哲学・思想および経済・社会

2017年11月15日 (水)

資本が太るほど社会は崩壊に向かう(「国難」の真実)

 安倍首相が先の衆院選挙で政権のキャッチフレーズとして「国難突破」を強調していたが、選挙で勝利した途端に、「国難突破」はどこかに吹っ飛んでしまったようだ。

 マスコミでは史上空前の株価上昇持続、GDPは今年もプラス、などと騒がれ、「人手不足」で失業率は最低に下がったと宣伝している。そして大企業の増収が続き、カネを右から左に動かすだけで何ら社会的有用労働を行わない投資家たちがぼろ儲けしている。これを支配層は「好景気」と呼ぶ。
  しかし大企業では儲けの大半を予測不能な将来の変化に備えて内部留保に回している。だから労働賃金は上がらず、正規雇用は増えない。人手が足りず儲けに支障が出れば即短期雇用契約の労働者を雇い、経済不況などで利益率が下がれば即労働者をクビにできるようにしているのだ。
 実質的に社会を支えている労働者階級の生活は「消費の低迷」にも現れているように、ただでさえ、子どもの教育費、住居費、介護・医療費、ガス電気通信費などに莫大な費用がかかり、両親は共稼ぎでないと生活を維持できなくなっている上に先行き不明な将来に備えて貯金など蓄財を増やさねばならなくなっている。
 これは結局、労働者の生活に必要な財やその子どもたちを次世代の労働者として育て教育する費用をすべて労働者自身の生活費から支出させようとする支配層の方針によるのである。しかもそうした労働者階級の生活費は商品購買を通じて生活資料を生産する資本家企業の儲けとなり、教育費は教育資本の儲けとなり、個人の貯金や蓄財は金融企業の儲けとなり、インフラ費用もすべてそれを経営する資本家企業の儲けとなるのである。だから「消費が拡大」しないと資本家達は儲けが減り、そこに雇用されている労働者の賃金も減らされるのである。
 このような仕組みの矛盾から、いま日本では「少子高齢化」が進み、これを安倍首相が「国難」と言っているが、実はその「国難」の真の原因を作っているのは「アベノミクス」に代表される戦後日本の資本主義経済体制なのである。
 戦後日本の資本主義社会は、戦争でゼロリセットを掛けられて、ほとんど壊滅状態から立ち上がり朝鮮戦争での「特需景気」などをテコとして急成長した。しかしこれは戦争で悲惨な経験をして家族を失い食うものもなくなった生活から何とかして立ち上がろうとした農民や労働者階級の必死の努力によるものであって決して資本家の経営手腕能力のせいではない。
 そして何とか将来の社会が明るいものとして見えてきた労働者階級は懸命にその「明るい未来」に希望を託して働いたのである。その結果が「高度成長社会」であった。だから本来ならばここで労働者階級によって生み出された社会的富はすべて社会全体のための共有財として労働者の子どもの教育費、医療費、その他の社会保障や老後に必要な諸費用などに用いられなければならないはずであったが、当然そうはならなかった。
  最初は年々少しずつ上がる賃金で子どもを大学まで進学させることができるようになり、国立や公立の比較的教育費の安い教育機関で優秀な若者が育っていった。そして実生活では次々と現れる家電製品やクルマ、エアコンなどの商品を分割払いで無理して買いながら徐々に「便利で清潔な」家庭生活を築いていった。
 しかし、その状態は1990年頃を境に変貌していった。資本主義経済固有の矛盾により必然的にバブルが崩壊した経済体制の中で賃金は相対的に低下し、失業者が増大し、「明るい未来」の夢はたちまち消えていった。
 やがて21世紀に入り「IT革命」などによって産業構造の一大変化が訪れ、企業の経営形態や労働者の雇用形態も変貌していった。しかし資本主義経済体制の基本は変化しなかったのである。そのため雇用は短期契約となり、経営者は「辣腕経営者」が何億円もの年収で国を問わずにスカウトされてくる様になった。彼らは、企業の収益を最優先し、「人員整理」や「合理化」などで労働者は犠牲となった。
 本来なら社会全体のための共有財として蓄積されなければならなかった富は、こうした資本家達のもとに占有され、激しさを増すグローバル資本間の競争に勝つために投資されていった。そしてそれを総資本の代表である政権が金融政策や経済・財政政策によって支えていったのである。
 いまや労働者階級は横のつながりを失った「個人消費者」としてバラバラな存在となり階級的な結束が失われ、一握りの巨大な資本の力の前に何もすることができなくなり、富裕層となった人々を除いて労働者階級の多くの人々は子どもを育てて未来の生活を築いて行ける展望も失いつつある。だから多くの若者は結婚もせず、独身生活を自分のためだけに楽しむという「閉じられた人生」に生きる意味を見いださざるを得なくなっているのだろう。この「深層のあきらめ心理」が若者達の保守化をもたらしているのだろう。
  やがて社会は家族同士の支え合い、世代間の交代などがスムースに行われなくなり、このままでは資本が太れば太るほど社会は普遍的な持続性を失い、崩壊に向かわざるを得なくなっている。安倍首相は歴代の自民党政権がその結果としてもたらした「国難」を「アベノミクス」によって再びそこへ回帰することで「突破」しようというのだからあきれたものである。
 いま社会はこうした社会の危機を忘れさせるための「麻薬的キャンペーン」が次々と生み出され、大はオリンピックや「観光ギャンブル産業立国構想」から小は「楽しい」スマホソフトの世界まで目先の興味や快楽で人々の心を捉え真実から目を逸らそうとするイデオロギーが充ち満ちている。
 安倍内閣の支持率が上がっているのはこうした「虚偽のイデオロギー」が社会を支配しているからなのであろう。騙されてはいけない!

