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2019年5月

2019年5月28日 (火)

国際協調ってナニ?(基本的問題について考えよう:2)

 いまEUやアメリカを中心として世界中で「国際協調」を看板とする「リベラル派」と「自国第一主義」を主張する「ポピュリスト」政党との間でせめぎ合いが深刻になっているが、このせめぎ合いの背後には次の様な問題があると思われる。

 一つは、2度にわたる世界大戦の苦い体験を経て生みだされたヨーロッパ統合への共通認識から結成されたEUを支配しているエリート階級が「国際協調」を主張する背後には自国の労働者階級や農民への一定の犠牲を前提として、国々によって事情の異なる経済や政治形態をなんとかうまく調整して収めていきたいという考え方があったといえる。これがある程度まで経済的に余裕が出てくるまでの過渡的措置という風に受け取って我慢してきた労働者階級や農民たちは、現実には徐々に自分たちが不利な立場におかれるようになり、そこにシリア内戦に始まった中東からの移民が急増したことが引き金となって一気に不満が爆発したのだろう。

 ここには「リベラル」な思想の背景に資本の国際化があり、資本主義経済の実体的支柱である企業の国際化とそれによる労働者の自由な移動などが必要であったということがある。だからこうした資本主義経済を基盤とする国々では基本的には移民を受け入れる方向が必要だった。しかし他国からの移民は自国よりも高い生活水準と賃金を目当てに豊かな国へ移民してくるのであってその国ではあまり高水準の賃金でなくとも自国での生活よりずっとマシな生活ができるからである。このことが資本主義経営の企業にとっては比較的安い賃金でしかも自国の労働者があまりやりたがらない仕事にも就いてくれる労働力の確保として必要条件となっている。これはEUだけではなく日本を含めた「先進資本主義国」では共通の課題だろう。

 もう一つは、東西冷戦後の世界は資本のグローバル化が一気に進み、世界経済がその市場の支配下におかれるようになったにも拘わらず、その支配下に置かれている「開発途上国」の労働者や農民は各国の国境のカベの中に閉じ込められており、国際的に見て低水準の労賃で働き生活することを余儀なくされているということだろう。こうした低賃金諸国での過酷な労働を前提としてグローバル資本は成長しているのであって、つねに過剰化するその資本のはけ口を「先進資本主義諸国」のリッチな労働者階級向けの生活資料財市場を通じての「大量消費」の促進よって処理しながら莫大な利益を挙げているのである。そしてやがて過酷な労働環境の中での自助努力によって新興富裕層に成り上がった「開発途上国」の中間層はその国での生活消費財市場を形成させ活性化させる役割を演じることになる。これによってグローバル資本企業にとって「開発途上国」は低賃金労働確保のための労働力市場であると同時にまた、その資本がうみだした労働者階級向けの生活消費財商品の市場としても「うまみ」を増すのである。しかし「世渡りの」うまくない大多数の貧困層は相変わらず過酷な低賃金労働に甘んじなければならない。しかも国内市場が活性化すればするほど生活消費財は商品市場で買い求めなければならなくなり従来の自給自足的生活は破壊される。どから低賃金では生活できなくなっていく。こうしてそこでは「格差」が増大する。こうした国内の矛盾が何かのきっかけで爆発すると内戦状態が生まれることにもなる。そして多くの移民がリッチで安全な国を目指して決死の逃亡行に出ることにもなるのである。

 リッチな国のエリート支配層(このなかにはリッチなグローバル企業に雇用されその恩恵を受けている多くの労働貴族層や知識層も含まれる)が主張する「国際協調」や「リベラル」な思想はみてくれの格好は良いが、中身は矛盾だらけでお粗末なのである。「自由平等」の外見を持ちながらその内実は「労働の国際的搾取」を黙認しその恩恵で自国の労働者の不満を解消させることで支配層の安泰を確保するための思想であることがだんだん明らかになっていたと言えるかもしれない。

 世界経済はいまや国際協調なしには成り立たない状況なのにそれが「資本の国際協調」になってしまっているのだ。これを資本によるのではなく直接に「労働者階級による国際協調」にすることがなければ絶対に問題は解決しないだろう。

 エリートリベラルの「国際協調」のもとでの矛盾に苦しめられている各国の労働者階級や農民は、いま「自国第一主義」に突進すればその先に待っているのは経済破綻とそれによる労働者の大量失業、そして貧困化である。最悪の場合、また戦争による「解決」に向かうかもしれない。展望なき「自国第一主義」に惑わされることなく、いま必要なことは事実上の支配階級による「国際協調」のインチキを暴露し、世界中でグローバル資本の支配下に置かれてその矛盾に苦しめられている労働者階級自身による世界経済の運営が必須であり、それに基づく「国際協調」こそが真に世界に平和をもたらす「国際協調」なのではないか。
 

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2019年5月24日 (金)

トランプを支持するアメリカ労働者階級はヒトラーを支持したドイツ労働者階級と同類なのか?

