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2019年2月

2019年2月28日 (木)

「モノにあふれた社会」の裏側にある労働者の過酷な現実

 今朝のNHK-BS国際ニュースでバングラディシュの縫製工場の実状を報道していた。この工場では世界の有名ブランドのTシャツなどを大量に作っているが、労働者の賃金はあまりに低いため、生活が成り行かなくなり、労働者たちによる大規模なストが打たれた。そしてその結果それまで月額57ユーロだった賃金が80ユーロに上げられた。通貨の換算をしてみれば、80ユーロは1万円前後である。当然、それでもまだ労働者たちは家族全員を養うには足りないので猛烈な抗議運動を続けている。彼らの家は日本で言えば6畳ほどの部屋に家族全員が寝起きしており、最低限の生活用具しかなく汚れて不潔な状態である。しかも労働運動を積極的になっていることが分かれば、クビになるので、ストに参加するのも命がけである。
 このような生産現場で作られたブランド品のTシャツが日本や、アメリカ、ヨーロッパなどで数千円ほどで売られている。例えばこのTシャツ1着を作るのに全部で10分の労働時間が必要であったとしても、一日10時間労働だとして、月28日間働いているとすれば、10×6×28/10000=0.168円の労働価格が対象化されたTシャツを「ブランド品」として数千円で買っていることになる。もちろんこれに生産手段の摩耗分や流通経費、販売経費などが含まれるだろうが、あまりに低い労働単価に驚かされるとともに、その品物を私たちは法外な価格で買わされていることが分かる。逆に言えばいかに不当に低い賃金でこの労働者たちが働かされているのかが分かる。
 このことはまた同時にバングラディシュでの月額最低賃金水準が約1万円位とすれば日本のそれが15万円程度としても1/15という差がある。これがいわゆる「生活水準の差」である(この差が何故生じるのかが問題であるがこれについては別の機会に論じることにする)。そしてこの差はグローバル資本にとって欠くことの出来ない差なのである。グローバル資本はこの「生活水準の差」をいかにして維持させながらこれによる莫大な利潤を獲得するかをつねに画策するのである。
 「格差」はこうして国際的に拡大する。「リッチな国」の人々は町にあふれた魅力的なモノを買いあさり、モノに囲まれた生活を送るが、そこで売られているモノたちはこうして貧困の中で働く労働者によって作り出されている。この驚くほどの低賃金で働く労働からもたらされた莫大な剰余価値部分を含む生産物はグローバル資本の所有物となり、これを「リッチな国」でブランド価値という恣意的な「付加価値」を上乗せした法外な価格の商品として売りまくることでますますこの資本は増大する。
 グローバル資本はこの莫大な利益を資本として蓄積しながら自分たちのリッチな国の企業で働かせる労働者を比較的高賃金で雇用する。そしてその労働者たちはその賃金の大部分をこうしたグローバル資本の販売する商品を買うために支出する。こうして貧困国の労働者はつねに低賃金で働かされ、「リッチな国」の労働者はその貧困国の労働者による生産物をブランド商品として高価な価格で買うことに賃金を支出させられ、結局オカネはグローバル資本の手に環流する。
 一方で「リッチな国」の国内では、生活消費財販売を担うコンビニの従業員たちは過酷な長時間労働で命の危険を感じている。いまコンビニ大手「セブンイレブンで」の労働者の「長時間労働が問題になっている。「24時間営業こそが利用者の利便を優先するコンビニの生命である」と経営者は豪語するが、人手不足で多くの従業員が雇えないという理由で少数の従業員に過酷な長時間労働が課せられる。しかしこの「人手不足」の中身をよく考えてみれば、賃金がもっと高ければ就職希望者も増えるのに、賃金を低くおさえているから人が来ないのである。悪循環である。
 しかも経営者がそれを承知で働かせる「名ばかり店長」は自分の生活や健康が維持できなくなるような状態で働き続けないとまともな賃金をもらえないのである。こうして少ない「人件費」で長時間労働を強いながら他店との競争に勝ち実質利益を増やそうというのがコンビニ経営者の思惑である。
 しかしこの経営者に雇用されている「名ばかり店長」は自分が無理をしても店を利用してくれる人のことを考えた使命感をもって必至に働いているのである。
 おそらく、こうしたコンビニにモノを運ぶことで物流を支えるトラック・ドライバーたちの現状もこれと似たような状況に置かれていると思われる。
 これがいまの労働者の現実であり、これはほんの氷山の一角にすぎない。
 この労働者の実状を見るとき、安倍内閣の実質賃金に関する基礎統計データ改ざん問題は労働者階級への重大な罪であり、グローバル資本の一角を支える日本政府の本質を曝くものである。

