新デザイン論 および政治・経済・国際

2017年8月 5日 (土)

「EV(電気自動車)革命」を推進するグローバル資本の行方は?

 昨夜から今朝にかけてのマスコミのトップニュースで、トヨタとマツダの資本提携が取り上げられていた。その背景にあるのは、世界的なEV化推進の動きである。完全な電動でしかもネットにつながり、AIによる安全運転も保障されているクルマをつくり、近い将来現状の化石燃料を用いた排気ガスを出すクルマを全廃しようというのだ。

 これは一見、危機に瀕している地球環境悪化、特に温暖化の元凶となっているCO2を世界的に規制しようという動きの一環であるように見えるし、たしかにそういう効果はあるが、その背景には、これまで自動車産業先進国だったがアメリカやヨーロッパが、日本や韓国などの新興自動車産業に押しまくられるようになってひさしい現在、それをまったく新しい産業構造の中で作り替えようとする思惑があるように思われる。
 日本では早くから排出ガスの規制が厳しく、これに応じてトヨタがハイブリッドエンジンの技術では世界トップにまで登りつめた一方、ヨーロッパではメルセデス、フォルクスワーゲンなどがこれに対抗してクリーン・ディーゼルエンジンの開発に力を入れてきた。しかし、それは結局失敗に終わったといって良いだろう。
  一方、アメリカでは、GM、フォードなどかつて世界自動車産業を牽引してきた巨大企業がいずれも振るわず、低迷している中で、テスラ・モーターズという新興企業がEVの開発を始めた。このテスラという企業は、昔、真空管時代にアマチュア無線をやっていた人にはおなじみのテスラ発振回路の生みの親テスラ博士の流れを汲む会社である。小さな会社であったがここ数年急成長し、最近のアップルやグーグルなどのIT技術新興企業と手を組むことによって、まったく新しい自動車の世界を生み出しつつある。
 こうした状況にはアメリカ特有のベンチャー企業育成環境があり、小さな企業が新技術で名乗りを上げると、それが将来大きな富を生み出しそうであれば、たちまち多くの投資を呼び込むことで多くの開発資金や人材を獲得していけるシステムがあるからである。こうしてアメリカでは旧大企業の身動きならなくなった体制を土台から作り替えるパワーを養っている。
 こうして世界では、2040年頃までにはEV車が主流になりそうであるが、それはグローバル資本の世界にどのような影響を及ぼすであろうか?
 (1) まず頂上に巨大自動車企業があって、その配下にピラミッドのように膨大な裾野を拡げる下請けや孫請け企業が構成する自動車産業の構造が大きく崩れるということである。ある情報によれば従来のガソリンを中心とした自動車に必要であった部品数が40%近く減る。そしてモータや電子部品などがそれに取って代わる。つまりこれまで長年世界に誇る日本の「モノづくり技術」を育ててきた中小企業の大半が「役立たず」として切り捨てられるのである。
 もちろんこうした中小企業はそれでも新しい流れに乗るべく必死にあらたな技術を磨き上げていくだろうが、その過程で「モノづくり」をその現場で支えていた多くの 熟練労働者たちが職を失っていくことになるだろう。
 このような日本のモノづくり産業がスタートラインにリセットが掛けられるため、一方で同じスタートラインに立つ中国など日本より労働賃金の低いあらたな新興「モノづくり国」の企業に追い立てられることになるだろうし、それが「モノづくり立国」を崩壊させることにもなりそうだ。ここに新たな日本の「ラストベルト化」が生じることになるかもしれない。
 (2) そしてもうひとつ、ガソリン輸出などで莫大な富を築き上げてきた石油産出国が、石油に頼れなくなり、これまで蓄積してきた莫大な資本を使って新たな生き残り戦術を打ち出さねばならなくなる。おそらくこうしたこれまで石油で蓄積したマネーは新たなEV産業への投資や第3次産業(スポーツ・娯楽・観光などの不生産的産業)への投資、そしてひょっとすると兵器産業などにも莫大な投資をしてその上まえをハネることを狙うかもしれない。「オカネで買えないものはない」がグローバル資本家の「哲学」なのだから。
 (3) そしてさらにEVはバッテリーで動くのであって、いま主流になりつつあるリチウムイオンバッテリーはレアメタルであるリチウムのほとんどが中国の大地から産出されている。おそらく今後爆発的に需要が増えるLiバッテリーの生産で資源も労働力も製造技術も圧倒的に有利なのは中国である。つまり石油産出国に変わってレアメタル産出国である中国が巨万の富を蓄積するチャンスを得たのである。
  中国は一党独裁権力を用いてグローバル資本を取り込んでいる特殊な国であるが、それを支えているのは13億の人口から生み出される膨大な数の労働力とその資本への隷従である。あらゆる意味でこの国の成り行きには目が離せない。
(4) 最後にグローバル資本は、あらたな「自動車産業革命によって安全で便利なクルマ社会を創出する」と大々的に宣伝するが、本当はいかに儲けるか、そしていかにその富の獲得競争に生き残れるかしか眼中になく、その過程でいかに多くの労働者が職を奪われ、人生を無意味化され、そして孤独な死に追いやられるかなどという問題には無関心なのである。
  そしてそれらを支援する国家の政府も形の上では「国をゆたかにするには経済成長しかない」「そのためには一定の痛みを伴うこともやむをえない」としてこうした犠牲に目をつむるのである。
 

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2017年5月18日 (木)

トランプとマクロンの運命は?そしてその次に来るべきものは?

