哲学・思想および経済・社会

2018年4月15日 (日)

これもまた「民主主義」? E. トッドの民主主義論で考えさせられること

 安倍「一強」政権は、森友、加計問題で、次々国会での発言とは食い違う証拠が出てきたにもかかわらず、以前として「強気」で「カエルの顔にションベン」といった有様である。しかもこんなひどい政権なのに相変わらず支持率が30%を下らない。なんということか!しかしこんな嘆きごとを発するのは「一部」の者に過ぎないのだろうか?

 おそらく安倍政権は景気が維持される間、支持率が下がらないことをよく知っている。だから「強気」で「カエルの顔にションベン」なのだ。
 ところで先日読んだ「世界の未来」(朝日新書)であのエマニュエル・トッド先生が面白いことを言っている。
  「民主主義」は親族のつながりからできた「核家族」という共同体の発生から登場した人類史の中でもっとも古い統治政治形態だというのだ。それは「他者」がいることで「自分たち」を定義できるというシステムで、そういうグループのデモクラシーなのだ。かつてはヨーロッパのいたるところで見られたが、それがこうしたシステムの発展とともに絶対主義的体制の登場などで斥ぞけられて行った。そしてイギリスの代議員制度はその生き残りなのだ。というのである。
  古い昔にあった民主主義は、小さなグループが自分たちの間で組織した形でありそれはある程度排外的だった。グループが形成されるのは他のグループに対抗するためでありそこにグループ内での民主主義があり、常にある程度排外的なのだ。今のアメリカやヨロッパで起きていることはこうした民主主義の原型の再登場なのだ。しかし、次の段階があり、自分たちのグループ内での平等になじんでくると、やがて近隣のグループ同士が自分たちは似ていると気づき始める。これが民主主義の普遍的段階への一歩なのだ。
 この観方に立つと、トランプ大統領もイギリスの「BREXIT」も民主的に投票された結果であり、投票したのは大衆層だ。それを普遍主義的で文明化された国の民主主義にとって後退だというのは間違っており、古い民主主義の再登場だと言える。
  そして民主主義にも、「リベラル型」「垂直型」「権威主義型」など様々なタイプがあるが、共通していることは、人々に選挙権があって、政府が人々の期待することを実行する体制であるということだ。そしてその結果が悪ければ投票した大衆自身が尻拭いをしなければならないということだ。
  戦後日本でも大衆の民主的代議員制投票によってずっと自民党が支持されてきた。日本ではアメリカのように政権が入れ替わるということを大衆が望まない(つまり「親方日の丸民主主義」と言うことだろう)。それに比べて今のEU体制は普遍的民主主義を自認するエリート政治体制であり、自信過剰なエリートたちが大衆の期待を必ずしも実現していない。
 これだけ見るとトッド氏はとんでもない保守主義だと思われそうだが、必ずしもそうでなく、次のように主張する。
  西欧的民主主義は絶対的で普遍的なものではなく、様々な地域での特有な歴史と形態を持っており、むしろその中にいる大衆自身がその欠陥に気づき、良い方向にそのシステムをk軌道修正すべきものであることを示唆している。
 この見方はなかなか面白いが、それによれば今の安倍政権も民主的政治の結果であり、大衆の投票結果なのであり、それをとやかく言う筋合いではないが、しかしその後の結果を見て、この先どうなるかを少しでも真剣に考えれば、遠からずわれわれ大衆はとんでもない「尻拭い」をしなくてはならなくなるということに気づくべきだろう。目先の「景気」が良いからと言ってこんなひどい政権を「親方日の丸」と呑気に考えているととんでもない事になる。
  そろそろ「政権交代を好まない」日本の民主主義もボトムアップの力を発揮する時がきたのでないだろうか?
 

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2018年4月 7日 (土)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(6)

 このシリーズで最後にもう一つ重要な問題を書いておこう。それは現代の過剰資本時代の「貨幣」の姿とその役割についてである。経済学の素人である私がこんな難しい問題に口出しすべきではないかもしれないが、「過剰資本の不生産的処理」を問題とする以上はこの「貨幣」問題は避けられないように思う。

 資本主義経済が基本的にG-W-P-W'-G'という資本の形態変化による循環(G:貨幣資本、W:商品資本、P:生産手段と労働力による生産資本)のもとで資本の増殖を目指すことが経済発展のモチベーションになっていることは周知の通りであり、ここでは貨幣資本は商品の流通を媒介する支払い手段としての役割を果たしながら、同時にあらゆる富に変えられうる究極の力を持つ対象として私的所有の欲望の対象になっている。
 しかし、商売の必要上、商品と商品の交換は直接貨幣を支払うことのできない場合に一時的に資金を貸し出したり、手形のような形の信用証券を用いて支払うこともできるようになって行った。それは同時に、貨幣を蓄積した資本家の一部が、資金繰りに困る資本家のためにその蓄積貨幣の一部を利子を付けて貸し出し、私的蓄積によってストックされている資本を流動化させ、社会全体の資本の流通過程をスムースにしていくという役割を果たしながら、その「手間賃」を「利子」という形で受け取るという形で直接貨幣が貨幣を生む(G-G')資本の増殖形態(利子生み資本)を生み出した。
  また貨幣も最初は金や銀といったそれ自体が価値を持つ貴金属が用いられていたが、やがて、それを直接持ち歩かないでも済む紙幣のような代替貨幣あるいは形式的貨幣が登場し、例えば銀行や国家などによる信用を背景に発行されるようになった。
  さらには資本家企業が起業や運営に必要な資本を集めるために、資本を募集する際に発行する株はそれが借金の利子のような形の配当を株主にもたらし、その企業の運営が好調で多くの利潤をもたらすことによる配当の増大が見込まれればそれが高く売れるということから、それを売買する市場が登場し、そのほかの証券を含めてそれ自体の売り買いが儲けの手段にもなっていった。
 つまりここではG-G'という過程が「投機」という形で売買のうまさ加減で単に株を売り買いすることだけで莫大な富を増やしていくことになる。
  こうして貨幣はそれ自体の価値を離れて間接化された存在となり、いわば流通手段の表象となり、実際の貨幣でなく銀行や証券会社による単なる数字のやり取りだけで莫大な貨幣の私的所有権が動かされるようになった。しかも従来は金との交換を前提とした紙幣であったものがいまではそれが不可能な状態となり基軸通貨を中心に行われる為替レートの変動にいよって調整される「約束事」としての通貨になってしまった。
 そのためこのG-G'という取引の形は、現在の様な過剰資本がグローバルに流動化している時代には、実際の商品としての生産手段や生活手段の売買の量をはるかに超えて行われる様になっていると考えられる。
  つまりG-W-P-W'-G'による資本の増殖を超えてG-G'が暴走している「根無し草マネー」による過剰資本の処理と言えるのではないだろうか?
 それは例えば莫大な借金により国家財政を成り立たせている資本家政府の状況を見ても分かる。これらの借金はバックに国家や中央銀行が「保証人」として控えているから信用が成り立つという勝手な論理の上で行われているが、「根無し草」であることには変わりない。だから、この「思惑」だけで激しく回転する過剰流動資本は、何かがきっかけでつまずくとたちまち世界的な大恐慌が訪れることになるに違いない。
 過剰となった資本の不生産的処理のための生活消費財の過剰な大量消費を前提とし、それを促進させる商品流通資本や宣伝広告資本が、生産資本を牽引し、それによる過剰なエネルギーや資源の消費を加速させ、そしてその上に乗っかって「思惑」だけで過剰な流動資本がネット上を激しく動き回るいまの資本主義社会では、この馬鹿げた資本の空回りのために一人一人の生命力の発露である人間労働がとことん使い回され酷使されているのである。
 さてこの辺でこのシリーズを終わりにしよう。間違いがあれば遠慮なく指摘して欲しい。
以上