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2019年2月21日 (木)

ホンダの英国工場撤退をめぐって

 ここ1〜2日マスコミを賑わしているのがホンダが1985年以来シビックなどの4輪車の生産を行ってきたイギリスのスウィンドンにある工場での生産を終了し、ヨーロッパの生産拠点から撤退するというニュースであろう。このホンダ・スウィンドン工場では3500人もの労働者が雇用されており、また関連企業への影響も大きく、それらの企業に雇用されていた労働者にとっては仕事を突然奪われることになる。ホンダの八郷社長はこの決定はBEXITとは関係なく、自動車業界全体の電気自動車化への技術的変化や需要の変化に伴う問題だと言っている。このほかにもBEXITによるヨーロッパへの輸出関税問題をきっかけに日産など他の日本の企業も英国からの撤退を考えているようである。
 このニュースに日本の自動車メーカーがかくもヨーロッパの産業に大きな影響力を持っているのだ、と誇らしく思う人もいるかもしれないが、それは大きな間違いだ。朝日新聞の20日朝刊第2面にも書かれているが、この工場に長年勤めてきた労働者にとっては生活がかかっているので大変なショックであったに違いない。社長は従業員との協議を行った上で今後どうするかを決めたいとも言っているが、いかに労働者が権利を主張しても雇用者の立場が圧倒的に優位であることには変わりない。
 この問題は実は「ニッポンの経済的影響力」を示す問題ではなく、国境を越えた労働者階級の問題なのである。世界中の労働者が同じような問題にいつ直面してもおかしくないということを示しているのである。
 自動車業界では電動車への切り替えが急速に進む中で、ガソリンエンジン製造の技術を営々と積み重ねてきた技術者の努力をあたかもゴミ箱に捨てるようにしてモーターとバッテリーの技術開発に血道を上げるようになっている。すべては競争に勝って企業が生き残りための措置だというのである。この分野では従来のメジャーなカーメーカーではないアメリカの新興企業や中国など新興資本主義国が急速に追い上げてきており、日本の自動車メーカーは慌てているのである。
 やがてはガソリンエンジン車の開発に関連する労働者は解雇されるかまったく違う領域に配置換えされるだろう。
これは世界中で同様な問題が起きているということである。
 「環境に優しい明日の世界を切り拓くために!」などというコマシャールには、社会のためにすばらしいモノやコトを提供している企業の姿がイメージづけられているが、その内情と経営者の本音は、労働者の生活など会社の存続と利益のためにはどうでもよく、労働者は企業の利益を維持し増大させるための手段でしかないことがこのことによって分かる。
 そしてこれは日本やイギリス、アメリカ、中国といったクニの国境を越えた労働者階級に共通の問題なのである。いま世界中で労働者は雇用された企業で労働を通じて自分の生活に必要なモノを買えるだけの価値を生みだし、それに必要な労働時間を大幅に超えて働かされることにより生みだされる剰余価値を雇用者である企業に無償で持って行かれ、そのうち生活に必要な価値部分だけを賃金として与えられ、それによって自分たちがつくったモノを買い戻して生活しているのである。
 そしてその「買い戻し」の部分では資本家企業にとっては労働者は自分の商品を買ってくれる購買者であり、それによって資本家企業の利益を実現してくれる「お客様」であるため、夢を実現させるかの様なイメージ広告で商品をどんどん買わせるのである。
 だから「環境に優しいクルマ」をどんどん買わせ、それによって地球の資源がどんどんなくなり、廃棄物の山ができても一向に構わず、そしてやがて必然的に「過剰消費」に行き着くや必ずやってくる「過剰生産」状態が今度は工場の閉鎖や労働者の解雇という形で労働者たちに襲いかかってくる。これが現実である。
 「生活者」である労働者階級は、その労働によって労働力の再生産に必要な価値部分とともに資本家に剰余価値を提供すると同時にその合計の成果である商品を資本家の手から買い戻すことによって資本家に利益を実現させながらその商品を生活の中で消費し労働力を維持しながら、再びその労働力を資本家に捧げなければならなくなる存在なのであり、それゆえ資本家階級にとってなくてはならない存在なのである。
 これが世界中を支配している資本主義経済の基本的仕組みなのである。そしてそのもとで働く世界中の労働者はみな共通の立場に置かれているのである。「自分が雇用されている企業の競争力が高まれば自分たちの生活もよくなる」などというのは幻想であり虚偽である。ある企業が世界市場での競争に勝てばかならず負けた企業の労働者は不利な状況に立たされるのである。このことを認識することがまず重要だと思う。そこからあらてめて経済とは本来何なのか、環境問題とは本来何かを考えるべきであり、そしてそこから人間とは何かについてを再把握すべきなのではないだろうか?

