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2020年7月

2020年7月31日 (金)

アメリカ的世界観の崩壊をめぐって(4):第2のアメリカを目指した日本の挫折

 「自助努力と自由の国」アメリカがもたらした20世紀後半から今世紀初めまでの繁栄は、第2次世界大戦でアメリカにボロクソに敗れた日本にとっては「仰ぎ見る目標」だったといえるだろう。1950年代から浸透しだしたアメリカ的世界観は、政治の世界でも産業の世界でも主流となっていった。敗戦直後はソ連などのいわゆる「社会主義国」を「地上の楽園」と思い込まされてきた既成左翼の人たちによる反米運動が台頭したが、「社会主義圏」の実状やそれに対するアメリカの「反共産主義」宣伝によってそのイメージが壊されていく中で、やがて池田内閣による「所得倍増家計画」が進んでいった。それによって、経済的にはアメリカ型の「消費主導型資本主義」が定着していったとともに、人々の生活もアメリカナイズされ、若者たちにとってアメリカ文化が一種のあこがれの的になった。そして、そのアメリカ的生活文化を支える工業製品群(クルマ、高額家電製品など)の国際市場での日本企業の競争力が高まり、ついにはアメリカに次ぐ世界第2の「経済大国」にまでのし上がった。それを実質的にもたらしたのは戦後のどん底生活から立ち上がるために計り知れないほど奮闘努力してきた労働者階級の労働の成果であった。筆者もその歴史的過程の片隅で育ち、暮らしてきた人間の一人である。

 しかし、日本ではアメリカ的「自助努力」はそれほど浸透しなかった。アメリカ的自助努力社会にあこがれながらも、どこかに、お金を求めて徹底的に個人が自己主張していくことに抵抗感があった。多くの労働者階級は「あまり目立たぬよう周囲になじむ生活」をしようとしていたし、倫理観としてはどこかでマハトマ・ガンジーのような「清貧」という生き方にもあこがれがあった。しかし、産業界を支配する「成功者」たちは資本の国際競争の中で、そんな呑気なことは言っていられないとばかりに、彼らの「リーダーシップ」を発揮して、従業員たちを叱咤激励し、時には「苦渋の決断」とかいって、首切りを行った。一方、既成左翼運動の虚偽性に反抗した「新左翼」の学生運動も一時若者たちの気持ちをとらえ、盛り上がったが、「経済成長」が頂点に達した1980年代のバブル期には労働者たちの心情からずれてしまい、支持を失ってほとんど消滅してしまった。そして、労働者階級も自分たちの雇用が維持されて賃金が下がらないことだけを望む従順な労働運動に収束していった。

 やがて1990年代始めの東西冷戦崩壊とほぼ同時期にやってきたバブル崩壊による経済不況が日本を覆った。その後、日本の産業界や教育界はアメリカ発の「IT革命」に便乗しようとしたが、これもあまりうまく行かず、やがて台頭してきた中国やアジア諸国にそのお株を奪われてしまった。その中で、産業界のそれまでの日本的終身雇用制度の持つ非効率性が問題となり、それへの「合理化」の一つとして、小泉政権のもとで「自由な働き方ができる」という労働者へのふれ込みによる非正規雇用制度が推し進められた。これはある意味でアメリカ的自助努力社会を手本にしたものであったようだ。しかし2008年のリーマンショックを経て、人々の生活意識も「アメリカへの幻想」から離れていった。

 そしてその中で自民党支配の政権が崩れ、非自民系の政党諸派による政権が登場したが、政策内容が不明瞭だったり非現実的であったりして、東日本大震災という自然の猛威の前にもろくも崩壊してしまった。そしてその後に登場した安倍政権がかつての毛利家の3本の矢にたとえた、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略、という3つのスローガンを唱えた「アベノミクス」を掲げて「景気の好循環」を目指した。そこでは新たに「官邸主導型」という半独裁的な政治体制がつくられ、「優れたリーダーに黙って任せておけばよいのだ」と言わんばかりにトップダウン的政策を進めた。多くの労働者階級は自らの生活を護るためにそれに従順にしたがったように見えた。しかし一方では若者たちの多くは「非正規雇用」の道を取らざるを得なくなり、「自助努力がしやすい自由な働き方」とは看板だけで実際には「いつ解雇されても仕方がない」という不安定な状態に置かれ、先の見えない生活を送らざるを得なくなっていった。そしてこの鬱屈した気持ちを「2020東京オリンピック」で「ニッポンがんばれ」と叫んでうっぷん晴らしが出来ると思っていた矢先に、新型コロナウイルスの流行が始まったのである。

