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2020年2月

2020年2月29日 (土)

「市場経済」の矛盾について考える---その3:「売れ筋商品」が支配する社会の恐ろしさ

 市場経済の矛盾のもう一つは、市場での「売れ筋」商品が社会を支配することである。すべての社会的生産物が商品として生みだされる資本主義社会(完成された市場経済社会)では、それを売って利潤を挙げないと企業の存続が危うくなり、市場から淘汰されてしまうという市場経済の「法則」から、少しでもその競争に勝たねばならなくなり、市場でもっとも売れている商品のデザインや売り方に追従しようとする。しかも大量生産で作られる商品はそれを生産するために行う設備投資が半端じゃない。そのために株主から融資が必要で、株主に「これなら売れそうだ」と思わせないとカネが借りられない。だから企業はリスクをとらず、結局販売店では売れ筋の商品が大部分を占め、そこに「人気第1位の商品」などと張り出され、消費者の購買欲をそそっている。こうして世の中に出回る商品はメジャーなものかそれと似た追従品が支配し、ユニークであっても売れ筋でないものは店から姿を消す。あとは「宣伝」やマスコミなどでそのユニークな商品がたまたま脚光を浴びればたちまち今度はそれが売れ筋商品となり、「行列ができる店」の商品となったりするが、やがていつのまにかその行列も消えてなくなる。

 こうした中で深刻なのは言論・出版業界であり、そこでは出版物が初めから「売れ筋」狙いとなって、売れそうもない内容の本は最初から配本業者の思惑によって印刷部数が制限される。したがって世の中で話題になりそうな本しか店頭には並ばない。その代わりいったん話題となればたちまち「ベストセラー」となりその本を書いた著者は有名人になる。いったん有名人になりさえすればその人が書いた本はどんな内容のものでも「話題作家の本」として販売店に平積みされる。こうして世の中は「メジャーな価値観や社会観」に支配されてゆき、少数のしかし本当は重要な意見や考え方は注目もされず世の中から抹消されてゆく。いうなれば、「自由な販売競争」という市場経済の「法則」にもとづく見えない言論弾圧である。このことは「自由で民主的な選挙」にも同様な形で現れ、自らを売り出す資金と宣伝力がある候補者が政治を支配して行く。カネも宣伝力もない候補者はいくらまともな意見を主張していてもこの「市場の法則」によって抹殺される。

 そうした「売れ筋商品化」社会において商品の販売はその「市場競争原理」という法則にしたがって量販体制に向かうことになり、ローカルな小さな小売店は大資本の量販店やチェーン店に押されてつぶされて行く。だから日本中どこの街に行っても同じような商品を並べる量販店やチェーン店が並んでおり、同じような町並みとなりその土地固有のローカリティーは失われて行く。あるときはこの失われたローカリティーへのノスタルジーを今度は「観光資源」として利用しようとする業者が登場し、いかにもわざとらしい「ローカリティー」を看板にした町並みを後からつくっていくことも多い。しかしこれはもちろん本物のローカリティーではない。しかしこうして「外来者」に媚びる形で「おこぼれ」を頂戴して生き残こる以外、地方固有文化は滅びて行かざるを得ないのが実状だ。

 その一方で量産・量販体制を発展させるため、現場で働く労働者の労働もそれに適応するため「規格化」され、画一的な労働になっていくとともに、量産工場や販売店の従業員のほとんどが低賃金で雇用される期間労働者(パートタイマー)になっていく。つまり労働力を売って生活しなければならない人たちは、画一化された労働力としてしかその社会的存在意義を与えられなくなる。若者たちは学校を卒業すれば、どこかの企業に自分の能力を「労働力商品」として売りに出さねば生活して行けない。だから就職試験は人生の大きな節目となる。彼らは就活に明け暮れ、それに乗じて就職のための訓練所も現れる。学校でも訓練所でも若者たちは企業での労働に「やる気」を見せるように教育され洗脳される。たとえそれが本音でなくても自分でそう思い込まなければ自分を労働力商品として売り込むことができないからだ。こうして商品の画一化は労働力商品の画一化となっていき、諸個人の個性も画一化される。人々が望むと望まざるにかかわらず画一化された商品に囲まれ、画一化された労働を行い、労働以外の「趣味や遊び」の世界でしか自分の個性を表現できなくなる。またその状況を商品を売る側はターゲットとして「個性的商品」を売り込もうとする。しかしそれはあくまで「個性的」を看板に「売れ筋商品」を狙うモノでしかない。これが広告の演出する幻想としての「ゆたかで個性的な生活」の裏側にあるリアルな市場経済社会の姿である。

