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2018年9月23日 - 2018年9月29日

2018年9月29日 (土)

ステファーノ・バルトリー二「幸せのマニフェスト」をめぐって (それへの批判1)

 以上がバルトリーニの考え方であるが、それに対して、私が感じたことを、2回に渡って「批判」として述べることにしよう。

 まず彼による現代資本主義社会における諸矛盾の指摘は、ある意味で当をを得たものといえるだろう。しかしそれは現象面を見た限りの指摘であって、こうした矛盾は少しでもまじめに生きようとしている人には誰でも感じられる疑問として現れる。問題はその深層にあるより本質的な矛盾をつかみ、それとこうした矛盾の現象面との関連を構造的に把握できるかどうかにかかっている。
 (1) まずバルトリーニは現代資本主義社会がどのように形成されてきたかを考えるべきであろう。形成過程こそ、その存在理由なのだから。
  それは16世紀からの300年あまりの商品経済の発展の到達点として19世紀ヨーロッパ特にイギリスでの産業資本主義社会という形での自律形態を完成させた。それは、富の私有にもとづくその自由な売買による利益の追求が社会的規範となり、私的な個人どうしがそれぞれ所有する商品の売買によって欲望を達成する社会の成立でもあった。

  しかしこの成立過程で、商人たちが自分たちの富を用いて社会的生産に必要な生産手段をまるご買い取り、それによって自ら自律的に生活するために必要な手段を失った農民や労働者はつねに自らの労働力を売りにだし、その労働力を日々再生産するために必要な生活資料を資本家の所有する商品として市場から買い戻さねば生きて行けない状態を強いられことになったのである。

 そこで「平等」とされている商品所有者は実は社会的に必要なモノの生産に必要な生産手段を所有する人たちと、自分の労働力しか持っていない人たちに大きく別れており、その二つの階級間での商品の売買、つまり労働力を買って自分の所有する生産手段と労働力を結合させて社会的に必要なモノを商品として生み出し販売する人たちと、労働力をその人たちに売って生活に必要な商品を買い戻すことで生きていかざるを得ない人たちという決定的に不平等な関係での商品の売買で成り立っているのである。