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2017年10月25日 (水)

若い世代の人たちの「保守化」とその背景について考える(修正版)

 今朝の朝日新聞に、今回の衆院選挙投票結果が公表された後に行った「本社世論調査」の結果が載っていた。 自民公明合わせて定数の3分の2を超える議席を得たことについての質問には「多すぎる」が51%で「ちょうどよい」が32%だった。しかし18〜29歳の層では、「ちょうどよい」が56%「で多すぎる」が23%だった。それ以外の年齢層ではおおむね「多すぎる」が多数であった。おそらく今回躍進した「立憲民主党」に投票した人たちの多くは中高年層で、ずっと自民公明独占体制に不満を持ちながら、煮え切らない「民進党」を支持する気にもなれなかった人たちであろう。

 世論調査のその他の質問への回答の率については新聞紙上を見てほしいが、この若い世代の人たちの反応が気になった。
  前回の「迷える子羊さん」のコメントへの対応にも書いたが、いまの若い世代の人たちの多くが「消費しない生活」でも自分なりの楽しみ方を見つけて生活し、「自分が富裕層でなくても何とか幸せに生きていると感じている」という若者がけっこう多いことを実感し、それはそれで支配層の馬鹿げた矛盾だらけの「消費拡大=経済成長」のキャンペーンに乗らないという意味では悪くはないとコメントした。
 そこで今回の選挙結果とその後の世論調査の結果を見て、次の様なことを考えた。若い世代の中にはこの様な「富裕層でないがそれなりに幸せ」グループが多いが、その他に一握りではあるが未来を約束されたエリート候補生もいることは確かだ。頭が良くて一流大学に入り、いまの「好景気」の中で一流企業に就職するか、自分の手で「起業」し、自己実現して行ける可能性が高い人たちである。こういう人たちもおそらくいまの政権に反発する理由はほとんどないだろう。
  そして残る「その他」の若者グループに、今回立憲民主党や反安部陣営に投票した人たちでいまの社会のあり方に大きな疑問を感じているが「支持する政党なし」の人たちが入るのだろう。しかしおそらくこうした人たちは若い世代の中ではいまだ少数派なのだろう。だからこの世代全体としては上記の様な保守的な態度を表明する若者の比率が多くなるのだろう。
 どんな時代にもその時代のエリートになって社会の上層部に居場所を見いだせるグループはいる。そしてどの時代でもそうした「支配層」に支配されることをある意味当然と考え、その中で与えられた人生を無難にすごそうとする人たちがいる。
 エリートになろうとしている人たちは、自分の能力を社会のために役立てるという確信のもとでそれを実現させるために努力しているのだと思っているだろうし、現に「支配層」になっている人たちも自分のやっていることが社会を成り立たせているのであってその意味で大きな社会的責任を持つと感じているのだろう。
