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2020年3月

2020年3月25日 (水)

コロナウイルスのオーバーシュートがもたらすもの

 いまヨーロッパに続いてアメリカでもコロナウイルス感染が急速に拡大している。そして日本では何とか持ちこたえているかのように見えるが、東京では感染源がたどれない感染者が徐々に増加している。もう東京でのオーバーシュートは時間の問題かもしれない。

 そこでもし東京がニューヨークと同じような危機に見舞われた場合、どうなるかを考えてみよう。小池知事は「ロックダウン」もあり得ると言っていたが、もしロックダウンということになれば、まずは人々が食料品などの買い出しに殺到するだろう。たちまちコンビニやスーパーでは品薄が生じ、生活必需品の供給網が断たれ、たちまちパニック状態がきそうだ。そして次に病院の備えが追いつかなくなり、感染者が爆発的に増加していても検査もできず、重症者が続出しても治療体制が追いつかなくなる。そして高齢者が次々と倒れるだろう。次に企業活動が停止され、公共交通機関がほとんど動かなくなる。そこで働いている労働者たちは仕事ができなくなり、その分賃金もカットされる。政府からのオカネのばらまきなどでは到底労働者の生活は維持できなくなるだろう。そしてこの状態につけ込んだ犯罪が横行するだろう。また東京は政府機関が集中しているので、政府官僚たちも制約を受け、場合によっては政府機関を東京以外の場所に移さねばならなくなるかもしれない。

 こうした最初の段階での危機は、やがて次の段階で東京を飛び越し日本全国に拡大し、より大きな危機をもたらすかもしれない。企業経営者や金融機関、投資家などの資本家階級に属する人々は、あらゆる手立てを尽くして資産の安全と損失の可能な限りでの縮小を目指すだろう。彼らはそのためには手段を選ばないだろう。それにもかかわらず体力のない企業は倒産し、そのどさくさに紛れて大資本はその倒産した企業のしかばねを食い散らし、自分の資産を維持拡大しようとするだろう。その過程で、「企業の存続を図るため」という大義名分のもと、労働者はつぎつぎに雇い止めとなり、政府からの名ばかりの「補助金」で数週間はなんとか食いつなぐかもしれないが、それ以後は「自助努力」で生きぬかねばならなくなるだろう。その間にも「自助努力」が不可能な高齢者や障がい者などの弱者はどんどん犠牲となり、火葬場が対処しきれなくなるかもしれない。やがて街には餓死者や重症者の死体が転がっているようになり、当初、「生産性の低い」高齢者や障がい者の人口が減れば、国家の負担が減ると腹の中では思っていたかもしれない政府高官たちもやがて自らの存続すら危うくなってくれば、この状態を放棄して逃げ出すかもしれない。

やがて何年か経ってコロナの世界的パンデミックが終息に向かうとき、日本は、そして世界はいまと全く違った様相になるのではないか?政治的・経済的破綻は無秩序な混乱と抗争を生みだし、まるでかつての戦国時代に逆戻りしたかのような状態になるかもしれない。

 これはもちろん最悪のシナリオ想定であるが、現状に安心しているとこうなる可能性もあり得ると思う。こうならないようにいま現在の対策を怠らないようにしよう。

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2020年3月17日 (火)

コロナウイルスとそれによる経済的打撃をもっとも受けている労働者階級

 いまコロナウイルスの世界的大流行で世の中はパニック状態になっている。毎日働いて賃金を得ないと生活できない労働者にとっては、自分自身がウイルスにやられてしまえば、回復するまでの期間は通常の賃金がもらえなくなり、たちまち生活のやりくりが苦しくなるのであるが、それに加えて子供の学校が長期休校になれば夫の収入を補うためにパートで働く妻が仕事をやめて子供の面倒を見なければならなくなり、その収入も断たれることになる。ウイルスと経済的打撃はこうしてまず労働者の生活を襲う。

 しかし世の中では、株式市場での株の大暴落があたかも世の中の終わりのように報じられている。株に投資して人のカネを右から左に動かすことで儲けている投資家たちにとってはパニックであろうが、日々の生活のために毎日一生家明働いている人々にとっては何も関係ないはずだ。ところが、株が下がると、企業の「価値」が下がり、経営資金集めにも影響がでると同時に、株の評価の根拠となっている企業の売り上げがストップすることで企業の経営が立ち行かなくなれば、たちまち雇用されている労働者は一時解雇となる。これが長引けば、その企業は倒産してしまうかもしれず、そうなれば労働者たちは路頭に迷うことになる。