 その危機的状況の最中に、アメリカでの"BLACK LIVES MATTER"運動が起き、日本の若者たちには馴染みが薄いと思われていた人種差別問題が実は、「経済活動」を支配する人々が持つ社会観から来ているということが見えてきたのである。「自助努力」の成功者たちである支配階級の社会観においては、「労働者階級はオレ達の与えた仕事におとなしく従っていればいいのだ」という本音が見えてくる。それに対するアフリカ系労働者たちの意識は、そんな社会観が虚偽に充ちたものであることに気づき、いままさにそれを変革しようとする本来の意味での自助努力の方向に向かっているのだ。そして日本の若者たちは非正規雇用という形で上から与えられた「自助努力のチャンス」が実はアメリカの労働者階級と同じ本質を持った支配階級の虚偽に充ちた社会観から来るものであることにうすうす気づき初めているように見える。

頑張れ!日本の労働者階級!いまこそ世界中で資本の権化に苦しめられている仲間と連帯して立ち上がろう!

以上

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アメリカ的世界観の崩壊をめぐって(3):COVID-19パンデミックが明らかにした事実

 こうして、アメリカ社会は「自助努力による自由と平等な社会」を旨とし、外観上は「自由な成功者による社会貢献」という形を取るが、ある程度お金があることが自助努力ができるための条件であり、同時にその個人の努力目標は本質的に「あらゆるものが買えるお金を持ち貯めること」にあることが見えてきた。この社会は、どんなにきれい事を並べても、実は最初からお金が人間を支配する社会であることが見えてくるのである。

 お金はそれを持つ人を差別しないが、しかしお金によって動く社会は人を差別する。アフリカ系の人々は、アメリカの産業資本主義の富を莫大な量に膨らませることに貢献した。しかし、彼らはいつまでたっても賃金奴隷から解放されない。アメリカはもともとヨーロッパから渡ってきて、この大陸の先住民の世界を奪い取ることから始まったので、白人たちには「オレたちがつくった国だ」という意識は根深く存在し、「オレたちが築き上げた富が後からアフリカ大陸から連れてこられた黒い連中に横取りされてたまるか」という潜在意識があるようだ。その中で若者に高度な知識を学ばせるために必要なお金もなく、「自助努力」の条件が整わないアフリカ系の人々はずっと人種差別の壁に閉じ込められたままだった。白人系のアメリカ人の間でもこの社会的差別が国の看板である「自由と平等」に反するという意味で同情を寄せる人たちが多くなってきている。また例えば「自助努力の成功者」たちが立ち上げた新興のIT企業としていまのアメリカ経済を支えている"GAFA"グループは、そこに「人材」として人種の差別なく能力を発揮できる頭脳労働者が欲しいので、こうした人種差別に反対の立場をとる。こうした企業に雇用される頭脳労働者は労働者階級の中でも超エリートであるといえる。しかしその一方で"GAFA"はCOVID-19のパンデミックをビジネスチャンスとして利用して儲けた富を独占している、としていまアメリカの議会で問題になっている。こうした「トレンディー」で「リベラル」な企業も結局は「自由」を買うためにお金を稼ぐことが第1義的な目標なのである。

 こうした状況においてCOVID-19のパンデミックが始まったのである。ウイルスの震源である中国では強権的トップダウン政策で都市封鎖が行われ、ある時点で国内的な流行は止まった。しかし、「自由な民主主義国」アメリカでは、厳しい行動制限は経済活動を止め、社会が回らなくなるから、という理由で一部を除いて、行動制限を行わなかった。ヨーロッパの国々でも国によって差はあるがおおむねそうした政策が取られた。日本でもそれに近い状況だった。そしてその結果いま世界中で再びパンデミックが抑制不能となっている。