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2018年3月31日 (土)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(5)

 なぜ私が過剰資本の不生産的処理の問題にこだわるのかについて若干記しておこうと思う。

 資本主義社会はその本質上、生産手段を所有する資本家が、労働力をその再生産に必要な生活資料の価値で買い取り、それに必要な価値生産時間を超えた時間労働させることによって不払い労働分としての剰余価値を取得しながら社会的に必要な生産物を商品資本として生産するという形ではあるが、歴史上一定の時期までは資本の利潤と蓄積を追求する競争の中で、急速に生産力を向上させてきた。

  しかしその蓄積される資本と高度化した生産力によって資本が過剰化し、それによって生じる矛盾が様々な形で現れる様になり、新たな資本の投入によっても予期された利潤を生まなくなった。しかし資本主義体制ではその過剰化した資本を本来あるべき形である社会共有財に転化することは原理的に不可能であり、生産的消費(生産手段の補填増強や労働力の増員などによる社会的富の増大のための消費)に追加資本を回すことでは過剰化した資本を処理できなくなったと考えられる。
  そのため、それをこうした生産的消費に直接結びつかない形で処理する様になっていったと考えられる。それが例えば軍需生産物の増産、無駄と言える様な過剰な消費材の際限ない増産、そして第三次産業的な部門への莫大な投資などによって資本を何とか過剰化させないで凌いでいるのが現在の資本主義体制であると思う。これはまさに爛熟期を過ぎ「腐朽化した資本主義社会」であると言えるだろう。
 そしてこの歴史的に特殊な「腐朽化した資本主義体制」に相応しい形態での社会的分業化が進行していると考えられる。
  いわゆる情報技術の進展によってすでに進んでいた頭脳労働と単純労働に大きく別れる分業化は頭脳労働のさらなる分化とヒエラルキー化が進み、資本家も「人格化した資本」としての機能がそれに相応しく分業化され、資本運用の意思決定権を持つCEOを中心にそれを補佐する経営陣という形に分業化し、時にはそれらが「分社化」して独立した資本家が担当している。そして今ではその上に全ての運営資金を支配する金融資本家が銀行や持株会社などを通じて君臨しており、事実上資本家の本質的役割であるマネーのやりくりによる資本の増殖に携わっている。
 資本家の仕事を含めてこれら全てが「社会に必要な労働」という形をとって忙しく動き回り、日々資本の蓄積・増殖に寄与している。この資本の蓄積と増殖がこの社会では「経済成長」と呼ばれ、これが「成長」すれば、労働者もその分前を少しばかり多めに頂けると考えられている(アベノミクスがその典型例)。こうして「コンピュータ社会」、「情報化社会」、「ユビキタス・ネットワーク社会」、そして「IoT」などなど次々と打ち出されるキャッチフレーズのもとで、新興資本家たちは旧資本家の硬直化した体制を更新すべく快活に明るく振る舞い、彼らによって推進される「イノベーション」によって不要化され、次々と「下流」に落ちて行く技術労働者たちは孤独で先のない状態に置かれることになる。
 いま蓄積する社会的富(いまは資本として)がわずかな人々(独占資本家)の手に握られ多くの人々(労働者)が貧困化して行くという現実を見て、ただ富の偏在や格差拡大を批判して格差縮小や富の再分配を主張するだけではダメで、こうした社会全体の分業形態、労働形態、そしてそれらによって回転する生産と消費のメカニズム全てを変革して行くことなしには本当の改革はありえないと思う。
  それは社会全体の在り方の変革であり、同時に人間(諸個人)の実存そのものの変革でなければならないと思うのだ。
 こうした次世代社会への長期的展望を見据えた現実批判の基礎に、本来生産的であるべき社会的富の蓄積が過剰資本として生産を圧迫しそれを不生産的方法で処理しなければならないという矛盾への認識が必要であると私は感じている。
 人は共同体社会における「(現在の)生きた労働」において、自分がどの様な存在であるのかを表現し、その労働の結果を「(過去の)死んだ労働」として対象化しつつ、その蓄積を「未来の社会」への寄与となしうる、そんな社会を私は望む。
 社会的総生産物の再生産という問題は、生産物に含まれる価値形態をcは対象化された労働の形態つまり過去の労働の成果であり、vは現在の生きた労働であり、mは未来のためのその蓄積であると考えれば、人は過去の労働の成果(生産手段)を用いながら現在の生きた労働を行うことで社会全体を維持させ、mとして蓄積されるその成果を以って社会を未来に向けて発展させて行く。そのために必要な社会的労働と生産手段の配分に必要な条件だといるのではないだろうか?
 

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2018年3月25日 (日)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(4)修正版