 生産的労働の場ではあらゆる労働手段(機械設備など)は、一定の労働時間でいかに多くの商品を生み出せるかという資本家の「合理化」視点から生み出され、労働内容はそれに合わせて細分化・並列化されることで著しく生産性を向上させていったのである。
 この状況はエンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」に見る様な悲惨な労働現場と生活状態を生み出し、やがて労働者のやむにやまれない抗議行動から政府が労働者への保護政策を打ち出さざるを得なくなっていったのだ。
 バルトリーニのいうような「あらゆる機械の助けを借りて働き方をより快適で生産的なものにして行けば労働の重荷は軽減されるだろうという期待」など実際には誰ももっていなかったのである
 そして資本家にとっても労働者階級が絶滅してしまえば自分たちの富もありえなくなるという事態が現実化し国家レベルでの法体制や労働への一定の配慮へと押し進めていったといえる。
 そしてこの結果生み出される富は、生産力の向上とともに資本家にとってはそれが過剰資本としてプレッシャーになっていくという逆説的事態をもたらした。本来は社会的に必要な富が増大すれば社会全体がリッチになるはずだが、それが私的な富として蓄積されるためにこうした矛盾が現れるといってよいだろう。まさに資本主義的富の生産の矛盾である。
 そこでこうした事態に対してケインズらの経済学者が「有効需要の創出」を重視しはじめ、困り果てた資本家階級もそれを「総資本」の立場の代表機関である国家の政策として打ち出させる方向に向かったのである。
  労働者階級の購買力を高めそこで消費される生活資料商品は資本の再生産に直接結びつかないため過剰資本とならないことに気づいたのである。資本主義的富の生産の「逆説的矛盾」への資本家的対処である。
 こうして公共投資と金融政策を駆動力として雇用と労働賃金を向上させどんどん消費させることで経済が成長するという「消費駆動型」資本主義体制が出来上がったのである。
 (2) しかしここでも資本主義体制そのものが持つ基本的矛盾、つまり富の私的所有を求めるための市場での自由競争が前提となった社会的労働が行われ、労働者階級は相変わらず労働力商品として資本の下僕であり続ける。だから資本家にとってどんなに「経済成長」がもたらされても、労働者階級は相変わらず社会的生産体制の主役にはなれず、資本家の「おこぼれ」を待つことしかできず、その「おこぼれ」によって資本家のマネごととして「モノを買う」ことで幸福感を得ようとするのである。
  そして労働面では、「富裕国」では頭脳労働者が増える一方で「貧困国」では長時間の単純肉体労働が拡大され、その「貧困国」での大量の低賃金労働がもたらす莫大な富を蓄積するグローバル資本は自国の頭脳労働者にその「おこぼれ」によって労働への「インセンティブ」を与えようとする。
  しかし、資本家的「合理化」は当然頭脳労働の場にも適用される。だから労働は競争の圧迫に晒されストレスフルになり精神的負担を増す。最近のAI(人工知能)の導入はこうした状況への資本家側の「合理化」であって、そこでは人工知能というストレスも精神的負担もなく文句一つ言わない「ソフトウエア・ツール」が生きた人間の労働者の存在理由を小さくして行く。 そこで人間の労働者はそのプレッシャーに耐えるためそれを消費面で補おうとする。そのため労働者はより高い賃金をもとめていっそう働き生産資本家に貢献する。そして商品の購買面でも流通・商業資本家に貢献する。これがバルトリーニのいう「幸福の逆説」である。
 しかしいまやこの「幸福の逆説」も限界点に達しつつある。モノの消費では幸福を得られないことを人々は日々感じつつあるからだ。
(続く)

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ステファーノ・バルトリー二「幸せのマニフェスト」をめぐって (その問題点2)

 次にバルトリーニの処方箋の一つ「働き方をどう変えるか」について見てみよう。

 バルトリーニは、労働を人間に対する一つの「原罪」と見て、この苦しみからの解放を求めて経済成長が目指されてきたという。あらゆるの機械の助けを借りて働き方をより快適で生産的なものにして行けば労働の重荷は軽減されるだろうという期待のもとに経済成長が行われたが、その期待が裏切られたという。そして「富裕国」においては肉体労働の面では労働の重みからの解放が劇的に進んだが(その反面で「貧困国」での過酷な長時間単純労働が拡大した---野口による注 )、別の問題を生じており、それは精神的ストレスやプレッシャー、忙しさといった形で現れているという。

 そしてアメリカなどの現代の労働者が一人当たりの給与水準がどんどん高くなっているのに対し、「労働の満足度」はずっと低いままだと指摘する。そしてこの「労働の満足度」は人の生活での幸福度の大きな部分を占めており、生活における満足度への影響が大きいという。

 その上で「労働の満足度」の相対的低下は労働時間の長さとともにその質の低下が要因だと指摘する。そしてこの労働の質の低下は「内発的動機付け」の欠如という問題と密接に関係しているという。

  バルトリーニはこのように満足度の低下した労働の働き方をどう変えるべきかを提案する。彼の主な主張は内発的動機付けの促進であり、そのためには「興味の持てるような仕事」「ストレスの低い仕事」「意味のある仕事」「人間関係・社会関係構築の手段となる仕事」を行えるようにすることだという。具体的には次の様な5つの提案をする。

 (1)働く人の自由裁量と自律性を高める。(2)圧力、管理、インセンティブなど労働組織の中でストレスを生み出す要素を減らす。(3)仕事のプロセスが面白くなるように、労働内容をリデザインする。(4)労働と生活の他の側面を両立可能にする。(5)職場の人間関係の質を改善する。---- ちなみにこれを見て私はこれは企業の労務管理者や自民党政府の「働き方改革」の視点にそっくりだと思った。