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2019年2月15日 (金)

韓国政府の「天皇謝罪発言」をめぐって

 最近韓国のムン政権は、徴用工問題や自衛隊機へのレーザ標的照射問題などで対日強硬姿勢を打ち出しているが、これに対して日本の安倍政権が反発したことに対して「歴史認識に関しては日本の天皇が謝罪すれば済むことだ」と発言し、これがさらなる日本政府の猛反発と日本人の多くに「嫌韓」意識を刺激しているようである。
 これに対していわゆる民族主義的な人たちは当然「嫌韓」を丸出しにしているが、いわゆる左翼の人たちは戸惑っているように見える。というのもムン大統領が北朝鮮との融和を前面に打ち出しているのは彼がリベラルの一翼を担っているからであり、それを「良し」としていたのに、そのムン大統領がなぜいま日本にことさら強硬な態度を取るのかが理解しかねるからであろう。
 多分、その理由は第1に、ムン大統領がパク前大統領の不正問題への韓国の人々の猛烈な批判を受けて、大統領に当選したことで、その支持層の要望に応える必要があるからだろう。ムン大統領の支持層が抱くパク前大統領への不信感の中に慰安婦問題への前大統領の決着の付け方があったのだと思う。日本の安倍政権はこの条約をもって国家間の約束事であるからいまさらこれを破棄するようなことは許されない、と強硬な姿勢を取るが、韓国のムン大統領支持派にしてみればこれは自分たちの本意を反映していないということだろう。
 そして第2に、ムン政権の北朝鮮への融和政策があると思われる。南北問題はキム北朝鮮主席の挑発的核兵器開発に対するアメリカのトランプ大統領の猛反発から始まり、両者の間で意外な形で「手打ち」が成立したことがきっかけで融和への動きが始まったのであるが、ムン大統領はこの融和への動きに自分の政治生命を賭けた。そのためキム主席の強硬な反日姿勢に一定程度迎合する必要があったのだろう。
 この二つの理由でムン大統領のいまの対日強硬姿勢があるのだと考えられる。
 これに対して日本の大半の人たちは韓国政府の態度にある種の怒りを感じており「嫌韓」意識を高めているようだ。この現状は善かれ悪しかれ韓国の人々にとっても決してよい結果をもたらさないだろう。