 予想されていたことではあるが、ロシア機密情報提供問題やFBI長官解任などの司法権への介入問題、そしてマスコミへの攻撃などでいま矢面に立たされているトランプ大統領は、それでもなお彼を信頼し絶対的に支持している人々を持っている。これまでの民主党政権の中途半端な政策に嫌気がさしていた人々がそのほとんどだ。

 一方、フランスではオランド社会党政権のどうしようもない中途半端な政策に嫌気をさした多くの人々が一方で国粋主義をカンバンとする「極右政党」のルペンを支持する人々と、他方でEU支持派で「無党派」の若いエリートであるマクロンを支持する人々とが大統領選決選投票でたたかい、マクロンが勝利をおさめた。マクロンは既成政党から脱した新たな政党組織「共和国前進」を作り、そこに左右両派から有力者を引き込んで、新たな組織とイメージ作りに怠りない。
 要するにアメリカでもヨーロッパでもいわゆる「リベラル派」に対する絶望感が溢れているのである。そして顧みれば5年前、日本でもあの民主党政権での無為無策に失望した人々が安部自民党に投票し、大勝利を許した。
 安倍政権はその後強引な憲法改定への振る舞いや森友問題や下計学院問題などで不正に政治権力を用いた疑いを持たれてるし、その強権ぶりはすでに予想された通りであるにも拘わらず、支持率は高止まりである。
 こうしたいわゆる先進資本主義諸国の人々は「リベラル派」の何に失望したのだろうか?もちろんその原因はいろいろあるが、端的に言えば、国際的連携と平和を主張し、「自由・平等」を旗印にしているが、その中身は、国家間の壁を取り除き、人やモノの行き来を盛んにすると、自国内で働く人々の生活を脅かし、逆に国家間の対立をますます増大させ、社会保障や福祉を充実させようとすれば、働く人々からの税金を増税しなければならなくなり、大企業や富裕層からの税を増やして補おうとすれば、企業の競争力が低下し「景気」が後退し、雇用が減り、労働賃金も下がるので人々の生活は苦しくなる、といった矛盾が噴出しているからであろう。つまり「既得権階級」を代表する保守政権に対抗して「市民派」を掲げたリベラル派も結局は「既得権階級」の仲間であったことが見えてきたからであろう。
 こうした諸矛盾は突き詰めれば結局経済問題の矛盾にぶち当たる。国際的連携と平和を主張し、「自由・平等」を旗印にすること自体は間違ってはいないが、それが誰のための「自由。平等」なのか、だれのための「国際連携」なのかが問題である。その基礎には「経済が成長すれば景気の好循環が生まれ、働く人も企業もウインウインの関係になる」という幻想があるからだ。
 「経済成長」とは資本主義経済の成長のことであり、その基本は企業が利潤を増やし続け、それによって事業を拡大し続けることができれば、市場のモノやカネの回転も加速され、雇用も増え、企業からの税収も増える、という考え方である。これは資本家階級のイデオロギーなのである。
 こう私が自信を持って書く理由の論理的証明はこのページではとても書ききれないので、安倍首相流に言えば「資本論を読めば分かります」ということになるが、要点だけ述べれば、社会を支えるために働いている人々はその労働が生み出す価値のうちから自分の生活に必要な商品を購入するために必要な部分を「労働賃金」として与えられるが、同じ労働が生み出したそれを超えた価値部分「剰余価値部分)を雇用者である資本家企業に無償で持って行かれ、資本家企業はその「剰余価値」を商品として市場で売りさばくことによって利潤を得ているのだが、この本来不当な関係を、雇用者が得た利益を雇用者と被雇用者間で平等に分配するという外観を持たせることによってごまかしているのである。
  だからこのイデオロギー下では、労働者の賃金も企業の利益もともに「所得」として扱われ、「平等に」税金が掛かってくる。そして企業が吸い上げた莫大な剰余価値分は本来ならば社会全体の共有財として社会保証や福祉に投入されねばならないはずだが、現実には企業の私的財産として扱われ、膨大な価値が資本として私的事業の拡大(いまやこれが地球環境の破壊をもたらしている)や他企業や他国企業間との市場での「自由競争」に勝つために注がれている。つまり「経済の成長」は資本の成長であり、「自由・平等」は資本家間の売り買いの自由なのである。
 ここから当然「カンバン」と現実の間の矛盾が生じ、それを、姑息な手段で穴埋めすることが政権にとってのいつもの課題となるのである。もちろん「リベラル派」もこの一端を担っているに過ぎない。そして「リベラル派」は保守勢力よりもいっそうこのカンバンと現実の間のギャップが大きいのである。
 さて、トランプはこの矛盾を「自国第一主義」と資本家的経営手腕(リベラル派と対抗する資本家的リアリズム)で乗り切ろうとしているがすでに破綻が見え見えである。プーチンとの選挙密約がバレそうになると司法までを自分に都合のよい方向に向けようとしたり、移民の国アメリカを移民阻止の壁で覆い尽くそうとしたり、手のつけられないワンマン社長である。もっとも資本家階級間ではこうしたビジネス手法は当たり前なのかもしれないが。
  そしてマクロンは「リベラル左派」的イメージでフランス既得権階級の矛盾を乗り切ろうとしているようだが、さてどうなるか?こう言っては失礼かもしれないが、多分挫折するだろう。
  そしてわれわれが本当の意味でわれわれ自身のための社会変革に立ち上がれるか否かは各国の次世代を担う若者達がこの真実に気づき、国境を越えて結束・連帯できるか否かに掛かっているといえるだろう。
 そういう展望のもとで、いま既成のカリスマに期待するのではなく、われわれ自身の手で、新たな社会への「デザイン」を展望することが必要なのではないだろうか?

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2017年2月10日 (金)

ブルガリアの縫製工場で作られるフランス・ブランド商品

 今朝のNHK-BS海外ニュースで「フランス・ドゥー」のニュースとしてブルガリア最大の縫製工場の実情が放映されていた。いまヨーロッパの縫製品の約9割はブルガリアで作られているという。この国はEU域内でもっとも労働賃金が安く、中国よりも安い。そして労働者の質は高いので、フランスの中・高級縫製品のほとんどがこの国で作られ、フランスで"made in europe"製品として売られている。中国や東南アジアなどで作られた製品よりイメージが良いのだそうだ。