 しかし、そうした支配層の「自己実現=社会のためになる」、という意識と行為そのものが実はその時代を支配している「矛盾をはらんだ法則」に支配されているといえる。いまの社会ではその「矛盾をはらんだ法則」は資本主義社会全体を支える経済法則であるといえ、「市場経済」を支配するこの「法則」はそれを支える支配層の人々(例えば、機能資本家や金融投資家などとそれを政治的・法律的に支える政治家など)がその任務を遂行すること自体がその「法則」を生み出し、同時にそのことによって自分たちの行為がその「法則」に支配されているという「相互規定的」な形になっている。
 そして今の社会でその「法則」を生み出す経済の仕組みは、一方で被支配層である労働者階級が労働の能力を支配層に売り渡すことで自分の労働でありながら他者の意図の代行であるという形で労働の主体的意図を放棄させられるがゆえに、その反面で、与えられた賃金でつつましく生活資料を「購買・消費」することが自分たちの社会的存在意義なのだという認識を持つことになり、その様な生活が「幸せ」なのだと自らに言い聞かせるようになる。そしてそうした意識を反映した「社会常識」が育つ。「置かれた場所で咲きなさい」というわけである。それは倫理的には「美しく見える」かもしれないが、その本質は虚偽である。
  他方で支配層はその買った他人の労働で自分たちの社会的生産での「自己実現」をすること、つまり社会的富の所有権と支配権を拡大するという、「人格化された資本」の意図と行為によって経済的「法則」を実現させる。その中でその「法則」のもつ矛盾が確実に育っていく(その「矛盾」の内容についてはこのブログで何度も書いているのでここで改めて述べることはしない)。
 時代の変わり目というのはそうした外観上の「安定期」の中で徐々にその下地を生み出し、やがて何かをきっかけに一気にその矛盾を顕在化させ、そのときになって人々はこれまでの社会の仕組みや「常識」がもはや通用しないことに気づかされる。歴史はそれを何度も繰り返してきた。
 いまはその矛盾がすでに顕在化しているにも拘わらず、それを覆い隠す思想(支配的イデオロギー)があまりにも強く社会を覆っているので、いまだ、 人々はそれを明確な形で認知していないのだと思う。
 だからいまはこの「支配的イデオロギー」との闘いが重要なのだと思う。「社会常識化」されている「虚偽のイデオロギー」の虚偽性を明らかにして、そこから真実を明るみに出して行くべき時期なのだと思う。 それによって、いずれ若い世代の人たちがいつかはこの矛盾に気づき、本当に自分が実現すべき新たな時代の担い手としての自覚を持つようになると期待している。

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2017年10月10日 (火)

マルクス経済学はノーベル経済学賞の対象から外されている

 毎年ノーベル賞の時期になると日本人が受賞するのではないかと期待が高まり、マスコミはそれに身構えている。今年は文学賞に日系イギリス人のカズオ・イシグロ氏が受賞したために、「日系」というだけで大々的に取り上げられた。いつも下馬評に上がる村上春樹氏は今年もダメだったので、出版社は大きく計画がずっこけて、慌てて村上氏の本を引っ込めてイシグロ氏の本を大増刷し始めた。出版業界とはこういうものなのだ。