 その上でバルトリーニは、こうした提案に対する次の様な反論を想定する。こうした提案が労働の満足度は向上させるが労働生産性を低下させ、経済システムの競争力を低下させるのではないか?という疑問に、彼はこう応える。実際にはこうした労働の満足度の向上は労働の生産性を上げる結果をもたらしている。さらに彼はいう、経済的インセンティブ(報酬)により労働意欲を高めようとする試みは、さまざまな失敗例がしめすように労働の質の低下をもたらすことが多い、仕事の中身が興味深いものであることの方が重要であり、「人間は明らかに面白くない仕事であっても、自分が担当する仕事の中に何らかの興味深い要素を見つけるものである」というのである。

 そして彼は、経済的インセンティブが効果的なのは労働の成果が道理に合う形で測定可能である場合と、仕事があまりに面白くなくて内発的動機付けが存在しない場合であるという。

 最後に彼はこう締めくくる「私的利益を重視する経済体制である資本主義ですら、職業倫理や労働倫理としての内発的動機付けに基礎づけられていなければうまく機能しない。人々が対立ばかりする社会では、資本主義は続かないのだ」と。

 正直言って、私は彼は資本主義社会における賃金労働者の実存にある深く根本的な矛盾に気づいていないし、結果的にはそれを気づかせないようにして、労働者をうまく働かせようとする視点と同じであるといわざるを得ない。

 そこで次にバルトリーニに対する私の立場からの批判をまとめて述べることにしよう。

(続く)

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2018年9月28日 (金)

ステファーノ・バルトリー二「幸せのマニフェスト」をめぐって (その問題点1)

 バルトリーニは、こうした現代社会の矛盾を克服するために、「今日の経済・社会機構は、幸福感の向上とは異なる目標---主に経済的目標---ばかり見ている。われわれがもし幸福感に満ちた生活を欲するのであれば、そのような生活の促進を目指す社会を構築しなければならない。生き生きとしたコミュニティや豊かな社会関係の発展を妨げる社会的・経済的・文化的制約を取り除く必要がある」としてその具体的な処方箋について述べている。

 その処方箋は「関係の豊かな都市をつくる」「子どものために政策」「広告に対する政策」「民主主義を変える」「働き方をどう変えるか」「健康のための政策」と、それらに対する反論に対する見解を述べている。

 敢えて上記6つの項目の重み付けをするならば、「民主主義を変える」と「働き方をどう変えるか」が上位に来るだろう。なぜなら後の4つはこの2つの問題に大きく影響されるからだ。そこでこの2つの問題についてここでは取り上げることにしよう。

 まず「民主主義を変える」について見てみよう。バルトリーニは「ポスト・デモクラシー」について次の様に言う、「権力をもった少数者の利害関心の影響力が多数者である民衆のそれよりもずっと大きくなり、政治システムは少数者の目的に従って変えられていく。政界のエリートたちは、世論を操作し導くことことを学んでいる。有権者の投票行為は、政治家たちの選挙キャンペーンの影響を受ける。選挙キャンペーンは広告業界から拝借した洗練された宣伝技術を駆使して、政治を公衆に<見せる>ようになっている。一方で政党の政策プログラムはますます無内容になり、政党間の違いもはっきりしない」。こうした選挙には年々莫大な資金が必要となっていき、政治資金が潤沢な政党が選挙に勝つようになる。従って、その選挙資金は経済的支配権を持った巨大企業の支援がなければ調達できなくなっていく。こうして「富裕な1%の人々のための民主主義」が常態化し、大多数を占める民衆は政治について無関心になって行く。まったくその通りだと思う。