 第2次世界大戦を引き起こしユダヤ人を大量虐殺した張本人として、現在ではその独裁的で人種差別的な悪の権化として描かれているアドルフ・ヒトラーを熱狂的に支持したのは当時のドイツ労働者階級だったことはよく知られている。そしていまその歴史の繰り返しとも見えるような現象がアメリカやヨーロッパでも起き始めている。

 トランプは庶民感情に直接訴える「分かりやすい」政策で移民を防ぐ国境のカベ建設や、中国との貿易不均衡、そしてアメリカ産業の流出などに対しての経済制裁などを強権的に打ち出してアメリカでの低所得者化した労働者階級に人気を保っている。この背景には、民主党に代表される「リベラル派」が実は中間層や上層の人たちといったアメリカ資本主義の発展の中でその地位を獲得していった「エスタブリッシュメント」による「上からの民主主義」であって、そこには労働者階級を中心とした底辺の貧困層の生活感情がまったく反映されていないという事実がある。そのことはフランスやドイツなどでも同様のように思える。そしてEUを支える理念そのものがこうした「エスタブリッシュメント」的リベラリズムの産物であって底辺の労働者や農民の生活感情を反映していないといえる。だからそれを必至に支えるマクロンやメルケルは民族主義的政党から反発を受けている

 これは1930年代のドイツなどにも見られたことで、第1次大戦で手痛い敗北を得て、登場したワイマール憲法による「リベラル」な政権は、当時のドイツ労働者や農民の生活感情を反映していたとはいえず、一部のインテリ知識階級の人々による「リベラル」思想だったといえる。そのため、やがて一方でソ連がスターリン主義化して「一国社会主義」を唱えるようになり、国際的な労働運動の指導部が変質してゆくにつれて、ドイツの社会民主主義は「ドイツ国家繁栄のために闘う」と称する「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」のヒトラーに対抗できなくなっていったのである。大多数の労働者・農民はヒトラーの「血と大地」を掲げる「分かりやすい」政策に熱狂的な支持を与えた。

 いまのアメリカやヨーロッパの状況はそれに似ている様にも見える。しかし、歴史は決して同じ事を繰り返しはしない。それは現在の世界情勢が 1930年代とは大きく様変わりしているからである。
 1990年代にはアメリカ資本主義が「東西冷戦」に勝ち一極支配となったため、それまでに蓄積していた過剰資本は一気に世界中に流れだしてグローバル資本化し、この世界は資本主義が永遠に続くかのように見えている。しかしその中でかつて冷戦時代に成長したアメリカを代表する巨大産業である自動車産業は衰退し、そこで働いていた労働者たちはいまラストベルトに置き去りになっている。一方で冷戦後急発展したIT産業で新たに登場したGAFAに代表される巨大企業は最初からグローバル化した資本であり、労働賃金がアメリカよりはるかに安い諸国に生産拠点を持ち、そこで低賃金で労働者を働かせている。本国の本社機構で働く頭脳労働者たちはそれらの国々で製造させる製品の設計やデザインなどを行い高給を得ているエリート労働者である。こうしたグローバル生産システムやそれによるオカネの世界的動きを利用して成功者となった一握りの人々は現在の「エスタブリッシュメント」階級となっている。こうした人々が支持する民主党の掲げる「グローバリズム」や「リベラリズム」はそのグローバルな資本がグローバルにさまざまな国の労働者の労働を搾取することでなりたっておりそのことを正当化するための思想なのである。

 この波に乗り遅れ世の中から取り残された多くの労働者や農民はそうした「リベラリズム」や「グローバリズム」に反感を抱くのは当然といえるだろう。しかし一方でこれらの人々が支持する「アメリカ・ファースト」を唱えるトランプによるカリスマ的政権が導く政治も危険に満ちていることは感じているはずだ。「自国第一主義」はやがて必ず戦争に行く着く。第2次世界大戦の記憶は未だ消えていないし、「一国社会主義」のスターリン主義の行き着いた先であるソ連・東欧圏の崩壊も見ている。

