« 2019年9月 | トップページ | 2019年11月 »

2019年10月

2019年10月 8日 (火)

過剰資本の時代における貨幣の役割について考えてみよう

 いまMMT理論をはじめとして国家機関が発行する貨幣の役割が話題になっている。経済学が専門でもない私がこれを大上段に論じることは控えるが、それにしても、中央銀行をもつ政府が発行する自国通貨建ての借金を増やしても破綻することはない、という考え方は基本的におかしいと思う。もちろん貨幣を過剰に発行することはインフレを引き起こすが、税収よりもインフレ率をコントロールすることで財政支出を調整するのが正解だなどという経済学者もいるようだ。しかしどう考えても個人は借金を焦げ付きにすれば経済的に破綻するが国家は破綻しない、なんて理屈はおかしい。

 貨幣は資本主義経済体制確立の中で、資本の一形態として位置づけられてきたが、その資本の回転を媒介するという機能が資本家にとっては重要である。現在の資本主義経済体制の「腐朽化」の中で資本の潜在的過剰がもはや常態化しているが、「先進」資本主義諸国では莫大な設備投資でもたらされた生産技術の高度化による資本家企業間の資本構成(労労力の価値と生産手段の価値の比)の違いを平均化した平均利潤率は低下しつつあり、それを補うために「開発途上」国の低賃金労働の獲得が必須のものとなっている。高度な生産技術をもってそうした国々で低賃金労働を行わせ、非常に高い剰余価値率(労働力の再生産に必要な価値とそれを超えて生みだされる剰余価値との比率)と大量な労働者の雇用によってもたらされる途方もなく巨額の利潤が「先進」資本主義国の資本を潤している。それによって「先進」資本主義国の労働者や中間層は高賃金を維持でき、企業の宣伝などで新しい生活資料をどんどん購入し「消費」している。そしてその生活資料商品の大量消費による貨幣の環流が資本家企業を潤し、激しい市場競争における「競争力強化」に寄与している。これがいわゆる「経済成長の好循環」である。この中で貨幣は資本の回転を媒介する役割を果たしており、資本の回転率が高まれば高まるほど資本家が手にする利潤は増大する。
 ところが資本の回転が速くなるほど流通する貨幣の量が不足する。貨幣の流通量が相対的に少なくなれば大量に生みだされた商品が売れなくなる。だから物価が下がる。デフレである。こうなると資本家企業は利潤が減り、場合によっては会社は破綻し、労働者は解雇され、商品の回転は滞り世の中は経済不況に陥る。つまり過剰資本の顕在化である。だから政府はこうならないように、貨幣をどんどん発行し、資本の回転を良くして企業の利潤を増やそうとする。本当は過剰な資本を表面上はそれを覆い隠し、あたかも経済成長が人々の生活を豊にしているかのように見せかけるために。しかし、本来、社会的に必要なモノが商品として流通している場合にはそれと交換できる貨幣自身が価値の体現化されたものであったのに対して、実質的に必要もないモノを生産し商品として流通させる場合、そして貨幣がその流通するすべての商品の価値量を超えた価値量として過剰に発行された場合にはその過剰分の実質的な価値はなくなるのである。過剰に流通する貨幣はいつわりの価値表象として流通しており、それがたとえ国家によって保証されていても国家財政そのものが破綻する危機はいつでもやってくるしそれが現実になる確率は高まっていく。しかも一方ではこの際限なく加速された「消費拡大」は次々と売り出される新商品を次々に買い換える「消費者」によっていまだ使えるものがどんどん廃棄されいまやその膨大な量の廃棄物によって環境が破壊され、そのために費やされる莫大な資源エネルギーの消費がもたらす二酸化炭素などの急速な増加によって大規模な気候変動が生じている。つまり「経済成長」が持続可能な社会をますます不可能にしているのだ。
 要するにいまの資本主義経済は個々の資本家企業同士の競争によって需要と供給のバランスが保たれるというアダムスミス的想定が完全に崩れ、「総資本」の立場を代表する国家が資本の過剰を何とかして突破するためにさまざまな政策や金融のコントロールをしなければならなくなっているのだ。そしていわば「無駄な消費」をどんどん増やすことで過剰化した資本を不生産的に処理しながら資本主義経済体制を何とか維持しようとしているのである。そのために貨幣発行量をコントロールして「適度なインフレ状態」を保たせながら、一方で資本家たちの利潤と労働者の雇用を維持させながら。他方で同時にどんどん実質的な貨幣価値を下げ借金を増やしながらこれを国債の発行などでカバーしようとしているのだ。MMT理論はこういう資本主義経済の破綻寸前の状態を正当化するためのバックアップ理論であって、これを「社会主義経済への一歩」だなどといって歓迎する人は、きっと「社会主義」とは一党独裁政府による国家が労働者を支配する国のことだとトンデモナイ誤解をしている人たちだろう。どんなに社会保障や労働賃金が上がっても、それが労働者の労働の成果が資本として労働を支配することになる「賃労働と資本」という経済的土台の上で行われている以上は本来の社会主義社会とはかけ離れた社会だといわざるをえない。