 そこでここで少し歴史を遡ってこの問題を考えてみよう。韓国政府の主張の背景にはかつての日本による朝鮮半島の植民地化や韓国人へのいわれなき差別意識の助長は天皇を頂点とする日本の帝国主義的政策があったからだということだろう。このことはわれわれもしっかりと歴史的事実として受け止めねばならないと思う。
  戦争中日本国民は「天皇の国」を護るために戦争に駆り出され、兵隊に採られた農民や労働者たちは天皇の国(皇国)をまもる捨て石なって死ね、と言われて必死に闘い、まったく個人的には何の恨みもない人々を上官から「敵国民」として殺戮の対象とされ、自らもそういう人たちとの殺し合いの中で命を落としていった。そしてそのような軍隊の最高司令官として天皇が祭り上げられていたのである。
 明治維新以来、日本の「富国強兵」策のもとで進められた帝国主義的アジア侵略のもとで他国の人々との殺し合いを強いられ、「世界に冠たるニッポンの国民」という支配者のイデオロギーを植え付けられ、何百万もの人々がその命を「天皇」に捧げてきた。その意味では日本の農民、労働者もまた天皇制の犠牲者であるといってもいいだろう。そうした中で否応なしに日本帝国の一部に組み込まれてしまった朝鮮半島の人々へのいわれなき差別意識も植え付けられていったのだろう。
 そこで天皇の第2次大戦での責任が当然問題となる。第2次大戦で敗戦国となった日本で多くの戦犯が刑にふされ昭和天皇自身もおそらくは一時は戦犯に問われることを覚悟していたのではないだろうか。戦後の「東京裁判」では軍部の指導者の多くが戦犯となり処刑された。しかし最高司令官だった天皇は罪を問われなかったのである。これはいままでの世界史の中でも希なことだと思う。
 その背景には当時のマッカーサー司令部の政治的判断があった。明治維新以来80年近くにわたって植え付けられてきた皇国史観イデオロギーに染め上げられた日本人民にとって天皇を戦犯にすることは日本をうまく治めていく必要がある占領軍司令部としては得策ではないと判断したのだろう。そしてその後、当時のソ連との対立が深まり、いわゆる東西冷戦に突入することとなり、日本を「防共の砦」とする必要上、この処置は恒久的なものとなり、マッカーサー司令部の監督のもとで新憲法が出来上り、その中で天皇は「象徴」として位置づけられたのだ。
 そしてその後日本は朝鮮戦争の「特需景気」をきっかっけにして経済復興を遂げ、アジアでの経済大国となったのである。そうした中で「天皇の戦争犯罪」を口にすることはだんだん憚られるようになっていった。
 しかし昭和天皇が亡くなり、平成天皇が後を継いだとき、おそらく平成天皇がもっとも考慮したのがこの戦争での戦死者や他国の被害者たちのことであっただろう。その心中では父親の犯した罪を自分なりに償わなければならないという意識があったに違いない。だから平成天皇はその在位中ずっと慰霊の旅を続けてきたし、自分の「象徴」としての位置をどう捉えてよいか常に悩み続けていたと思われる。彼は「象徴」という立場として「謝罪」を口にすることが
できない状況に置かれていたのだ。
 これに対して現韓国政権は、これもまた政治的に韓国人の反日感情を利用して、天皇に謝罪を求めるような発言をしたのだろう。歴史の真実を正面切って捉えようとしない安倍政権とたいして違わない政治的態度である。
 問題は日本の人々も韓国の人々も、互いに「国家意識」とか「民族意識」による排外的アイデンティティーで結束するのではなく、お互いにあの戦争では当時の日本の帝国主義的支配者たちの犠牲になってきたという意味では同じ立場にあるということを認識すべきなのだと思う。もちろんわれわれは一方的な加害者として行動させられてきたのではあるが。その上で再びいまの支配階級が自分たちの政治的立場を維持するために互いにこうした問題を政治的に利用していがみ合っていることに対してもっと冷静に捉えることが必要なのではないだろうか?
 明治維新で生まれた政府によって中央集権化のために政治的に利用されて誕生した近代の天皇制が結局、その後の富国強兵策の強行にも利用され、日清・日露戦争で辛くも勝ってきた軍が自身を深めて、突入した第二次大戦において、その帝国主義的国家の結束を高めるために頂点に押し上げた天皇が、その悲惨な結果を招いた敗戦後も存続し、「平和憲法」の中で「象徴」となっているという皮肉。そしてそのことにより天皇自身も「フツーの人」になれなくなってしまっているという矛盾。これを何の疑問もなく考えたこともないという方が不自然なのではないだろうか?
 

