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2019年3月

2019年3月24日 (日)

「経済成長」とともに労働者の生活は貧困化する実状

いま、少子高齢化が大きな社会問題となっているが、これに対する政府の対策ははっきり言って小手先のごまかし程度しか成されていない。
 なぜ、「ゆたかになった」と言われる生活の中で若者が結婚して子どもを持つことが少なくなっていったのか、という問題には大きな落とし穴があるからだ。
 私が4〜5歳の幼児だった頃、日本は戦争のまっただ中で、若者が徴兵で前戦に送り込まれ消耗品の様にどんどん死んで行っていた時代であった。そして当時の政府は「生めよ増やせよ!」と宣伝して兵士として育つよう子どもを増やそうとした。戦争中の食糧難で厳しい生活の中でも、若い夫婦は子どもを生もうとしていた。表面上は「お国のため」そして本当は家族が多い方が良いからだ。
 そして終戦。親が戦死したり空襲で死んでしまった子供達は、「戦災孤児」(「浮浪時」とも呼ばれていた)として都会にあふれていた。ラジオではこうした子供達の生活を描いた連続放送劇「鐘の鳴る丘」が人気を集めていた。当時はまた、戦場やかっての植民地からどんどん人が帰国し始めて国内の人口は増えていった。それと同時に、戦争が終わって若者が戦場に駆り出されることがなくなったので、安心して子どもを産む夫婦が増えてこどもの人口も増えていった。そうした復員兵や帰国者、およびその子どもたちたちがやがて日本の資本主義復活に必要だった労働力となっていわゆる高度成長の原動力になっていったのである。
 そして、そのころ日本資本主義の復活と成長を支え、「ゆたかな生活」という目標をともかくも達成させてきた労働者階級が高齢化し、いま一方でその後の世代を担うべき若い労働者の数が少しづつ減ってきたのである。いまやハイテク技術と国境を越えた豊富な物流の中で、人々は高水準化した労働賃金をどんどん生活消費財や趣味娯楽の世界に支出して「ゆたかな生活」を送っているように見える。
 しかしその反面で、昔は「びんぼう」ではあったが、子どもが多くても何とか生活できた社会的基盤があったのが、いまは「ゆたかな生活」になっても子育てするための社会的基盤が失われてしまったのである。
 その主要な原因は、「ゆたかな生活」が実は、モノ(商品)を出来るだけ多く売るために、どんどん買わせて消費(あるいは廃棄)させ、より多くの貨幣をできるだけ早く回転させ、それによって資本家企業がより大きな利益を獲得することが「経済の成長」であるとされ、その経済的メカニズムの上に世の中が成り立っているからだといえる。
 労働者の賃金は昔に比べて高騰し見かけの給料は増えたが、次々と購買欲をそそるモノが売りに出されるため、その多くの部分がそうしたモノを買うために支出される。残りを貯金して将来に備えようとすれば、今度は子どもの教育費がかさむようになり、そのためにこの貯金を使わなければならなくなる。いまでは企業が高度な知識を持った頭脳労働者を必要とし、その育成に必要な教育機関もビジネスになりどんどんオカネを使わせるようになっているからだ。生活必需品である住む場所としての家も持ちたいが、労働年齢の大半を費やしてローン(給料の前借り)で購入しなければ手に入らない。ようやく子どもが大学を出て新たな労働力として資本家企業に雇用されても、自分は退職金を老後の生活保障のために用いなければならず、子どもは再び、消費財の購入で賃金の多くを支出し、自分の家も持てず、子育てもお金がかかり過ぎて無理、だから結婚もしないで、自分だけの「お一人様人生」を楽しむ生き方を選ぶことになる。
 政府は税金を引き上げてそれを高齢者の介護や子育て支援に用いようとするが、ただでさえ余裕のない生活を送っている労働者階級には税の負担は限界があり、結局それだけでは切り回せなくなる。
 世の中は「お一人様人生を楽しむ」というある意味で惨めな生き方を選ばざるを得なくなった若者たちの消費欲をどんどん刺激し、高齢者のなけなしの貯金をどんどん崩させて消費を拡大しないと経済が「成長」しなくなるので、世の中はモノにあふれ、「ゆたかな生活」であるかの様に見える。しかしその裏側では人々の生活は実質的にどんどん崩壊しどんどん貧困化していっている。
 ここでいう「貧困化」とはモノにあふれているが、生活における幸福感や将来への希望や安心感が失われている状態を指す。だから「お一人様人生」は絶えず「楽しみ」を求めて現実社会ではなく「バーチャルな世界」に逃避しようとし、AIやアニメの壮大な妄想世界が若者の心を捉える。そしてまた資本家企業がそれをビジネス・ターゲットとして捉える。そしていつのまにか世の中から子どもが減っていき、未来への希望も失われていく。
 あのモノもオカネもなかった終戦直後の貧乏時代、3世代家族で子どもや孫たちに囲まれてそれなりに生きる意味を味わって生きていた高齢者は、いまでは孤独な介護施設で外国人看護師のお世話にならないと生きて行けなくなった。そして蓄えていた貯金はすべてそのために使い果たされる。これを「貧困な社会」と呼ばないで何と呼ぶのだろうか?
 この現実を認識することがまずは先決である。そしてそれからその本当の原因を突き止める旅に出よう。

