« 「市場経済原理」の根本問題について考える (その7) | トップページ | 「市場経済原理」の根本問題について考える (その9) »

2018年12月20日 (木)

「市場経済原理」の根本問題について考える (その8)

 マルクスは、資本論第1巻で資本の発生の論理とその本質そしてその歴史的生成経緯について述べた後、第2巻ではその資本が社会的な流通過程でどのように回転と循環が繰り返されることで増殖され、その社会的再生産が社会的総生産物という形を通じて繰り返されるかを述べている。
 そこで「再生産表式」が出てくるのであるが、ここでマルクスは社会的総生産物を生産手段(I部門)と生活消費財(II部門)の2つの生産部門で区別している。つまり社会的生産物の持つ使用価値における目的と手段の関係における区別といえる。
 これらの社会的総生産物の2つのカテゴリー間で、それらすべての生産物に含まれる価値(資本)部分がどのように社会的に交換・流通されることで社会的総生産物の生産が繰り返されるかを述べている。
 そこでは、生産物に含まれる資本価値を不変資本部分(c)、可変資本部分(v)、剰余価値部分(m)という3つの資本価値部分で捉えることで、その価値部分のやりとりの分析を通じて社会的総生産物の再生産に必要な条件を論じている。
 不変資本部分とは生産手段が生産過程で労働により生産物に移転させた価値部分であり、可変資本部分とは、労働者が労働過程で生みだした、自分の労働力を再生産するのに必要な生活消費財の価値部分(労働賃金に当たる)を生みだすのに要した労働量を表す価値が、そして剰余価値部分は、v部分に必要な労働時間を超えた労働時間で生みだされ、資本家が無償で獲得する価値部分である。
 資本主義的生産物としてすべての生産物に、当然c とvだけではなく剰余価値部分mが含まれている。つまり年々の社会的総生産物全体の価値構成とその総量は、I(c+v+m)+ II(c+v+m)で表せる。
 その上で、マルクスは単純再生産、つまり同じ規模での社会的総生産が毎年繰り返される状態については、I(v+m)= II(c)という関係が維持されなければならないとしている。
 その意味は、I部門の生産物は生産手段であるが、その生産のために新たに追加された労働時間の対象化された価値部分I(v+m)は、それを生みだした労働者の労働量に対応する生活資料と交換されねばならず、一方II部門で消費手段の生産に用いられ消耗した生産手段の価値II(c)部分は、その補填としての生産手段を必要としており、それと同価値量のIIの生産物である生活消費財とIからの生産手段が交換される。
 この式には出ていないが、I部門の生産物の残りの部分は、他の生産手段生産分野の生産手段として、同じ部門内での異種生産分野間で必要とする生産手段が交換される。同様にII部門の生産物の残りは、同じ部門内での他の消費財生産分野で労働者が必要とする生活消費財として交換される。
 こうしてその年の終わりには再び前年と同じ構成の総生産物が用意され、翌年も同じ規模での社会的生産物が開始される。
 この表式は資本主義的生産様式における生産物価値の構成とその流通に必要な条件が述べられているのであって、社会主義経済体制においては、資本価値は存在しないのだから、このc, v, mという価値構成による再生産表式の分析は何の意味もない、という人もいる。
 こういう主張をする人たちは、cで表現される生産過程における価値移転問題など社会主義においては無意味だと主張する。そうしないと「移転された価値部分」という把握によって、社会主義における生産物の分配問題が矛盾するからだというのである。
 そして社会主義体制においては、社会的生産物の分配は生活消費財だけに限られ、生産手段は分配されることなく「社会的所有」となる、と主張している。では一体誰がどのようにそれを管理運営するのだろうか?まさか「国家管理」ではないだろうと思うが。
 この主張についての問題点は別の機会に論じることにするが、筆者は明らかに間違いであると考えている。
 ひとつだけ言っておけば、「価値移転」問題は資本主義生産特有の問題ではない。普遍的な意味での労働過程において、労働者が新たな使用価値を生みだすために用いる生産手段にはそれをつくるために費やされた過去の労働(死んだ労働)が対象化されており、これが新たに加えられる労働(生きた労働)によって生産的に消費された分、新たな生産物の中に合体された価値の一部として「移転」するのである。つまり「生きた労働」が生産手段としての使用価値を機能させながら、新たな生産物の使用価値を生みだすのに寄与した過去の{死んだ労働}の量である。
 ここでいう「価値」は、「社会的に必要な抽象的労働」として生産物に対象化された労働量つまり必要労働時間である。社会的総生産物にはさまざまな社会的分業種が生みだすさまざまな使用価値を持った生産物が、全体としてみれば、それぞれ「社会的に必要な労働」の一部という観点からは等質に抽象化され、対象化されている。その意味で、ここでの「価値」つまり価値規定はあらゆる社会での労働生産物において普遍的な意味を持つのである。
 この本来社会的な規定である「価値」が私的所有を前提とした資本主義経済体制において当然生じる矛盾を社会的生産物の市場での売買という形で資本主義的に「解決」しようとするのが「市場経済原理」であり。そこに貫かれる「価値法則」であるといえる。
 さて、このような問題に注意して考えれば、社会主義生産体制における単純再生産の条件はやはり、I(v+m)= II(c)で表されると考えられ、そこでのcは生産手段に過去の労働で対象化された価値が新たな生産物に移転してきた部分であり、v+mはそれを用いて生産した生産物に新たな労働によって追加されて対象化された価値部分である。その結果生みだされた生産物には両者とも「死んだ過去の労働」の対象化された結果としての価値として含まれている。
 しかし、重要なことは、ここでのvとmの区別は、「可変資本」と「剰余価値」ではなく、「労働者の個人的生活に必要な生活資料の生産に必要な労働量」と「社会的共通財として必要な生産物の生産に必要な労働量」である。そしてこの両者の比率は、当然資本主義でのような「搾取率」ではなく、「労働者階級自身が合議の上で決める比率」に基づいている。労働者の生活が十分に豊になってくればm部分は増大させることができる。
 そして社会主義社会での生産物の分配は、労働者個人の生活消費財についても社会的共有財としての生産手段にしてもそれらを総体として生産するに要した社会的総時間のうち、自分が寄与した労働時間分に応じて分配される。
 生産手段の場合は、原則として、各生産物分野の生産拠点ごとにそこでその生産物を生産するために消費した生産手段の価値部分(価値移転分)に要した労働時間量の合計に相応する価値量の生産手段が分配される。しかし、消費手段と違って、生産手段の消費期間はまちまちであり、更新時期もまちまちであるため、こうした事情が考慮された上で適正に分配されなければならない。
 またその他の社会的共有財(社会インフラ、社会保障、医療、教育などに必要な財)は、社会的に必要不可欠な財としてあらかじめ、v との比率を決めて控除しておかねばならないだろう。
(続く)

|

« 「市場経済原理」の根本問題について考える (その7) | トップページ | 「市場経済原理」の根本問題について考える (その9) »

哲学・思想および経済・社会」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「市場経済原理」の根本問題について考える (その8):

« 「市場経済原理」の根本問題について考える (その7) | トップページ | 「市場経済原理」の根本問題について考える (その9) »