 しかしもっと大変なことは、ウイルスの流行阻止のために人々の行動が大幅に制限されれば、社会的生産〜流通のサイクルが事実上ストップしてしまい、社会全体で人々の生活に必要なモノが入手できなくなり、その日からどう生きてゆけばよいのか分からなくなる。この機に乗じて生活必需品を買い占め一儲けしようという連中が必ず現れるが、世の中では、生活必需品の争奪戦が始まる。

 これに対して資本家代表政府はなすすべを持たず、中央銀行を通じて市場の救済のために企業が必要な資金をばらまき、景気を支えようとするが、いまさら市場にオカネをばらまいてもウイルスが尻込みするわけはなく、ストップした生産、流通が動き出すわけでもない。それを知っている「リアリスト」の投資家たちはだからどんどん株を売って株式市場は大暴落する。だが政府は「金融市場は依然としてしっかりしており、これは金融恐慌ではない」だなどと言い訳をしている。その間にも労働者たちの生活状態はどんどん悪化して行く。いつ終わるとも分からないウイルスの脅威にほんとんど絶望的な思いをしている。しかし、政府高官や日銀の連中は金融市場の動向や企業の景況感しか見ておらず、労働者階級の現実を知らない。

 いまどうすればよいのか?まずはウイルスとの戦いに勝たねばならず、それには生産・流通の現場で働く労働者や、苛酷な医療現場で働く医療労働者を政府が全力でサポートし、株式市場や金融市場などに目を奪われてはならないはずだ。それができない政府などわれわれはいらない!

 

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2020年3月16日 (月)

朝日3月14日朝刊・読書欄「ひもとく」での原真人氏の記事をめぐって

 表記の朝日新聞朝刊に、「ひもとく 未来予測ブーム どう生きて行くか補助線に」という記事を原真人氏が書いている。最近の未来予測をテーマにした本がブームになっていることへの原氏の見解を述べたものだ。

 原氏の見解は、不安の時代の現れであろうが、未来予測はどれだけ信頼がおけるのかが問題で、その中では、7年前に出された米国国家情報会議編「2030年 世界はこう変わる」での移民問題の深刻化や大国間の衝突の可能性などの予測はかなり当たっている。また的中率が高かったのが1901年の報知新聞特集「二十世紀の予言」で、携帯国際電話、テレビ電話、ネットショッピングなどを予測していた。原氏はそれらは的中が偶然の産物ではなく、実は私たち自身が予言を成就させてきたのではないか、と指摘し、予言そのものが技術開発の目的になってきたともいえると述べている。
 その一方で、英エコノミスト編集部による「2050年の技術」では、技術の影の部分も指摘している。軍事転用されるロボット技術の危険性やデータベースが社会のすみずみまで浸透すると、プライバシーが高価な贅沢になり、新たな格差問題が出現するとしている。

 また、90年前にケインズが大恐慌の時代に、100年後の先進国の生活水準が4〜8倍になると予測したがそれは的中した。また当代一流の経済学者10人が100年後の予測をした「経済学者、未来を語る」でMITのアセモグル教授は、我々も孫の世代まで世界はたゆみない経済成長を続けることを期待してよいと述べていることを紹介しながら、一方で地球温暖化問題など解決できない未来を憂える悲観論もあると指摘している。

 そして未来社会での「労働からの解放」という問題に触れ、ケインズが労働から解放される未来を予測し、そこでは時間の使い道がなくなり、人生の目的を見失ってしまうかもしれないと警告していたことを指摘している。また、「現代の予言者」のごとく信奉されている歴史学者ハラリが「ホモ・デウス」で人工知能がやがて人間の仕事をほとんど代替し、多くの人が「無用者階級」になるという予測をしており、そのときの人間の生きがいとは何かという問いを突きつけていると述べている。

最後にハラリ自身が彼の本について「予言ではなく可能性であり、気に入らないならそれを実現させない行動を考えよ」と述べていることを挙げ、「人生の未来予測に心を砕くのは決定論的な未来を知るためではなく、これからどう生きてゆくのか、せめてそれを考えるための補助線が欲しいのだ」と述べている。