 この社会では宣伝やマスコミが大きな役割を果たす。それらの業界は商品の生産販売を行う企業から莫大なカネを出してもらい、マスコミを通じて人々の情緒や感情に訴える「幻想」を生みだし、話題性の大きな広告を出すことに注力する。人々はその幻想に惑わされてあまり必要でもないモノをどんどん買わされることになる。こうしてこの体制を維持しようとする人々による「消費の拡大」が叫ばれ、オリンピックまでもがそのために利用され、それをテコに彼らの代表政府による絶え間ない「経済成長」が目指される。

 しかしいったい誰のため何のための「経済成長」なのか? それは人々に幻想をばらまきながら必要でもないモノをどんどん消費させ、それによって一握りの人々の私有財産をどんどん殖やしながら、結局「宇宙船地球号」の自然を破壊してやがては人類全体の存続をも危うくするのではないのか?この経済体制を維持しながらSDGsだエコ社会だなんていうことは理論的にも現実的にもできっこない単なる幻想にしか過ぎない。

 こうした「売れ筋商品化社会」は、いわば市場経済体制のもたらす必然であり、その「法則」であるともいえる。


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2020年2月25日 (火)

「市場経済」の矛盾について考える---その2:新型コロナウイルスと株式市場の動きをめぐって

ここで目の前に起きている事実をもとに市場経済の矛盾を考えてみよう。

 いまや「世界の工場」となった中国を発生源とする新型コロナウイルス肺炎の流行が世界中で起こり初めており、その影響で中国では多くの企業が仕事を休んでいる。そのためいまや世界中にサプライチェーンを張り巡らしている国々で中国からの部品や製品の調達が停止するとともに、世界一の巨大消費市場でもある中国では伝染を恐れて街に人影が薄れ、消費もガタ落ちとなっている。また新型コロナ肺炎が中国以外の国々にも拡散し始め、その影響で各国での人々の警戒感が強まっている。そのため、世界市場での商品や人の動きが鈍くなり、各国の株式市場は軒並み大幅に下落している。このままでは、ウイルスが侵入した国々での人々の生活は大きく影響を受け、日々の生活に必要な物資の供給にも影響が出て来そうだ。

 この状況を加速しているのが株式市場での投資家の思惑だ。世界中の生産と消費活動が連携し合い複雑なネットワークを形成しているいまの経済状況で、本来はいかに安定した生活資料の供給ができるかが経済における最重要課題なのだが、投資家たちは、自分達の私的利害にしか関心がないため、目先の損得で動く。その私的利害の目先の損得が世界経済を動かし、それがそのまま人々の生活に大きな影響を及ぼす。これが株式投資という形で資本を調達し企業を運営して利益を挙げようとする機能資本家と、その企業に自らの富の一部を投資して、その企業が上げる利益の分け前を頂戴しようと目論む投資家(本来の資本家)たちによって成り立つ現代の資本主義経済体制の矛盾として如実に現れている。

 ひとことで言えば、私的利害にしか関心のない連中のために、世界中の経済活動が支配されているのだ。世界中の生活者は彼ら投資家の私的な富の増大のために生活全体を支配され、振り回されているのだ。その市場経済という仕組みの根本に関わる矛盾が今回の新型ウイルスの拡散による危機的状況で極めて鮮明に現れたといってよいだろう。