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2019年3月23日 (土)

閑話休題

 このところ、いろいろなことがあって、このブログをしばらく休んでいたが、忘れられてしまわないように、久々に「閑話休題」と行こう。
NHK-BS「世界のニュース」から。フランス・ドゥーのニュース。
このところ毎週行われるガソリン税引上げや労働法改正に反対する労働者たちによる「黄色いベスト運動」の大規模デモに関して、フランス政府は、破壊行為防止のため、軍隊を導入することを決定した。フランス・ドゥーの記者がそのデモ規制に出動する兵士にインタビューした。彼はこう答えた「われわれは国民に銃を向けるのではなく、フランスを護るために出動するのだ」。う〜ん、ということは「黄色いベスト運動」の人たちはフランス国民じゃないってことか?
 もう一つ、フランスではこのごろ睡眠時間が短くなる傾向が強く、労働者の平均睡眠時間が7時間を割るようになった。そこで職場では臨時のテントを作ってその中で従業員が昼食後30分ほど昼寝をしてよいことにした。15分間の浅い眠りでも生産性が30%上がるという研究結果もあるそうだ。しかし、ここでいう「生産性」っていったい誰のための生産性なの?すくなくても労働者自身の生活にとっては何の意味もないことだと思われるが。ついでにこの昼寝場所を有料で貸す業者も現れたそうだ。労働者の長時間労働への対処もまた「ビジネス・チャンス」なのだ!
 そして今度はわがニッポンの話。
 人手不足のため、コンビニ店長たちが24時間営業による長時間労働に反対して休業時間を設ける様に本社に要望した。ところが本社は「お客様(コンビニ利用者)への迷惑となる」としてこの申し出を断った。帰宅が夜中になる店長もおそらくコンビニの客となる場面もあるのではないのか?「お客様の迷惑」よりも従業員の健康を軽視するのは「お客様が迷惑」という理由は表向きであって本当は他社コンビニとの熾烈な競争に勝つためだからなのだろう。これはコンビニ会社に限らない。「顧客」もまた労働者である。うした経営者の「購買者のため」とか「便利になるから」という偽善的態度に騙されないように気をつけよう。さもないと結局自分のクビを絞める形になるからだ。

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2019年3月 8日 (金)

「新デザイン論」(仮題)執筆中 その3

 このところこのブログへの投稿が滞っていますが、その理由の一つに、これまでも何度か触れましたが、「新デザイン論(仮題)」という本を書いているためです。
 これまで自分が長年にわたって思考を重ねてきたデザインをめぐる諸問題やデザイン理論への批判的考察で、なかなか中身がまとまりませんでした。すでに走り書きノートが十数冊あるのですが、それをどういう構成で全体をまとめ上げ、どのように筋を通すかがなかなか難しいのです。
 このブログでも一度だけその目次を出したことがありますが「目次も長すぎて趣旨がなんだかよく分からなかった」という批評もありましたので、全体として私が何を言いたいのかがより分かりやすくなる様な構成に直しつつあります。
 この本はどこかの出版社から依頼があったというものではなく、あくまでも自分の研究と思考の集大成としての記録を留めておきたいという思いから書いているものです。あと何年正常な頭脳労働が続けられるか分からない私にとってはある意味の「遺書」です。
 全体が「現代デザイン批判」という形になっているので、現在の職能的デザイン教育という視点からはいまの大学などではまずこの内容の本は受け入れられないでしょう。しかし、長い目でみれば、何時か、次世代の社会を考えねばならないときが来たときになって、この本は必ず何かの参考になるはずです。
 あと3ヶ月もすればおおむね内容が固まると思いますので、その段階で出版してくれそうな出版社を探してみようと思っています。

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