 ところで、経済学賞にはアメリカの経済学者リチャード・セイラー氏が受賞した。心理学を応用した「行動経済学」という分野を築いた功績だそうだ。彼は受賞の記者会見で「「研究でもっとも重要なのは経済の主体は人間で、経済モデルはそれを組み込まねばならないという認識だ」と述べている。つまり、これまでの経済学は人間を主体として考えていなかったということである。そう、それが資本主義経済の本質だからである。
  資本主義経済学は、人間の存在や人間の社会的労働の意義を、資本の増殖や蓄積を基調とした「経済成長」の手段として位置づけそれを「社会全体の成長」と同意義に捉えているために、その理論がいくら人道的、自由主義的思想という外被をかぶっていても本質的に人間主体ではないのである。そして心理学的手法で経済学に貢献するということは、経済的効果におよぼす人間の心理を読み解き、それを経済モデル構築のために役立つ形で利用しようということであろう。
 実はマルクス経済学はこうした資本主義的経済学とは本質的に異なる立場であって、人間が人間本来の生き方や社会的役割を自らの主体的意志決定によって決めて行ける社会を生み出すために、経済学的理論をその手段として用いているのであって、それは深い哲学的人間観に基づいており、資本という存在が人間の労働が生み出した富を基体としながら人間のあり方や社会的役割までをも支配する存在となっている資本主義社会の仕組みを徹底的に批判したのである。
 そしていまのノーベル賞という「権威」を与える立場にある審査委員会は、こうしたマルクス経済学を「非科学的なイデオロギーに基づく偏った理論」あるいは「すでに死んでしまった過去の遺物」としか考えていないために最初からマルクス経済学者を受賞の対象から外しているのである。
 一方で、物理学や生物、医学、化学などの分野は、まさに唯物論の世界そのものであって、疑う余地もない自然界の法則性はまさにマルクスの思想とまったく同じ基礎の上に立っているといえる。これを「偏ったイデオロギー」などという人はおそらくいないだろう。マルクスは実はこれと同じ土壌の上に、経済学の理論を打ち立てようとしたのである。
 残念ながらいまではマルクスの理論は世の中の片隅でしか生きられないが、やがて必ずこの理論が再び世界を、そして歴史を動かす時が来るに違いないと思う。
 しかしそのためには、資本主義の現状分析だけではなく、いま「社会主義」といわれている旧ソ連や、今の中国、そして北朝鮮などの国々で行われている政治や経済政策などがいかに本来のマルクスがめざした世界と異なるあるいはその正反対の形になってしまっているのかを徹底的に暴き出し、批判を加えて行ける立場を持てなければならないだろう。そういう視点こそ「社会主義理論研究」といえるのではないだろうか?

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2017年7月27日 (木)

