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2020年4月26日 (日)

コロナ感染半ば放置で70%免疫獲得を目指すのか?

 いま日本ではコロナウイルス流行の展開が微妙な段階に来ている。ゴールデンウィーク中の自宅待機を促す「ステイホーム週間」だそうだが、それによって観光地の人手は大幅に少なくなった。しかし、全国的に見れば、感染者数も死者数も決して減っておらず、漸増傾向にある。しかも日本ではPCR検査の数が圧倒的に少なく、実際の感染者巣は発表数の10倍にも上るのではないかといわれている。現に、病院での院内感染や感染経路不明の患者数がどんどん増えている。韓国や台湾で押さえ込みにほぼ成功しているのに比べると日本の防疫対策を疑いたくなる。

 一方でヨーロッパやアメリカNY州などでは医療崩壊が生じ手が付けられない状態になった国が多く、そのような国では、国民の70%位が感染して抗体を持つようになれば流行は自然に収まるという過去の研究結果から、そうするしかないとする動きもでているらしい。その背景にはコロナで外出禁止令を長く続ければ、企業経済が破綻し、失業者や貧困層の急増につながり、社会そのものが崩壊する危険があるという見方がある。アメリカのトランプやブラジルのボルソナロ大統領などがその代表だ。このまま放って置いていつものように企業活動を続けるべきで、その間感染して死ぬのは主に高齢者や基礎疾患を持った人たちだ。そういう人たちは生きていても働き手にならず、公的な資金ばかり食っていくことになる。だからウイルスに任せておけばよい、と言う考え方だ。おそらく表に出さなくてもこうした考えを内心持っている政治家は多いことだろう。

 野党からの政府の政策に対する批判は貧困層を救うための政府予算を投入した社会的セーフティネットが必要だという意見に集中するだろうし、政権側はそのためには国家予算も底をつくので経済活動を再開させることを急ぐべきだということになるだろう。結局いまの野党はそれ以上切り込めなくなる。企業としては自分の会社が倒産するのを防ぐために労働者を「人員整理」するが結局は労働者がいなければ成り立たないことを知っている。価値を生みだす源泉である労働者がいなければその労働の成果を吸い上げて成長する資本もあり得ないからだ。だから労働者の生存を維持するために尽力するが、それは自分の企業の利益が得られることが前提だ。自分の企業が競争資金に溜め込んだ莫大な内部留保を犠牲にしてまでそれをやりたくないのだ。その莫大な内部留保とは、実はすべて労働者自身が生みだした価値であり、その莫大な価値部分は本来、社会的な公的共通経費の蓄積として積み上げられていなければならないのを資本家企業は私的にそれを保有しているのだ。だからこのような社会的危機に直面したときに資本家代表政府である政権は「経済活動維持と雇用の維持のために」と称して結局は労働者に犠牲を強いることになる。

 いったい人間の命とはなんだろう?社会の経済活動とは何だろう?ひとの人生とはなんだろう?働き手になれない人々は「生産性がない」ので早く死んだ方がよいのだろうか?あるいはかつて東北の貧しい農村で高齢者が働けなくなると自ら山奥の「でんでらの」に引きこもって一人で生活しながら死を待つといった社会が再び登場するのか?

 いまこうした重大な問題が私たちに突きつけられている。生物学的にはウイルスが人間の遺伝子に入り込み、人間の遺伝子はそれを受け入れることで、リスクを冒しながら自らの進化を促す引き金とするという仕組みがあるのかもしれないが、そのようなウイルスと人との「共存関係」は、かたや生物と無生物の中間のような存在であるウイルスに対して生物の高度な進化形である人類という進化の両極にある相手同士であることを考えれば、人類は社会を形成し、他者との役割分担を担う共働的共同体を形成しながら生きる生物であることを忘れるべきではないだろう。人類はその社会をともに維持して行かねば生きていけないと同時に、その社会には必ずそれまで社会に貢献しながらいまは高齢で働けなくなった人々や生まれながらに障がいを持った人たちが必ず存在するのだ。それらの人々は「生産性がない」から存在意義がないのではなく、ともにその社会の中に生きていること自体が意味があるはずなのだ。そういう社会的存在としてその中で暮らすことの中で出生から死までの諸個人のさまざまな人生が存在するのだ。それがウイルスと人類の違うところなのだ。

 人間をウイルスと同等に扱ってはならない!

 

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