 この工場で15EUROで作られたズボンはフランスで150EUROで売られている。10倍である。そしてこのEUで最低の賃金水準の工場で40年も働いてきたおばさんは「他の人たちから頼りにされていることを誇りに思っている」と述べ、毎日8時間以上の労働にも不満を漏らしていない。
そしてこの工場の下請け家内工業ではさらに安い賃金でこれらの縫製品のもっとも繊細で難しい部分を手作業で作っている女工さん達が多くいる。おそらくこの下請け工場では親会社からのノルマを達成するために大変な長時間労働を強いられているのであろう。
 おそらくこうした高級縫製品はフランスの「有名デザイナー」がデザインしているのだろう。だから法外な価格で売れるのである。
 さてこうした状況を見て思うことは、いわゆる「ブランド・デザイン商品」の意味である。それはこうした安い労働による製造工程で作られており、その割に法外な高価で売るために有名デザイナーのデザインという「付加価値」を付けて販売されているのである。
 実際にはデザインに要した時間はそれほど長くはなく、しかも一度のデザイン労働の成果は工場から生みだされる何千もの縫製品のデザインに用いられる。つまりその高級縫製品の実際の価値の大部分は縫製工場での長時間労働により生みだされた価値部分(すべての製品が製造のためには同じ労働時間を必要とする)であり、デザイナーの労働が生みだした価値部分はデザイン労働時間をその製品数で割った値の、ほんのわずかな価値部分に過ぎないのである。
 しかし実際に工場労働者がもらう賃金と有名デザイナーの報酬とは信じられないほど大きな逆の差なのである。
 縫製品会社の経営者とデザイナーは共にこうした低賃金労働と、デザイナーの「ブランド価値」(つまり虚偽の価値)の差を不当に利用して法外な利益を上げており、これが「需要と供給のバランスで価格が決まる」という「法則」に支配されている資本主義社会においては合法化されているのである。
 
  この放送でもうひとつ考えさせられたことは、EU域内での自由貿易を謳いながら、一方でこうした構成国による大きな賃金水準の差を黙認することで、実質的に「同一労働同一賃金」を放棄していることである。そのことが賃金水準の低い国々から高い国々への労働者の移住をもたらし、それらの国での賃金水準の高騰を抑制させる効果を持っている。そして賃金の高い国でのきつい労働や人の嫌う労働にはこうした国々からきた労働者が雇用され、労働の過酷な割に低い賃金でも我慢して働いている。これによって何とか社会運営がうまく行っている国では移民歓迎なのである。
 しかしまた一方で賃金の高い国でこれまで縫製工場に雇用されていた労働者は、賃金の安い国に工場が移転し、職を失う。そして別の不慣れな職場や賃金の低い職場へと移らざるを得なくなる。
 こうした状況に紛争地域などからさらに貧困な人々が押し寄せると、これらの国々の労働者達は自分の職を失うこととより安い賃金で働かねばならなくなることへの恐怖から移民排斥運動を起こすようになることはむしろ当然と言わざるを得ないだろう。
 おそらくアメリカにおいても似たような状況と考えられる。

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2016年10月 8日 (土)

現代社会の弊害をもたらすマスプロとマスコミ

 いまアメリカ大統領選挙やイギリスのEU離脱問題、ヨーロッパでの排外主義的主張の台頭など大きな社会現象に共通に現れている「ポピュリズム」とは何でありどこからきたのかを考えてみよう。

 ちょっと飛躍するがそれは20世紀以降の資本主義生産様式に特徴的なマスプロ方式にその根源があるように思う。資本主義生産様式では相対的剰余価値の増大のためにいわゆる「生産の合理化」が行われ、資本構成を高めることで、利潤率の低下と商品市場での価格競争に勝つことという両面からの圧力の中でいかにして全体としての利益を上げるかが資本家的経営者にとっての最重要課題となっている。
  特に生活資料商品(耐久消費財を含む)はきびしい価格競争に打ち勝たねばならず、 高度な大量生産方式が採用されると同時に大量にそれらの商品を売りさばかねばならなくなる。そこで大量販売システムが必須となり、それを促進させる広告宣伝への投資が拡大する。そうした地盤に必然的に利用されるのがマスコミである。マスコミは政治的宣伝にも早くから用いられ、ヒトラーもそれを活用した。そして21世紀のいまではTVとインターネットという方式が主流となった。
  こうしてマスコミ(ここでは大量高速通信手段という意味としてこの言葉を用いる)を通じて商品の購買力は著しく促進されると同時に大量の人々へのマインドコントロールや思想的扇動が行われ、人々はあるマス社会現象を生みだすようになる。これが「ポピュリズム」である。
  アメリカ大統領選での二人の候補者の論戦の中身はこうして選挙民という購買者への「商品差別化」宣伝広告の様相を呈するようになる。だから肝心の政策論争や思想の表明ではなく相手のちょっとした欠点を誇大に宣伝し、ライバル商品を蹴落とすことが目指される。まったくの本末転倒である。
 そしてイギリスのEU離脱も政治家レベルではほとんど決着がついていたのに国民投票で覆され、コロンビアでのFARCと政権との和解合意も国民投票でひっくり返される。
 「大衆」はちょっとしたマスコミの宣伝に動かされきわめて感情的で目先の出来事にとらわれて態度を決めてしなうことが多くなる。「移民たちに職を奪い取られるからあの移民排除を主張する人に投票する」などなど、思慮の中身はまったく乏しいことが多いし、それをむしろ政治家達は利用する。
そもそもこうした状況は資本主義社会の生みだす必然的弊害であると言えるだろう。本来社会的生産の主役であるはずの生活者たちが資本主義社会生成の歴史の中で、生産手段を資本家達に奪われ、その生産手段を私物化した資本家たちの企業で働く労働力として雇用され、賃金をもらいながら資本家達に利益をもたらすために働き、その賃金で自分たちの労働が生みだしたにもかかわらず資本家の所有物となってしまった生活資料商品を買い戻さねば生きて行けない階級にされてしまっているのが資本主義社会である。そこでは、生産者であるはずの労働者が「消費者」(実は資本家達にとっては「購買者」なのだが)として位置づけられ、資本家側は「お客様は神様です」と言わんばかりに「消費者」を持ち上げながら、本当は商品を買ってもらうときだけ存在意義のある連中として見下している。こうして生活者(広い意味での労働者階級)は商品購買者として利益追求の手段にされてしまう。そこでは生活者は購買によりオカネとして利益をもたらしてくれる存在という「量的」な意味づけだけがあり、人々の人生や生活観、社会観という「質」の問題は基本的に度外視される。
 こうして資本家達は資本という抽象的な価値形態のみを追究し、そのための手段として社会的な生産物やそれを生み出す労働者の生活を位置づけることになり、資本家も労働者もともに中身のない「個人」となって行くことになる。
 だから深く考えさせない選挙や投票を繰り返し、そこで選ばれた人々は選挙運動での勝手な言動とは裏腹に「資本の論理」の中でうごめく「同じ穴のムジナ」であることを暴露し、結局は「経済成長」の名の下で地球資源の枯渇や環境破壊を促進させることしかできず、世界市場での競争に勝つために、国家間の対立や紛争、社会格差やテロをも生みだす原因をつくり、多くの人命や人生が奪われて行く。
 私はそう考える。間違っているだろうか?

