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2020年3月 7日 (土)

「市場経済」の矛盾について考える---その5:市場経済の根本的な矛盾とは何か?(修正版)

 ここでこのシリーズの第1回目で述べた内容をいまの資本主義社会に生きるわれわれの視点から再び捉え返してみよう。

 市場経済とは、個人が自分の所有する財を自由に売り買いすることで、社会全体の生産と消費の流れがうまく回るという風に考えられている仕組みである。そこには、この私有財産の売り買いが自由に行えなくなると社会全体での経済が回らなくなるという意識がつきまとっており、だから個人の自由が基本的に認められた「自由主義社会体制」などとも言われている。しかしそこには自分の富の獲得のために競争相手のそれを奪い取り、自分のものにしてゆくという競争原理が貫かれており、この原理がその必然的結果として生みだした社会が資本主義社会であるといえる。資本主義社会では個人の富はその人の努力によって作られたものであり、何人もこれを侵すことはできないという不文律がある。それにしたがって競争によって相手を打ち負かし、その富を自分のものとして獲得していくことは「自助努力の結果」としてここでは理にかなったことなのである。しかし、どんな有能な資本家であろうとも、自分一人でその富を築けるわけはなく、それまでに多くの他者の努力の結果を自分のものとして獲得して来なければ「成功者」になることはできなかったはずだ。この社会では私的蓄財者としての資本家は、他者の膨大な労働の結果を独り占めし、それが成功者として尊敬される社会なのである。資本家に代表されるこの社会での成功者の典型的姿は、社会共同体において自らが受け持つ分担労働の共同体的存在意義に歓びと生きがいを見いだすのではなく、「自由な」競争を通じて共同体での他者の労働の結果を独り占めし、それによってあらゆるモノを買うことが出来る形の財であるカネを溜め込み、そのカネを使って人々の生活やこころまでをも支配している姿である。

 彼は言うだろう「自由市場での競争に負けて利潤を挙げられなくなれば、企業存続のために従業員の整理という苦渋の決断をしなければならない」そして実際に各持ち場での労働によって社会的に必要な財を生みだしている労働者たちは解雇あるいは配置転換される。こうして生みだされた財が商品として市場で交換され流通されることを通じて私的な富の所有者が潤いながら、社会的な生産と消費の流れが成り立っている。その生産と流通はそれぞれの資本家たちの私的欲望が合成された形での「市場の法則」によってドライブされ、逆に個々の資本家たちの意識はその法則に支配されている。それが「レッセ・フェール」(神の手に任せる)市場経済の法則にしたがって合理的に個人の富を増やすことが社会を豊かにするという考え方を生みだし、近代経済学や近代的自由主義の思想が誕生した。そしてこの社会の仕組みがあたかも人類社会にとって普遍的なものであるかのような思想(イデオロギー)が「社会常識」として一般化する。

 一方で、社会の主役であるべき労働者たちは、資本家たちにその労働の結果を奪われながらその労働力をつねに資本家に売り渡せるように再生産するために必要な生活資料を資本家から買い戻して生きている。資本家達は労働者の労働過程で搾り取る剰余価値部分だけでは足りず、労働者の生活資料の流通過程を速めることでさらなる利潤を獲得しようとする。そのため、「消費拡大」を訴える。労働者たちは自らの労働において歓びを見いだすことが出来ないので、生活資料の消費の場面でそれを見いだそうとする。だからこうした状況での労働者たちをこの社会では「消費者」と呼ぶ。そして労働者の生活、人生のすべてが資本家達のカネ儲けのチャンスとして組み込まれ、誕生から死までのすべての生活上のイベントがビジネスの対象となる。労働者たちの人生はあたかも商品を買って消費することだけが生きがいのようになってしまい、それが「ゆたかな社会」であるかのような幻想を植え付けられる。

 個々の労働者の生活においては、その「収入源」である労働賃金を獲得するためには資本家企業に雇用されねばならない。したがって「就活」の名の下に行われる労働市場(労働力商品市場)では個々の労働者予備軍は競争相手である。互いにその能力を資本家に売り込み競争に勝った者が資本家に雇用される。だからそこでは本来の共同体での共同労働を分担する仲間としての絆は失われ、孤立した個人としての「自由」が強調される。この「個人の自由」は資本家の私有財産の獲得の自由と共通の基盤の上に立つ思想であり、一方で「個人の絶対的な自由」を強調しながら他方では「何をしてもいいというわけではない」という外的な規制を前提とするという矛盾を孕んでいる。しかし、いったん、資本家が自分の利益追求に失敗して企業を「合理化」する必要に迫られ、労働者を解雇したり、労働力市場での雇用を止めたりして多くの労働者が失業すれば、事態は一変する。労働者たちは団結し、本来の共同体社会の絆を、つまり労働者階級であることを再び目覚めさせられるのである。

 そして「国家」の存在は、実はこうした賃労働と資本という階級関係を覆い隠すための総資本家の立場を代表したものとなり、個々の資本家に対しては独占禁止法や労働法などによってあきらかな不法行為を禁じながら、基本においてはこの市場経済の法則をいかにスムースに貫徹させるかに腐心する。だから労働者も、実は不当に剰余労働部分を無償で資本家に持って行かれていながら、しかも労働賃金は資本家的収入ではないにも拘わらず資本家と同様に「所得」から税を国家に納めなければならず、それを元にして社会的に必要な共通経費を賄っている。それが足りなくなれば、「平等な負担」と称して一律に消費税を取り、一方では景気浮揚のために資本家からの税(法人税)を減税するのである。

 そして「国家」がもっとも強力に機能するのが戦争の場である。必然的に独占や寡占を生みだす資本主義経済体制は、それを総資本の代表機関としての国家によって調整させ、さらにそれが国家同士の競争になれば国家間での争いとなり、そこでは最後には国家の指導のもとでの軍事力で勝負を決することになる。そこでは労働者階級や農民たちが「国家」という幻想共同体の中で一体化され、「国民一体となって敵と戦え!」という命令一下、兵士として前戦に送られ、何百万という兵士が「お国のために」死ぬのである。しかし現実は世界中の労働者や農民たちがともにその労働を通して地球上の人類の生活を支え合っているのであって、どこかの国のそれを経済的に支配する連中によってこの人類世界共同体を独り占めしたり打ち壊すことなど許されるはずはない。

 こうして賃労働と資本という階級関係のもとで人間労働の対象化された結果であるモノ(生産物)が資本として生きた労働力を持つ人間を支配する社会が「自由主義市場経済」によって必然的に生みだされた結果なのである。本来マルクスが目指した社会主義社会とはこうしたモノとヒトの転倒した関係を、反転させることによって本来の姿を取り戻すべき社会であったにも拘わらず、いまの自称「社会主義市場経済体制」はあたかもそれを目指しているかのように振る舞っているが、それが市場経済で成り立っているならば、その社会では労働者は賃金奴隷という階級から決して解放されることはないのである。このことにまず気づかなければならないのはそれらの国の労働者階級であろう。

  

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