 前回に書いた様に、新たな資料を得て、これをもとに考察を重ねた結果、今のところ、次のような結論に達した。

 資本の蓄積が順調に行われるためには、社会的総生産物において、I(v+m)=IIcという単純再生産の条件(ここで Iは生産手段生産部門、IIは生活消費材生産部門、cは不変資本部分、vは可変資本部分、mは剰余価値部分を指す)を充たす価値関係がまず必要であり、その上でI(v+m)>IIcを行う必要があるが、その場合、資本家の収入部分である mの一部から、新たな追加資本が過程に投入されねばならないが、その追加される資本においても I(v'+m')=IIc'という均衡関係が維持されなければならない。(ここでc', v', m' は追加資本のc, v, m部分を指す)
 もしこの関係が維持されていれば蓄積は過剰資本を生ぜずに行われるが、この追加資本分の関係が I(v'+m')>IIc'となってしまう場合はそこに過剰な資本が生じることになり、 I(v'+m')<IIc'の場合は縮小再生産となってしまう。(アンダーラインは修正部分)
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(以下は全面書き直し部分)
 この過剰資本状態が生じるのは生活消費財生産部門で必要な生産手段の需要を超えて、生産手段が生み出される状態であり、逆に縮小再生産となるのは生活資料生産部門で必要な生産手段の生産がその需要を満たしえなくなった状態であると考えられる。
 縮小再生産状態は今の場合考察の対象外なのでここではのぞくことにする。
上記の様な過剰資本状態は、いずれ過剰資本を蓄積させ、これが拡大再生産を阻害して資本家にとっての収入部分を減らすことになる。
 そこで個々の資本家は様々な方法でその過剰資本を処理することによって、自分達の収入部分を減らさずに増加させようとするであろう。しかし、彼等の行為は常に「市場の法則」の中で行われねばならず、社会的総生産において上記の均衡が計画的に維持されて拡大再生産を行う事は出来ない。そこで「市場の法則」の中で、結果的に過剰資本の処理が可能となった方法を資本家階級全体が推し進めることになる。それを大きく二つのケースで考えれば、次の様な二つが考えられる。
(A)戦争で用いる武器や戦争関連製品の生産を増加させ、これによって生産手段生産部門での過剰資本を不生産的に処理する(武器は破壊のための道具であり再生産には決して結びつかない)。
(B)過剰に生活消費材の生産を促し、それによって生産手段生産部門での過剰資本を不生産的に処理する。
 差し当たりこの(B)のケースがここでの問題であるがその場合なぜこれが「不生産的処理」なのかである。
ここでは直接的には労働賃金の上昇が行われ、それによって労働者が生活消費材の購入に支払う貨幣を増やすが、それは一方で労働者の生活資料を増やし、「豊かな生活」を演出させるが、同時にそこに支払われた貨幣は再び資本家の手に戻り、次の投資に向けられる。
 労働者が生活のために何を必要とするかが、社会全体の需要を形成するはずであるが、それがむしろ資本拡大のための手段とされてしまい、如何に人々の「消費への過剰な欲求」を掻き立てるかが、資本家階級社会の目的になっている。
 だから社会的生産の主人公であるはずの労働者階級が「消費者」として位置付けられ、それを促すために自ら所有する生産手段を利用している資本家階級が「生産者」として位置付けられてしまう。
 生活消費材は労働者階級自身が要求する本来の需要としての質や量としてではなく、資本家が過剰消費を促しそれによって過剰資本を処理するための手段として、つまり本来の生産的消費としてではない形で供給されることによって需要を超えた過剰な消費を歯止めの効かない状況で生み出していると言える。そしてそれが資本家階級全体にとっては過剰資本の不生産的処理となっており、実質的には過剰な資本が存在するにも関わらずこれを彼等にとっての利潤をもたらす手段としている。
 以上の様に捉えた上で、Sさんからの指摘をとらえ直すと次のように言えるのではないかと思う。
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(以下は修正の必要がないと思われたのでそのまま残した部分)
 前回でとらえ直したY.Sさんの指摘の(1)についてはすでに一応回答し直しているが、
(2)の労働賃金の高低差は労働力の養成費や労働力市場で決まる労働力商品の価格(人手が足りなければ賃金は高騰し、余れば下落する)であって、そこにvm部分を入れることなどあり得ないのでは?という指摘に関しては、その通りだと思う。私が「資本家の取得するmの一部をvに忍び込ませる」と言ったのは、追加資本分として資本家が用意するm'部分をそのような言い方で示したということであって、ここに述べられているような追加資本の持つべき「法則」を深く認識していなかったためであることを認める。(3)については労働者へのサービス産業はある意味で消費生活の社会化ではないか?という指摘に関しては、サービス産業は確かにそういう性格を持っているが、しかし現状ではそれが資本にとって過剰資本拡大への回避手段になってしまっており、そこに、過剰な消費を促すという本来の目的ではない動機が全面化していると思われる。
(4)ファミレス、居酒屋などはそこに資本が参加するのは労働者の需要があるからだ、という指摘に関しては、今の労働者階級がなぜそのような需要を生じさせているのかを考えれば、家庭内で食事を楽しむ時間もなく家族形態そのものが崩壊状態にあるためとも言えるのであって、そこに資本がつけ込んで新たな「儲け先」を見つけているわけで、それは決して肯定できるものではないと思う。
 さしあたり、私は以上のように把握しているが、これにも誤解や無理解があるかもしれないので、読者からの批判を受けたいと思う。
 
*付記:以上が前半部分に大幅な修正を行った結果。これに伴って「過剰資本の不生産的処理についての考察(1〜4)」も一部修正してあります。2018.03.29

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2018年3月22日 (木)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(3)修正版

 前回のY.Sさんからの指摘を読み直してみて、それに対する私の回答は必ずしもY.Sさんが指摘された問題への適切な対応ではなかったと反省している。Y.Sさんの指摘で重要と思われる要点を改めて列挙すれば以下の点ではないかと思われる。

(1)私が提起した「過剰資本の不生産的処理」の方法としての労働賃金への資本家の剰余価値の一部の追加(私はこれをvmとした)があるとすれば、資本家はそれに投資する際に利潤率が下がるにも拘わらずそのようなことをするのか?
(2)労働賃金の高低の差は、その労働力の養成費と労働力商品の市場価格として高低差(人手不足なら賃金が上がる)なのであって、それ以外の何物でもないのではないか?
(3)労働者へのサービス産業はある意味で消費生活の社会化なのではないか?
(4)ファミレス、居酒屋などに関してそこに資本が参入するのは労働者の需要がある以上否定できないのではないか?
 そしてY.Sさんの指摘には直接はなかったが、その指摘の背景にある疑問、つまり実際に資本家に利潤を生み出している以上、それを「不生産的処理」と言えるのか?という疑問があるように思われる。
 これらについてもう一度キチンとした答えが必要であると考えるが、いずれもかなり高度な問題であって、私の提起が基本的に誤りであるかどうかを含めてもう少し検討したいと思う。
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 そこでその前にまず、先日「資本論を読む会」でM.Mさんからもらった資料(越村信三郎著「図解資本論」の一部と大谷禎之介著「図解社会経済学」の一部 )を読み、そこに書かれてあるマルクスの拡大再生産論に関する指摘などを改めて読み直してみた。
 マルクスが資本の蓄積が始まり社会的総資本の拡大再生産が進むための必要条件について述べられており、それは生産力が高まり、資本構成(c/v)が高度化しても過剰資本を生み出さずに社会的に拡大再生産を進めるためには、I(v+v'+m')=II(c+c')という均衡が保たれなければならないということが指摘されている(ここでv'は蓄積された資本のうちからv部分に追加された部分でありm'は資本家の利潤に追加された部分、c'は生産手段に追加された部分である。)。つまり I(v+m)>IIcという拡大再生産の表式は I(v+v'+m')=II(c+c')が成り立たないと破綻なく進まないということであり、蓄積された資本のうち再生産に投じられる追加部分の各部門への価値構成は、単純再生産の条件である I(v'+m')=IIc'を充たさなければならないということであると私は理解した。
 もしこの均衡が崩れればそこには資本の過剰が生じ、恐慌というリスクが待ち構えていると考えて良いだろう。もちろん恐慌が何故起きるのか、に関しては単に過剰な生産物だけが原因ではなくもっと様々な要素が考えられなければならないのであるが、それについてはここでは触れないことにする。
 とりあえず、このようなマルクスの指摘については私の指摘の中では触れてこなかったし、それへの曖昧で即時的な認識が「vmのvへの追加」という言い方になっていたように思う。Y.S さんの指摘の(1)に関しては、この辺の私の認識の浅ささがあったように思う。
 要はこれが直ちに「過剰資本の不生産的処理」とは言えないということであって、
この追加資本がI(v'+m')=IIc'という関係を保ちながら社会的総資本がI(v+m)>IIcを実現しえなくなった時に過剰資本が生じ、それが資本主義体制全体を圧迫しその拡大を妨げるようになったときに、初めてこれを「不生産的に処理」する必要が出てきたということである。
 この辺は今少し深く考えてみないといけない問題なので、少し時間を頂きたいと思う。しかし
これに対する異論や反論がその前にあれば、 もちろん ウエルカムである。
(アンダーライン部分を修正)