朝日新聞 論壇時評「AIが絶対できないこと」の致命的落とし穴

 今朝(7月27日)の朝日新聞「論壇時評」に歴史学者 小熊英二氏が「AIに絶対できないこと」と題した評論を書いている。

 小熊氏はさまざまな論者の指摘や事例を挙げ、 AIは過去のデータから推論出来ることしかやらないから、既存の考え方やこれまでの傾向の枠組みでしか予測ができず、新しい提案やイノベーションはできない、とAIの基本的限界を突く。そして「新技術の導入だけで経済が成長するなどという期待は、高度成長への誤解に基づくノスタルジーにすぎない。古い社会や古い政治を延命するためにAIを使えば多くの人が犠牲になる。それこそ「人間がAIに負ける」という事態にほかならない。そうでなく、AIと共存できる社会に変えていくために、人間にしかない英知を使うべきだ」と主張し、最後に藤井四段がAIに勝てるか?という疑問に対して「彼は勝とうとしていない。AIを相手に練習し、AIを自分を磨く道具にした。まるで、自動車と競争するのではなく、自動車を使いこなすべく社会を変えた人々のように。」と結んでいる。
 小熊氏はAIにはできず人間にしかできないことは、これまでの枠組みにこだわらず、新しい変革ができることだ、というのであるが、もしそうであれば、AIを含む、本来人間にとっては「道具」にすぎないものに、なぜ人間の生活や生き方が支配され振り回されるのかを考えるべきであろう。
  AIやITなどの技術を「変革」の道具として考えているのは社会の経済や技術を一手に握っている人たちであり、フツーの人々は、そのひとたちの思惑に文字通り支配されている。
  モータリゼーションでクルマが人間の生活形態を変えていったとき、それは「便利な生活」というコトバが生活のすべてのありようを変えていった時代であった。生活消費財が高価な「耐久消費財」という機械製品に取って代わられ、TV、冷蔵庫、クーラー、自動車が生活必需品化されていった。決して高くない賃金からローンを組み、これらの高価な耐久消費財を苦労して買った。全国に自動車道路が整備され、電気供給などのインフラがどんどん拡大され、原発がどんどん建設された。
 そうした「技術革新」による生活の変化の中で一方では天然資源がどんどん消費され、それと比例して自然環境はどんどん破壊されていった。
 そして、東日本大震災の様な大災害が起きると、フツーの人々は家族の命を奪われるとともに、生活の場が破壊されそれまで使っていた家財のすべてががれきの山となって積み重なってしまった有様を見て、これまで生活が便利になるためと思って受け入れてきたことが一体何だったのか分からなくなるのである。
  「便利な道具」がすべて失われたとき、自分たちの生活や生きる意味がなんであったのか、何のための「便利」だったのかに疑問を感じざるを得なくなる。つまり「便利な生活」は技術や経済を一手に握っている人たちにとっての「経済成長」にとって必要なことだったのであり、いわば「トップダウン的革新」であったことを思い知らされたのだ。
 こうした状況が続く中でAIは人々の生活をトップダウン的に変えていくだろう。AIやIoTなどの技術を競い合い「イノベーション」を推し進める人たちは、彼らの「経済成長」や「競争力強化」のためにフツーの人々の生活や生き方そのものを「経済成長の道具」と考え、その未来までをもコントロールし、支配しようとしているのである。
 AIがそのような人々の「道具」である以上、フツーの人々は「AIが人間を支配する日が来るかもしれない」という不安を抱くのは当然である。
 付け加えておくが、AIは「これまでの枠組みからの推論しかできない」というのは考えが浅い。AIはやがてこれまでの枠組みを外して新たな「イノベーション」の可能性をも提供するようになるだろう。すでにそうした「AIの創造性」に関する研究が進んでいる。これが実現したとき、フツーの人々はさらに人間としての基本的要素である「創造性」すら支配されてしまうことになるだろう。

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2017年5月20日 (土)