  彼はさらに次のように指摘する。いま移民問題を巡って、グローバリズムと反グローバリズムの対立が激化しているが、ここでの移民に対する拒絶反応が極右勢力の台頭を促している。そこではこの「ポスト・デモクラシー」が大衆先導的ポピュリズムを生み出す。しかし大量に流入する移民は加害者ではなくむしろグローバル資本の被害者なのだ。そして彼はいう、「そのため(問題解決)には、貧困国の少ない資本(労働力という観点から見れば莫大な資本であるー野口による注)を巧妙に搾取するグローバル金融権力の利権を解体しなければならない。また大規模な貧困問題をかかえている国で新しい世代の消費者を増やそうと目論むグローバル企業の利権をも解体しなければならない」と。まったくその通りだと思う。

  バルトリーニはこうした「ポスト・デモクラシー」変革への処方箋として次の様な提案をする。まず、「政党助成金と政党のマスメディアへのアクセスを支配するゲームのルールの変更が必要である」とし、「これらへの規制と政党支出の上限の設定を組み合わせれば好ましい結果が得られるであろう」と言う。それに加えて、彼は選挙結果の取り消しを保証する電子投票の導入を提案する。これはある意味での直接民主主義への接近であると彼は考えているようだ。

 この提案は提起された問題が深刻な割にはまったくそれに深入りしない対症療法としか言えない。こうした規制や投票方法の改善がもし可能であってもそれによってこの「ポスト・デモクラシー」状態がなくなるとは決して思えない。

 何が彼をこのような対症療法的解決案に留まらせているのか?それは彼が問題とする現代資本主義社会のもっとも基礎にある矛盾について彼がまったくアプローチしていないからだと思う。それについては最後にまとめて述べるつもりである。(続く)

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2018年9月27日 (木)

ステファーノ・バルトリー二「幸せのマニフェスト」をめぐって (その主張)

 数年前にこのブログでも取り上げたセルジュ・ラトゥーシュらとともに、現代ヨーロッパでの「ポスト開発派」の一派である、イタリアのステファーノ・バルトリーの著書「幸せのマニフェスト」—消費社会から関係性の豊かな社会へ(中野佳裕訳、コモンズ、2018)を最近読む機会があったので、その感想と問題点について書いておこうと思う。この本についての書評は「週間読書人」9月21日号にも書いたので、ここではより深く突っ込んだ批判を書くことにしよう。