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2018年3月19日 (月)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(2)

このY.Sさんからのメールへの野口からの返信です。

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Y.S さん
 ご指摘に対する私からの回答を以下の添付書類で送りました。
よろしくお願いします。
野口尚孝
(以下添付書類)
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Y.S 様
 私の「過剰資本の不生産的処理についての考察」へのコメントありがとうございました。
ご指摘の件ですが、まず問題になるのは「過剰資本」とは何か、ということですが、これを私は、資本家にとって追加資本を投資してもそれに見合う利潤が得られなくなった状態の資本を指すと考えています。蓄積される資本が利潤を生み出せなくなっていくことは、資本の回転がうまく行っていないということでもあるので、資本家は何とか回転を速めて利潤を取り戻そうとすると思います。放っておけば過剰資本は蓄積を無意味な存在と化し、やがて回転を止め「恐慌状態」となるからです。
 しかし現代の資本主義体制があの1930年代の大恐慌時代を経て、その後その生産力が高度化していくにも拘わらず、外見上この過剰状態を示さず、資本家に利潤を与え続けているのは何故か?という疑問が次の問題です。
 大内は「国家独占資本主義」の中でその疑問に対し、それが大量消費という状況を生み出し、そこで過剰資本を不生産的に消費させるシステムができあがってからだと言っているのですが、国家が中央銀行を媒介とした金融政策で貨幣を増刷し、流通貨幣量を増やすことで資本の回転を上げ、これを推進していることを指摘していますが、それ以上のことは言っていません。
 私はこの大内の把握は基本的には正しいと思っています。しかし、これをもう少し理論的に整理できないか考えていました。そこでとりあえず、マルクスの社会的総資本の再生産表式によって説明できるのではないかと考えたのが、前述のブログです。I(v+m)>IIc という拡大再生産表式が保たれなければ資本の蓄積は生産的に増加しないので(恐慌の場合はこれが保たれなくなる)、過剰生産状態であってもこの表式が成り立つ様な状態を維持しているのだと考えました。つまり過剰生産を過剰でなくするためにそれを不生産的に使わなければならない状態に陥っていると解釈しました。そうなるとI(v+m)>IIcにおいて生産的資本として用いられるcやv部分ではなくm 部分が増加するしかないと考えたのです。つまり資本家の利潤の一部として自分のために消費する部分を生産的資本として追加するためにはそれを不生産的に消費する分野に投じるしかないと考えました。
それがmの一部をvに忍び込ませて労働者階級の消費欲を掻き立ててII 部門の資本家による生活消費財商品の回転を速めることでそこに利潤を生み出し、それを生産手段部門の資本家にも分配することで全体としてI(v+m)>IIcを保たせる、のだろうと考えました。
 Y.S さんのご指摘のように、実際の労働賃金の高低の差は労働力の養成費の違いであるとともに、労働力市場での労働力の「価格」の違いでもあるのですが、いわゆる「最低賃金」という概念からすると労働者が生活を維持しながら資本家の求める労働力の再生産ができるための最低の水準がvに当たるのではないかと思います。それ以上の部分はむしろ本来資本家にとっては本来は無駄な出費であり、「不生産的要素」であると考えるでしょう。
 しかしそれが資本家にとって「無駄な出費」ではなく、間接的に利益をもたらすためには本来のm部分の一部をvに追加するという方法を考えたのだと思います。従ってまずこのとらえ方が基本的に間違っているかどうかが問題ですね。
 次に、ご指摘の「過剰生産が現代資本主義に恒常的に存在するものではないのでは?」という問題ですが、確かに投資すべき資本は中央銀行のオーバーローンで拡大し、資本家達はそれによって莫大な利益を獲得しているのですが、それが何に投資されているかが問題です。クルマや高額家電製品の生産に投資されてきた資本は確かに労働者階級の生活を一見豊にしてしてきたように見えますが、それは同時にそれらが生み出す廃棄物による環境汚染やエネルギー消費の爆発的増加による資源枯渇問題などを必然的に起こしてきました。これはいわばアンコントローラブルな社会的消費(私はこれを過剰な消費と呼んでいます)の拡大がもたらす必然的結果です。
「IT革命」にしてもこれがもたらすさまざまな社会的弊害の面をも見なければならないと思います。
 いまやそうしたアンコントローラブルな過剰消費が「先進資本主義国」では飽和状態になり、同時に地球的規模での環境問題・資源問題などが大きく立ちふさがってきたために資本は過剰資本を再び処理しきれなくなってきているのではないでしょうか?
 最後にサービス産業の拡大についてですが、企業のいわゆる「アウトソーシング」は私はサービス産業の拡大ではないと思います。それは現代資本主義に特有の分業形態の進展だと思いますし、それはもともと資本の生産性を高める目的で行われるものです。また医療、教育。保育、介護などはむしろ本来社会的に必須な労働分野であってそこには労働者自身が生み出した剰余価値部分が彼らのために当てられなければならないのだと思いますが、それを資本家階級が私的財産と化しているので、労働者が賃金の一部を税金として支払い、そこから政府がこうした事業に支出し、新たな資本家企業として成り立つ様支援しているのだと思います。結局この分野もあらたな労働の搾取を生み出しているのです。これは直接には生産的分野ではないにしても間接的には生産的労働を補助する部分といえるのではないでしょうか?
 ファミレス、や居酒屋などは、労働力のリフレッシュに必要な部門といえるでしょうが、これはあきらかに不生産的消費部門だと思います。たしかにこれらは一旦投資された後はサービス労働を搾取しながら利潤を確保しているわけですが、その投資は生産的資本に転化されるものではなく、いわば不生産的に消費されることによって生み出される利潤なのだと思います。
結局こうした形での過剰な資本の不生産的処理がなければ生産的資本そのものが成り立たなくなっているのが現代資本主義の特徴ではないでしょうか?
 以上、ご指摘の問題に対して私が考えていたことを繰り返すような形になってしまいましたが、その辺をどうお考えなのかについてまたさらに本質に突っ込んだご指摘を頂ければ幸いです。
 2018.03.19  野口尚孝
 

