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2018年3月25日 - 2018年3月31日

2018年3月31日 (土)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(5)

 なぜ私が過剰資本の不生産的処理の問題にこだわるのかについて若干記しておこうと思う。

 資本主義社会はその本質上、生産手段を所有する資本家が、労働力をその再生産に必要な生活資料の価値で買い取り、それに必要な価値生産時間を超えた時間労働させることによって不払い労働分としての剰余価値を取得しながら社会的に必要な生産物を商品資本として生産するという形ではあるが、歴史上一定の時期までは資本の利潤と蓄積を追求する競争の中で、急速に生産力を向上させてきた。

  しかしその蓄積される資本と高度化した生産力によって資本が過剰化し、それによって生じる矛盾が様々な形で現れる様になり、新たな資本の投入によっても予期された利潤を生まなくなった。しかし資本主義体制ではその過剰化した資本を本来あるべき形である社会共有財に転化することは原理的に不可能であり、生産的消費(生産手段の補填増強や労働力の増員などによる社会的富の増大のための消費)に追加資本を回すことでは過剰化した資本を処理できなくなったと考えられる。
  そのため、それをこうした生産的消費に直接結びつかない形で処理する様になっていったと考えられる。それが例えば軍需生産物の増産、無駄と言える様な過剰な消費材の際限ない増産、そして第三次産業的な部門への莫大な投資などによって資本を何とか過剰化させないで凌いでいるのが現在の資本主義体制であると思う。これはまさに爛熟期を過ぎ「腐朽化した資本主義社会」であると言えるだろう。
 そしてこの歴史的に特殊な「腐朽化した資本主義体制」に相応しい形態での社会的分業化が進行していると考えられる。
  いわゆる情報技術の進展によってすでに進んでいた頭脳労働と単純労働に大きく別れる分業化は頭脳労働のさらなる分化とヒエラルキー化が進み、資本家も「人格化した資本」としての機能がそれに相応しく分業化され、資本運用の意思決定権を持つCEOを中心にそれを補佐する経営陣という形に分業化し、時にはそれらが「分社化」して独立した資本家が担当している。そして今ではその上に全ての運営資金を支配する金融資本家が銀行や持株会社などを通じて君臨しており、事実上資本家の本質的役割であるマネーのやりくりによる資本の増殖に携わっている。
 資本家の仕事を含めてこれら全てが「社会に必要な労働」という形をとって忙しく動き回り、日々資本の蓄積・増殖に寄与している。この資本の蓄積と増殖がこの社会では「経済成長」と呼ばれ、これが「成長」すれば、労働者もその分前を少しばかり多めに頂けると考えられている(アベノミクスがその典型例)。こうして「コンピュータ社会」、「情報化社会」、「ユビキタス・ネットワーク社会」、そして「IoT」などなど次々と打ち出されるキャッチフレーズのもとで、新興資本家たちは旧資本家の硬直化した体制を更新すべく快活に明るく振る舞い、彼らによって推進される「イノベーション」によって不要化され、次々と「下流」に落ちて行く技術労働者たちは孤独で先のない状態に置かれることになる。
 いま蓄積する社会的富(いまは資本として)がわずかな人々(独占資本家)の手に握られ多くの人々(労働者)が貧困化して行くという現実を見て、ただ富の偏在や格差拡大を批判して格差縮小や富の再分配を主張するだけではダメで、こうした社会全体の分業形態、労働形態、そしてそれらによって回転する生産と消費のメカニズム全てを変革して行くことなしには本当の改革はありえないと思う。
  それは社会全体の在り方の変革であり、同時に人間(諸個人)の実存そのものの変革でなければならないと思うのだ。
 こうした次世代社会への長期的展望を見据えた現実批判の基礎に、本来生産的であるべき社会的富の蓄積が過剰資本として生産を圧迫しそれを不生産的方法で処理しなければならないという矛盾への認識が必要であると私は感じている。
 人は共同体社会における「(現在の)生きた労働」において、自分がどの様な存在であるのかを表現し、その労働の結果を「(過去の)死んだ労働」として対象化しつつ、その蓄積を「未来の社会」への寄与となしうる、そんな社会を私は望む。
 社会的総生産物の再生産という問題は、生産物に含まれる価値形態をcは対象化された労働の形態つまり過去の労働の成果であり、vは現在の生きた労働であり、mは未来のためのその蓄積であると考えれば、人は過去の労働の成果(生産手段)を用いながら現在の生きた労働を行うことで社会全体を維持させ、mとして蓄積されるその成果を以って社会を未来に向けて発展させて行く。そのために必要な社会的労働と生産手段の配分に必要な条件だといるのではないだろうか?
 

