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2019年4月10日 (水)

デザイン × 科学「未来創る異分野タッグ」という記事への疑問

 4月8日の朝日朝刊「科学の扉」欄に表記のようなタイトルがあった。かつて私も大学でデザイン研究者として先端技術の分野の人たちとタッグを組んだ経験があるので気になった。内容は東大生研とロンドンのRoyal College of Artのデザイナーが共同で立ち上げた「デザインラボ」の紹介だ。生産研が持つ最先端の科学技術やアイデアを、デザイナーの発想力を利用して形にし、実用化につなげるというシステムだ。生産研にある機械工学、微細加工、バイオ、コンピュータ工学などの研究室からデザイナーが気になる技術をピックアップし、研究者たちと2〜3ヶ月かけてアイデアを出し合い、数年後の近未来やもっと先の未来に実用化された案をイメージしたプロトタイプを作るということらしい。

 このプロジェクトを主催したY教授の話では「大量生産を前提とした生産技術への反省があり、自動車の量産体制確立における工業デザイナーの登場に象徴される状況が20世紀後半から環境問題を起こし、製品の多機能化が使い勝手を損ねたり障がいのある人に量産品が対応できないなどさまざまな問題を引き起こしている。技術を受け身で使うのではなく、どう使うか、何が必要か、研究のもと上流でデザインが必要という認識が欧米を中心に広がっていった。」そこで芸術系のRCAのデザイナーにはない科学技術系の研究を発想の対象としてぶつけてみようということの様だ。

 まことに結構な考えだと思うが、実はこうした考え方はかなり以前からあったし、現に京都大学でも似たようなデザイン組織が存在する。しかし、基礎研究に力を入れない文科省のもとでは予算の関係で無理があり困難が伴うのが普通であるが、天下の東大と芸術系の世界的有名校RCAが手を組んで立ち上がれば確かに文科省も首を縦に振ることだろう。

 しかしさらに深く考えてみると重大な問題が忘れられていることが分かる。それは、このプロジェクトはいかにも最先端の科学技術研究とデザインの結合であるといえるが、実は日常生活においてさまざまな生活上の問題に遭遇し、それを克服するために頭を絞っている一般庶民からのボトムアップ的発想ではなく、そう言っては失礼かもしれないが、完全にエリートたちによるトップダウンの発想であるということだ。

 もともと本来のデザイン行為というのは日々の生活に必要なモノを生みだそうとする農民や職人たちの中に存在していた。生活に密着したきわめて具体的な「問題」から出発してそれを具体的に解決しなければならない状況から生みだされるアイデアや発想だった。それが結果的にある美しさを持っていた。いわゆる「民芸品」(こういう呼び方は構成の文化人が名付けたのだが)の「用の美」がその典型である。そこでは貴族や武士の様な人々の生活に必要なモノを作る職人も存在した。しかしそれらはすべてアノニマスなものであり、恣意的で売名的なデザインではなかった。

 しかし商品経済が浸透し、生活に必要なモノがすべて商品として作られる世の中になり、そのために適した分業化がモノづくりの世界に浸透して行き、「使う人が作る」のではなく「売るために作る」という生産体制(資本主義的生産体制)が確立していった。その体制の中で、モノは資本家が所有する複雑な機械で大量に生みだされるようになり、それらを「売るために作る」(資本家)側では生産現場で単純作業によりモノを作る人たち(単純労働者)とは別に「設計」とか「デザイン」という頭脳労働に専従する人たちが分業化され、経営者の意図を反映した商品を生みだすための専門職として確立されていった。「デザイナー」という職能は、こうして出来上がってきたのである。

 つまりもともと「使う人が作るモノづくり」においてはつくる人の中で統一されていた目的意識とつくる作業(労働)がそこでは分断され、目的意識は実際につくる人たちの労働から奪われてしまい、それを商品として売る人たち(資本家)の目的意識が「発想」や「作る作業」の在り方を支配し、デザイナーを含めて「つくる人」はその「売る人」の目的意識に添ったモノを生みだすことに専念することになった。つまり本来、生活者が持っていた「デザイン能力」は「売るためにつくる」人たちに奪われてしまい、それをデザイナーという職能が「売るためにつくる人」の側の意図に添ってそれを行うようになったのである。

 だから生活者は、それら「売るためにつくる人」たちが次々と売リ出す「新商品」をどんどん買わされる「消費者」としてしか存在意義を認められなくなってしまったのである。 「近未来を思わせる新製品」とか「ハイテク技術との融合で生まれた未来的新製品」などという宣伝文句に惑わされ、世の中の流行に遅れまいと必要でもないモノを次々買わされ、まだ使えるモノも廃棄していくことが「経済の活性化」になるとされる世の中になってしまったのである。

 この厳然たる事実に対してそれをどう捉えるかが問題であって、いかにエリートたちが頭を絞って考えた「科学技術とデザインの結合」であってもそれが真に生活者の必要から生まれたモノでない限り、「経済成長のため」としてエネルギーの無駄使いや環境破壊につながる大量浪費がもたらす社会問題を根本的に解決することはできないだろうし、本来のボトムアップ・デザインにはなり得ないであろう。

 

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