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2020年3月16日 (月)

朝日3月14日朝刊・読書欄「ひもとく」での原真人氏の記事をめぐって

 表記の朝日新聞朝刊に、「ひもとく 未来予測ブーム どう生きて行くか補助線に」という記事を原真人氏が書いている。最近の未来予測をテーマにした本がブームになっていることへの原氏の見解を述べたものだ。

 原氏の見解は、不安の時代の現れであろうが、未来予測はどれだけ信頼がおけるのかが問題で、その中では、7年前に出された米国国家情報会議編「2030年 世界はこう変わる」での移民問題の深刻化や大国間の衝突の可能性などの予測はかなり当たっている。また的中率が高かったのが1901年の報知新聞特集「二十世紀の予言」で、携帯国際電話、テレビ電話、ネットショッピングなどを予測していた。原氏はそれらは的中が偶然の産物ではなく、実は私たち自身が予言を成就させてきたのではないか、と指摘し、予言そのものが技術開発の目的になってきたともいえると述べている。
 その一方で、英エコノミスト編集部による「2050年の技術」では、技術の影の部分も指摘している。軍事転用されるロボット技術の危険性やデータベースが社会のすみずみまで浸透すると、プライバシーが高価な贅沢になり、新たな格差問題が出現するとしている。

 また、90年前にケインズが大恐慌の時代に、100年後の先進国の生活水準が4〜8倍になると予測したがそれは的中した。また当代一流の経済学者10人が100年後の予測をした「経済学者、未来を語る」でMITのアセモグル教授は、我々も孫の世代まで世界はたゆみない経済成長を続けることを期待してよいと述べていることを紹介しながら、一方で地球温暖化問題など解決できない未来を憂える悲観論もあると指摘している。

 そして未来社会での「労働からの解放」という問題に触れ、ケインズが労働から解放される未来を予測し、そこでは時間の使い道がなくなり、人生の目的を見失ってしまうかもしれないと警告していたことを指摘している。また、「現代の予言者」のごとく信奉されている歴史学者ハラリが「ホモ・デウス」で人工知能がやがて人間の仕事をほとんど代替し、多くの人が「無用者階級」になるという予測をしており、そのときの人間の生きがいとは何かという問いを突きつけていると述べている。

最後にハラリ自身が彼の本について「予言ではなく可能性であり、気に入らないならそれを実現させない行動を考えよ」と述べていることを挙げ、「人生の未来予測に心を砕くのは決定論的な未来を知るためではなく、これからどう生きてゆくのか、せめてそれを考えるための補助線が欲しいのだ」と述べている。

この原氏の見解について私は次の様に考える。ケインズの100年後の生活水準の予測は、彼の経済理論に基づくものであって、1929年の株式市場の大暴落から始まった世界恐慌に見られたように過剰となった資本を労働者の生活消費財という形でどんどん消費させることで資本の回転を速め、過剰化した資本を利潤に結びつけ、同時に労働者たちには賃金を増やしモノを消費することが人生の目的であるかのようなイメージを植え付けることで「豊かな生活」を演出しようとする意図があったといえる。この方式が次々と新技術による新製品を生みださせ、人々は自らが本当に必要とするか否かに拘わらず、こうした新製品の「消費者」(実は購買者)にさせられてきたのである。

 その結果今日、一方で資本の国境を越えた巨大化と他方で労働者たちの生活の格差を拡大しつつ、社会全体としてアンコントローラブルな過剰消費や資源の無駄遣いによる地球環境の破壊や資源の枯渇を招いているのであって、内発的意図に関係なく外から吹き込まれた「夢の未来社会」という幻想に踊らされてきた人々にとっては、本来人間の生みだした道具に過ぎない人工知能にやがて自分達は支配されてしまうという恐怖感を生みだしたのは当然ともいえる。もともと生活者の手にあって生活者自身の必要のために生みだしてきた道具が、いまや資本が労働者の労働や生活を自らの利潤獲得の手段と化してしまい、生活者が逆にそれに支配されているのである。ケインズの予測は、資本家にとっては彼らの「経済成長(実は資本の成長)」という視点から「的中」であっても、労働者にとっては、格差の増大と未来への不安の増大でしかなかったのではないか?

 こうした状況に乗じて「未来予測」を行って人々を導こうとするいわば新手の「教祖」がハラルの様な人物である。彼の予測する「無用者階級」の登場や人間の生きがいの喪失問題はすでに現在の資本主義社会にもいくらでも見いだせる。本来、人間は「類的存在」として共同体を形成し、その中で必要な労働をそれぞれの個人が分担して行いながらそこに生活や文化を築いてきたのだ。そこでは諸個人にとって彼が社会の一員としてその労働を通じて貢献しているという実感こそが人生の生きがいであったはずだ。ところがそれが資本主義社会が登場してから、労働力は資本に売り渡されることで、資本家たちはその労働を自分達の利益を増やすための手段として「自由に」使用できる道具と化してしまった。そのため労働者たちにとって労働は賃金を得て自らの生活を維持するためにやむなく行う「苦役」(疎外された労働)となってしまったのである。だからいま必要なことは「労働からの解放」ではなく「労働の資本からの解放」が必要なのであって、それを通じて労働そのものを生きがいにすることができるよう、それを労働者たち自身の手に取り戻すことこそが必要なのではないか?それが可能となって初めて自分達の生活や社会の未来を自分達の手でデザインすることができるようになるのだ。

違いますか?原真人さん。

 

 

 

 

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