 若者たちはあまり重症化しないということでパンデミック以前の生活に戻ろうとするが、高齢者は感染すれば死亡するリスクが高いので、「自粛生活」を強いられている。「経済活動維持のためには多少の犠牲もやむを得ない」というのがこれらの国々の政府の暗黙の了解事のようだ。「生産性が低く社会保障費が高く付く」高齢者や貧困層は経済成長の足かせとして「切り捨て」の対象となっている。そして事実、コロナの犠牲者の多くは下層労働者階級の人々や貧困な高齢者である。お金のある人は、入院して人工呼吸器などでの治療もできるし、高価な治療薬も使える。しかし、貧困層はPCR検査すら受けられずに死んでいく人たちがいる。毎日各国で感染者数と死者数が公表されるが、現実にはおそらくその何倍もの感染者や、ウイルスによるとは分からないまま死んでいった人たちが多くいることだろう。いまアメリカ南部を中心に再びパンデミックが襲っているが、その内実はおそらくこの未だに奴隷状態が潜在する社会での差別という形で現れる階級差による感染者や死亡率の高さの違いを示すであろう。

 ここで考えねばならないことは、なぜ「経済優先か?感染防止優先か?」という「2者択一」が当然のように叫ばれるのか?である。本来ならば感染防止が同時に経済活動をも維持させることになるのではないか?社会的に必要なモノを生みだすために必要な労働が、ウイルスの感染に襲われれば、社会活動はたちまち止まる。だからまず感染を防ぎ労働者の命と生活を護ることに全力を注ぎ、その中で社会的に必要なモノやコトを生みだす活動を最小限度維持して行くことが求められるはずだ。ところが、その労働がお金を稼ぐことを目的とした人たちによって支配されていれば、感染防止によって経済活動が止まればお金が儲からなくなるので会社が維持できなくなる。だから多少労働者が犠牲になっても会社の仕事を続けさせることが最優先され、経営が危うくなればまず労働者を解雇する。その上、ウイルスの影響で減った利益は、国家が労働者を含めた国民から徴収した税金で補填してもらう、という発想が「常識的な線」になる。労働者の方も自らの「賃金奴隷」としての地位から、「雇用が失われれば生活できない」という理由でこうした雇用主の考え方を支持せざるを得なくなるのだ。

 そこで次回には、このアメリカ的世界観の日本における浸透について考察しよう。

 

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2020年7月30日 (木)

アメリカ的世界観の崩壊をめぐって(2):自助努力社会の矛盾

 通常、アメリカでは、19世紀後半、奴隷制を敷いて綿花貿易で稼いでいた南部諸州と新興工業地帯として登場した北部諸州の経済的立場の違いから起きた「南北戦争」によって、奴隷解放を謳った北部側が勝利し、リンカーンの「人民による、人民ための、人民の政治」がアメリカの国是となったと思われている。そこでは、社会を構成する人々は、伝統的あるいは社会的な階級に閉じ込められることなく、一個の「自由な個人」であり、その努力次第で、誰でも出世でき、金持ちになれる、という思想があり、その意味で誰でもが「自由で平等」だとされている。

 しかし、現実には、奴隷制はなくなったものの、アフリカ系の人々は、解放されたわけではなく、北部の工場労働者として、今度は産業資本の「賃金奴隷」になって生きるしかなかったのである。そこで一律に「人民(people)」と呼ばれている人たちの集団は、実際にはそれ自体が階級的に分裂していたのである。能力があり、やる気がある人は、その努力の当然の成果としてお金持ちになり、自分の欲しいものは自由に買える立場になれる。しかし、やる気がなく、怠けていて能力が低い人は、その当然の報いとしてお金もなく、貧乏な、そして不自由な生活を送ることになる、というわけだ。こうして「能力とやる気がある人」がお金を儲けて、資本家になり、「そうでない人たち」や「努力したくない人たち」がその資本家たちの会社に、賃金労働者として雇用されて働く、という「自助努力社会観」が出来ていったようだ。この社会観には人種差別など関係ない様に見える。