 日本の安部政権は中国での新型コロナ肺炎の流行に対して、初動を見誤ったと言われているが、彼らの頭の中には新型ウイルス肺炎のもたらす市場経済的影響の方が重要であって、人々の生活を護るという意識はいつものように二の次であることがはっきり分かった。安倍政権はアベノミクスで大量の日銀券をばらまき、過剰な貨幣流通によって経済活動を刺激し、景気を良くしようとしたが、その弊害は国家の借金を増やしながら資本家達に利益をもたらすだけで、生活者たちは老後に備えた預金の金利がマイナスとなってなけなしの貯金もどんどん目減りしてゆくという形で如実に現れているのだ。

 愚策はすでにとっくの昔に失敗した。トランプのカリスマ音頭に踊らされて活況を呈していたアメリカ株式市場の波にのって日本の株式市場も活況を呈してきたが、その根無し草的本質がいまや明らかになりつつある。私的利害の思惑だけで動く投資家があたかも「雇用を生みだし労働者の生活を護る」かのように言うことがウソであったことが明らかになってきたからだ。彼らが「労働者の雇用を護る」のは企業が儲けを出し、投資家たちに大きな利益が得られる場合のみであって、その見込みがなくなれば投資家たちはその企業から手を引き、たちまち労働者は解雇され、貧困な状態に突き落とされる。資本家が新型コロナ肺炎の流行によって労働者が病気で働けなくなることを気にするのは、自らの富の源泉である労働力が確保できなくなり企業の存続が危うくなることが心配なのである。しかしこれは資本家が「性悪」の人間であるからでは決してなく、これが市場経済にもとづく資本主義経済の「法則」だからなのである。資本家は彼がどんなに思いやりがあり頼りになる人物であっても資本家である限りはこの資本主義経済体制の「法則」が人格化した姿なのである。

 社会の経済は本来ならば、社会全体で必要なモノをそれぞれの持ち場で働いて生みだしている労働者たちがともにその労働の成果を分ち合うための経済システムでなければならないはずだ。それをいまの資本主義市場経済では、本来社会的共有財であるべきもの(生産手段)を私的に所有する人々がその所有物を用いて、労働力という商品の持ち主である労働者からそれを「労働賃金」という形で買い取ることで、労働者に商品を作らせ、それを市場で売買することで利益を得て自らの企業を存続させながら私的な富を増大させるために、社会的に必要なモノを生産し消費する仕組みになってしまっている。そして表面上の「自由主義経済」とか「平等な市民」とかいうスローガンによってそのような事実が覆い隠されてしまっており、資本家も労働者もマスコミなどに煽動されて株式市場の動向にただただ一喜一憂しているのだ。アメリカの大統領選予備選で「左翼」といわれているサンダース氏が大きな支持を得ていることは、アメリカの生活者たちのこういった世の中のおかしさへの疑問や不満の直感的な現れであろう。

 

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2020年2月19日 (水)

「市場経済」の矛盾について考える---その1:資本主義社会発生の論理

 このところ自分の健康問題や高齢近親者の死や入院などさまざまな出来事が重なったためほとんどこのブログを書く精神的余裕がなかった。しかしそろそろ人生の終わりに近づきつつある自分にとって、ずっと考え続けていることを文章で記録しておかないと何も残らないことになるので、ここで少しでも何か書いておこうと思い直した。

 いま新型コロナウイルス肺炎の流行で中国は大変なことになっているが、その世界経済への影響も大きく採りあげられている。いまや中国は世界市場で大きな役割を果たし、アメリカとその同盟国やヨーロッパなどの旧来の資本主義圏と経済的には相互依存する関係にある。この中国は自称「社会主義市場経済体制」といっているが、これは一体何なのか?「市場経済体制」とは資本主義にとってもも社会主義にとっても共通の普遍的な流通経済の仕組みなのか?そのことを考えるに当たってまず資本主義市場経済とは何かを考えてみよう。

