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2018年3月11日 - 2018年3月17日

2018年3月16日 (金)

「語り得ぬもの」をも語るコトバの表現力

 ウイットゲンシュタインは「論理哲学論考」の最後の部分で「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と結んでいる。実にカッコイイ表現だと思う。この「論理哲学論考」は言語の持つ論理性とその表現可能性について短い命題や論理的表現の繰り返しで簡潔に述べた名著であるが、私は最近、この「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」についてさまざまな疑問を感じている。

 B.ラッセルは数学基礎論の専門家としてこの「論理哲学論考」にはあきらかに誤りがあるが、と指摘しながらも高く評価している。私は彼が「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と書きつつ、その簡潔な詩の様な叙述によってそこに何かしら文学的表現を意図しているようにさえ思えるのである。

 こんなことを思う様になったのも、加齢とともに、コトバというものの持つ論理表現機能からは説明できない要素が非常に重要だと感じるようになったからである。例えば「行間を読む」とか「言外の意味」は昔から言われてきたことではあるが、詩や文学的表現はコトバの持つ論理表現以外のコミュニケーション機能をフルに用いている。つまり「語り得ぬもの」を語っているのである。もちろんしこうしたコトバの言外の意味を指令書や業務文書の中に見いだしてその背後にいる人の暗黙の意図を「忖度」するなどというのはコトバの機能の間違った用法であろう。

 「語り得ぬもの」は話し言葉と書き言葉によってかなり違うようにも思う。音声により聴覚に訴える言語はどこかで音楽的表現につながるし、どこかで人間の深奥にある本能に触れる。書き言葉による表現は文字という記号や図形が持つ論理表現性を用いた記録性に重点が置かれているが、その中に含まれる形態的表現の視覚芸術につながる要素を持っていて、「美しい」と感じる感性にも触れる。

 このどちらもが人間社会の中で諸個人が自分と他者の間で交わすコミュニケーションの手段として用いる言語の機能であるといえるだろう。そしてそれはその共同体社会がどのような形で成り立ち、その社会を構成する諸個人がどのようにその中で役割を演じているのかによって形態が違ってくるのだと思う。だから地域や歴史によってそれの言語体系や形態は大きく異なる。しかしまた、それがどんなに違っていてもその基本的部分は翻訳可能であり、人類共通の論理体系を含んでいるように思う。

 しかし、コトバの表現機能は、そうした共通の論理体系だけではなく、そのコトバが語られた背後にある様々な状況や歴史があって表現するときの具体的状況やニュアンスなどで初めてその一言の意味に深いものを感じさせるのであろう。例えば、私事を持ち出して申し訳ないが、もう20年も前に、認知症を患って介護施設に入っていた老母に会いに行ったとき、母は会っても私の顔を忘れていたのに、別れるときになって、私の手を握って 「帰りたい!」と一言いった。その母を振り切って部屋を去るとき、私の背中を見ていたであろう母の思いがどんなものであったか、今になってますますそれが痛切に感じられるのだ。

  母は戦争中、父とすでに不仲になっていたが、空襲をさけて新潟の実家の近くに3人の子どもを連れて疎開することになった。当時私はまだ4歳で鉄道の駅から2里半もある疎開先まで歩ききれず、途中、母に負ぶってもらって行った。そして戦後再び東京の父のもとに帰ってきてからも子供達のために田舎にヤミ米の買い出しに出かけていた。そんな思い出が母の「帰りたい!」の一言によって一気に私の脳の中を駆け巡るのである。

 いずれにしてもコトバが持つ力は侮れない。それは人類が共同体社会を築くことによってしか生きていけないことの証左でもあるのだから、その用い方にも慎重でなければならないと思う。

 

 

 

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2018年3月13日 (火)

過剰資本の「不生産的処理」で維持される資本主義体制のもたらす諸結果(3)

 このような社会形態が現代資本主義体制のもたらした結果であることはいうまでもないが、さらに最後に、この過剰資本の不生産的処理のもう一つの典型としての軍需産業について考えてみよう。