 ここで「個人の能力」とは何を意味するか考えてみよう。どんな歴史上の社会にあっても普遍的な人間の能力としての客観的尺度などないはずだ。それは必ず、ある歴史上特定の社会内部において、意味と尺度を持つのであって、例えば、封建制社会にあっては、支配階級である武士や貴族は、何の努力をすることなく世襲で社会的地位を獲得し維持するが、農民や工人は、どんなに努力しても優れた農民や工人にはなれても、支配階級にはなれない。当時はそれが当たり前と考えられていた。そこでは、「能力」は階級制度の壁の内部に押し込まれていた。それにたいして、資本主義社会では、「お金を持つこと」が個人の能力の指標となる以外は、階級制度の壁に閉じ込められることはなくなったように見える。しかし、そこでは今度は、「お金」の持つ法則性に支配されることになった。

 「お金」はもともと生活に必要なモノとモノを交換するための手段として、そのモノの「価値(交換価値)」を表示し、交換を媒介する機能をもって登場したと考えられる。しかし、やがてこの何とでも交換できる万能性がお金の持つ「物神的姿」として受け止められることになり、それを獲得して所有することで絶大なモノへの支配力を持つことに気づき、「お金」を獲得することが最大の努力目標となった人たちが登場した。資本家である。彼らはやがて、何者にも束縛されないでお金を稼ぐ「自由」を求めるようになり、封建制の階級勢力と対立衝突することになり、それに勝利し、社会経済的実権を握った。この社会では、まずお金をある程度持っていることが「自由」への条件になる。その意味では最初から人間がふるいに掛けられる。資本主義社会を築いたひとたちは商売などでお金を貯めていた人たちや金集めがうまい人たちであり、それを元手にしてさらに金持ちになろうというわけだ。

 やがて、彼らは商売でモノとモノとの交換差益で儲けるだけでなく、モノを自前でつくる過程で莫大な利益を挙げることができることに気づいたのである。それはモノづくりを行う労働力を商品同様に買い取り、彼らが所有する生産手段を使わせてモノをつくる過程で、その買い取った労働力以上の価値を持つ生産物を生みだし、それを商品市場に売り出すことで、それまで以上に「合理的に」莫大な利益をあげることができるようになったのである。産業資本主義社会の登場である。

 「労働力を買い取る」ということは、「労働者を買い取る」こととは全く意味が違う。前者は資本家が労働する人の「能力」だけを買い取り、その能力を売りに出すか出さないかは労働者個人の「自由」である。しかし後者は労働者の人格全体を買い取ることであり、これは奴隷制である。前者には「商品所有者の対等な関係にもとづくその売買」という意味での「平等で自由な」関係があるように見える。しかし、現実には、一方で、最初からお金にものを言わせて生産手段商品を買うことが出来、それを動かして労働する人の能力を買い取ることの出来る人と、他方で、自分の能力をそうした人たちに売り渡すことで得る賃金によって、生活資料一切を資本家の商品としてそれを生みだした自分達の手に「買い戻さねば」生きて行けない人たちの存在が前提されているのである。「奴隷解放」で「自由な個人」になったアフリカ系もと奴隷の人々は、何の財産もなくまる裸で世の中に放り出された。そして自分のお金で事業を生みだした資本家の工場に労働者として雇われるしか生きる道がなかった。

 この賃労働者と資本家の関係があるからこそ資本主義社会は成り立っている。そこには、いかに自助努力によって労働者階級から資本家に這い上がっていく「能力ある人」が登場しようとも、それによってその資本家と賃金労働者の基本的関係を維持発展させていくことによってしか社会的経済活動を維持させていくことができない仕組みが出来上がっているのである。「社会的成功者」である資本家の手によって行われる事業は、「企業活動を通じて行う社会貢献」という表看板を上げているが、企業としての利益をあげないとそれをやっていけないのであり、社会的に必要な労働のすべてが多かれ少なかれ企業を経営する資本家たちの富の拡大のための手段にされている。そこで働く労働者の労働成果はつねに資本家たちの手に環流し増殖していくのであって、労働者のもとには還元されず、彼らはただ再びその労働力を資本家たちに売りに出せるよう資本家の商品を買ってそれを消費することで維持させることが日々の生活となっている。この社会はそういう形での社会的富の蓄積を「経済発展」あるいは「経済成長」と呼んでいるのである。