 やがてこうした底辺の人々は気づくはずだ。問題は「自国第一主義」対「グローバル・リベラリズム」ではないことに。それは資本のグローバリズムを支えるために各国の国境の中に閉じ込められ、国ごとの「生活水準の差」を利用して不当な搾取を繰り返すことでそれがもたらす莫大な利益の上に成り立つ「グローバル・リベラリズム」であり、それに対抗するのは「自国第一主義」では決してなく、生活水準の差を固定化させられている各国の労働者どうしが互いに手を結び合い、基本的に国境を越えて同じ立場から、その体制に意義を唱え、国境を越えた運動を創りだし、本物のグローバリズムと本物の民主主義を取り戻さねばならないということなのだ。


 

 

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2019年5月20日 (月)

経済成長ってナニ?(基本的問題について考えよう:1)

 いま地球温暖化による自然環境悪化の危機が叫ばれ、二酸化炭素排出量の削減が求められている。経済成長が進むと温暖化も進む、これはまぎれもない事実である。だから経済成長を押さえねなければダメだと言えば、そうなれば世界経済が破綻するという。自然エネルギーの利用を新産業として育成すれば経済成長が維持されたまま温暖化も防げるという。しかし、その膨大なエネルギーをいったい誰が何のために使うのか?今の経済は必要もないモノを次々生みだしてそれをドンドン買わせて捨てさせることで成り立っているのではないか?つまり無駄の生産でしか生き延びるこことができなくなっているのがいまの資本主義経済ではないのか?それを「生活が豊かになった」と思わせるのがいまの支配層のイデオロギーだ。その中で人々は自分の人生はモノをドンドン買うことにあると思うようになり、生活にモノは増えるがドンドン心の中身が薄くなっていく。モノをドンドン買える生活のためにはお金が必要だし、子どもが将来いい就職先に雇ってもらえるための教育にも「ハンパない」金がかかるので、そのためにいやな仕事でも我慢して長時間働かねばならない。そして頭の良い人間はうまく金儲けのできる世界へと泳ぎ出し、富裕層や支配層になっていく。しかしフツーの人間はだんだんこういう生活に疲れてきて落ちこぼれていく人もドンドン出てくる。そしてそこから一瞬でも解放されたい人は「バーチャル」なゲームやファンタジーの世界に逃げ込む。こうして世の中の「格差」が可視化されていく。

 そもそも「経済成長」ってナニ?こういう生きにくい現実をビジネスチャンスとしてとらえ、その中で少しでも金を儲けて資本を蓄積していくのが資本家的企業だ。要するに「経済成長」=「資本の成長」なのだ。その証拠に、20日の内閣府発表では1〜3月期GDPが昨年10〜12月期より0.5%増え、これが1年続いてとすれば年率換算で2.1%のプラスなんだそうだ。われわれの生活は少しもよくなっていないのに、2期連続プラスだといって平然としている。もっともその中で、外需部門での輸出のマイナスが輸入のマイナスより小さかったからマイナスどうし差し引きしてプラスになるという訳の分からない計算をしてのうえのことだが。

 こうして「経済成長」によって資本の蓄積が進むが、社会保障費などへの国家財政は借金がかさんで首が回らなくなっているので、ちっとも生活が良くならないで困っている労働者たちが乏しい賃金から自分たちの生活で必要なものを買うたびに「消費性」として支払わされたオカネで賄おうというのだ。なぜそれを儲けている資本家企業から払わせないのだ!

 しかもこの「経済成長」の中でわれわれの人生の中身はすべて「商品化」され金儲けの対象となる。それは決して「人類の成長」ではない。そもそも競争で個人的富を増やすことが原則の資本主義社会を支えるための「経済学」は限られた地球資源をもっとも有効にしかも長く人類の存続のために用いることができるように、無駄なく必要なモノだけをつくりながら、人類社会全体が地球環境の一部としてその物質代謝を支えていく方法を考えるという経済の原則を忘れ、それと真っ向から対立する方法で「経済成長」を捉えている。これを資本主義経済の矛盾といわないで何という!

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2019年5月17日 (金)

「MMT体制」はいつ破綻するか? それは明日かもしれない!

