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2018年12月12日 (水)

「市場経済原理」の根本問題について考える(その2)

 市場経済原理」では「私的所有の自由」を原則としており、私的所有者間での所有物の交換が「商品」という形で価値の具現的表象化である貨幣を媒介として行われる。社会的に必要な生産物の生産や流通を行う場合にもこうした「原則」が貫かれる。必要な生産手段商品を買うことができるだけのオカネをもっている者が、それを買い、同時に生産に必要な労働力をも商品として買う(賃金契約を行い雇用する)。ここで労働力商品の価値は、その労働力を日々再生産できるために必要な労働者の生活資料の価値である。生産手段の所有者はそれと「等価」な賃金を労働者に支払い、その労働力を買う。そして自分の買った商品同士を生産現場で結びつけて生産を行う。そこで生みだされた生産物は雇用者である企業の所有する商品として市場に投入され、そこから企業の経営者(所有者)は利得を得る。
 しかしこの生産の過程で生みだされた生産物にはその過程で生産的に消費した生産手段の価値部分(不変資本部分)と労働者に支払った労働力の価値部分(可変資本部分)だけではなく、労働力の再生産に必要な価値を超えて支出された労働の価値部分(剰余価値部分)を含んでいる。
 資本家にとって労働力は「自ら価値を生みだす商品」であり、その価値(賃金として支払われる)よりも多くの価値を生みだすという使用価値をもった商品だからだ。この剰余価値部分は剰余労働時間の労働によって、生産物として無償で労働者の知らぬ間に企業の所有者の手に渡っている。だからこの生産物を商品として市場に投入すれば、それがたとえ「等価交換」のように見えても、そこに剰余価値分の利潤が含まれているのである。
 実際には資本家はこれを「生産費用」という形で「必要経費」とみなし、市場の需要と供給の関係から、その商品を実際の価値よりさらにどれだけ高くまた多く売ったかによって利益を計算する。
 この市場の「原則」が貫かれていることにより、できるだけ高く売りたいにも拘わらず、競争相手が値下げで対抗し、自社の商品が売れなくなれば、できるだけ経費を削減して市場価格を下げなければならなくなる。つまり市場では商品は不当に高い価格では売れないことになり、つねに「適正な価格」に自動的に調整される。これがいわゆる「神の手」であり「市場経済原理」である。
 実はこの「神の手」は「自由市場」だから生じるというわけではなく、むしろ私的所有によって本来は社会的であるべき生産が行われているという矛盾から来るということが重要である。
 社会全体にとって必要なことを企業の私的で利己的な生産・販売行為によって生じるアンコントローラブルな「市場の法則」を通して調整する世界を「自由市場」というのである。当然ここでは「神の手」ではなく生臭い私的欲望が社会全体を動かす駆動力になっている。そのため、この「神の手」はしばしば、とんでもない経済危機を呼び起こすのである。
 ところがその反面、企業内部では、できうる限り計画的かつ効率よく利益を稼ぐことが目指され、冷酷な合理的利益計算が行われる。私的欲望による駆動力をもとにアンコントローラブルな競争の元に置かれた市場と、企業内部でのそれに勝ち抜くための冷酷な計画性といういわば相対立する矛盾の両極(矛盾的自己同一)によって社会全体が動いているのである。
 こうした基本的矛盾の中で、経営者の「統治能力(ガバナンス)」とは実際に現場の労働で価値を生みだす労働とはまったく異なり、その生みだされた価値をいかに企業の収益として吸収できるかという視点からの方略を合理的・計画的に考える能力である。
 これこそまさに「人格化された資本」の姿である。
 確かに、各従業員の仕事がどのような内容であって、どのようにそれを配置するか、どれだけ働けば良いか、などについて下っ端の従業員たちは知らない。あらかじめそれらを決める能力はそれらの従業員たちからは取り上げられていて「能力ある経営者」の「専業」とされているからである。実際には、「管理職」と呼ばれる、選ばれた「有能な従業員」がこれら経営者の仕事の一部をそれぞれ分担する頭脳労働者としてこれを行い、経営者はCEOとしてただ「決断」を下すだけである。
 一方でその経営者の統治のもとで日々必要な労働を行っている多くの労働者たちには、あらかじめ決められた賃金しか支払わない。そしてアンコントローラブルな市場の動きによって経営がうまく行かなくなり、「合理化」によって首を切られた従業員は残った従業員との間でいわれなき格差をつけられ、失業や不利な職場への配転という形でそれを見せつけられる。同じ労働者仲間であるにも拘わらず、「労働力商品」として互いに競争させられることの悲劇である。
 一方経営者はたとえ経営に失敗してもそれまでに貯め込んだ私財によって再起もできるし悠々自適のリタイア生活もできるのである。
(続く)

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