 このことは、最近の新型コロナウイルスのパンデミックで世界中の国々が陥った、「感染拡大阻止か?経済活動の維持か?」という二律背反的矛盾によって明白な事実として現れた。そのさなかにアフリカ系アメリカ人労働者フロイドさんへの官憲による虐殺事件を端に爆発した"BLACK LIVES MATTER"運動は偶然の産物ではないのである。

 次回はこの問題について述べることにしよう。

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2020年7月29日 (水)

アメリカ的世界観の崩壊をめぐって(1):その始まり

 さまざまな理由で、しばらくこのブログへの書き込みを休んでいたが、新型コロナウイルスのブレークアウトによる世界情勢の緊迫した変化を目の当たりにするにつけ、また黙っていられなくなったので、今日のアメリカを中心とした「自由世界」観の崩壊についての筆者の分析について書き込むことにした。

 20世紀後半はアメリカの時代だったといえるだろう。第2次世界大戦で戦勝国の代表となり、その力の強さを示し、その後の東西冷戦時代を通じて、アメリカ社会を支える「自由と民主主義」が世界標準のようになっていった。その背景には、20世紀初頭、資本主義の否定を看板に登場した、「社会主義国」が、かつてマルクスが目指していた様な協働的共同体社会(共産主義社会)とは似ても似つかない一党独裁のトップダウン社会となってしまい、アメリカ的「個人の自由と自助努力の社会」とは対極の「全体主義国家」であるかのような形に変貌してしまったことがある。
 それは、1990年前後に「社会主義圏」が崩壊し、アメリカ的世界が一人勝ちしたかの様に見え「IT革命」が叫ばれ始めた20世紀末から、今世紀初頭までの十数年間には輝いていた。しかし、2008年のリーマンショックでそのアメリカ的世界観を支える資本主義経済体制がもろくも危機に陥ったことで、微妙に変化し始めた。

 その危機で渦巻き始めた低所得者階層の不満が明らかしたアメリカの格差社会の構造の現実を背景に"Yes we can"をスローガンに登場したのがオバマ大統領だった。しかし、その一方で、20世紀末には、それまでの毛沢東指導部による政策の失敗とその後の混乱で苦しんでいた中国が、鄧小平のキモ入りで「社会主義市場経済の導入」という形で、海外からの投資を積極的に呼び込み、それを起爆剤にして「豊になれる者から豊になればよい」という方針を打ち出したことで、一気に人々の労働意欲を高め、資本主義社会への道を邁進し始めたという国際事情の大変化が起き始めていた。これは、13億以上もの人口を抱え、世界最大の労働力を持った国が、新たに資本主義社会の陣営に加わったことを意味する。
 そのため、中国のおどろくほど安い労働賃金と、質の高い労働力を持った労働者の大群が、資本主義社会で求められる生産的労働の大半を吸収することになった。中国で生産され、国際市場に登場する格安の生活消費財商品群は、市場に「価格破壊」を起こし、日本でも100円ショップが次々登場した。これによって、アメリカではほとんどの生活消費財や子供の玩具、スポーツ・趣味用品などが中国製となり、やがて、IT革命で登場したスマホやパソコンなどの電子機器も製造は中国などで行われるようになった。これによってアメリカの人々は、生活消費財の価格が低い状態が維持され、賃金の上層率が低くてもその割に生活消費財の購買力が落ちない状態が維持された。そのため、アメリカではインターネットを使って高い利益を獲得する流通業やSSN、などいわゆる「IT産業」が隆盛期に入った。アメリカ資本は生産資本から流通資本へと大きくシフトしていったのである。この状況の変化に、アメリカの政権は中国との経済的関係の密接化は互いに経済的に補い合う良い関係(チャイナメリカ)を生みだし、中国もやがてアメリカ的「自由と民主主義」の国になっていくと確信していたようだ。
 しかし、このことによって今度はアメリカの生産的労働者の社会的地位が脅かされ、刻々と変化する労働力市場の流動化で苦境に立たされ、そこから落ちこぼれていった人々によって格差の拡大が始まったのである。それは自動車産業、鉄鋼金属産業、電気産業などにおいて深刻な状況を生みだした。
 さらに、この「チャイナメリカ」体制はすでにアメリカが20世紀後半から陥っていた「消費駆動型資本主義経済体制」の本質的矛盾である「過剰消費による過剰資本の吸収」という体制が必然的にもたらす地球資源の無駄使いや廃棄物の急増による自然環境の悪化を、より顕著なものにしていった。そして最後に、最初は安価な生活資料商品の生産で莫大な利益を挙げ、富を蓄積していった中国が、やがて、政府キモ入りで、若者の欧米への留学や、先進企業からのハイテク技術の吸収などを行うことによって、急速に高度な生産技術を獲得し、それを生産手段や軍事産業へと適用し始めたのである。その結果、強大な経済力よ軍事力を背景に「一帯一路」計画などで、世界経済をアメリカと2分しようとする動きに出て、アメリカに警戒感を抱かせることになった。