この原氏の見解について私は次の様に考える。ケインズの100年後の生活水準の予測は、彼の経済理論に基づくものであって、1929年の株式市場の大暴落から始まった世界恐慌に見られたように過剰となった資本を労働者の生活消費財という形でどんどん消費させることで資本の回転を速め、過剰化した資本を利潤に結びつけ、同時に労働者たちには賃金を増やしモノを消費することが人生の目的であるかのようなイメージを植え付けることで「豊かな生活」を演出しようとする意図があったといえる。この方式が次々と新技術による新製品を生みださせ、人々は自らが本当に必要とするか否かに拘わらず、こうした新製品の「消費者」(実は購買者)にさせられてきたのである。

 その結果今日、一方で資本の国境を越えた巨大化と他方で労働者たちの生活の格差を拡大しつつ、社会全体としてアンコントローラブルな過剰消費や資源の無駄遣いによる地球環境の破壊や資源の枯渇を招いているのであって、内発的意図に関係なく外から吹き込まれた「夢の未来社会」という幻想に踊らされてきた人々にとっては、本来人間の生みだした道具に過ぎない人工知能にやがて自分達は支配されてしまうという恐怖感を生みだしたのは当然ともいえる。もともと生活者の手にあって生活者自身の必要のために生みだしてきた道具が、いまや資本が労働者の労働や生活を自らの利潤獲得の手段と化してしまい、生活者が逆にそれに支配されているのである。ケインズの予測は、資本家にとっては彼らの「経済成長(実は資本の成長)」という視点から「的中」であっても、労働者にとっては、格差の増大と未来への不安の増大でしかなかったのではないか?

 こうした状況に乗じて「未来予測」を行って人々を導こうとするいわば新手の「教祖」がハラルの様な人物である。彼の予測する「無用者階級」の登場や人間の生きがいの喪失問題はすでに現在の資本主義社会にもいくらでも見いだせる。本来、人間は「類的存在」として共同体を形成し、その中で必要な労働をそれぞれの個人が分担して行いながらそこに生活や文化を築いてきたのだ。そこでは諸個人にとって彼が社会の一員としてその労働を通じて貢献しているという実感こそが人生の生きがいであったはずだ。ところがそれが資本主義社会が登場してから、労働力は資本に売り渡されることで、資本家たちはその労働を自分達の利益を増やすための手段として「自由に」使用できる道具と化してしまった。そのため労働者たちにとって労働は賃金を得て自らの生活を維持するためにやむなく行う「苦役」(疎外された労働)となってしまったのである。だからいま必要なことは「労働からの解放」ではなく「労働の資本からの解放」が必要なのであって、それを通じて労働そのものを生きがいにすることができるよう、それを労働者たち自身の手に取り戻すことこそが必要なのではないか?それが可能となって初めて自分達の生活や社会の未来を自分達の手でデザインすることができるようになるのだ。

違いますか?原真人さん。

 

 

 

 

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2020年3月13日 (金)

コロナウイルスは民主主義体制に危機をもたらすのか?

やっと重い腰を上げてWHOが新型コロナウイルス流行のパンデミックを認めた。そしてトランプがこの状況に対する入国制限などの措置を発表した。そしてそのトタンに世界中で株価の大暴落が続いた。この一連の事実がいまの世界情勢を象徴していると感じた。

おそらくWHOは中国からのプレッシャーや世界経済への気遣いからパンデミック宣言を避けていたと思われる。しかし現実はそれでは済まされない状況となた。トランプもコロナウイルスの流行などは大した問題ではなく、株価の下落も一時的問題だと高をくくった様な発言をしていたが、パンデミック宣言が出るやいなや、突然一方的で強力な規制措置に出た。また発生源の中国では一時は武漢の医療崩壊などで大変な状況だったが、国家の強力な指導力で押さえ込みつつあることを強調している。そしてわが安倍政権も緊急非常事態宣言を法制化して首相の権力を強化しようとしている。

いまコロナウイルスという自然界からの全人類に対する突然の攻撃のもとで、人類社会は、これまでの民主主義では対抗できなくなりつつあるのだろうか?民主主義体制は、対立する意見同士の議論を繰り返し、互いに納得することで物事を決めてゆくシステムであるが、それなりに時間がかかり、このような緊急非常事態ではむしろ強権的なトップダウン方式の方が敵に対処しやすいといえるのだろうか?もしそうだよすれば、この事態が世界中でトップダウン的政治体制を促進させることにならないか?

だが、ここで問題なのは緊急事態に対処するシステムが必ずしも常に強権的政治体制を必要としているわけではなく、民主的合議制の中にこうした緊急事態への対処の仕方を組み込むことが必要なのだと思う。ではいかにして?