 
 

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2019年2月11日 (月)

「モノづくり立国」はなぜ長続きしないのか?

 2月10日の朝日朝刊4面に、「総合電機解体への歩み」という記事が載っていた。かつて日本では高度成長時代の花形産業として登場した電機メーカーがその周辺の関連メーカーを傘下に収めていく形が主流だった。重電から始まった日立、東芝、三菱電機などと、家電や音響機器から始まった松下電器、ソニー、シャープ、などなどである。その後いわゆるIT革命が訪れて、IT関係のメーカーが急成長し、NEC、富士通、などがこの総合電機メーカーの一員として加わった。そしてこの親会社の傘下に無数の子会社、孫会社がネットワークを形成することでそれが巨大化し、日本のモノづくり産業を代表する存在となった。
 しかし、2008年のリーマンショック以後、これらの総合電機メーカー全体が危機的経営状況となり、統廃合やリストラを繰り返しながら縮小していったのである。
 それとともに、中国やアジア諸国などの電機メーカーが台頭し、その市場での競争力が瞬く間に日本の企業を追い越し、主導権を奪って行った。
 そして近年、家電大手のシャープが台湾企業の傘下に入り、東芝や日立もいくつかの不祥事でますますその状況は危うくなり、一時の隆盛期からは想像もできないような惨めな状況に陥っている。
 こうした状況はそれより以前にアメリカでもあった。かつての自動車王国はその関連企業も含めて見る影もなく衰退し、それらの企業で経済的に繁栄していたオハイオやイリノイなどは今では「ラスト・ベルト」と呼ばれるような荒廃した地域になってしまった。またデジタル化の進んだ写真業界でも世界的フィルムメーカーだったコダックはそれに追いついて行けずに倒産した。そうしてアメリカのモノづくり産業は衰退の一途を辿った。
 それと平行してアメリカでは生活消費財などの工業製品のほとんどが中国などのアジアや中南米諸国などで作られたモノになっていった。まさに"America is made in China"となってしまったのである。いまこうした状況で中国とアメリカが「貿易戦争」に突入しているのもある意味で必然的な結果だろう。
 そしてそれより80年以上も前にはイギリスでもかつての「世界の工場「が崩壊していった。