 軍需産業はいうまでもなく、その生産物である武器や兵器は文字通り破壊と殺戮のための道具であり、戦争で大量に消費されるだけで何ら生産的な要素をもっていない。そしてこれらの武器や兵器は、つねに「お国を護るため」と称して大量にしかも「合法的に」生み出されるのである。そして過剰資本が常態化したいまの資本主義経済体制にとってはそれが格好の過剰資本の処理方法なのである。

 こうした武器・兵器などを製造販売するのは現代資本主義社会の巨大産業であるが、かつて東西冷戦を背景にアメリカでは国家予算の1割を超えるほどの軍事予算が組まれ、核戦争に備えた最先端兵器の開発が進められた。そこで核ミサイルや水爆などの技術が開発され、ソ連のそれに並ぶ核兵器とともに一旦戦争ともなれば人類のほとんどすべてが消滅する危機に立たされた。これは一方の資本主義社会にとっては巨大な過剰資本の処理形態であり、国家統制経済下のソ連でも高度な軍事技術産業による経済的効果と労働力の配分先の確保に不可欠となった。

 しかし実際に核戦争を起こすことは両陣営にとっても不利であるため、ありあまるその軍事力は朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸・イラク・アフガン戦争などで大量に用いられ、多くのこれらの国々の労働者・農民たちの命はいうまでもなくアメリカの若者達の命をも奪ってきたのである。

 もちろんアメリカでも軍需産業の生み出した新技術がその後、民生機器や生活消費財に応用され次々と新しい家電製品や通信機器などを生み出していくことで、例の「大量消費社会」での過剰資本の処理にも大きく寄与していた。

 その後ソ連が崩壊し、「資本主義の一人勝ち」と言われる状況がやってきて、資本が急速にグローバル化して行った状況で、アメリカの一極集中力が衰え始め世界市場を駆け巡る過剰流動資本が世界中で安い労働力を奪い合うようになった中で、さまざまな形で再びいわゆる先進資本主義諸国で軍事産業に活況を与えることになっていった。

 それは21世紀になって、水面下で進むアメリカ・ロシア・中国・EU・日本などの間で起きつつある巨大資本同士の確執が関係した民族・宗教対立などでの武力衝突が活発になったことが背景にある。こうした民族・宗教紛争は実は世界中で激しくなりつつある労働者への搾取や圧迫に対する闘争の別の形での現れでもある。

 そうした紛争で用いられる武器や兵器は主としてアメリカ、ロシア、フランス、中国、イスラエルなどで作られている。中でもフランスはいまや世界第2位の兵器輸出国である(中国と2位の座を争っているが)。「共和国前進」を舞台に登場したマクロン大統領はかつてのナポレオン閣下よろしく盛大な栄誉礼がお好きであり、表面的にはドイツとともにEUの盟主として「リベラル派」の「顔」のように見えるが、その手はイエメンで殺戮を繰り返すサウジアラビアや、中国との対立やパキスタンとの国境紛争などで戦闘機が必要なインドへの武器輸出で血塗られている。その兵器輸出から上がる収益はフランスの国家財政を大きく潤している。

 またプーチン率いるロシアはかつてのKGBの組織を活用してアメリカの内政に情報戦でちょっかいを出したり、自分の政敵を毒薬で暗殺することを常套手段としているようだが、シリアでいまなお行われているアサドらによる虐殺に武器の売り込みで全面的に支援している。毎日何十人も殺される小さな子供達はその最大の犠牲者である。そしてロシアはそれによって莫大な利益を得ているのである。

 そして中国は独特な一党独裁による国家統制型資本主義体制で急速に成長し、「一帯一路」政策による世界資本への支配権確立が目指され、それを実施するための軍事的防衛線が築かれつつある。いわゆる「海のシルクロード」はインドを取り囲むように設置され、そこに中国の軍事基地が設けられつつある。そこにもインドの軍事力拡大のモチベーションがあるのだ。

 そして日本の安倍政権はこれらをにらみつつ、アメリカを後ろ盾にして自国の軍事力を高めることを画策している。かつての「ものづくり立国」時代の技術がまだ生き残っていれば、やがては日本でも「経済活性化」のためとして軍需産業が復活するだろう、いやもう復活しつつあるかもしれない。

 こうして現代資本主義体制に不可欠となったこの「過剰資本の不生産的処理」は他方で社会全体を支えている労働者階級に莫大な犠牲を強いつつますます拡大しているのである。

以上

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