 バルトリーニは、西欧やアメリカに代表される現代資本主義社会は消費拡大が経済成長を支えるという「経済成長神話」が支配しており、そこでは働いて得た収入でものを買って消費することを生きがいにしようとする生活が一般的になっている。それにも拘わらずその生活は幸福感がない。そのためさらに新たな商品を買えるようにより多く働いてより多くの収入を得ようとするためにストレスが溜まっていく。こうして労働者の所得は増え、消費は拡大され、経済は成長する。しかし人々は少しも幸福感を持つことがない。
  バルトリーニはアメリカにその典型を見るこうした状況を「防御的資本主義」と呼ぶ。こうした生活では失われて行く自己の人間としての存在価値への不安や不満を補うためにモノを買うことでそれを補おうとし、幸福感の基礎である人間的関係性が経済成長の犠牲になっていると指摘する。
 さらにこうした「防御的資本主義社会」の悪循環は広告産業やマスメディアによって人々の消費欲求(ニーズ) が恣意的に生み出され、充たされない不満感が繰り返し促進され、それが常態的な過剰消費を加速する。そしてそのために地球全体で「開発」による自然環境破壊や気候変動が進むとともに、孤独や断絶感、他者への不信感などの拡大という形で社会的な人間関係性が失われていく。
 ところがこうした状況に政治家たちはブレーキをかけることができない。なぜなら、選挙によって選ばれた政治家たちはこうした状況を生み出している大資本によって政治資金も政策も実質的に牛耳られているため、人々の不満や不安への抗議を代弁できなくなっているからだ。これを彼は「ポスト・デモクラシー」という。
 バルトリーニはこうした「社会の病」の原因として次の様な事を挙げる。現代社会は「消費主義文化」であり、そこでは生活における内発的動機付け(友情や連帯、市民感覚)よりも外発的動機付け(お金による動機付けなど)を重視する。こうした文化はモノの所有を重視し、他人をモノと同様に見る傾向を生み、他者との関係を悪化させるとともに自分自身との関係も悪化させ、自己表現や自律性、自己評価を低下させる。
 こうした消費主義は市場経済システムの産物であり、「消費主義的な人間は彼らが準拠する(市場経済の)価値体系が内発的に動機付けられた活動に対するニーズをあまり重視することがないにも拘わらずそのようなニーズを持ち続けるため」幸福度が低いのだと主張する。そしてそのような状態をマスメディアが促進するため自体はますます悪化する。
 バルトリーニは、こうした問題の根源には人格形成期における子どもの教育のあり方の問題があるという。
 彼はこう主張する。それは教育において人間が本来持っている「可能性の感覚(物事を試す能力、環境に働きかけてそれを変えていける能力)」を失わされるからだ。その能力はより好ましい生活を目指すための試行錯誤を可能にする。ところがいまの教育システムでは経済的・社会環境を所与のものとして前提し、個人がそれに適応できる能力を育てようとするため、可能性の感覚は圧縮されてしまう。
  そのため、子どもはなかなか自立した大人になれないし、世代間の断絶も生まれる。現代人は子どもの頃から自分の人生は強いられた道だということを学ぶ。この感覚は結局、社会や生活をコントロール不能なものとして見るような意識を育てることになる。
 バルトリーニはこうした「病んだ社会」への、それに取って代わるべき「社会関係財」を重視した社会への処方箋として、他者との比較と競争ではなく自己表現としての「可能性の選択」ができる子どもの教育、広告に対する規制、マネーと政治の切り離し、外的動機付けではなく内発的動機による働き方、健康のための政策、公共空間を重視した都市生活、 などについて具体的に提案している。
 バルトリーニの主張のポイントは、経済成長を主要な目標とする現代資本主義社会の病理を克服し「脱物質主義的文化」に向かうためには、まず社会がモノに対する所有や消費への利己的欲求を充たすための手段としての経済的動機付けに支配されるのではなく、社会的共有財を重視し、それを中心とした生活における豊かな関係性に基づく幸福感のある社会の構築が必要であり、それを支える内発的動機にもとづく労働が重視される必要があるという点であろう。ここまでの彼の主張はおおむね賛成である。しかし、これを変革するための方法や提案については疑問を感じざるを得ない。次にそれについて考えてみようと思う。
(続く)

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2018年9月25日 (火)

10万アクセスを超えました。

 このブログを2007年に初めて、やっと10万アクセスを超えました。しかし特定のページにアクセスが集中しているので、もうすこし他のページも読んで頂けることを期待したいです。

 以前NHK-TVで放映していた中国深圳の三和人材市場のドキュメンタリーについて感想を書いたところ多くのアクセスがありました。多分ツイッターかなにかで取り上げられたのでしょうね。そのときは中国からのアクセスも少ないながらありました。
 しかし昨夜このドキュメンタリーが再放映されて再び多くのアクセスがありましたが、今回は中国からのアクセスはありませんでした。中国政府当局がアクセス規制をかけているのでしょうか?
  いまアメリカと貿易戦争で覇権を競っている世界第2位の経済大国で、その底辺で希望を失い「オレたちはもうその日暮らしの三和ゴッドから抜けられないね。絶望的だよ」と自嘲的に言い放つ若者たちは何をどこに訴えていいのか分からないのでしょう。「好景気」といわれる日本でも「格差」の拡がるいま、他人事ではありません。おそらくアメリカでも底辺では似たような状態でしょう。
 それにしても当初はこのブログへの意見や反論があると考えていたのですが、あまり反応がなく、ブログというものは一方通行なのだということが分かりました。意見交換をのぞむならばどこかにそのためのサイトを立ち上げねばならないのかもしれませんが、このトシになるとなかなか新しいことを覚えるのが大変で未だそこまで行きません。
 とりあえず何か意見がありましたら「コメント」にでも書き込んで頂ければ幸いです。

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