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2020年1月

2020年1月 9日 (木)

”Somewhere”クラスの目指す国民国家が民主主義の本来の姿なのか?

 今朝のNHK-BS「キャッチ世界のトップニュース」で、あるイギリスの研究者が、イギリスの現状についておおむね次の様に解説していた。

 「イギリスでは国民投票の結果EUからの離脱が決まり、それをめぐって議会では大もめしているが、その背景にある"Somewhere and Anywhere"という階級の区別で見ると問題の本質が分かる。"Somewhere"クラスは、いわば経済のグローバル化に取り残された、いわゆる「負け組」であって、ある特定の地域でしか生活していけない人たちである。それに対して"Anywhere"クラスは世界のどこでも生きて行けるようになったエリート層、いわゆる「勝ち組」である。"Somewhere"クラスはイギリスで50%以上を占めているが"Anywhere"クラスは25%程度である。ところが現在のイギリスでの2大政党(保守党と労働党)はいずれも"Somewhere"クラスの立場を代表していない。いずれもいわゆる「リベラル」な政党を目指している。その食い違いが国民投票の結果にはっきりと現れたのだ。かつての世界に冠たるイギリス帝国がいまや自分達の方向を独自に決めることすらできず、EUの政策に従わねばならなくなっている。それによって経済のグローバル化が進み成功した人々は社会のエリート層になり、落ちこぼれた人々は「負け組」となった。そこに経済のグローバル化で外国からの移民がどんどん流入して自分達の仕事を奪い、イギリス独自の文化や社会を壊しつつあると危機感を抱いている。そしてその現実に対する"Somewhere"クラスの不満はどちらの政党も汲み上げてくれないし、EU政府にはますます分かってもらえない。こうした状況は本来の意味で民主主義ではない。"Somewhere"クラスの人たちはかつての大英帝国イギリスのような「国民国家」を望んでおり、彼らは「国民国家」こそが民主主義の機能できる社会形態なのだと思っている。」そしてさらに彼は「日本こそこのような状況がよく分かってもらえる国だと思う。」というのである。つまり「日本は伝統的に移民などを受け入れず、独自の文化や社会形態を維持し続けてきたではなないか。」というのである。

 これはなかなか鋭い分析だと思った。しかし、ちょっと首をひねることは、果たしてここでいう「国民国家」が本当の民主主義を発揮できる社会形態なのか?という疑問である。かつてナチスや日本などのナショナリズム国家が世界中を戦争に巻き込んだ事実を見ればこの疑問はあきらかであろう。ここでいう「国民国家」とはこうしたナショナリズム国家とは別のものであろう。

 私の考えるのは、ここでいう「国民国家」とは、経済的に自立できる地域社会がそれを一つの単位として自治権を確立し、自分達の社会の方向は自分達で決めて行けるような政治構造をもった社会のことであろうと思う。それらの自治社会は互いに他の地域自治社会と一つ次元の高い連携をして地域社会間で社会共有財を共有して行かないと経済的には成り立たない。それは近代資本主義の台頭が国民国家という政治経済的形をとって現れ、自国の「国民」(実は"Somewhere"クラス)を先兵として「愛国心」を盾に世界中の富の奪い合いをさせてきた「国民国家」とは別の次元である。

 近代国家は私有財産の追究を行動原理とした資本主義経済体制の上に立って社会を政治的に統治し世界的に「自由に」富の支配権を争うための形態であるが、それが持つ基本的な統治形態である国民国家が外見的には「階級なき民主主義社会」の国家に見えるが、内実はつねに賃労働と資本という対立構造にもとづく階級に分化している社会であるという事実がもたらす矛盾がこれまで社会格差と戦争の歴史を生みだし、そこでは常に"Somewhere "クラスの人々がエリート層のために労働し、戦争となればエリートが支配する「国家」のために命を捨ててきた。その戦争への反省にもとづき国連やEUの様な国家連合体を目指す方向が生まれてきたのであるが、しかしその国家連合体を目指す方向はエリート層によるいわゆる「リベラリズム」という思想に動かされており、それはあらゆる階級が平等であるべきだという普遍的な方向を目指しているかに見えるが、現実には相変わらず"Somewhere"クラスの労働の成果を"Anywhere"クラスが企業の私有財産として獲得することを通じて、その「経営手腕」により企業の従業員を養っていることへの「報償」という名目で莫大な富を私的に所有することを「個人の自由」として許している。つまり相変わらず"Somewhere and Anywhere"という階級の区別を必要とする社会をグローバルに拡大させているのであり、資本主義社会の矛盾を新たな形で増殖させており、それが最近の世界的な"Somewhere "クラスの不満爆発につながったと見るべきであろう。

