人の責任であるとされる。しかもその顧客は競合他社の従業員かもしれないのである。
  他社との競争に負けないため、会社に貢献し、会社がより多くの利益をあげて、自分たちの給料が上がり生活が潤うようになることが従業員としての「生きがい」となるが、これがそのまま「社会のため」とはなり得ないことが見えてくる。
  競争に勝つということは、負けた企業があるということであり、そこの従業員がどういう目に遭っているかは、想像するのは簡単だろう。そしていかにいま自分の会社が「勝ち組」の企業であっても、「勝つため」に合理化の対象とされ切り捨てられた同僚は、いわば会社にとってランクの低い人間というレッテルを貼られ、「生きがい」を失っていく。その惨めな姿は「明日の我が身」かもしれないのである。
 会社がより多くの利益を得て、授業員の生活が潤うようになるという思いも、実はこうした競争に負けた企業や、切り捨てられた同僚や、自分の会社の利益を増やすために海外で驚くほどの低賃金で過酷な条件のもとで働く多くの人々の犠牲の上にそれは成り立っているという事実、それを知るべきだろう。
 誰かがリッチになれば誰かが必ずより貧困になる。地球レベルで進むこの激烈なそして無駄なつぶし合いの競争の結果、「格差社会」の上層部にのぼることができた一握りの人たちがリッチになっていくのである。これが資本主義的「自由市場」の論理であり「法則」である。
 しかし、もちろんその「裏返し」でしかない国家統制による経済体制や、働く歓びや自助努力の余地のない「ノルマ労働」などによるトップダウン社会はさらに酷いものであることはいうまでもない。
 われわれが望む社会は、「置かれる場所」と「置く人」が同じ人であるような社会であり、「会社のため」がそのまま「社会のため」になり得る社会である。言い換えれば、自分が何のために生きているのか、どのような存在意義があるのかを自分の手で生みだしたものによって実現し、実感できる社会なのだと思う。そこにはすべての地球上の人間たちが互いにその存在意義を感じ合い、互いにそれを助け合って生活できる社会があるはずだ。そしてそれは決して宗教的な「教え」による妄想などではなく、現実の社会の中で実現されうることなのではないか?
 

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