 そもそも資本主義経済体制とは、基本的に社会で必要とされる生産物がすべて商品として作られ、それを市場で売買するという商品経済体制であるが、商品経済とは社会的分業体制において、特定の分業種の生みだした商品を所有する個人あるいは団体がそれを互いに市場で売買することで交換し合い、社会的な生産と消費の回転をさせていく社会といって良いだろう。この一見当たり前に見える経済体制を支えている論理の矛盾を鋭く深く追究したのがマルクスである。
 まずマルクスは「経済学哲学手稿」で述べているように、人類は本質的に、協働的共同体社会(さまざまな分業種により社会的に必要なモノを生みだす労働を分担し合う生活共同体)を形成してそれによって諸個人の生活を維持している「類的存在」であり、そこにその構成員である諸個人と共同体社会全体との関係が成り立っていると考えている。資本主義社会は、それ以前にあった社会の階級制にもとづく共同体の特徴である、自分達のために必要なモノを作らせる支配的階級とその支配階級の意図にしたがってモノを生みだす被支配階級という関係によって成り立つ階級的共同体社会の延長上にあり、その発生過程で古くから存在した、異なる共同体社会間での物流を担う商人たちが、その交易によってもたらされた富を蓄積して経済的に大きな力を持つようになった結果、この古い階級制によるモノ作りの関係が徐々に崩されて、富を私的に所有する商人達が社会的経済の実権を握るようになったことで生まれた社会経済体制である。そのため資本主義社会は一見すると古い意味での階級のない社会(自由で民主的な市民社会)の様に見える。だがしかし...。

 それまで自らの手でモノを生みだせなかった商人たちは、モノ作りの職人工房全体をカネで買い取り自分の所有物にし、自ら売って儲けがありそうなモノをそこで作らせるようになった。職人たちはそれまで自分たち巷の住人のために必要なモノや貴族や武士などの支配階級が要求するモノを作っていたが今度は商人が売るために作らせるモノを作るようになった。職人たちの使う工具や工房は商人の所有物となり、商人は職人工房の「オーナー」となった。職人たちは工房のオーナーである資本家に雇われて働く「労働者」になったのである。

 資本家たちはやがて職人たちの古い手工具による高度な技能と時間のかかるモノ作りでは効率が悪いと感じはじめ、徐々に工房内の作業を分割し同時並行的な作業で効率を上げようとした。そしてそのために個々の職人の労働は単純作業と化し、その仕事の修得に高度な技能養成は不要となり、誰でもできる単純労働になった。そしてその単純作業に取って代わるような作業機が導入された。かつてその高い技能によって誇り高い職人であった人々は自らの意図と技量で道具を操る労働から、機械の運動に従属した単純労働を行う工場労働者となり、資本家たちは自らの意志で「売るための商品」を労働者に作らせ市場に送り出す産業資本家となった。やがて作業機全体が原動機で動かされるようになり、労働者は巨大な工場システムの一部としてその中に組み込まれるようになった。大量に商品が生産されるようになると、それを売りさばくため、商品市場での競争が激しくなり、さらに大量生産に拍車がかかり、労働力がたりなくなった。一方で産業資本家が利益獲得のための収奪した農地から追い出され生産手段を奪われた多くの農民たちが賃金労働者として資本家の工場に流れ込んだ。こうしたものづくリの劇的変貌過程がいわゆる「産業革命」である。