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2016年10月 3日 (月)

「経済成長」の行き詰まりの中でモノづくりの行き着く先は?

 いま、世界中の資本主義国(中国も含めて)では、ある意味で生産過剰状態となっているようだ。アメリカやヨーロッパではすでに「モノづくり」は自国ではなく賃金労働の安い国々で行われている。モノづくり工程の中でデザインや設計だけが本国に残っている場合も多い。 もちろんそうしたモノづくりのすべてを支配する経営は本国の資本家たちであり、海外生産拠点に投資するという立場である。日本でもいまや「モノづくり」は風前の灯火であり、大企業でのインフラ産業やハイテク産業そして特殊な技術を持った中小企業が生き残っているだけのようだ。また一方で「世界の工場」と化した中国では鉄鋼の過剰生産で多くの工場が閉鎖されていることにも見られるように基幹産業が低迷しており、家電製品などの生産もかつてのような低賃金では行えなくなりつつあるため、より労働賃金の安い国々(ミャンマーやアフリカなど)へと流出しつつあるようだ。中国では急速な経済成長を図るため外国からの投資に頼っていた面があり、こうした外国資本は中国労働者の賃金水準が上がってくればたちまちより賃金の安い国に流出してしまう傾向にある。

 モノ自体について見ても自動車は国別販売台数では中国、アメリカ、日本、ヨーロッパ諸国、が上位であるが、 アメリカ、ヨーロッパ、日本などではすでに飽和状態となっており、もっぱら買い換え需要に頼るしかない。それ以外の国々ではいわゆる富裕層や中間層がターゲットとされており、多くの人々はクルマのある生活などとは無縁である。要するに生活者の格差拡大がどんどん進んでいるということだ。

こうして耐久消費財需要はこの先伸び悩むだろう事が予測される。そのため「先進」資本主義諸国が頼みにしているのは軍需産業である。フランスしかり中国もしかりアメリカでは以前からそうであり当然のこと、そしてやがて日本も...である。

 兵器・軍需産業というモノづくりとしては最悪の形態(再生産に結びつかない破壊のためのモノづくり)が「経済成長」を支えるための主流になりかねない現状と、生活に直結するモノづくりがそれを購買できる人々の中では飽和状態となり、それを買えない人々には相変わらず手が届かないという状態を考えてもすでに生産過剰になっているといってよいだろう。
 そうした中でも安倍政権は相変わらず「経済成長」とそれに必要な「消費拡大」を目指しており「この道しかない!」などとほざいているのである。
もう「経済成長」は無理である。そもそも「経済成長」とは資本の成長のことであり、人々の生活の成長ではないのであって、「経済成長」の中でモノをドンドン買ってがらくたを増やして行く生活に「先進」資本主義国の人々は疑問を感じだしているのである。そして自分たちの生活を自分たちの手でつくり出して行くのではなく、資本の成長のために必要な消費(実は購買)の対象としてしかモノが作られず、生活者はそれを買って生活することしかできず、デザイナーによって巧みに購買欲をかき立るようにデザインされたモノを「ユーザの望むモノ」と思い込まされ、必要でないモノまでドンドン買わされていく生活に嫌気がさしているのである。いうところの「消費の減退」はそのひとつの現れであって、これはむしろ生活者の健全な判断なのである。
そしてそれでもなお「経済成長」をゴリ押ししようとする結果、フツ—のモノに飽きた富裕層はより高価ななステータスシンボル的商品(いわゆるIot製品や人工知能を用いた製品など)を求めたり、豪華クルーズ船での世界観光などにオカネを使い、モノが必要だがオカネがない人々は高価な耐久消費財には手が届かず、100円ショップ商品や安い労働賃金の国でつくられた劣悪な生活用品を買うことしかできないという現実。これが「経済成長」の結果なのである。

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2016年4月15日 (金)

モノづくりの革命から始まる社会変革(5)