 

| | コメント (0)

2019年10月 3日 (木)

佐伯啓思氏の「○○ごっこする世界」への批判がもつ虚偽のリアリティ

10月2日朝日朝刊の「異論のススメ」で佐伯啓思氏が表題のような評論を書いていた。佐伯氏はかつての江藤淳の米国からの自立を欠いた日本の政治・思想解への批判を擁護しながら、江藤の代表的評論「ごっこの世界が終わったとき」から次の様な主張を取り上げている。「日本では、全共闘の暴力的な反政府運動があり、また他方では三島由紀夫が結成した「楯の会」による自主防衛や、新たなナショナリズムの動きに揺れていた。しかし、このどれもが「革命ごっこ」「ナショナリズムごっご」に過ぎない。真の現実を見ない虚構の中の遊びにすぎない「ごっこ」が日本の戦後米軍依存体制での政治における左翼や右翼にあり、そのリアリティのない「虚構」の中で互いに争っていた。戦後日本の課題は平和と繁栄の維持にあるが、他方で対米従属を脱して、失われたアイデンティティを取り戻す点にあった。ところが戦後日本は対米従属国家としてアイデンティティを失うことで平和と繁栄を手にしてきた。ところが、いまや情勢は変化しつつある。米国は経済的に疲弊し、アジアからの軍事力の撤退を検討しており、日米関係の再編、再構築の可能性もでてきた。遅かれ早かれ、日米関係は変化せざるを得ない。日本は米国の弱体化した経済を支える代わりに米軍基地の返還を求め、自主防衛に向かい初めて日本は独自立した国家として「世界」というリアリティに直面するだろう。そのとき日本人は改めて「あの戦争」における敗戦の意味と、300万に及ぶ死者たちを真に想起することになるだろう。われわれが現在ここにいる自分たちのことだけを考えるのではなく、死者たちの霊を共同体のものとして受け止めた時に初めて、われわれは自らに自信をもつことができるようになるだろう。」

この江藤の主張は50年前のものだが、佐伯はこれに対して果たしてその50年後の現在、どうなっているかについて次の様に述べている。「国内外の状況は大きく変化したものの、江藤さんが述べた日本の自主独立あるいは日本人のアイデンティティの回復へ向かっているとはとても思われない。ここでいうアイデンティティとは福沢諭吉のいうところの「一身独立、一国独立の精神」、あるいは「自主独立の気風」といったぐらいの意味である」佐伯はいう、「かつての「ごっこの世界」は終わったように見え、すべてが現実の外交や社会状況に対応した現実主義の一点に向かって収斂している。しかしこれは江藤が「ごっこの世界という現実に直面していない状況」と批判していた際の「現実」なのだろうか?とてもそうとは思えない。例えばグローバル競争の世界は何の根拠もなく自由競争は利益と繁栄をもたらすという虚構の上に、いわば市場競争ごっこをはじめた。トランプは日米安保条約の破棄も考えているらしいというのに中国や北朝鮮の脅威から米国は日本を守るだろうという虚構、憲法に関していえば、護憲派も改憲派もそもそも主権者とは何か、国家の防衛と憲法と主権者の関係は、といった根本的問題を問おうとしない。いわば「護憲・改憲ごっこ」である。世界はまた壮大な「ごっこ」に傾いているのだ。なぜなら今日の世界はそれを導く確かな価値も方向感覚も見失い、人々の生存への必至のあがきや個人や国の尊厳に向けた命がけの戦いともほとんど無縁になっているからである。」そして佐伯は江藤のいう「ごっこが終わればあの戦争の死者たちと本当に向き合うことができる」という主張がいまだに実現していないことを嘆くのである。