まずどの様な状況を「緊急事態」として受け止めるかである。コロナウイルスのような自然界からの攻撃は確かに人類がコントロール不可能な事態なので緊急事態であるが、戦争などは「人災」であって、他国からの軍事的侵略行為などがあった場合、これをコントロールする手立ては人間の手中にあるはずだ。株価暴落や金融危機などの「経済的緊急事態」についても同様だ。こうしてまず「緊急事態」の中身を見定める能力が問われるが、次にはさまざまな緊急事態を想定した対処の仕方をあらかじめ合議の上で決めておくことが必要だろう。その決め方は徹底して民主的に行われる必要がある。ひとことで言えば、「緊急事態」に関してあらかじめ民主主義に基づくボトムアップ的な合意形成がまず作られていなければならず、それにしたがって緊急事態に迅速に対処すべきなのだと思う。

はたしていまのアメリカ、中国、日本などではそうなっているといえるだろうか??それが問題だ。

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2020年3月 7日 (土)

「市場経済」の矛盾について考える---その5:市場経済の根本的な矛盾とは何か?(修正版)

 ここでこのシリーズの第1回目で述べた内容をいまの資本主義社会に生きるわれわれの視点から再び捉え返してみよう。

 市場経済とは、個人が自分の所有する財を自由に売り買いすることで、社会全体の生産と消費の流れがうまく回るという風に考えられている仕組みである。そこには、この私有財産の売り買いが自由に行えなくなると社会全体での経済が回らなくなるという意識がつきまとっており、だから個人の自由が基本的に認められた「自由主義社会体制」などとも言われている。しかしそこには自分の富の獲得のために競争相手のそれを奪い取り、自分のものにしてゆくという競争原理が貫かれており、この原理がその必然的結果として生みだした社会が資本主義社会であるといえる。資本主義社会では個人の富はその人の努力によって作られたものであり、何人もこれを侵すことはできないという不文律がある。それにしたがって競争によって相手を打ち負かし、その富を自分のものとして獲得していくことは「自助努力の結果」としてここでは理にかなったことなのである。しかし、どんな有能な資本家であろうとも、自分一人でその富を築けるわけはなく、それまでに多くの他者の努力の結果を自分のものとして獲得して来なければ「成功者」になることはできなかったはずだ。この社会では私的蓄財者としての資本家は、他者の膨大な労働の結果を独り占めし、それが成功者として尊敬される社会なのである。資本家に代表されるこの社会での成功者の典型的姿は、社会共同体において自らが受け持つ分担労働の共同体的存在意義に歓びと生きがいを見いだすのではなく、「自由な」競争を通じて共同体での他者の労働の結果を独り占めし、それによってあらゆるモノを買うことが出来る形の財であるカネを溜め込み、そのカネを使って人々の生活やこころまでをも支配している姿である。

 彼は言うだろう「自由市場での競争に負けて利潤を挙げられなくなれば、企業存続のために従業員の整理という苦渋の決断をしなければならない」そして実際に各持ち場での労働によって社会的に必要な財を生みだしている労働者たちは解雇あるいは配置転換される。こうして生みだされた財が商品として市場で交換され流通されることを通じて私的な富の所有者が潤いながら、社会的な生産と消費の流れが成り立っている。その生産と流通はそれぞれの資本家たちの私的欲望が合成された形での「市場の法則」によってドライブされ、逆に個々の資本家たちの意識はその法則に支配されている。それが「レッセ・フェール」(神の手に任せる)市場経済の法則にしたがって合理的に個人の富を増やすことが社会を豊かにするという考え方を生みだし、近代経済学や近代的自由主義の思想が誕生した。そしてこの社会の仕組みがあたかも人類社会にとって普遍的なものであるかのような思想(イデオロギー)が「社会常識」として一般化する。

 一方で、社会の主役であるべき労働者たちは、資本家たちにその労働の結果を奪われながらその労働力をつねに資本家に売り渡せるように再生産するために必要な生活資料を資本家から買い戻して生きている。資本家達は労働者の労働過程で搾り取る剰余価値部分だけでは足りず、労働者の生活資料の流通過程を速めることでさらなる利潤を獲得しようとする。そのため、「消費拡大」を訴える。労働者たちは自らの労働において歓びを見いだすことが出来ないので、生活資料の消費の場面でそれを見いだそうとする。だからこうした状況での労働者たちをこの社会では「消費者」と呼ぶ。そして労働者の生活、人生のすべてが資本家達のカネ儲けのチャンスとして組み込まれ、誕生から死までのすべての生活上のイベントがビジネスの対象となる。労働者たちの人生はあたかも商品を買って消費することだけが生きがいのようになってしまい、それが「ゆたかな社会」であるかのような幻想を植え付けられる。