 この「モノづくりの革命から始まる社会変革」シリーズでもう一つ忘れてはいけないことがあるので、書きとどめておくことにした。

 それはこのシリーズの(1)〜(4)に書いたようなモノづくりの本来の姿を求める考え方は私の40年にわたるデザイン研究の中で、現在の「デザイン」への批判を通じて今後のデザイン研究の在り方を私なりに考え抜いてきたものであり、決して思いつきのレベルではないということである。それは以下の様に要約できる。
(1)「デザイン行為」の歴史的特殊形態である職能(分業種)としての「デザイン」に現れる現実の矛盾とその根拠およびそれへの批判。
(2)批判を通じてあきらかにされるデザイン行為の本質は、いわゆる「広い意味でのデザイン」という横並びに共通点を抽出する浅薄な抽象による規定ではなく、現在の「デザイン」における矛盾の歴史的根拠にまで遡ってそれを否定的に抽象することからのみ明らかにされる人間の普遍的労働過程の中核的部分を占める行為であることを示すこと。
(3)それはまた現在の設計論やデザイン論への批判でもあり、その欠陥をあきらかにすることからあるべき人間労働の姿とその論理を描き出すことが必要であること。
(4)本来あるべき人間労働の論理が現実の労働において実現されるための方向を示すこと(これはまだ結論がでていない)。
このうち(3)についてはこの「モノづくりの革命から始まる社会変革」シリーズの中でまだ十分に述べられていないので補足しておこうと思う。
 いまの代表的設計論である「一般設計学」においては、設計とは要求機能の実体概念への写像であるとされている。それは確かにそうなのであるが、問題は、その要求がどこから出てくるものなのかである。実はそこが非常に重要なのであって、それによってなぜそれを設計し作らねばならないのかの理由とともに、それを実現させるための「機能」の内容も決まるのである。しかし一般設計学ではそのことは不問に付される。おそらくそれは設計技術者の仕事の範疇ではないと考えられているからであろう。
 設計技術者にとって「要求」はつねに外在的なのである。なぜか?それは設計技術者という職能が誕生した歴史的経緯によるのである。そしてそのような職能が誕生したことによって初めて「設計行為」そのものが研究対象になりえたのである。
 この歴史的経緯とは、設計技術者がまさに資本主義生産様式の確立の過程で登場した職能であったということであり、その資本主義生産様式が何を目的にモノをつくるようになったのか、そのためにどのようなあらたな労働形態が必要となったのか、という歴史的背景を明らかにすることなのである。誕生の論理が存在の論理なのである。
 それはモノづくりの手段(生産手段)が生活者から資本家の手に奪い取られ、生活者が資本家の利益獲得のために労働し賃金を得なくては生活に必要なモノを手に入れることができなくなった結果なのである。
 したがって設計技術者やデザイナーがいくら「人間生活を豊かにするための仕事」と夢想してもそれは空想に過ぎず、現実にその職能を通じて生活者にとって理想的な文明社会など生みだすことはできないし、むしろその正反対の方向に進んでいることがいまや誰の目にも明らかになってきている。設計論やデザイン論がそれを尻押しするようなことがあってはいけないのは当然だろう。
 そこで私はまず、普遍的な人間労働がどのようなものであるのか(あるいはあるべきなのか)について考えた。
それは「個」としての労働が同時に「類的存在」としてその個が構成員となる社会にとっても意義のある労働であることが必要であろう。そのためにはまず「個」における労働過程の論理をあきらかにする必要がある。そこで私はヴィゴツキーの三角構造に着目した、C. S. パースもそれと似た考え方で人間の表現行為について考えているが、ヴィゴツキーはそれを労働の論理として位置づけているからである。
この問題については私の著書「モノづくりの創造性---持続可能なコンパクト社会の実現にむけて」(海文堂) 2014の第一部に詳しく書いてある。
 要は、主体{自分)と客体(外的世界)の間に生じる適応矛盾を克服することがモノづくりの動機であり、そこで何を作るべきかがまず考えられる必要がある。そして次にそれをつくるための手段(道具)が必要となる。そこで初めてその目的と手段との主体的関係づけとして生みだされるモノとそれを生みだす手段の「機能」が決まるのである。またこうして作られたモノは社会的存在としての「個」である自分と他者を含む社会の中でその意味を表現・理解する媒体になり、そこに本来の意味でのコミュニケーションが成立するのである。
 このすべての過程が主体の意図の実現過程であり、設計でもあり、製作でもあり、表現でもあり、本来の意味で創造的な過程といえる。労働過程とは本来 そのようなものであると思う。設計論とはこのような意図実現過程の論理を明らかにすべきものなのである。(「デザインにおける意図と創造性」人工知能学会誌20巻4号、PP.379-386、2004年7月)
 そのような本来あるべき労働過程が実現出来るような社会にするために私たちはあらゆる場であらゆる形でそこに向かうための努力をすべきときがきているのではないだろうか? たとえそれが何世代にわたる時間を必要としようとも。

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2016年4月 9日 (土)

モノづくりの革命から始まる社会変革(4)