 ところでどうしてこのように「無敵のモノづくり立国」が衰退していくのかについて、考えてみよう。
 まず、多くの系列会社を傘下に収めた逆ツリー構造の綜合モノづくりメーカーでは、たしかに親会社の意図が通りやすく、連携プレーがし易いので効率よく複雑な部品構成のモノを作りやすい。しかし、その一方で市場での競争に勝つためのコストダウンが要求され、それぞれの系列企業の生産場面で「合理化」が進められることでそこでの労働内容が細分化・単純化されロボットなどの生産手段が導入されて資本構成の高度化(労働力に対する設備機械などの生産手段の増大)が進み、労働内容が高度な特殊技能を要しなくなってくことにより、労働力の価値(可変資本)が低下していったと考えられる。
 その結果、一方では少ない労働力数で大量の生産物ができるようになり、労賃分の経費が節減されることで、確かに生産コストは劇的に下がるが、他方で、その安く出来るようになった製品を、より大量に商品として販売しなければ企業全体としての利益が得られなくなるというジレンマに陥る。
 こうして大量生産して製品単価を下げれば下げるほど大量販売しなければならなくなるという圧力が増大し、一つの親会社がすべての関連メーカーを傘下に収める逆ツリー型構造では、その中の単独部品などを生みだすメーカーが自律的に競争に勝つための努力が出来にくくなり、総合的に効率よく利益を上げることが困難な状態を生みだして行ったと考えられる。
 そして国際市場の突然の変化で企業全体の売り上げが落ちればたちまち、その歪みが顕在化して経営が危機的になっていく。そこで親会社は個々の系列企業をどを逆ツリー型の系列から外し、自立化させることでその競争力を高め、いわゆる「アウトソーシング」型の体制によって企業全体としての競争力を強化して利益を維持していくことが行われた。
 ところがそのような状況になったときに、かつては安い部品の供給先として捉えていた海外の部品メーカーがその技術力を蓄え、自国の安い労働力を武器に急成長し、あっというまに国内の部品メーカーを圧倒していくことになった。そこで今度は傘下のメーカーは工場を労働力の安い国々に移転して国内に拠点を置く親会社で設計された製品を海外の工場で作るようになり、総合電機メーカーは事実上ほとんど海外の安い労働力で作られた製品を自社ブランドで売ることになっていった。その際に急速に追い上げる海外の新興企業との競争に勝つために「日本製ブランド力」による利益に頼ることしかできなくなっていった。
 この「日本製ブランド力」はかつて高度な労働技能を有し几帳面に品質管理を行っていた日本の労働者の誠実な仕事が築き上げた"Japan Quality"と言われる様な国際的信頼を得ていた「評判」を逆手に取った販売戦略である。ところが最近はますます強くなる新興国企業からの競争圧力の中でこの「ブランド力」も持ちきれなくなり、品質検査の手抜きや不正が横行し、いまや"Japan Quality"の信頼感は暴落しつつある。このままではそう近くない将来、モノづくり産業はほんの少しを残して大半が日本から消えて行くことになるかもしれない。
 モノづくり労働は価値の源泉であり、世界中の富の根源はモノづくり労働から生まれるといってもよいだろう。しかしそのモノづくり産業が衰退すべくして衰退した後には、サービス産業や金融業が経済を支えるようになっていく。これは海外で生みだされた富を自国に落とさせるという意味での産業の「寄生化」である。別の言い方をすれば「腐朽化した資本主義」である。

 こうして世界の「モノづくり立国」は次々と主役を代えて行ったがその過程で確実に起きている歴史的変化がある。それは資本は必ず国境を越えてグローバル化するが、それを支える労働は労働賃金の国による格差をもたらす「生活水準の違い」を資本に利用されてますます差別化されていく。資本がグローバル化してモノづくり労働が世界中に分散し、その賃金格差が資本の「成長」を支えるという状況の中でも着実に世界規模でのモノづくり労働の国際分業化が進んでいくという事実だ。そこでは同じ時間、同じ内容の労働を行っても受け取る賃金は大きな差がある。その賃金の実際の価値の差は国際的な通貨の為替相場というメカニズムで表面上は覆い隠されている。その様な状況で資本の商品市場では国際貿易によってどんどん儲けを増やしていく。だから世界中で必要な生活資料を実際に作っているさまざまな国の労働者たちは一方で自ら生みだした莫大な価値をグローバル資本に吸い上げられながら、他方であるときには資本家たちの「リベラルで機会均等な貿易」を主張するイデオロギーに、そしてまたあるときには彼らの中の「自国中心主義」を主張するイデオロギーに翻弄され続けている。こうした資本家たちの立場を代表する「支配的イデオロギー」によって、各国の労働者たちはお互いに手を結び合うべき仲間である他国の労働者たちと対立し合い、もしかすると戦争にまでなってしまうかもしれない状態に追い込まれている。
 その国際分業化したモノづくりを一握りの巨大グローバル資本が支配していることの不自然さと矛盾がこうしていまや日々顕在化している。
 しかし、この矛盾と虚偽の渦巻く状況の足下の大地に隠れている真実が見えてきたときにはきっと世界はその彼方に新しい未来の景色を見せてくれるに違いない。