 最近Modern Monetary Theoryなる理論がまかり通っているらしい。今朝の朝日新聞「投資透視」欄でも野村證券の人が取り上げていたが、「インフレを招かないかぎり財政赤字は心配ない」という考え方らしい。巨額の政府借金を抱えて低金利、低インフレが続いていても経済破綻せず、「円」も安定しているいまの日本がその証明だといっているらしい。アベノミクスの「ヨイショ」理論とも受け止められるが、一方でデフレ気味の現在、消費税の引き上げは間違っているという見解をしめしているらしい。しかしこのコラムの筆者も言うように、財政赤字を野放図に拡大させ続けるとある時点で、中央銀行が国の債権を引き受けざるを得なくなり、通貨が大量発行され通貨の価値への疑念が生じ始めると急激なインフレが起きる可能性がある。個人や私企業間では借金を返済できなければたちまち信用を失い経済的に成り立たなくなるのは当たり前だ。それを中央銀行が国債を買い支えていれば国家はいくら借金をしても大丈夫などというのはどう考えてもおかしい。へりくつとしか思えない。私のような経済学の素人ですら分かることだ。

 少子高齢化が進み社会保障への負担がますます増大することが確実な日本でそれへの備えもなく消費増税に頼るしかないアベノミクスはもうすでに破綻しているという人も多いが、もし米中経済戦争が激化して世界経済が落ち込み、どこかで戦争でもはじまれば、たちまちインフレが起き、日本だけではなく、世界資本主義体制全体が崩壊の危機を迎えることになるかもしれない。これはかなり確度の高い予想である。もちろん資本主義の崩壊は歴史の必然といえるであろうが、その過程でもっとも大きな犠牲を払わねばならないのは労働者階級である。

 わたしたちは失業や戦争による犠牲を最小限に抑えるべく、いまからそのための準備をしておかねばならないのではないだろうか?すでにそのきっかけは始まっている。それはいまアメリカでもヨーロッパでも起き始めている労働者階級の新しい動きである。かつてはリッチなアメリカで「労働貴族」となって高賃金を条件に経営者の片棒をかついでいたAFL-CIOなどの労働組合が変化しつつある。アメリカ社会の貧困化の現れである。そしてフランスやドイツなどでは失業率が低くなってはいるがその労働内容や賃金水準の悪化は覆い隠せない。だから労働者たちは大量の移民がやってくれば危機感を持つのは当然だ。

 そしていまこうした危機感に乗じて排他的民族主義を掲げる政党の台頭がが目立つ一方でインターネットなどを通じてこうした世界中の労働者たちが互いに自分たちのおかれた実状を認知し合えるようになってきている。やがてこうしたうごきは一つの大きな労働者階級の連携した運動へとつながるに違いない。「万国の労働者、団結せよ」である。そしてそれこそが歴史を動かす本当の力になって行くに違いないと思う。2000万人以上いると言われている日本の非正規雇用労働者たちもこの動きに気づくべきだろう。

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2019年5月 9日 (木)

「新デザイン論(仮題)」その後の経過

 最近このブログに投稿する頻度が落ちている。いろいろな事情があるが、そのうちでもっとも大きいな理由は、いま執筆中の「新デザイン論(仮題)」に多くの時間を取られているせいである。

 内容は私が約50年間にわたって考えてきたデザインに関する考察とそこから発展していったひとつの歴史観と近未来の社会に必須な要件など、基本的には現代デザイン批判であるが、書いていくうちに、あれも書いておかねばこれも書いておかねばと内容がふくれあがってきて、ついには「次世代社会の基本的デザイン」といった内容にまで範囲を拡げてしまったのである。途中で目を通してみるとあちこち叙述に不十分な箇所や論実の矛盾した箇所などが多く見いだされ、それを修正しつつ必要な文献を見直したり、そこからまたあらたなことに気づくなどしている。最初は一応思いついたことをどんどん書いてゆくことで後でそれを必要最小限の内容に切り詰めてコンパクト化しようとしたのであるが、これがなかなか難しいのである。

 内容は3つの部分に分かれており、第1部はデザイナーという職能が生まれてくるまでの「モノづくり」の概略的歴史、そこでは、産業革命や近代デザイン運動を通じて登場したいまのデザイナーという職能がもつ「存在の矛盾」をその「発生の論理」に見いだすことが中心的課題である。第2部は、その矛盾に充ちたデザイナーの仕事を普遍的なものとして一般化しようとする現代デザイン理論への批判である。その批判を通して「あるべき本来のデザイン行為」の姿を浮き彫りにすることがここでの中心的課題であり、いま私はこの第2部にほとんど全力投球をしている。そして第3部はこの「あるべき本来のデザイン行為」を実現するための社会がもつ基本的条件について述べる。ここでは資本主義社会の矛盾を克服しようとしてきた20世紀のソ連型「社会主義」の矛盾と挫折やその後登場したヨーロッパ「脱開発派」や環境保護運動運動への批判、そして現在の中国に見るような偽物の「社会主義」への批判など、とくに「モノづくり」の在り方を中心にその矛盾を批判し、それを乗り越えるべき方向を探るところまで書くつもりである。

 どこまで書けるか分からないがとにかくやれるところまでやっておこうと思っている。

 

 

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