この表題でのブログは3回で終わりにしておこうと思ったが、まだ大きな問題が残っていた。「モノづくりの革命」における生産手段の問題について述べておこう。

 前述の通り、資本主義社会は、生産手段(労働手段および原料素材)の私的集中化がその生産方式を特徴づけており、そこに雇用され、生産手段と結合される労働力の労働内容は細分化され単純化される傾向にある。同時にそれは資本家の意図と思惑を助ける頭脳労働者(エンジニアやデザイナーを含む)による労働の増大をも促進させ、それらが全体として資本主義経済体制特有のモノづくりの形態を生みだしている。
そこでは市場での価格競争に勝つ必要から、あらたな労働手段(機械など)が次々と開発され、生産力が押し上げられ、単位労働時間で生みだされる生産物の量は増え続ける。そしてそれに見合った大量販売が必要となり、大量販売システムが構築される。この過程でモノづくりの本来の主人公は生産過程から放逐され、販売部門や「サービス」部門などなどまだ人手のたりない労働部門に働き先を求めることになる。 こうして大量生産・大量消費体制の基礎が出来上がるのであるが、これは前述の通り過剰資本(利益を生まない資本)を生みだすことにも繋がり、金融市場のさまざまな動きなどで経済的不況や恐慌が生じることにもなる。それは 1930年代に世界恐慌として現実化した。しかし、その後、過剰資本を軍事費や労働者の生活資料など直接資本の再生産につながらない部門で消費されることにより、過剰資本の圧迫から逃れつつ大量生産・大量消費を拡大させる体制が築き上げられた。そしてその結果、いま地球の自然全体が人類の未来を危うくするような危機に陥っているのは周知の通りである。
 資本家の意図の下で次々と開発される労働手段は、機械から科学プラント、発電機・電動機を起点とした電気設備関係や情報機能を拡大させるコンピュータシステムなどへとどんどん発展を続けてきた。資本家たちはこれを「技術革新(イノベーション)」と呼んでいる。農業の世界でも同様に大規模機械化農業の増大、原野や森林の伐採による新耕地の開発などなどが押し進められる。小規模自営農民は農業大資本につぶされ吸収されていき、そこに雇用される農業労働者となっていった。
 こうして直接的生産者からもぎ取られ資本家の手に握られ、肥大化してきた生産手段は、生活者には無縁の存在となり、生活者は資本家達のつくるモノをただ買うだけで生きて行かねばならなくなった。そしてその生きるために必要なモノを買うカネを稼ぐために資本家に雇われて賃金をもらわねばならなくなったのである。言い換えれば、生産手段は資本家が労働者からその労働を搾取するための手段となってしまったのである。
 しかし、いつの日か資本主義社会が終演を迎え、労働者階級が生産の主役に返り咲いたとき、これらの生産手段はどうなるのだろうか?資本主義社会が生みだした高度な生産力がそのままポスト資本主義社会に引き継がれ、目的は変化してそれが直接社会共有ファンドを増やすために機能するようになる、というのが社会主義社会論者の一般的見方である。マルクスは、やがて生産力の高度化にとって資本主義生産体制そのものが桎梏となってそれ(社会的外皮)を爆破する日が訪れるとも言っている。たしかにそう言えるだろう。
 しかし、かつての「社会主義国」が行っていたような生産手段の「国有化」という形ではないと思われる。近代国家は資本の共通利害を代表する機関でしかなく、それをそのまま引き継ぐことは、形を変えた労働者支配でしかないからだ。
いまの高度な生産力を構成している資本家的生産手段の内容はあくまで市場競争に打ち勝ち利潤を維持拡大するための手段として最適化されているのであって、それが必要でなくなった社会では「生産手段の国有化」とはまったく異なった形態になっていくと思われる。
 大規模化した生産手段はすでに分散化を始めており、小規模でも効率よく複雑なモノをつくれる労働手段(例えば3Dプリンターなど)が次々と現れている。 またよく話題になることは、いま人工知能研究が進化しておりやがて人工知能が人間に取って代わる社会が登場するのではないかという話である。しかし私は資本主義社会が終演した暁には、そのようなことはありえないと思う。なぜならば、社会的生産の主人公が労働者・生活者自身であるならば、自分たちの人間的能力であり自己表現そのものである労働自体をそのための手段であるモノに置き換えよう等とは誰も思わないだろうから。人工知能が人間の労働に置き換えられるとすればその動機は、「人件費がかからない労働者」という見方をする資本家の視点でしかありえない。
 もちろんロボットなどは人間が行うには危険度の高い仕事や単純で耐えがたい仕事などを代行されるためには必要であろう。それはあくまで道具なのだから。
 このようなことを考え合わせると、ポスト資本主義社会では、地域分散型社会が再び再生され、いまの「国家」という単位はあまり意味がなくなるかもしれない。生活者はその生活手段を生み出せる範囲の地域で生産と消費の基本的サイクルを維持できる自立共同体をつくり、その地域自立共同体の連合としていまとは異なる意味でのボトムアップ的な 「クニ」が存在するようになるかもしれない。そしてそのような形で生活者はモノづくりの主人公となり、売るためにつくるのではなく「必要なモノを必要なだけ」つくることで成り立つ「コンパクト社会」が可能になるのではないかと思う。そこにおいてはあらゆる労働者・生活者自身が自ら必要なモノをデザインし、本来の意味での創造性を発揮できるようになる。これは馬鹿げた「ユートピア」であろうか? 私にはいつか必ず人類が向かうモノづくりの方向なのではないかと思われるのだが。
(以下「モノづくりの革命から始まる社会革命(5)」に続く)

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2016年4月 8日 (金)

モノづくりの革命から始まる社会変革(3)

 人類は、ロビンソン・クルーソーの様にたった一人で孤島で生きて行くこともできるかもしれないが、それは偶然であって必然ではない。普遍的な人類の生き方は、マルクスが「類的存在」と言っているように、共同体社会を形成して生きて行く形であろう。そこでは当然、その社会に必要なモノを共同体構成員全員が分担協力して生みだして行かねばならない。社会的分業である。そしてそこで作られたモノは必要な人々に必要に応じて分配されなければならない。そのようなモノの生産から消費までの過程が間接的にその過程に必要な分業種(医療、教育、複利厚生、法律関係など)も含めて継続的に行われることを前提にして初めて共同体社会が成り立つ。本来の価値とは、こうした社会の中で必要とされるモノを生産するのに平均的にどれだけの時間が必要であるかによって決まる値であって、それはその社会に必要なモノを生みだすために必要な労働力の量をも示している。だからその価値に応じて必要なモノを受け取る人は、自分もそれと同量の労働を社会の中で分担していることが必要であって、その原則が守られて初めて本当の意味での平等な社会といえるのだ。その共同体社会では、構成員それぞれが、自分の適性にあった形での労働を通じてその役割分担を果たすと同時に、そのことが社会の中での自分の存在意義として感じられるようになるための必要条件であろう。 もちろん、あるべき共同体社会は、その構成員が生きていくために必要なギリギリ最低限のモノしか生産するわけではなく、それを遙かに超えた量を生みだす。これが剰余生産物であり、その価値が剰余価値である。この剰余価値部分は、本来は共同体社会に共通に必要だが直接的にモノを生産する労働ではない労働や、障害や高齢など何らかの理由で働けなくなった人々への生活を保障するための社会的共有ファンドとして蓄積される。だから労働生産性が上がって社会的に剰余価値の量が増大すれば、社会構成員の生活は楽になり、老後や病気の際にも安心して生活できる体制が充実するはずなのである。