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「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(1)

 先日「過剰資本の不生産的処理についての考察」というブログを4回に渡って連載しましたが、これについてY.Sさんからコメントを頂きました。メールでの個人的やりとりだったので、より広く多くの人にこの問題をディスカッションしてい頂く機会とするため、Y.Sさんの了承を得て、それをこのブログに載せることにしました 以下、少し長くなりますがメールでのやりとりの再現です。

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野口さん
長野のY.Sです。
野口さんのブログについては少し前に(野口さんのMLへの投稿を見て)読んだの
ですが感想をまとめるのが遅くなってしまいようやく少しまとめてみました。
あくまで感想ですので誤解もあるかもしれませんし体系だったものではありませんが
何かの参考にしていただければと思いお送りします(添付しました)。
もし誤解や失礼がありましたらご指摘・ご容赦下さい。
(以下添付書類)
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野口尚孝さんのブログ<過剰資本の「不生産的処理」についての考察>について
                             2018.3.18 Y.S
 一言で言って過剰資本のはけ口を労働者の賃金にm部分を含ませて循環させそのことによって拡大再生産も可能にさせるというのはちょっと無理な発想ではないかと感じます。大内力の本も読んでいないので大内がどのような趣旨で言っていたのかも分からないのですが。。。
 ほとんど資本家層に近い超高給労働者については多少そのようなこと(奢侈品消費による不生産的消費、等)も言えるかもしれませんし、過剰生産の圧力を減らすというよりはむしろ文字通り「資本の手代」として飼い馴らすために餌を投げ与えるという意味ではそういうこともあると思いますが(連合系等の労組役員等の「労働貴族」)。。。
 それに、例え、「労働者の賃金にm部分を含ませる」ことにより残りのm部分の投資効率が上がるとしても、それ以前に投資できるm部分が減っているわけですから今期の利潤率は下がることになるわけです。将来の利潤率を上げるために現在の利潤率を下げるなどということを資本はわざわざするでしょうか?
 一般的には労賃はやはり生活資料の価値によって決まるだろうし、それに高い・低いがあるのは基本的には教育費(労働力の養成費)の違いからきていると思います。現代資本主義は超巨大企業を出現させ、また技術も非常に高度化しています。そうしたことを反映してそれなりに高度の教育を受けた(直接の教育だけではなくある程度生活環境全般等も含まれてくると思いますが)管理的・技術的人材も多数必要としていると思います。だから彼らの”奢侈品”消費は一見してmの一部分の不生産的消費のように見えるかもしれませんが、彼らが労働者の一部である限りにおいては基本的には労賃=労働力の価値=生活資料の価値なのではないかと思います。
 また、「過剰生産」というのは現代資本主義では恒常的に存在するというものでもないと思います。現に戦後の(世界的な)高度成長の時代には自動車や電機、石油化学等々の新しい技術革新とその普及と結びついて投資すべき資本はむしろ不足し中央銀行等の”オーバーローン”によって拡大してきたのではないかと思います。70、80年代以降でもIT革命による新分野の開拓やMA化等はある面では似たような側面もあると思います。もちろん、金・ドル交換停止以後世界中にドルが氾濫し、また戦後循環が一応成熟して以降は各国とも金融緩和・財政出動等が恒常化してきてお金は有り余っているが投資先がないといった状況が強まってきていることは事実ですが。
 サービス産業の拡大は産業向けのサービスと消費者(労働者)向けのサービスとありますが、前者は今まで企業内で行われていた機能のアウトソーシング(それによる効率化)によるものだし、後者については私は「消費生活の社会化」(一面では、消費生活の内部にまで資本が入り込んできたということでもありますが)の進展(医療・教育・保育・介護等はもちろんですが、ファミレス、居酒屋等々も)と関連があると考えています。前者の場合には、むしろそれによって資本全体としての効率は上がり剰余価値も増えるであろうし、後者の場合には、ある意味では不生産的ですが、消費者がそれを求めている(必要としている)以上は(「生のモノ」を提供しても売れないのですし)無下に否定することはできないと思います。後者の場合においても、最初の物的投資そのものは生産的資本の剰余価値からの控除かもしれませんが一旦投資された後はそれ自身を維持するだけではなくサービス労働を搾取しつつ利潤も確保できると言ってもいいのではないでしょうか。
(続く)

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2018年3月 2日 (金)

過剰資本の「不生産的処理」についての考察(4)

 こうして本来資本家にとって不生産的な消費が資本家に莫大な利潤を獲得させているのであり、それは際限のない「無駄な消費」の拡大とそれによる自然環境の破壊と資源の枯渇などの破滅的結果をもたらしているのである。

 これまでの分析で、20世紀後半から変貌した資本主義経済体制がそれまで恒常化して生産的資本を圧迫してきた過剰資本を、資本家の利潤としてのm部分の一部を労働賃金にvmとして上乗せする形で労働者に前貸しし、その貨幣が労働者の生活資料と交換されその消費を拡大させることで「不生産的消費」を拡大させ過剰資本をそのような形で(回転を速めながら)処理させることで生活資料商品を生産する資本家の手に増大した利潤として取り戻されることで、結局資本家階級全体がそれを分配して潤うという構造であることが分かった。この循環過程で不生産的消費が「不生産的」であるにも拘わらず資本家の蓄積(m部分)をスムースに増やせるように国家が中央銀行を通じて貨幣発行量や貸し出し金利のコントロールを行ない貨幣流通の速度を速めることによって資本家階級の利潤増大を支援しているのである。だから事実上生活資料商品の物価が上昇し、労働者にとっては実質賃金が減少するにも拘わらず「インフレ政策」が必要なのだ。明らかに矛盾である。

