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2018年1月28日 - 2018年2月3日

2018年2月 1日 (木)

「新自由主義経済」崩壊過程の実態(修正版)

 20世紀後半に資本主義経済体制を危機から救ったケインズ型資本主義経済体制は、ある意味で国家が貨幣価値のコントロールという形で資本の流通過程に介入することで、労働者の生活の生活資料消費の拡大という形で過剰資本を処理しつつ、資本の「成長」を維持する体制であったと考えられるが、この体制が当時世界を二分していたいわゆる「社会主義圏」に対抗する意味でも労働者の福祉や失業対策を国家主導で推し進めていくことになった結果、労働者ががんばって働かなくとも生活できるという感覚を持ったとされ、「イギリス病」のような社会的停滞現象が起きたと言われている(これについては社会主義理論研究の大きな課題でもあるがそれはここでは論じないことにする)。

 その反動として「新自由主義」と呼ばれる経済体制を主張する一派が登場し、アダム・スミス流の「レッセ・フェール」の復活を唱えて多くの保守政治家たちから支持された。
 その主張は、国家による経済の管理をできるだけ少なくして、市場の需要・供給関係を基本とした自由市場に任せている方が世の中はうまくいくというものであった。国家機構はそれを支える最小限のものでよい、つまり「小さな政府」論であり、資本家や労働者は個々に自己責任で生きろということだ(しかし現実にいま「小さな政府」を標榜する経済体制でも資本の流通過程を抑える貨幣の流通量を国家がコントロールしないと経済が成り立たなくなっている)。
 そして20世紀末に「社会主義体制」が崩壊した後に、「社会主義圏」の一員であった中国が資本主義経済体制を受け入れて急成長し、世界市場で低価格商品の巨大な供給源となった(いまでは巨大な消費市場となっているが)こともあって、商品市場の価格競争が激化し、21世紀には その主張が支配的となっていった。
  しかしその「新自由主義」経済体制も当然のことながらいま内部崩壊しつつある。確かに外見上では世界経済は前例のないほどの好景気で失業率も減って設備投資も増加しているというが、儲けるための「自由競争」の激化によって「カネがすべて」という感覚が世界中を支配している。そしてそれに比例して自助努力と自己責任という考え方が競争の激化によって人間本来の社会的連帯感や倫理観を失わせ、利己的な「自由」を求めた結果の「成功者」とそれが出来なかった人たちの落差はどんどん増大している。
 一言でいえば、「カネがすべて」という世界は活況を呈しているがそれに比例して人々の「富の格差」は増大し、それに反比例して人々(富裕層も含めて)の内面や実人生はますます貧しくなっている。
 人々はモノを消費あるいは所有することだけが生活の意味であるかの様な感覚を持たされ、どんどん商品を買わせるための宣伝や広告が世の中に渦巻いている。いまや流通部門が経済の支配権を握り、情報流通と物流の世界を握る資本がすべてを支配しているように思える。生産資本はいまや商品の販売を握っている商業資本や流通資本に事実上支配されているように見える。そしてそこには「自助努力」による「自由市場」がもたらす大きな矛盾が渦巻いている。
  例えばフランスの農業生産者の例を見ても、スーパーなどの量販店同士の顧客獲得競争で輸入食料品などによる価格破壊がもたらされ、国内の農業生産者は立ちゆかなくなったため、販売店に対する大規模な抗議運動が展開されている。
  ここでは三つのグループが対峙する。一つは販売店に雇用されている労働者であり、雇用主が儲かれば、賃金も上げてくれるかもしれないという期待から販売会社が顧客獲得競争で勝ち残って欲しいと願う人たちであり、二つ目は販売店に自分たちの作った乳製品などの農産物をその労働に見合った価格で仕入れてもらうことで生活する人たちである。そして三つ目はそこに並ぶ商品を買う人たちで、おそらくどこかの資本家に雇用されその賃金によって生活する人たちである。
  第一のグループは商品をできるだけ多く販売したいと願い、第二のグループは生産物をできるだけ販売店に高く買って欲しいと願い、第三のグループはそれをできるだけ安く買いたいと願う。この互いに矛盾した願望によって動くのが「自由市場」下の需要と供給の関係であり、それぞれが自助努力を重ねてこの矛盾の「妥協点」を探すのである。そうしなければこれらのグループの人々は生活が立ち行かなくなるからだ。
 また生産資本に雇用されている労働者は流通・販売部門から突き上げられる値引きの圧力に耐えながら激しい企業間の競争の中で過酷な労働を続けざるを得なくなっている。生産現場はとっくの昔に労働力の安い国々に移転し、本拠地では企画開発や設計に携わる頭脳労働者たちが主に働いている。彼らはいわば生産資本家の頭脳の一部を担当させられている頭脳労働者である。日本ではこの頭脳労働者達は「高プロ」と呼ばれ、その労働生産性を高めるために「裁量労働制」に基づく成果主義が導入され、「働き方改革」の名の下に残業手当もカットされる。要するに効率よく働けば残業はしなくてよいはずだ、という名目で時間当たりの労働強度を強化しているのである。しかし「高プロ」労働者の意識はその労働内容からして資本家の意図の一部を担っているから、労働者意識はほとんどない。
 そして労働賃金の安い国々で働く生産現場の労働者は、過酷な肉体労働のもとで、当然のこととしてすこしでも楽な生活がしたいので同じ労働でも労働賃金の高い国へと移住を希求する。しかしそういう国へ移住しようとすれば、国境で「カベ」が立ちふさがる。まるで牢獄の様な国の中に閉じ込められた労働者達である。もし首尾よく移住ができたとしても、その国では「オレたちの職を奪うのか!」という叫びの中でその国の民族主義者などに叩かれることになる。国家間でのこうした「同一労働<非>同一賃金」がいまのグローバル資本の成長を助けているのだ。資本には国境はないが労働者は高いカベで囲まれた国境の中に閉じ込められているのである。しかし資本の頭脳の一部を分担する頭脳労働者には当然国境がない。
 こうして「自由な市場」は一方で競争に勝った一握りの資本家たちを超富裕層にし、他方で世界中の労働者達はこうした資本家たちに、労働力を提供させられるために「自助努力」を強いられる存在として生かされているのである。いわゆる「中間層」労働者はモノを消費することで資本を圧迫する過剰資本を処理しながら流通資本に利益をもたらす存在として、また貧困層はいつかは「中間層」の様にモノを消費できる生活ができるという期待を持たされつつ日々資本の鎖につながれた過酷な労働を繰り返しながら、資本のもたらす生産と流通の仕組みの馬鹿げた矛盾の中で互いに対立者として対峙させられる。
  その間もそうした「自由市場」を活性化させるために注がれる膨大な量の貨幣(これは元はといえば労働者が生み出した価値なのだが)を発行するため国家の借金は増え続け、その返済はやがて労働者たちに負い被されることになるのである(一部の経済学者はこれを返済の必要のない借金だというがそんな「借金」があるならそもそも資本主義経済など成り立たつはずもない)。
 さあ、これでも世の中、好景気といって喜んでいられますか?

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