ところが今の資本主義社会では労働生産性が上がれば、労働者は不要となって首を切られるか劣悪な労働部所に回され、あらたに労働賃金の低い国々へと労働者をもとめて資本は進出する。それによって増大した剰余価値はグローバル資本家や金融資本の財産として吸い上げられてしまう。そしてその大部分は市場での競争に勝ちさらなる利益を上げるために投資される。一方社会的に共通に必要な財は税金として生活者から吸い上げられる。
 このように、いまの資本主義社会は、あるべき共同体社会とはほど遠い社会になっているのである。しかも人類共有であるはずの地球全体の自然はグローバル資本の利益をまもるために破壊され、生活者の生活は過剰資本の処理形態となった消費材の大量消費先として意義づけられ、過剰資本のゴミ箱的存在にされてしまっているのだ。
 このような、ほとうもない矛盾を突き進む資本主義社会の否定として描かれる「あるべき共同体社会」は決して絵に描いたモチではなく、当然の形としてわれわれの社会において実現されなければならない目標であるといえる。
 かつて、こうしたあるべき社会を目指して起こされた革命(例えばロシア革命)でも社会に必要なモノをつくっている労働者や農民がその生産のイニシャティブを握り、その代表者が政治を行うという社会が目指された(ソビエトとは労働者評議会のことである)。しかし、それを「あるべき社会」に向けて牽引すべき党が腐敗、独裁化し、労働者・農民は党の独裁的支配のもとで自由を奪われた。そのため途方もない矛盾の中を突き進む資本主義社会の方が「自由で民主的」というイメージが定着し、旧「社会主義諸圏」は崩壊した。そしていま資本主義社会は「われこそは普遍的社会の在り方なり」とでもいうように居直り、その矛盾を深めながら人類の危機に向かって突き進んでいるのである。
 この過程でいったい何が間違っていたのか、これを明らかにすることがいまの歴史研究にとっての最大の課題であろう。
  私は「モノづくりの在り方」という観点からこの問題に取り組んできた。もちろん「モノづくりの在り方」を変えてもそれだけでは社会革命は達成できないであろうし、社会全体の変革の中で「モノづくりの在り方」も変わって行くことになるのは当然である。しかし、基本は「生活者」というべき人々(大部分は直接間接に生産的労働やそれを支える労働に携わる人々)自身が自分たちに必要なモノを自分たちの手でつくり、直接自分たちに分配するシステムを構築することであろと思う。そしていま資本主義社会の中でそうした形の萌芽があちこちに存在し、成長しつつある。残念なことにその萌芽はいま資本主義的市場経済の法則の真っ只中に置かれることによって歪められ、ヘテロな形になっていかざるを得ない。
 しかし、私の本(「モノづくりの創造性---持続可能なコンパクト社会の実現に向けて」海文堂 2014)ではモノづくりの創造性が生活者の手に取り戻されることが目指され、それによっていまもてはやされている「デザイナーの創造性」がいかに危ういものであり、いかに社会全体にとって危機を加速するものであるかを訴えながら、可能であれば、すべての生活者が自分の得意な仕事の中で「モノづくりの創造性」を発揮できる社会を目指すあらたなボトムアップ的デザイン運動をも射程に入れている。
 ぜひ多くの人々に読んでいただき、ご批判をいただけることを期待している。

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2016年4月 4日 (月)

モノづくりの革命から始まる社会変革(2)

 もう一つ重要なことは、市場が「マス化」していることだ。昔の小規模生産を基礎とした商品経済ではある商品の市場が一気に社会全体や諸外国まで拡がることは少なかったといえる。しかしいまの資本主義社会では、大量生産、大量消費が前提であり、競争会社がひしめき合いながら隙があれば相手のシェアを奪おうと構えており、ライバル会社のある商品が売れれば、たちまちそれに似た商品が他の会社からも売り出され、過剰に生産されるようになるため価格も下がり「売れ筋商品」となる。そして買う側も「売れ筋商品」を買えば間違いがないと思い込まされる。

しかし当然少し経つと、どの店に行ってもその売れ筋商品ばかり目に付き、どこの家に行ってもそれが置いてあるあるという具合に、「飽和状態」となり、売れなくなる。企業は別のヒット商品が必要になりその開発に莫大な投資をする。だからデザイナーはいつでも「創造力」を求められ、ヒット商品となりそうなモノのデザイン開発に追いまくられている。

 ところがこうしたメジャーな商品の流れとは別に、「付加価値商品」と呼ばれるモノが現れる。それは本来の価値ではない「価値」が付加された商品である。資本主義社会では商品の「価値」とは売り手と買い手の間で合意が成立した価格のことを指すのであるが、実はこれは本来の価値ではなく見かけの「価値」なのである。本来の価値とは社会的に必要なモノをつくり出すために必要最小限どれほどの平均的労働時間を要するかで決まる。
ところがいわゆる「付加価値商品」とは、例えば本当はもっと多くつくり出せる商品を「限定商品」として少量しかつくらず、特別のブランドやカラリングで売り出し、それに対する購買欲を煽り立てることで実際の価値よりはるかに高い商品価格で売る商品のことである。少ない商品だから買い手が多数であればとんでもない価格となる。しかしこの価格は本当に社会的に必要なものでそれをつくるのに莫大な時間を要する場合とは根本的に異なる。
 また「スキマ商品」というのも現れる。メジャー商品や付加価値商品の市場のスキ間を縫って、マイナーではあるがそこそこ売れる商品を開発するのである。しばしば「生活者の視点に立ったアイデア」などというふれ込みで市場に出され、「便利」をうりものにすることが多い。しかしこれも「売るため」に開発される商品であることに違いはない。メジャーな商品と対抗するためにこういう「付加価値商品」や「スキマ商品」があちこちで出回る。これも過剰消費経済のひとつの典型的形態と見ることができるだろう。
 こうして次から次へと生みだされる「新商品」を買い手は巧みな宣伝や広告で次から次へと買わされることになる。生活者は「カッコイイ、あると便利、おもしろい」などという理由でそれらの商品への購買欲をかき立てられ、自分の生活はそういう商品を買うことで「自己表現」できると思い込まされている。そして買ったあとはすぐにほとぼりも冷め、それを廃棄して次の新製品を求める。実はここには何ら生活者の主体的自己表現など存在しないのだが。
 こうした売り手の思惑とそれに踊らされている買い手の行動と生活によって、生活からの廃棄物は増大し、それら莫大な「無駄」を生みだすための生産設備やエネルギーの消費は莫大なものとなり、自然環境はどんどん破壊され貴重な資源が脅かされていく。 しかしいまの資本主義経済はそのような莫大な無駄な消費を拡大していくことでしか延命できなくなっているのである。だから自然環境破壊やエネルギー問題はかけ声ばかりで一向に解決の方向に向かわない。資本主義社会ではもはや本来の意味での「経済」ではなくその正反対の「消尽」あるいは「自滅」の方向に向かっているからだ。
 この現代社会特有のモノづくりの在り方はいまやグローバル資本のもとで世界中に拡大し続けている。このまま行けば人類の未来はないとさえいえる。
 この社会ではヒトは人間としてではなく資本を生みだす手段としてしか見なされていない。しかし資本主義社会もヒト手(労働力)がなければ成り立たない。ヒトはだから資本増殖の手段でありながらその生活は資本の生み出した商品をそのために働いて支払われた賃金によって買い戻し、消費あるいは廃棄する「ゴミ捨て場」としての意義をもたされ、(買わされた)モノに溢れた生活が「豊かなで自由な生活」と思わせられることになっているのだ。
まずそのことに気づくことが重要である。