 アメリカは「自由な自助努力」と、「平等な民主政治」を国是としてきたが、中国のトップダウン的一党独裁政権による資本主義経済体制運営のおどろくべき効率の良さと、その労働力の多さによる強大な「国力」の成長にやがて大きな脅威を感じる様になったのである。
 東西冷戦時代には、強大な経済力と軍事力による「パックス・アメリカーナ」体制で世界の軍事的均衡をからくも保ってきたアメリカは、ベトナム戦争以来、最前線に引っ張り出された若者たちがその不条理な現実を目の当たりにして、それまで持っていた「アメリカ的正義感」が徐々に崩れだし、その「世界標準意識」に破れ目を見せ始め、冷戦崩壊後の湾岸戦争やアフガニスタン戦争、そしてシリア中東での混乱などにおいて世界中にその弱みを見せてしまった。それとともに支配階級の「良心的部分」を構成している一部のインテリ中間層の倫理観から生まれた「リベラリズム」も、下層労働者階級への政治的宣伝効果はあっても現実の社会的矛盾を変革していく力はないことがはっきりしてきた。

 その状況において「アメリカ・ファースト」を叫ぶ「アメリカ株式会社トランプ"CEO"」が出現し、それに習うかのように、フィリピンのドゥテルテ、トルコのエルドアン、ブラジルのボルソナロなどの強権的指導者が大衆の圧倒的支持を得ていったのである。これらの国々の指導者たちはあたかも自分たちの国が「国益」追求のために手段を選ばない企業であるかのような振る舞いを通じて、「従業員」である国民・大衆のために「頼りになる社長」を演じているのである。
 そこで次回は「自助努力社会」とアメリカ的民主主義の崩壊について考えてみようと思う。

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2020年7月26日 (日)

「何でもお金で買える」と思っている人たちが支配する世の中の矛盾

 世の中には「お金で買えないモノはない」と言って、お金を稼ぐために人生を費やす人たちがいる。その一方で、「人間としてのまともな生活を営むためにお金が必要だから働いて稼がざるを得ない」ということで一生働き続ける人たちもいる。

 前者は、勘違いしている。「お金で買えないモノはない」というのは確かにモノに対してはいえるし、お金を出せばどんな面白いコトもやれる。自前で宇宙にロケットを飛ばすこともできる。お金さえあれば「楽しや人生」だ。しかし、本当にそうなの?何か勘違いしているようだ。

 この前者の勘違いは、後者のような人たちがいるから成り立つのである。「人間としてのまともな生活を営むためにお金が必要だから稼がざるを得ない」人たちが、働いて生みだした富をこっそりかすめ取っていく人たちがいて、その人たちがどんどんお金持ちになっていく。それが前者である。この両者の違いを前者の人たちは、人間の能力の違いと見ているらしい。能力のある者がその努力に応じて報酬を増やすのは当然だと思っている。こういう人たちから見ると後者のような人たちは「能力の低いかわいそうな人たち」と見えるらしい。

 しかし世の中に必要な仕事をそれぞれの持ち場で懸命に働き続ける人たちが、なぜその成果の一部をこっそりかすめ取ってリッチになっていく「能ある人たち」に雇われて、安い賃金で生活のやりくりをしていかなきゃならないのか?どこかおかしいんじゃない?