 これによって生みだされた産業資本主義社会では、やがて人々が生活に必要とするモノすべてが商品として資本家の私的企業によって生みだされ、人々は生活資料のすべてをカネで買わないと生きて行けないことになり、そのための収入を稼ぐために賃金労働者として資本家の企業に雇用されねばならなくなったのである。こうして資本家は人々の労働力を商品として買い取る代わりにそれに相応しい賃金を払うという一見平等な「商品所有者」どうしの取引の形で、買い取った労働力を彼の所有する生産手段と合体させて労働させることにより、その労働の生みだす価値の大半(労働賃金分を超える剰余価値部分)を無償で収奪することが合法的に行われるようになったのである。つまり本来は商品であり得ない人間の労働力(自分が社会的に何者であるかその存在意義を示す能力)をも商品として「平等」に「自由に」に取引するかのように見える社会なのである。しかし現実にはこの産業革命によって生みだされた社会は自らの労働力を売りに出さなければ生活できない階級と、その労働力を自らの私的な富の増大のための道具として用いながら富を蓄積していく階級という二つの階級を生みだし、そこに新たなそして旧社会よりはるかに深刻な「格差」を目に見える存在として生みだしたのである。

 この産業資本主義社会での「産業革命」は初めは低賃金の単純労働者を生みだしたが、やがて資本家自身の意図を代行して複雑な機構の機械を設計するに必要な高度な工学的知識を持つ設計技術者や「売れる商品」全体のアイデアを考えるデザイナー、そして作られた商品を市場でいかに大量に売りまくり、競争企業に打ち勝つための戦略を常に考える販売戦略担当者、などの頭脳労働者を「人材」として比較的高賃金で雇用するようになる。そのため、資本家としての機能もそうした頭脳労働者によって分業化され分担されるようになる。そしてこれらの頭脳労働者たちは低賃金で働く単純労働者たちを見下す立場となり、自らが実は単に資本家の意図を具体化させるために自分の知的労働力を売っている労働者階級の一員であるという事実に全く無自覚な存在となったのである。これがいわゆる「中間層」である。

 こうして資本主義特有の分業種とその構成体として資本主義社会が生みだされ、それ全体が如何に効率よく売れる商品を生みだし、大量に販売するかという資本家の意志の貫徹形態として現れることになった。これが「市場経済」の上に建つ資本主義社会でのすべての労働や生活全体の在り方を生みだしているのである。そこで働くほとんどの人々は、自分の本当の意図ではない資本家の目的意識の一端を担う労働を行いながら、それによって資本家から賃金を得て、実は自分たち自身が生みだしたモノである生活資料を、資本家の所有物としての商品として市場で「買い戻す」ことによって毎日生活しているのである。しかし資本家たちは、人々の生活に必要な賃金が稼げるように「社会に雇用を生みだしている」と主張しているのである。そしてそこに生きる生活者は、労働力が発揮できるすべての年齢期間、資本家企業の歯車の一つとして身も心も資本家経営者と一体となって自らの社会的存在意義を資本のために捧げつくすのである。これが「賃労働と資本」という形での階級が厳然として存在しているにも拘わらず、それが見えない階級社会としての資本主義社会の現実であり「市場経済」体制の本質である。

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2020年2月11日 (火)

アメリカ大統領予備選挙に思うこと

 いま今年末に任期が終わるトランプ大統領の後の次期大統領候補者を決める選挙がアメリカ各州で始まっている。共和党の候補者はトランプに絞られているが、共和党の候補者は多数いて、誰が本命か分からない。民主党大会初戦のアイオワでは、本命と言われていたバイデンが4位となり、それに近い主張をしている若手のブティディッシュがトップになっている。2位にはこの二人と大きく違った左翼的主張のサンダースが僅差でつけている。いま投票が行われているニューハンプシャー州での結果がどうなるか見物だ。