 こうした歴史的背景のもとで登場したのがvmによって潤う労働者、いわゆる「中間層」つまり富裕化した労働者階級である。かつてマルクスの時代には労働者階級窮乏化説が主流であったが、現代の資本主義では労働者階級は窮乏化せず、富裕化することで生活資料を次々と買い換えながら消費していく「豊かな生活」を営んでいるように見える。だから「自由で豊かな生活ができるのなら資本主義社会でいいではないか、誰でも努力次第で起業して新興の資本家にもなれるし、いまさらあのかつての独裁的で自由のない息苦しい「社会主義」などに変えなければならない理由などどこにもない。」と考える人たちが多い。

 しかしこれまで述べたことによって実はそうでないことが分かる。労働者は生活資料を大量に消費させられ、労働者の「増えた所得」と見える部分は結局資本家の手に回収され資本家を肥えさせる手段なのである。だから労働者階級は実際には生産的労働を行っているにもかかわらず「消費者」とよばれており、その労働の目的や形態を彼の目的実現のために決定する資本家が「生産者」と呼ばれるのである。

 また富裕化した労働者階級の一員が起業し、既成の資本家達が営む企業が巨大化して経営体制がさび付き「小回り」が効かなくなっている状況を縫って「自由競争市場」の原則の中で新規事業(例えば最新のAi技術を用いた新製品の開発など)に参入し、莫大な利益を上げながら「成長」する(Microsoft, Apple, Google, Amazonなどのような)新興資本家達はそのような形で資本主義体制自身を「更新(Version up)」し世代交代を促しながら「活性化」させているのであるが、これもそうした起業家への既成資本家からの巨額の投資によって支えられている。つまり既成資本家の蓄積したm部分からこうしたリスク含み(新興資本家同士の競争によってこれらの多くは消滅して行く)の投資に余剰となった貨幣が回されるのである。

 いずれにしても巨大化した資本の「おこぼれ」によってそれらの新興資本家達は起業し、資本主義体制自体を更新するのであるが、中間層化した労働者階級の支出する過剰消費に回すために前貸しされたvm部分が資本家の手に戻るときにさらに増えているという過剰資本の「不生産的拡大」のサイクルが基本的にそれをサポートしているのである。こうして「自由で豊かな消費社会」によって加速度的に過剰消費を増大させ、それによって地球規模での環境の破壊や資源の無駄遣いを速めている。

 さらには、こうしたグローバル資本がつぎつぎに労働力の安い国の労働者への搾取を拡大させることで、いわゆる「開発途上国」では農業が破壊され、大量の農業人口の工業労働者への移動が加速している。世界中で一方では人口がどんどん増加しながら他方では耕作地は荒廃し食料の供給が減少していっている。もちろん一方では巨大資本による農業の大規模経営化と工場化が進み、農民は農業労働者としても資本に吸収され、それによって大資本が集中的に農作物を工場から大量出荷することになるかもしれないが、いずれにしてもこうした低賃金労働によってもたらされた価格の安い生活資料が「先進諸国」に輸入され、「価格破壊」を起こすことで、その国の労働者の最低賃金(va)水準を引き下げることとなり、それがvaとvmの差を増大させ「格差拡大」の基礎を与えることになる。

(部分的な修正があります)

 しかもその農業資本家が経営破綻に陥ったときには一気に食料供給が滞ることにもなる。この事実はやがてこの地球上に大規模な危機と混乱をもたらすことが目に見えている。しかしこれまで述べてきたようにいまの資本主義体制のシステムはその本質上これを防ぐことができないのである。

 そしてもう一つ、最後に、一方で資本家の「おこぼれ」をちょうだいすることで富裕化する労働者(彼らの多くは資本家に多くの利潤をもたらす労働部門での高度な頭脳労働力を提供する知識労働者(高プロ)である)がおり、他方でその「おこぼれ」に与れなかった労働者(彼らの多くは高度な頭脳労働力を養成するための教育を受ける余裕がなかった人たちである)の貧困化が急速に進んでいる。いわゆる「格差」拡大である。

  たとえば高度消費社会化した資本主義国では労働賃金のVa部分自体が増加している(生活必需品全体の価値が増加している)ので、いわゆる「開発途上国」の労働者が必要とする生活資料の価値部分よりそれがはるかに大きくなっている。したがって同じ労働をこなすことができる労働者であればこうした低賃金ですむ労働者の住む国での労働力を購入する方がはるかに有利となるので、「高度消費社会化」した国の労働者は雇用主である資本家たちから冷遇されvmとしての「おこぼれ」を頂戴できないばかりか、va部分すらもらえない状態となり、やがては失業することにもなるのである。

  いま「高度消費社会化」したいわゆる「先進諸国」において、資本のグローバル化に比例して国内にこうした貧困化した労働者がどんどん増えつつある。当然彼らはもっと安い賃金で働く移民労働者の入国を阻止しようとする。こうして同じ被搾取階級としての労働者でありながら、互いに国境を挟んで対立するという悲劇的な形をとってマルクスの労働者階級窮乏化説はいまも依然として生きているのだ。

 しかしこれを「格差」是正の問題として把握し、富の再配分を考えねばいけないという主張(例えばピケティーなど)は問題を単純化しすぎている。なぜなら、さまざまな形の労働で社会全体を支えている労働者階級の労働の目的やあり方を、生産手段を私有する資本家階級が支配し、労働者の労働の結果が生み出した富を、資本家階級の所有物とする社会システムが続く限り、つねに「社会的富」は資本家階級のために存在し、労働者階級はその労働力の再生産に必要な価値とそれにせいぜい付け加えられる「おこぼれ」にあずかることでしか生き延びることができない。そればかりかパリ協定は無視され、世界中の資本家が互いに利益獲得競争に勝つために蓄積された資本の大半を「無駄な消費の拡大」に投入することで生き残りを掛けており、そのシステムがやがてもたらすであろう致命的矛盾の爆発と破壊を誰も回避することができないのだから。

(おわり)

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過剰資本の「不生産的処理」についての考察(3)修正版

 この追加資本が過剰となるのは、I(v'+m')>IIc'となる場合であって、生産手段部門の「生きた労働」への追加資本の投入が、生活手段部門で必要とされる生産手段の需要を超えている場合であると言えるだろう。

 その場合、常に必要最小限の労働力再生産費として支払われていた労働賃金(v)がそれによって限定されていた生活消費材の消費量がネックとなり、生活消費材の生産は頭打ちとなる。そこでこのv部分へ追加資本m'の一部を追加して労働者の生活消費材への購買力を付けさせることによって生産手段部門から新たに追加される生活手段武門向け生産手段への需要を増やすことで、この過剰を切り抜けようとするだろう。言い換えれば、拡大再生産I(v+m)>IIcを実現させるために必要な追加資本がI(v'+m')=IIc'という均衡を保つためには、生産手段部門での「生きた労働」への追加と同時に生活手段部門での「死んだ労働」へも追加が行われなければならないが、それはまた間接的には労働者階級全体に生活手段の消費を拡大させねばならないことになる。これは結局労働賃金の上昇がなければならず、言うなれば資本家も収入の一部を労働者に賃金の追加分として提供しなければならないことになる。しかしもちろんこれは労働者階級へのサービスなどではなく、結局その追加文が再び自分の手に戻るからであり、しかもそれが増加して戻ることになるからである。