 前者の人たちは、うすうすそのことに気づいているものだから、しこたま溜め込んだお金の一部を、世の中の貧困者や要救済者のために莫大な金額で寄付したりする。そうするとなんとなく心理的に安心するのでしょうね。しかしお金で人の「こころ」まで買えると勘違いしていると、やがてそうではなかったことに気づかされるだろう。

 いまコロナ禍で、感染拡大防止対策と経済活動維持が相反する対立となり、この両者のどちらを優先するかが政権に問われている。そこで問題なのは、世の中に本当に必要な仕事をしている人たち(医療従事者を含むエッセンシャルワーカー)が必ずしも優先されていないということであろう。現政権は、いま日本の経済を支える大きな金づるとなった観光・エンタメ産業(Tokyo 2020 Olympicもその一つ)にテコ入れをしようとするのである。「おもてなし」をお金で買おうとするリッチな人たちが落としていってくれる莫大なお金で潤う人たちが、日本の経済を支える大きな柱になっているということ自体、ちょっとおかしいのだが。それを優先することによって、増加し続ける感染者に医療現場は対応仕切れなくなっている現状が無視される。そこで働く医療従事者のことを考えれば、もっと社会的な行動制限をするべきなことは明らかなのだが。また、ある病院ではコロナで通常の患者が減って儲けが少なくなったので従業員のボーナスをカットすることにしたようだ。基本的に前者の立場に立つ現政権は、政府がこれ以上借金を背負わないために、この異常な事態を黙認してGo Toキャンペーンに力を入れることしかできない。

 なんと情けないことよ!

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2020年7月21日 (火)

新デザイン論 最新版(Ver.11)

執筆中の「新デザイン論」の最新版(Ver.11)を下記からダウンロードできます。8月2日に記述の一部を修正しました。

まだ細かな部分や参考文献の表示や図表の導入などを必要とする部分がありそうなので、随時修正をして行くつもりです。

この本はWORDで書かれており、アウトライン表示にすると全体の見出し項目だけがが目次の様に出るので内容の外観を見るためにはよいでしょう。全体は3部に分かれており、第1部は現代のデザインとモノづくりにおける諸矛盾とその歴史的発生の根拠について述べ、第2部では現在のデザイン理論における問題点を批判的に採りあげ、その歴史的根拠を第1部と同様に採りあげています。そしてそれに続いて、その批判の背後に浮き彫りとなる、本来あるべきデザイン行為の姿について採りあげています。第3部では、そのようなあるべきデザイン行為が実現出来うる将来の社会とはどのような社会なのかについて述べ、「近未来社会のデザイン」の輪郭を描き出そうと試みています。人類の未来について正確な予測はできないのですが、少なくともいまの段階で可能な論理的推論と科学的根拠にもとづいた目標は持たなければならないでしょう。

この原稿が一冊の本として出版できるか否かは、昨今の出版業界の思惑次第ですが、「売れる本」しか出版しないという方針が支配するかぎり、私としては悲観的にならざるを得ません。しかし、何とかして世に出し、「経済優先」のもとで日々世界中で感染者を増加させ人々の生活を脅かしている新型コロナウイルスの猛威の中で、この生きにくい社会をどう「リ・デザイン」していくべきか考えようとしている人たちに読んでいただきたいと願っています。

ダウンロード - e696b0e38387e382b6e382a4e383b3e8ab96ver.11e381aee382b3e38394e383bc.docx

 

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2020年7月 4日 (土)