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2019年2月 8日 (金)

ビジネス書になってしまった?資本論

 今日久しぶりで近所の書店に行ったところ、文庫本の書棚に「超訳 資本論」という本を見つけた。私は以前、的場昭宏さんの同名の本を読んだことがあるので、その再編集版かと思い、手にとってみると、著者は許成準という人で、経歴をみるとあの韓国の超エリート校KAISTを出て、ビジネス・コンサルのような仕事をしている人らしい。他にもいくつもビジネス書を出しており、その筋では知られた人の様である。
 そしてまず驚いたのは表紙の帯に、「ビジネスマンが一度は読みたい必読の書」というキャッチフレーズが書いてあるのだ! どうも資本論を捉える立場が私とは180度違うようなので、ちょっと買う気になれず、本屋の店頭でざっと目を通しただけなのだが、その中でこう言っているのが目に入った。「この社会を資本主義社会だという人は多いが、そこで自分を共産主義者だという人はいても、資本主義者だという人はほとんどいない」。そしてさらに、世の中全体が資本主義社会である以上、それはわれわれを魚とすれば海の水の様な存在であり、資本主義のメカニズムをよく知ることで、その水の中をうまく泳いで行ければよい、というような趣旨であるらしい。要するに資本主義社会を生きぬくためのビジネスマンの参考書として資本論をとらえている。
 困ったもんだ。これではマルクスがあまりにも可哀想である。
 私はこのとき、チラっと思ったのは、もしかするとあの「社会主義市場経済」を名乗る中国の共産党指導部のお偉方も、もしかするとマルクスをこのような捉え方で見ているのではないか?ということだ。いまの中国はどこから見てもカリスマ的共産党経営陣の支配による「国営資本主義社会」にしか見えない。
 マルクスがその生涯を掛けて資本論の中で言いたかったことは、要するに、資本という形で自分たちの労働の成果が日々自分たち自身を支配するような経済的メカニズムの中で仕事を続けなければならない労働者たちと、その資本の人格化された存在である資本家があたかも社会のために雇用を生みだしたやっていると言わんばかりの態度で労働者の能力をオカネで買い取り、その労働を自分の資本増殖の目的で用いながら社会的に必要なモノをそのための手段として日々生みだしている社会。その中で労働者は「賃金奴隷」として資本の増殖のために働き、そこで受け取った賃金によって、資本家に利益をもたらすために日々自分たちの生みだした生活消費財を資本家から買い戻して生活しなければならない社会。これが資本主義社会なのであって、この「賃労働と資本」という形で現れる資本主義的人間疎外からの解放こそが絶対に必要であるということだった。
 その資本主義社会では資本は一人の「資本家」に人格化されるのではなく、株主、投資家、そしてそこから得た資金を所有する企業、そしてその資本を増やすための増殖機関として機能する企業の経営者、その下でその手足となって働くビジネスマン、資本家企業のつくる商品を売買する企業の経営者、さらに資本の回転を合理的に推進するための金融機関、などなど要するに労働者を雇用してその労働の結果を資本の増殖のために直接的・間接的に吸い上げる組織とその運営を仕切る人々の集団が「資本家階級」なのである。そしてその個々の資本家企業の利己的欲求を資本主義社会全体として調整しスムースに運営していくために資本主義国家の政府機関が存在する。こうした人々が資本主義社会の支配階級なのである。
 彼らは自分たちを「資本主義者」などとは決して思っていない。なぜなら、資本主義社会こそが社会の進歩によって出来上がった普遍的社会の形であると信じており、そういう社会を「あたりまえ」の存在として肯定するならば敢えて「資本主義者」などと言う必要がないからだ。
 こうした「あたりまえ」観こそが、実は支配的階級のイデオロギーなのであり、この本の著者のいう「水の中」なのである。
 私を含めて資本論を真摯に受け止めマルクスの意図を正しく理解しようとする人たちは、いままたこうした新手の支配的イデオロギーとも対決しなければならなくなったのだ。

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