 それは労働賃金である v部分に密かに m部分の一部を忍び込ませているとも言えるだろう。vは資本家にとっては本来あくまで労働力の再生産に必要な「最小限度」の価値であるが、それに資本家達が利潤として自己の所得とすべき m部分の一部を忍び込ませ、この部分を労働者階級の消費拡大のために回すことにより、労働者階級も高額な生活資料商品の購入にそれを使うことができる様になり、生活消費材商品の一部となった追加資本の回転の結果これを忍び込ませた時より大きくして資本家の手に再び取り戻すのである。

 マルクスは II部類の生産物を IIa IIbに分け、生活資料である IIaに対して本来の奢侈品である IIbはすべて資本家の所得である mによって消費される対象であると指摘している(従ってつねにm>IIbとなる)。いまの資本主義経済体制はこの IIb部類(マルクスは亜部類と呼んでいる)を vに含まれる IIa部類の中に忍び込ませ、m部分をそのような形で回転させることで過剰となった資本を蓄積に振り向けさせているのだとも考えられる。

 この v部分に忍び込ませた m部分は労働賃金として支払われるが、それは最初から生活に必要な最小限の価値部分に上積みされた形の資本家の所得の一部を労働賃金に忍び込ませて前貸しする「偽りの所得増大」の姿であるといえるだろう。だから「成長」による賃金上昇や高賃金の内訳には本来の vに対するこうした資本家的 m部分の姿を変えた部分の比率が年々増えているのである。そしてその「恩恵」に与れない人々は本来の最低限どの vで甘んじなければならず、その最低賃金は一向に上昇しないのである。

 さらにいえば、労働者の「奢侈品化した生活資料」は本来の資本家的奢侈品と決して同じ位置づけではなく、クルマやパソコン・スマホ、ハイテク家電製品など「高額生活資料」という形をとっている。しかし労働者の中でも比較的リッチな部分は本来の奢侈品も購入することができるし、実際に外見的にどこまでが「生活必需品」でありどこからが奢侈品であるのかを見極めることは困難である。こうした前提的事実を踏まえて、過剰資本の処理形態としての不生産的消費についてさらに考えてみよう。

 先に述べた資本家の可変資本部分 vは労働力商品の購入費として資本家から貨幣の形で支払われ、労働者側は自らの労働力をそれと交換に資本家に売り渡す。この時点で vは「可変資本」ではなく労働者への生活資料の前貸し貨幣形態となる。そして資本家はその労働力を可変資本の機能としてつまり労働により自ら価値とそれを超えた価値を生み出す商品として、彼の所有物である生産手段とともにその利潤獲得のための手段として用い、不払い労働分としての剰余価値部分を得る。いかに資本家達が「社会に貢献するため」と主張しようとも、この資本の論理を実現する人格化した資本であるという事実は変わらない。

 だから資本家は労働者の労働内容や形式など一切について支配権を持つ。労働者はたとえ彼が生活手段の生産に携わっていてもそれを資本家の利潤獲得の手段として行わねばならない。労働者が自らの手で生み出した生活資料は最初から資本家の所有物なのであるから。したがって彼は自らの労働力を再び資本家に売ることができるためにその再生産に必要な生活資料を生活手段商品の「生産者」である資本家から労働賃金と引き換えに買い戻さねばならない。この労働者による生活資料の購入とその消費はしたがって労働者にとっては彼自身の労働力再生産のための生産的消費であるが、資本家の目的にとっては生産的消費とはいえず、本来この部分は少ない方が資本家にとってはベターであるという意味でむしろ不生産的消費であるといえる。

 資本家が労働者に貨幣として支払らう v部分の価値は、労働者自らが労働の中で生み出した労働力の再生産に最小限度必要な生活資料の価値部分(これをVaとする)であるが、現在の資本主義体制ではこのVaを超えて資本家が獲得した不払い労働部分による価値部分mの一部から付け加えられた部分(これをvmとする)がV=va+vmとして資本家によって忍び込まされている。

 一方で賃金は現実には労働力商品市場において、労働者間の競争や労働力の需要と供給の関係で決まる労働力の「価格」として貨幣で支払われる。その際、資本家と労働者の間で交わされる契約により賃金額や労働条件などが決まるが、そこではvavmの区別はつかない。しかしこの時点でも資本家側の「質の高い労働力への出費」など、思惑で賃金額が決まるのでほとんどの場合密かにvm部分が入っている。例えばこれから「成長」が見込まれるAI産業などに必要な「人材」と見れば、vaに対して多額のvm部分を加えることでその頭脳労働者を獲得しようとするだろう。資本家がその労働力購買に投資する額と彼がそれによって得るであろう利潤量とのバランスで決めるのである。 

 しかし、いくら社会に必要な労働であってもそれが単純労働であったり、例えば海外から流入する低賃金労働者を使っても可能な場合には支払われる労働賃金は限りなくvaそのものに近づき、ある場合にはvaにすら達しないことがある。周知の通り「最低賃金制}などあってなきがごとき現在である。

 このva部分とvm部分の区別がはっきり目に見える形として現れるのが、すでに雇用された労働者達と雇用主である資本家との間で行われる「労使交渉」の場である。ここでは「ベースアップ金額」や「ボーナス金額」として現在の賃金に上積みされる部分が明記される。これがvm部分である。この上積みされた部分つまりvmは労働者の「可処分所得」という言葉で表現されている。

 さて、こうして高給取りの労働者は最初からvm部分を含む賃金を得、さらにそれに上積みみが加わることになるが、それは生活必需品価値の最低限度を超えた買い物を可能にする。いわゆる「高額生活資料商品」はこうした市場を得て労働者の購買欲をそそる広告や宣伝産業にも莫大な利潤を与えながら拡大する。前述のようにその「高額生活資料商品」はどこまでが必要な生活資料なのか、どこからが奢侈品商品なのかの区別はなかなかつかない。逆に言えば、その商品が本当に彼の労働力の再生産に必須のものであるか否かによって決まるといってもよいだろう。しかし資本家にとっては生活資料と奢侈品は両方とも彼が労働者の不払い労働から獲得したm部分から支払うので本質的区別はない。