近況

 このところ、COVID-19の第2波がやってきそうなので、また緊張を強いられている。もう4ヶ月近く電車やバスにも乗っておらず、都心へも出かけていない。相変わらずの「引きこもり状態」で運動不足解消のため一日5000歩以上を目標に散歩に出ている。

 家にいるときには、例の「新デザイン論」の原稿修正作業をやっており、読み直せば読み直すほど修正したくなる箇所が出てくるのできりがない。しかし、自分が「コロナ」にやられてしまう前に何とか納得のいく形で完成させたいという気持ちは強いのだが、なんせもう80歳という「末期高齢者」の域に突入したので、頭脳も肉体も目に見えて衰えてきており、少々あせっている。現在までにA4紙で171ページほどになっており、かなりのボリュームになりそうだ。この本はいわば、自分のデザイン研究の集大成として書き残そうと思って始めたのだが、書きたいことが山ほどあり、それをいかにうまくまとめてストーリー的に構成できるかがカギとなる。以前、井上先生と共著で出した「モノづくりの創造性」は配本業者から「売れそうもない本」とみなされた様で、最初から300部しか刷ってもらえなかったため、書店の店頭にはほとんど並ばなかった。これでは「闘わずして負けた」ようなものだったので、もう同じ出版社からは出してもらわないことにした。

 昨今の出版業界は、「売れそうな本」しか出してくれないので、それを目論んでいない今執筆中の「新デザイン論」も多分最初からハンディーを付けられることだろう。しかし、私としては内容に自信はあり、これまでの「デザイン論」とは一線を画するものだと自負している。

 世の中の状勢は、COVID-19の世界的パンデミックなどで刻々と変化しており、まさにこれまでの資本主義社会の矛盾が一気に吹き出しているという実感をもっている。世の中の変わり目にさしかかっていることは確かだ。コロナの感染防止措置をとれば「経済」が行き詰まる、経済活動を開放すればコロナのパンデミックが襲いかかる、というジレンマを各国の政権指導部は抱えているが、いまは多少の生命の義性を払ってでも「経済活動の維持」(株価を維持して投資家からカネを出させることがその中心にある)を優先しようとする方向に動いているようだ。その結果、明らかにグローバル資本に労働を搾取されている「開発途上国」の貧困な労働者や、低賃金で「先進国」の下支えをしているエッセンシャル・ワーカーたちが大きな犠牲を払わされている。こうした形で莫大な利潤を得ているグローバル企業に投資して株でもうけた富裕層やそのおこぼれを頂戴している中間層は開発される高価な治療薬の取り合いを演じているようだ。そして彼らを支持層にもつ政治指導者が「コロナなどは風邪と同じだ」とか「私はマスクはかけない」などとうそぶいているのだ。それなのに、一部の労働者たちは「オレたちに雇用のチャンスを与えてくれる」ということで、こうした独裁的リーダーを支持している。こうして資本主義社会はもはやガタガタになっているにも拘わらず、何とかぶっこわれずに「強いリーダー」を杖にしていまだに歩き続けているのだ。

 その一方でCOVID-19の震源となった中国では、流行が収まってきたので、強権的な政権がここぞとばかり、香港の民主化運動に圧力を加え、南シナ海での領土拡張を軍事力を背景にごり押ししだしている。中国はかつてリーマンショックの際には、高度成長を強味にして世界の資本主義経済を不況から「救った」が、その後、その莫大な富を用いて、アフリカや太平洋地域などの「開発途上国」の指導者たちのほっぺたを札束でひっぱたくようにして、経済的に支配し始める一方、「一帯一路計画」でヨーロッパからアジアにいたるグローバルな資本の流れを中国が中心となってコントロールしていこうと画策し始めた。しかし、最近ではこうした中国の動きに対するアメリカの経済制裁やCOVID-19へのWHOの対応などから西欧世界での中国への警戒感や反発が強まっており、世界は「新東西冷戦」の様相を呈している。困ったものだ。

 そんなわけで、世の中の状勢分析もしなければならず、「新デザイン論」も完成させたいのでかなりあせっている今日この頃である。

 

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