 個々の労働者の生活においては、その「収入源」である労働賃金を獲得するためには資本家企業に雇用されねばならない。したがって「就活」の名の下に行われる労働市場(労働力商品市場)では個々の労働者予備軍は競争相手である。互いにその能力を資本家に売り込み競争に勝った者が資本家に雇用される。だからそこでは本来の共同体での共同労働を分担する仲間としての絆は失われ、孤立した個人としての「自由」が強調される。この「個人の自由」は資本家の私有財産の獲得の自由と共通の基盤の上に立つ思想であり、一方で「個人の絶対的な自由」を強調しながら他方では「何をしてもいいというわけではない」という外的な規制を前提とするという矛盾を孕んでいる。しかし、いったん、資本家が自分の利益追求に失敗して企業を「合理化」する必要に迫られ、労働者を解雇したり、労働力市場での雇用を止めたりして多くの労働者が失業すれば、事態は一変する。労働者たちは団結し、本来の共同体社会の絆を、つまり労働者階級であることを再び目覚めさせられるのである。

 そして「国家」の存在は、実はこうした賃労働と資本という階級関係を覆い隠すための総資本家の立場を代表したものとなり、個々の資本家に対しては独占禁止法や労働法などによってあきらかな不法行為を禁じながら、基本においてはこの市場経済の法則をいかにスムースに貫徹させるかに腐心する。だから労働者も、実は不当に剰余労働部分を無償で資本家に持って行かれていながら、しかも労働賃金は資本家的収入ではないにも拘わらず資本家と同様に「所得」から税を国家に納めなければならず、それを元にして社会的に必要な共通経費を賄っている。それが足りなくなれば、「平等な負担」と称して一律に消費税を取り、一方では景気浮揚のために資本家からの税(法人税)を減税するのである。

 そして「国家」がもっとも強力に機能するのが戦争の場である。必然的に独占や寡占を生みだす資本主義経済体制は、それを総資本の代表機関としての国家によって調整させ、さらにそれが国家同士の競争になれば国家間での争いとなり、そこでは最後には国家の指導のもとでの軍事力で勝負を決することになる。そこでは労働者階級や農民たちが「国家」という幻想共同体の中で一体化され、「国民一体となって敵と戦え!」という命令一下、兵士として前戦に送られ、何百万という兵士が「お国のために」死ぬのである。しかし現実は世界中の労働者や農民たちがともにその労働を通して地球上の人類の生活を支え合っているのであって、どこかの国のそれを経済的に支配する連中によってこの人類世界共同体を独り占めしたり打ち壊すことなど許されるはずはない。

 こうして賃労働と資本という階級関係のもとで人間労働の対象化された結果であるモノ(生産物)が資本として生きた労働力を持つ人間を支配する社会が「自由主義市場経済」によって必然的に生みだされた結果なのである。本来マルクスが目指した社会主義社会とはこうしたモノとヒトの転倒した関係を、反転させることによって本来の姿を取り戻すべき社会であったにも拘わらず、いまの自称「社会主義市場経済体制」はあたかもそれを目指しているかのように振る舞っているが、それが市場経済で成り立っているならば、その社会では労働者は賃金奴隷という階級から決して解放されることはないのである。このことにまず気づかなければならないのはそれらの国の労働者階級であろう。

  

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2020年3月 4日 (水)

「市場経済」の矛盾について考える---その4:「社会主義市場経済」という矛盾

 このような資本主義社会という形で現出する市場経済の矛盾をその根本から克服するはずだった社会主義がなぜいま市場経済なのか?