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2016年4月 3日 (日)

モノづくりの革命から始まる社会変革(1)

 海文堂から2014年末に発刊した「モノづくりの創造性--持続可能なコンパクト社会の実現に向けて」という本が、あまり売れていないので、ここで主著者である私からここに込められた思想についてコメントしようと思う。

 いま私たちが生きている21世紀前半の時代は、世界中が資本主義経済体制のもとに置かれ、あたかもそれが人類社会の至るべくして到達した姿として人々の目に映っているようだ。そこでは「自由な市民」が自分たちの選んだ政治家が行う政治によって統治される社会があり、自由意志によって起業した企業家が自らの所有する財産(資本)で買い入れた生産手段によってモノをつくり、それを商品として自由に売って、そこから得られる利潤で自分たちの事業を継続発展させていく。そこには自由な競争が前提されていて、それによって市場での「原理」(いわゆる需要供給のバランス)で商品の価格が適正に決まり、それを買う側の利も維持される。
 しかし、この図式の中でその企業家のもとで働き実際にモノをつくるために働く人々は主人公ではない。その働き手は資本主義社会の原型である産業革命当時の社会と比べればおどろくほど多様な分業に分割され、頭脳労働を主とする商品管理や人事管理のための事務労働および商品そのものの設計や生産工程管理などを行う技術者、それに従って身体的労働を行い直接モノをつくる工場労働者や建設現場労働者、生産された商品を市場に運ぶ運輸労働者などなどである。
 こうしたさまざまな分業形態の労働者は、決してモノづくりの主人公ではなく、むしろ彼らはこうして働く労働の「対価」(実は対価ではないのだが)としてもらう賃金によってそれらの商品を街の商店で求め、買うことによって生活する「消費者」としてしか位置づけられていない。これに対して生産の意図そのものを握っている「生産者」とは上述した生産手段を所有する企業家のことである。
 ここにおおきな錯誤が生じる。いまの社会でのモノづくりは、実際にモノをつくっている(つくらされている)人々が生産手段を持たず、他方、生産手段を所有するのは、それによってモノをつくるために必要な労働者を雇用することのできる企業家であり、直接にモノづくり労働を行っている人々はその企業家の生産手段により、企業家の意図のもとにおいてしかモノづくりができない。
 その企業家はモノを商品として市場で売り、そこから利潤を得ることを前提につくる。だからこそ自身が所有する資本を生産資本としてそこに投入するのだ。そしてその生産資本の中に生産手段ばかりでなく労働力も含まれる。だからその企業家に雇用されて働く労働者(たとえそれが設計技術者やデザイナーという形であろうとも)のモノづくりの意図はその企業家の意図の実現のための労働力としてしか意義を持たされていない。デザイナーは企業家の意志決定に必要な選択肢をあたえるために自分のアイデアを提供することしかできない。
 企業家は、「消費者が買ってくれるような商品を努力してつくっています」という。そしていかにも「消費者」が主人公であるかのように振る舞う。だが実際には「消費者」は企業家によって「売るためにつくられたモノ」を買うことによってしか自らの意図を実現させることはできない。すでに決定的にモノづくりの主体姓を奪われているのだが、それに気づかされていないのだ。だから「生産者」である企業家にさまざまな不満や要求をぶつけることしかできないのである。生活者は自由に自分たちに必要なモノを自分たちの手でつくれない。実際に企業に雇用されてモノをつくっているのは自分たちや同じ立場の労働者たちであるにもかかわらず。本来、それらのモノは、それがなぜ必要なのかを知っている人々によってつくられるべきではないのか?われわれが社会の中で生活するために必要なモノをわれわれ生活者自身の労働によって生みだし、それを使うということが基本なのであって、それが商品である必要など本来まったくないし、まして初めから売るためにつくられたモノへの宣伝広告によって購買欲をかきたてられ本来必要もないのに買わされたりする必要などまったくないはずだ。しかしいまの経済はこうしたいわば過剰な消費(本来なくてもいいものを「必要」と思わされて買うことで生じる消費)を拡大させることによってしか維持できなくなっているのである。
 いま世の中の経済はこうした企業家( 産業資本家)によるモノづくりを土台にしてそれをとりまくさまざまな業種によって成り立っているが、そのすべては、モノづくりから生まれる価値によって回っているのである。現実にはいまでは「モノづくり」に必要な労働がいかに安くて済むかによって、労働力を獲得する場所が国境を越えてグローバルになっている、したがってそこから得られる莫大な資本も国境を越えてグローバルな存在となっているため、一国のレベルでは資本主義経済の仕組みは成立し得なくなっている。
これについては別途説明が必要であるが、要するにモノづくりの資本主義的形態のもつ矛盾がさまざまな形でのこの仕組みに特有な業種や資本主義的経済のあらたな仕組みを生みだし、金融資本や商業資本などが複雑に絡み合った社会となっており、社会のために働く人々のほとんどはこうした資本主義社会特有の分業体制の中での労働によって得られる賃金によってその生活を支えている。
  こうした社会を「あるべき社会」として描くことがこの社会を支配している者たちのイデオロギーであり、これが労働者たちに「自由で平等な市民社会」という幻想を植え付けているのである。そしてそうしたイデオロギーと仕組み全体を支えるために「国家」があり、そこで政治的な統治が行われる。したがって、この支配的イデオロギーの虚偽性を知ることから、政治的な社会変革が始まらざるを得ないのだが、他方で同時に、それを基本的に支えるモノづくりの在り方における矛盾を変革していくことが必須の要件なのである。
 一口にいえば、モノづくりにおける変革なしに政治的変革はありえないのである。
(つぎに続く)

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