だが私は佐伯のいう「「ごっこ」でない真のリアリティ」の中身に疑問を持つ。例えば「一身独立、一国独立の精神」、あるいは「自主独立の気風」をアイデンティティだといい、「今日の世界はそれを導く確かな価値も方向感覚も見失い、人々の生存への必至のあがきや個人や国の尊厳に向けた命がけの戦いともほとんど無縁になっているからである」と佐伯がいうとき、なぜあの戦争であのような悲惨な死が「国の尊厳に向けた命がけの戦い」として、あたかも当然のように扱われていたのか?それがもしアイデンティティでありリアリティであるならば、人は「国家の尊厳」という共同幻想を護るために自分自身の人生を捧げようとすることがリアリティなのか?これそもっとも危険な「ごっこ」だったのではないか?

私はいまでも幼かったとき味わった終戦直後の何ともいえない解放感を覚えている。空襲警報のサイレンもなくなり、敵襲があったら自決してでも恥をさらさないなどというおそろしい世間の風潮に耐えねばならないつらさから解放されたときの歓びを忘れない。あれこそが私にとって真のリアリティだったのだと思う。だからその後、青年期になってから「国家や企業のために自分の人生を捧げる」などという欺瞞に満ちた社会観に疑問を感じ学生運動にも関わった。そのときはそうした感覚が時代感覚としてリアリティを持っていたのであり、それは決して「革命ごっこ」などではなかった。

佐伯はつねに現実のリアリティを見下す決して自ら傷つかない高みから、すでにその虚偽性を歴史の中で証明されてしまった「妄想のリアリティ」にしがみつきながら現代社会を批判している。いまの若者たちは現代という社会の中でつねにリアリティをもって生きているし、「生存への必至のあがき」を繰り返しているのだ。佐伯啓思よ、いいかげんに目を覚ませ!

 

 

| | コメント (0)

2019年10月 1日 (火)

What is the money?

日本では今日から消費税が8%から10%に上がり、その切り替えにともなって予想される混乱で一般市民とコンビニやスーパーの従業員は大変だ。

それというのも低所得者層への軽減税率という名目でいろいろな条件によって減税されるというものすごく分かり難い方式で商品の価格を計算しなければならず、一方で経産省がこの機会にとばかり「キャッシュレス化」への弾みをつけようとしてこれを利用しているからだ。スマホなど使ったことにない高齢の低所得者層は「蚊帳の外」である。なんだか矛盾したシステムだ。

スマホなどを利用したキャッシュレス方式は中国や韓国で進んでおり、日本は遅れをとっているということで政府は焦っているらしい。しかしなぜキャッシュレス方式の方がいいのか?現金をやりとりする手間が省けるということがまずあるようだが、そればかりではなさそうだ。一方でMMTが話題になっているように、いま世界の経済は現金がいらなくなる方式の方が都合がいいらしい。

マルクス経済学によれば、貨幣は、商品と商品の交換における相対的価値形態の対極に現れる等価形態の一般的な形として登場したが、それはいわば一つの商品であり、一般的等価を金や銀などという希少金属で物的に表象した「何とでも交換できる商品」という意義を持っていた。

貨幣は古代社会からあったが、これが近代資本主義社会の登場過程である信頼できる機関が発行したことが証明できれば、紙切れでも金貨や銀貨と同じような機能を果たす「紙幣」が登場した。その背景には「信用制度」が普及しだし、手形のような紙切れでもそれがお金に換えられる保証があれば通貨と同様に流通できるようになっていたからだといえるだろう。やがて資本家企業が資金調達のために発行する株券が売り買いされるようになり、ますますこの信用証券が普及した。しかしこれらの紙幣などはあくまでそれが金と交換できるという条件でその信用を保っていた。