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2018年3月25日 (日)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(4)修正版

 前回に書いた様に、新たな資料を得て、これをもとに考察を重ねた結果、今のところ、次のような結論に達した。

 資本の蓄積が順調に行われるためには、社会的総生産物において、I(v+m)=IIcという単純再生産の条件(ここで Iは生産手段生産部門、IIは生活消費材生産部門、cは不変資本部分、vは可変資本部分、mは剰余価値部分を指す)を充たす価値関係がまず必要であり、その上でI(v+m)>IIcを行う必要があるが、その場合、資本家の収入部分である mの一部から、新たな追加資本が過程に投入されねばならないが、その追加される資本においても I(v'+m')=IIc'という均衡関係が維持されなければならない。(ここでc', v', m' は追加資本のc, v, m部分を指す)
 もしこの関係が維持されていれば蓄積は過剰資本を生ぜずに行われるが、この追加資本分の関係が I(v'+m')>IIc'となってしまう場合はそこに過剰な資本が生じることになり、 I(v'+m')<IIc'の場合は縮小再生産となってしまう。(アンダーラインは修正部分)
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(以下は全面書き直し部分)
 この過剰資本状態が生じるのは生活消費財生産部門で必要な生産手段の需要を超えて、生産手段が生み出される状態であり、逆に縮小再生産となるのは生活資料生産部門で必要な生産手段の生産がその需要を満たしえなくなった状態であると考えられる。
 縮小再生産状態は今の場合考察の対象外なのでここではのぞくことにする。
上記の様な過剰資本状態は、いずれ過剰資本を蓄積させ、これが拡大再生産を阻害して資本家にとっての収入部分を減らすことになる。
 そこで個々の資本家は様々な方法でその過剰資本を処理することによって、自分達の収入部分を減らさずに増加させようとするであろう。しかし、彼等の行為は常に「市場の法則」の中で行われねばならず、社会的総生産において上記の均衡が計画的に維持されて拡大再生産を行う事は出来ない。そこで「市場の法則」の中で、結果的に過剰資本の処理が可能となった方法を資本家階級全体が推し進めることになる。それを大きく二つのケースで考えれば、次の様な二つが考えられる。
(A)戦争で用いる武器や戦争関連製品の生産を増加させ、これによって生産手段生産部門での過剰資本を不生産的に処理する(武器は破壊のための道具であり再生産には決して結びつかない)。
(B)過剰に生活消費材の生産を促し、それによって生産手段生産部門での過剰資本を不生産的に処理する。
 差し当たりこの(B)のケースがここでの問題であるがその場合なぜこれが「不生産的処理」なのかである。
ここでは直接的には労働賃金の上昇が行われ、それによって労働者が生活消費材の購入に支払う貨幣を増やすが、それは一方で労働者の生活資料を増やし、「豊かな生活」を演出させるが、同時にそこに支払われた貨幣は再び資本家の手に戻り、次の投資に向けられる。
 労働者が生活のために何を必要とするかが、社会全体の需要を形成するはずであるが、それがむしろ資本拡大のための手段とされてしまい、如何に人々の「消費への過剰な欲求」を掻き立てるかが、資本家階級社会の目的になっている。
 だから社会的生産の主人公であるはずの労働者階級が「消費者」として位置付けられ、それを促すために自ら所有する生産手段を利用している資本家階級が「生産者」として位置付けられてしまう。
 生活消費材は労働者階級自身が要求する本来の需要としての質や量としてではなく、資本家が過剰消費を促しそれによって過剰資本を処理するための手段として、つまり本来の生産的消費としてではない形で供給されることによって需要を超えた過剰な消費を歯止めの効かない状況で生み出していると言える。そしてそれが資本家階級全体にとっては過剰資本の不生産的処理となっており、実質的には過剰な資本が存在するにも関わらずこれを彼等にとっての利潤をもたらす手段としている。
 以上の様に捉えた上で、Sさんからの指摘をとらえ直すと次のように言えるのではないかと思う。
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(以下は修正の必要がないと思われたのでそのまま残した部分)
 前回でとらえ直したY.Sさんの指摘の(1)についてはすでに一応回答し直しているが、
(2)の労働賃金の高低差は労働力の養成費や労働力市場で決まる労働力商品の価格(人手が足りなければ賃金は高騰し、余れば下落する)であって、そこにvm部分を入れることなどあり得ないのでは?という指摘に関しては、その通りだと思う。私が「資本家の取得するmの一部をvに忍び込ませる」と言ったのは、追加資本分として資本家が用意するm'部分をそのような言い方で示したということであって、ここに述べられているような追加資本の持つべき「法則」を深く認識していなかったためであることを認める。(3)については労働者へのサービス産業はある意味で消費生活の社会化ではないか?という指摘に関しては、サービス産業は確かにそういう性格を持っているが、しかし現状ではそれが資本にとって過剰資本拡大への回避手段になってしまっており、そこに、過剰な消費を促すという本来の目的ではない動機が全面化していると思われる。
(4)ファミレス、居酒屋などはそこに資本が参加するのは労働者の需要があるからだ、という指摘に関しては、今の労働者階級がなぜそのような需要を生じさせているのかを考えれば、家庭内で食事を楽しむ時間もなく家族形態そのものが崩壊状態にあるためとも言えるのであって、そこに資本がつけ込んで新たな「儲け先」を見つけているわけで、それは決して肯定できるものではないと思う。
 さしあたり、私は以上のように把握しているが、これにも誤解や無理解があるかもしれないので、読者からの批判を受けたいと思う。
 
*付記:以上が前半部分に大幅な修正を行った結果。これに伴って「過剰資本の不生産的処理についての考察(1〜4)」も一部修正してあります。2018.03.29

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