 一口に言って、いまの自称「社会主義国」はかつてマルクスが唱えたそれとはまったく別物であって、単なる一党独裁制という政治体制のもとで実際には資本主義的経済を一党独裁体制の国家主導で実施する「より過激な資本主義経済」の国なのである。なぜこうなったかについては、それ自体政治社会学の最大の課題の一つであって、とてもこのブログで私ごときが語り尽くせるようなものでなないが、資本主義社会が行き詰まりを見せ始めた20世紀初頭から中葉にかけて、それが要因となって引き起こされた二つの世界大戦という世界情勢の激しい動揺の過程で行われた論争や、闘争を通じてマルクスの考えていた本来の社会主義(共産主義)の基本的考え方は異なる方向にねじ曲げられ、形式上「自由と民主主義」を掲げる資本主義社会の延長に労働者に配慮した市場経済社会を生みだそうとする「社会民主主義者」と、それを巧みに利用しようとする資本主義体制側の攻勢を背景に、ロシアで革命を起こしたばかりのレーニンがそれに反発してマルクスが「ゴータ綱領批判」で述べた「過渡期社会におけるプロレタリアのディクタトル」という政策を、革命直後のロシアに適用しようとした。しかし彼の死後、今度はそれを政治的な独裁体制として悪用して自らの権力をふるおうとしたスターリンなどによる政治的な歪曲が重ねられ、いつのまにか労働者階級を国家機構と結びついた党が支配して行くという政治形態が固定化され、その本来の姿である労働者のインターナショナリティーが見失われ、「一国社会主義(実は国家という支配の枠組みの中で労働者や農民が党官僚という支配階級に奉仕させられる社会)」という主張が絶対化されるなど、マルクスのそれとはまったく異なる方向で労働者階級をトップダウン的に支配し指導する強権的政治体制が「社会主義国家」を名乗るようになって行ったという歴史的経緯がある。

 そこでは労働者たちは党官僚の作った「5カ年計画」などにもとづき、社会的に必要と思われる労働部門にトップダウン的に配置され、そこで「ノルマ」を課せられて労働させられた。生活消費財は配給のような形で分配され、自らの意志でやりたい仕事に就くことはほとんど不可能に近かったと考えられる。労働者たちは国家のために労働奉仕を行っているという形となりそこでの個人の自由は基本的に失われた。国家や党の指導者は絶対的存在であり、彼らの言うとおりに働いていればいずれは幸福な世の中が来ると信じ込まされた。しかしこうした無理な体勢はいずれその矛盾が吹き出すことになり、党官僚などの支配層は次第に資本主義社会での「自由市場の合理性」に目を向け始めたのである。「社会主義国」内部でも国家統制のもとで生活消費財を中心に市場経済方式が導入され、労働者で才能のある者はエリート層へ進出していった。しかしそのことがかえって「社会主義国家」の矛盾を露わにし、資本主義体制への一種のあこがれを生みだすことになっていった。

 しかもその間、資本主義体制側もこれらに対抗してケインズらの考え方を採り入れ、国家が財政面での指導力を発揮して公共投資などを増やし、労働者の雇用を生みだし賃金を維持させ、それによって労働者階級の生活手段の消費を拡大させ、いわゆる「市場の好循環」を生みだし、資本の生産・流通体制を維持発展させて行くという、新たなタイプの資本主義経済体制(国家独占資本主義とも呼ばれる)を打ち出し、アメリカを中心に広まっていったため、それがいわば資本主義社会の普遍化された姿の様にとらえられるようになっていった。第2次世界大戦後のいわゆる東西冷戦の間に資本主義体制側の主導権を握ったアメリカでは、社会主義者や共産主義者は悪の権化である「赤いサタン」と見做され、そうした思想が労働者階級の間にも広められた。こうして「社会主義=自由のない独裁体制の社会」というイメージが定着し、やがてそのイメージを生みだしていた自称「社会主義諸国」側がその内部矛盾によって自己崩壊を起こして行った時期に、生き残った「社会主義国」である中国やベトナムなどが「市場の開放」により資本主義体制側からの投資を呼び込みその安い労働力によって世界の商品市場に躍り出ようとしたのである。それを実現させたのが「大躍進運動」で大失敗をして中国の農民や労働者を危機に陥れた毛沢東一派に変わって登場した鄧小平だった。