ところが、この体制が1930年代の大恐慌を境に危うくなった。その要因は簡単ではないのでここでは書けないが、貨幣の意味が大きく変化してきた。資本家企業同士の競争による商品生産は、市場での需要供給のバランスによってうまく適切な価格に維持される、したがって貨幣の発行量は主として労働力商品の価値である労働賃金を含む商品全体のの流通量と資本の回転に必要な準備金の量によって決まると考えられていたものが、もろくも崩れ去ったのである。

そこでケインズらの助けを借りて資本主義経済体制は大きく変化した。それは一国の政府が貨幣の発行を保証し、これを用いて大機微な公共投資などの経済政策を実施し、雇用を維持しながら、労働賃金を少しずつ上げてゆき、労働者の生活資料商品への購買力を増すことで、商品生産をドライブして行くという、いわゆる「好循環」を生みだす方式である。そのためには貨幣は必ずしも金との交換性を保証されなくとも流通手段として機能するし、それによって政府は貨幣をどんどん発行する自由度を増す。しかしあまりに金の保証のない貨幣を発行しすぎるとインフレが拡大し、経済が破綻するおそれがあるので、この実質的商品流通量を超えた紙幣の発行は国家が発行する国債などによって何とか保証体制を維持させ、これを慎重にコントロールしながら貨幣を発行して行かねばならない。こうして過剰に発行された紙幣を国家が借金によってその保証をカバーし、日本のようにその国債を紙幣の発行元である日銀が買い取ることで補強するというような「だまし絵」的なことが必要となってくる。

このような経済システムを土台として貨幣は国家が保証するものであれば、それが紙であろうとそれ以外のある種の記号であろうと構わないという形の基礎が築かれた。そこから当然、このデジタル化社会の中で仮想通貨という記号による通貨が登場することになったといえる。

しかしこの仮想通貨はこれを保証する機関の信用だけが頼りであって、それが崩れればあっとうまに何も価値のないデジタル記号でしかなくなる。そういう事態がいつどういう形で突然現れるかは誰にも分からない。実に危うい橋を渡っているのである。しかし、この事態は裏を返せば、人間が必要に応じて生みだしたモノの価値はそれを生みだすに要した社会的に平均的な労働時間に比例しているという真理を示す反証でもなるといえるだろう。なぜなら、本来さまざまな分業種によって生みだされるモノはそれぞれそれを必要とする人の手に渡り、消費されるという経済的真理のもとでそれを等価な交換として媒介する手段として貨幣に相当するものは労働時間を保証する証書の様なものであればよく、それは金や銀である必要などないが、同時にある特定の機関(例えば政府や中央銀行)が恣意的に発行する「通貨」や「記号」ではなく、どのような社会にも共通の尺度として通用しうる「モノを生みだすに必要な平均的労働時間」を証明するものであればよいのである。

いまのMMTによる国家機関の恣意的な貨幣発行や特定の企業による仮想通貨の発行が、一方で資本家企業の利潤を維持増大することを第一義的目標として無際限に行われれば、こうした経済原則が失われ、資本家企業がつぶれるだけではなく、そこに「賃金奴隷」として雇用されてる労働者も、自分達が資本家企業における労働によって生みだしたモノが溢れた社会であるにもかかわらず、それが買えずに生活できなくなるのである。しかし他方で、資本家企業の利潤第一主義でやらねば資本主義経済そのものが危うくなるという絶対的矛盾に直面しているといえる。

つまり資本主義経済体制もいまや末期的状態にあり、資本家企業の利潤第一主義を護らないと労働者の雇用も社会保障もできなくなるので、できうる限り法人税を減らし、企業の競争力を付け、その代わり労働者への負担を要求する消費税などにより社会保証などを何とか支えねばならないという馬鹿げた矛盾に直面しており、この危機に対してMMTや仮想通貨にたよる以外に打つ手がないもである。

いま偽りの「社会主義」という名の一党独裁国家資本主義である中国の支配に抗して闘っている香港の若者たちや、やがてそれに触発されて立ち上がるであろう中国の労働者階級や農民たちは、国境を越えた連帯を求めて、資本主義以後の経済体制を目指さなければならなくなるだろう。そこではもうこのような馬鹿げた通貨体制や税制問題は起こりえないだろう。

| | コメント (0)

« 2019年9月 | トップページ | 2019年11月 »