 つまり"Somewhere "クラスあるいはグローバル資本主義のもたらす矛盾によって「負け組」に落とされた絶対多数の人々は、いまこそ、その原因が資本主義社会特有の矛盾であることに気づくべきであって、そこから見えるのは彼らエリート支配層が唱える「リベラリズム」がいかに"Somewhere "クラスを無視したインチキで内容のない「民主・平等」であるかを明らかにしながら、同時に"Somewhere "クラスが本当の意味での主権を握り、私的生活と社会的共同生活が一体となった社会で生活者は自分の手で自分達の社会の在り方を決めることが出来、社会共有財を共有するために、資本主義的国民国家の国境を越えたグローバルな地域社会連合によるグローバル民主主義を実現できる社会の形を新たに構想すべき時が来ているということだろう。それは決してトランプのような「頼れるリーダー」という仮面をかぶった独裁的国家経営者を必要とする国民国家であってはならないし、"Somewhere and Anywhere"という階級の区別を本質的に必要とする資本主義的国家であってはならないはずだ。

 

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2020年1月 5日 (日)

入院中に考えたこと

これは、私が昨年の晩秋にある病院に検査入院し、前立腺癌の生体検査を受けた後で書いた日記である。年の初めに相応しいかどうかは別として最近の私の心境として印しておこう。

10月26日の朝日新聞「折々のことば」欄で、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスのことばが掲載された。「<自分に反して>ということが、生きることそのものとしての生には印されている。」これに鷲田清一氏が次の様な解説を加えている。「生は人が担い、切り拓いてゆくものであるが、人に降りかかるもの、人が否応なく被るものでもある。痛みや病、老い、そして死。生を限界づけるそのような契機を生は深く内蔵しながらも、それらを<堪え忍ぶ>という形で<傷>にしかと身をさらす。」

なかなか深いことばである。たしかに生は自ら望んで得たものではなく、「与えられたもの」である。その意味では「自己に反して」といえるかもしれない。そしてその「与えられたもの」を護るために恐怖や痛みや死の苦しみに耐えることになるといえるのかもしれない。

しかし、私は少し違うと思う。

生は与えられたものではあるが、それは「自己に反して」ではない。なぜなら生まれてくる以前に自己は存在しないからだ。与えられ命を自らの存在の物質的基盤としてそこから出発する「自己」である。そしてこの生命体としての存在は、初めてそれによって「自己意識」を得ることができ、その生を「与えられたもの」として意識することができるようになるのだ。

つまり自己とは自然界からの存在として与えられたものであり、そこからすべてが始まる。「障がい」と呼ばれ、その時代の社会に不適合な身体や性格をもって生まれてきた子は、(サルトルのことばを借りれば)それが「被投(投げかけられた存在)」としての自己なのであり、ともかくもこれを前提としてその後の人生を生きねばならない。だからこの「被投」はまた同時に「企投(投げかける存在)」でもある。投げかけられた存在を自分として投げ返すことにその人生の意味があるのだと思う。その厳しさ、苦しさ、つらさこそが生きる意味なのだと思う。そしてその厳しさ、苦しさ、つらさが深いほど、そのような自己を投げ返すことによって得られたその反面としての喜びや感動もそれだけ深いのになるのだと思う。

 

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