 かくして中国式「社会主義市場経済」がスタートし、アメリカなどの資本家達からの投資を呼び込み、またたくまにその膨大な数の労働者とその安い労働賃金とで、大量に安く生みだされる商品が世界中の商品市場を席巻し、アメリカやヨーロッパ、日本など主要資本主義国にどんどん生活資料商品として輸出されるようになった。皮肉なことに、たてまえ上は資本主義を否定している「社会主義国」である中国での一党独裁体制がむしろ「自由経済」を主張する資本主義国よりはるかに効率よく市場経済をコントロールできるのだ。中国でのこの強力な国家主導型市場経済体制はたちまち主要資本主義国での高賃金によるモノづくリ産業を危機に陥れ、モノづくリ産業は一斉に労働賃金が安くて優秀な労働力がいくらでも得られる中国に生産拠点を移しはじめ、中国はまたたくまに「世界の工場」となった。そして最初は先進資本主義諸国から技術導入していた中国の生産技術力を急速に高め、またたくまに技術先進国の仲間入りを果たし、同時に莫大な国際収支の黒字によって潤う中国の新興資本家階級や党官僚たち、その周辺に群がる「中間層」がその蓄財した富によって生活消費財や贅沢品を海外でどんどん買い漁ったりするようになり、消費市場としても世界最大の規模に巨大化していった。こうしてアメリカを中心とした資本主義経済の国々は中国やベトナムなどの「社会主義市場経済」の国々と経済的な「持ちつ持たれつ」の関係となっていった。

 政治的には「社会主義国」という看板を上げ、共産党の一党独裁体制と政府官僚たちが支配する社会であり、そのもとで成長した新興資本家かちは稼いだカネの一部を国家に税として納め、労働者を比較的低賃金で雇用するという経済体制でどんどん成長する(資本を蓄積する)中国はやがてその資本力によってアフリカなどの「開発途上国」での経済支援という形で、資本の輸出を通じてその地域の安い労働力を確保し、それによって政治的支配力をも増大させ、世界経済を自ら牛耳ることを画策するまでになった。それに対するアメリカは自らの世界経済での主導権を奪われまうという危機感から政治的には中国との対立を深めながら同時に経済的には依存し合うという奇妙な関係となっていった。

 しかしアメリカでは資本主義経済体制のもたらす必然でもある社会的格差の拡大が深刻な状況となっており,IT産業が主力となっているアメリカでそれに要求される能力を身につけるために必要な高等教育を受けようとする若者たちはその高額な授業料が支払えず、奨学金にたよることが多い。それがもらえない貧困な家庭の若者は最初から不利な労働条件で働かざるをえなくなり、たとえ奨学金をもらうことが出来、大学を卒業しても就職先がつぶれたりして失業すれば、奨学金の返済も出来ず、病気になっても高額な保険に入ることができなければ医者にかかることもできない。こうした立場に追い込まれた若者たちには自称「社会民主主義者」サンダース氏の支持者が多い。

 かつて高賃金で「豊かな生活」を営んでいたアメリカの中間層労働者たちはいつのまにか、こうした資本主義国や「社会主義」国の資本家達に莫大な富が集中していく中で、どんどん貧困層に落ちていく人々が増えている。いまや「リベラル派」オバマやバイデンなどの支持基盤であった中間層は2極化し一握りの「成功者」は富裕層に、そうでない多数の人々が貧困層に凋落しつつある。

 そしてそれに似た事態は中国でも起きている。新興資本家やその周辺の富裕層は党官僚らと一体化し、支配階級として国の「経済成長」を推進しようとしているが、本来の社会主義では主役であるはずだった労働者階級や農民たちはトップダウンの党官僚支配の社会で被支配層にされてしまっており、資本主義諸国と同様、自らの生みだす生活消費財を買い戻すことで生活する「消費者」となっていった。産業の集中した大都市では地方の貧困地域から毎日職を求めて集まる期間労働者の集まる場所があり、ホームレス化した若者たちが多数たむろしている。大都市のマンションやアパートは家賃が高騰して低賃金労働者は済むこともできない。こうして「社会主義国」中国でも一方で党官僚と結びついた一握りの資本家とその「おこぼれ」で潤う中間層、そして他方で彼らに支配されている労働者農民という階級社会が厳然として存在し、社会格差はますます拡大している。もしマルクスが生きていてこの事態を知ったなら、「断じてこれは社会主義ではない!」と怒髪天をつくほど怒ったであろう。

 「自由と民主主義」を掲げる資本家階級が支配するアメリカでも、「人民が支配する」はずの中国でも実際は党官僚やそれと結びついた資本家達が市場経済の仕組みを通じて社会の経済を支配しており、どちらの国でも実際に社会的富を生みだしている労働者階級は未来のない格差社会で生きるしかなくなっている。これが市場経済を基盤とする資本主義的経済のもたらす必然的な結果であり、それが市場経済の「法則」であるともいえる。

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