 そしてそれらの候補者の支持層を見ると、バイデンやブティディッシュの中道派は中高年層の支持層が多く、78際の左派サンダースは若い学生などを中心とした層が多い。マスコミではその背景にアメリカの格差社会化があると言っているが、問題はその格差社会のもう一つの極である中部ラストベルなどの旧重工業地帯の労働者たちの支持を受けて登場したトランプである。この自動車、鉄鋼産業などを中心とした旧工業地帯で1980年頃までは「何でも世界一」のアメリカのプライドとともに比較的リッチな生活をしてきて自ら「中間層」と自認してきた労働者たちが、その後の世界情勢の変化に伴うアメリカの経済事情の変化で、経営難となった企業がどんどん製造業から撤退し、工場が打ち捨てられ、文字通り「錆び地帯」となっていった中で取り残された人々となった。彼らは別の職にありつこうとしても、低賃金で働く黒人、ヒスパニック系、アジア系などの人々に職を奪われ就職できないと感じ、やがてかつての白人中心の「世界に冠たるアメリカ」の復活を願うようになったのだろう。トランプはその不満を巧みに利用して自らの権力と名誉への欲望を達成したのである。
 トランプは彼が大統領となってから、「アメリカ・ファースト」を看板に、そのアメリカ株式会社のCEOとしての「ディール」の巧みさによって経済状態がかつてないほど良くなったと威張っているが、それは急速に発展し一躍「世界の工場」となり巨大市場となった中国との経済的相互依存関係の進展によるところが大きかった。その陰で実は深刻な社会格差化が進んでいた。重工業の衰退のあと、IT産業で息を吹き返したアメリカ資本主義は、それを担う"GAFA"など新興企業群の進展によって支えられてきた。そこにはかつての重工業の場合と異なり頭脳労働者が重要なポジションを得て働いており、その働き手である「人材」はアジアなどからも広く受け入れられている。彼らは、高度な教育を受けることができた、ある意味で経済的に恵まれた階層であり「新中間層」を形成している。この「新中間層」はおそらく、こうしたいわゆる「ニュー・エスタブリッシュメント」の思想的援護者であるインテリ層とともに、民主党の「中道穏健派」を支持している者が多いと考えられ、いわば「新保守派」とでもいうべきだろう。
 一方ラストベルトの旧労働者たちはいまや高齢化し、決して経済的にゆたかではなくなっているが、思想的にはいまだに「アメリカ・ファースト」を旗印としたトランプを支持する者が多そうである。こうした人々を含めてすでに旧世代からの遺産を引き継ぎ「オールド・エスタブリッシュメント」として一定の安定した生活を営んでいる人々は「旧保守派」といってようだろう。
 そして、経済的理由で高度な教育も受けられず、激しい労働市場での競争に敗れてこれら中間層から落ちこぼれて希望を見失った若者たちがサンダースの掲げる新たな政策に期待をかけているのだと思われる。いうなれば「社会変革派」である。
 つまり、いまのアメリカはかっての「保守的共和党」対「革新的民主党」という構図がとっくに崩れ、アメリカの栄光の復活を求める斜陽の「旧保守派」と、それとは一線を画すグローバル感覚を持った新興資本家とそこに雇用されている労働者による「新保守派」とそれらの支配層から見放され生きる希望を見失った若者たちを中心としたいわゆる「新貧困層」による「社会変革派」の3極に分かれるといえるのではないだろうか?

 ここには労働者階級と資本家階級の基本的対立構造が見えず、両階級内での階層化や思想的入り交じりが複雑に絡んでいるが、労働者階級内においては、社会的に安定したポジションと収入を確保できている階層と、自分の労働力を売って生活を営むことすら困難になりつつある階層に分かれており、前者はいまの生活が保たれていれば不安なく生活できるが、後者は安定したポジションと収入が得られないため先細りの不安な生活を強いられ、いまのままではどうなるか分からないという不安な状況にあるといえる。

 これら労働者階級のうち、上層部の階層は、企業との一体感を持ち、資本家経営者と手を組んで生活しているが、下層の人々は、まさに直接、格差社会であることを日々感じさせられながら生きているといえる。つまりこの下層の人々の潜在的階級意識がより鮮明になり、その背後にある歴史の真実が自覚されるようになったとき、そこに「賃労働と資本」という資本主義社会の基本構造における矛盾が浮き彫りにされてくるだろう。そこで初めて「格差社会」とは階級社会の現象形態なのだということが明らかにされるだろう。

 

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