 実際には流通販売部門の資本家が市場では生産資本家への支配権を握っているが、これは生産資本家の資本回転における流通過程を分担する資本家であり、本質的には生産資本に従属している。結局ここで得られたm部分はm/c+vという形で平均利潤として生産手段部門の資本家達にも分配され、資本家階級全体を潤すことになる。ここで資本家の手に蓄積される m部分は回収されたvm部分よって過剰資本化せずに資本家の収入とされるが、これを資本家により再生産過程で本来の生産的消費として生産手段の拡張に用いられる部分と不生産的消費に回される部分に分かれる。そして生産的消費に用いられる部分は、つねに不生産的に処理される部分の量によって規制される。なぜなら、前者が後者を超えた時点でそれは本来の過剰資本となるからだ。

 言い方を変えれば、つねに不生産的部門が増大しなければ生産的に用いられる資本部分も増加しない。だから産業構造としては不生産的部門の比率が必然的に高くなり、mvmによって消費される IIb部類の奢侈品産業やレジャー、観光、ギャンブル産業などが「成長」する。IIbに牽引されて拡大する生活資料生産部門(II)で用いられる生産手段 cを生み出す生産手段部門(I)でもそこで働く労働者の生きた労働が生み出す価値部分 (v+m)はより大きくなっていき、社会的総資本の再生産はI(v+m)>IIcを実現することになる。

(アンダーラインは修正部分)

(続く)

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過剰資本の「不生産的処理」についての考察(2)修正版

 ここでまずマルクスの社会的総資本の再生産に必要な条件として有名な再生産表式を確認しておこう。単純再生産は、I(v+m)=IIc という関係が成り立たないと成立しないし、拡大再生産には、I(v+m)>IIc という関係が成り立たねばならないという考え方である。

 一定期間(ここでは年間)に社会的に生み出される総生産物は大きく分けて生産手段(I部類)と生活手段(II部類)に分かれるが、社会全体としてみればその成員の生活維持に必要な生活手段(日々の生活に必要な食料、衣料、家財などなど)を生産することが目的であり、そのために必要な生産手段をも作り出さねばならない。ここで I はある年度に社会的に生産される生産物(資本家的には商品)全体のうち、生産手段部類の生産物を、II は生活資料部類の生産物を表し、これらはすべて資本家的には年間価値生産物として現れ、そこには不変資本部分(c)と可変資本部分(v)、そして剰余価値部分(m)という価値部分が含まれる。これを次の様に表せる。 I(c+v+m)+II(c+v+m)

 ここでcは生産物を生み出すのに必要な生産手段の生産に費やされた労働の内、それを用いて生み出す生産物の内の移転する価値部分である。vとmcを用いて新たな生産物を生み出すために支出された労働による価値部分であるが、このうちvは労働者が自ら生活のために消費するに必要な価値として生み出した部分であり、mはそれを超えて一日の労働時間中に生み出され生産物に対象化された価値部分である。

 ここで重要なことは生産物を生み出すための労働過程において、労働対象(これから特定の使用価値を持つ生産物としてつくられるべき対象、具体的には原料、素材など)とそれに働きかける労働者の労働それ自体、そして労働者と労働対象を生産物に加工するために必要な労働手段という要素が必要である(労働対象と労働手段は生産手段というカテゴリーに入れられる)。この三つの要素が労働過程において「生きた労働の火に舐められる」ことによってその労働の成果として生産物が生み出される、ということである。これはあらゆる社会に共通する普遍的カテゴリーとその動的関係の把握である。

 ここで「価値」という概念を考えねばならないが、労働過程で生み出される直接的目的の実現としては使用価値である。ある具体的必要に応じて生み出される生産物なのであるから。しかし、これは生み出されたと同時に「過去の労働の対象化された結果」として「価値」という規定を与えられ、それはそこに消費された労働の量を表す労働時間によって測られる。これを社会全体として見れば、それは社会的分業を構成する各個別の分担労働の成果を社会的に分配し、それに要する生産手段と労働力の社会的配置(人員配置)を行うために必要な指標とその根拠として「抽象的人間労働の結果あるいは労働量」としての価値という規定を受ける。資本主義社会ではこれを商品の流通という形で行う。

 このように捉えれば、生産物に含まれる価値構成(c+v+m)はcとしての過去の労働の成果の必要部分(生産手段)を用いて生きた労働によってv+mという新たな価値部分を付け加えられた結果であるといえる。だからこうした生産物が毎年繰り返し同じように社会全体で再生産されるためには、単純再生産表式で表せるように、生産手段生産物と生活手段生産物の間に I(v+m)=II(c)という関係が成り立たねばならないといえる。つまり生活手段を生産するにはそれに必要な生産手段を生み出した過去の労働の成果の一部が(c)として前提されなければならないし、逆に生産手段部類の生産物を生み出す生きた労働I(v+m)は自らの過去の労働から生み出された生産手段を用いて生み出された生活手段部類の生産物IIcを消費しなければならない、ということである。そして残りのI(c)は生産手段部類の生産物を生み出すために用いられる過去の労働の成果であり、II(v+m)は生活手段部類の生産物を生み出すために費やされる生きた労働である。こうして社会的再生産においては過去の労働の成果と生きた労働によるその消費の関係が生産手段部類と生活手段部類の生産物間での価値の交換関係として表現される。

 これを前提として拡大再生産表式、I(v+m)>IIc について考えてみよう。この表式の意味することは、社会的総生産物のうち、生産手段部類の生産物価値を生み出すのに必要な生きた労働(剰余労働分を含む)が要する社会的平均的な労働時間の合計が、生活資料部類の生産物価値を生み出すに必要な生産手段に対象化された過去の労働のうち生産物価値の一部として生産手段に移転した部分に要した平均的労働時間よりも大きくなければならないということだろう。そのためには単純再生産の場合に資本家の収入としてもたらされた m(剰余価値部分)の一部から新たな追加資本が過程に投入されねばならない。しかしその新たに投入される追加資本はただやみくもに追加されれば良いとうわけではなく、その価値配分は、I(v'+m')=IIc'という形になっていないと拡大再生産が順調に進まなくなる(ここでc',v',m'はそれぞれ新たに追加された資本部分を示す)。つまり生産手段生産部門で新たな生産手段を生み出すために必要な「生きた労働」への追加資本と、生活手段生産部門で必要な生産手段の追加に必要な「死んだ労働」の価値部分が等しくなければ再生産過程は順調に行われえない。

 しかし、元来無政府的「自由競争」の市場の運動の中では、この追加資本の均衡的配分を計画的に行うことは不可能である。このため拡大再生産においては常に追加資本が過剰資本を生み出す危険があると考えられる。そしてそれがしばしば恐慌という形を採ると言える。

(アンダーラインは修正部分を示す)

(続く)

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