朝日新聞オピニオン欄「私の視点」での内田氏の意見に賛成する

 今朝の朝日新聞 オピニオン欄の「私の視点」に投稿されていた弁護士の内田雅敏氏の「”異論のススメ”に異論」で述べられている意見に私は全面的に賛成する。

 内田氏は5月5日付けの朝日 佐伯啓思氏のコラム「異論のススメ 憲法9条の矛盾 平和守るために闘わねば」への異論を展開している。
 ここで、内田氏は佐伯氏が、中国との国交回復が行われた後も尖閣問題は棚上げされ領土問題は解決されておらず、厳密にはいまだに戦争状態は終結していないとし、結局平和を守るためにも闘わねばならないであろうと述べ、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持(憲法前文)するわけには行かなくなった。この信頼を前提としていた非武装平和主義は成り立たない」と結論していることへの反論をしているのだ。
 ここで内田氏は憲法前文が「諸国家」ではなく「諸国民」としていることを指摘し、「国同士はどうあれ、民衆同士は戦争を望んでいない。国が、メディアが、反日、反中、反韓をあおらねば、民衆同士は仲良くできる。外国人観光客の多さを見ればよい」と反撃している。まさにその通り!
 内田氏はそれに付け加えて「今日のような事態は憲法制定当時にもあったし、十分想定されていた。(それにもかかわらずーー引用者追加)戦争の惨禍を体験した先人たちは、戦争は絶対にしてはならないと覚悟し、戦争放棄・平和主義の憲法を歓迎した。として47年に出した文部省(当時)の「あたらしい憲法のはなし」を紹介している。そこには「みなさんは、けっして心細く思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことくらい強いものはありません」 私はこれをまったく正論と思う。
 この「異論のススメ」を朝日に連載している佐伯啓思氏の憲法観についてはすでに私のこのブログの「朝日「耕論」における佐伯啓思氏の憲法見解への疑問」(2015.05.01)というページで述べているが、そこで私は佐伯氏が「国民主権国家」における憲法の矛盾を書いていることへの反論を書いておいた。
  そのコラムで佐伯氏は「近代憲法の根本は国家権力に対する個人の基本的権利の保護にある、としばしばいわれるが、それは生命、財産、自由といった人権こそは人類の普遍的権利だからとされるからだ。ところが、他方で、近代憲法のもう一つの柱は国民主権である。つまり国家権力を構成しているものは国民の意思とされる。するとたちまち疑問が出てくるだろう。基本的人権保障という憲法の根本理念は、この国民の意思を制限し、それに対抗することになるからだ。」というのである。そして「憲法の根拠は、普遍的な人権保障にあるのか、それとも国民主権にあるのか、どうなのか」という原理的な疑問に突き当たるというのだ。その延長上に「(国家の)平和を守るために(国民は)闘わねばならない」という氏の発想がある。まさに安倍政権の憲法改定論と軌を一にする思想である。
 つまり佐伯氏の頭の中には「国家」とそのもとで支配されている「民」の区別がない。近代国家では民が民主的に国家の統治者を選ぶことができるとされており「国民主権国家」とされているが、実はこれがイコール本当の民主主義ではない。近代国家はそれが治める地域の人々の労働を基礎とした経済的土台の上に成り立っており、その労働の成果をだれが掌握しているのかが問題なのである。言い換えればその地域における生産と消費のサイクルを規定している経済的仕組みを誰がコントロールしているのかである。
 確かに封建制や絶対王政の時代に比べれば、民主的な統治形式を持ってように見えるがそれはいわば「国家の外向きの顔」であって、経済システムそのものは決して民主的ではない。これが資本主義経済を基盤とした国家の形であり、そこには労働者や農民が生み出した価値の大半を雇用者(つまり資本家企業)という形で私有化し、その関係を基礎として社会の経済システムを維持するのである。
  そこでは経済的支配者も被支配者もともに「個人」として平等な立場であるかのような虚偽のイデオロギーが支配し、「民」はバラバラな個として分断される一方で、国家がそれを互いに「自由」競争原理を通じて私的利害を貫くためのシステムとして政治的支配構造を確立しているのが近代国家なのだと思う。これは決して普遍的な国家像ではないし、本来の民主主義でもない。いわば民主主義的顔を持ったみえない階級社会なのでありその統治構造が近代国家なのである。
 しかしだからこそ、憲法が必要なのであり、この憲法は支配される「民」の立場からそれを支配する「国家」に制約を与える役割が重要なのである。
 「国家」の名の下にその利害を護るために何の恨みもない他国の「民」と戦わされてきたわれらはどれだけ多くの無意味な死や破壊をこうむってきたか!これが「平和」を守るための戦いの現実ではないのか!

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2017年5月13日 (土)

憲法9条をめぐる国家と戦争に関する基本的問題を考える

 安倍内閣の政策下、憲法9条がいま風前の灯火となっているが、国会での論議でもいつも基本的問題が触れられていない。

それは、
(1) 国家間の戦争はなくなることはないのか?
(2)自衛のための軍備は必要不可欠なのか?
(3)軍隊組織を持たない国家が他国からの侵略や戦争にどう対応するべきなのか?
といった問題である。
 まず(1)に対しては、常識的意見としては個人間の喧嘩がなくならないのと同様に国家間の戦争はなくならない、という考え方があるが、そこでもう一度よく考えねばならないことは、個人間の喧嘩と国家間の戦争とはまったく次元が異なるということだ。
  そもそも「国家」というものが何なのかが問題であり、それを未来永劫なものとして普遍化すること自体問題だと思う。確かに人類の歴史で例えば部族間抗争などという形で起きていた「いくさ」が文明社会の登場とともに「国家」が登場して以来、「戦争」となっていったと言えるだろう。しかし、その「国家」も古代国家、中世の国家、そして近代国家と歴史的に変遷してきており、その形も中身も大きく変化してきている。つまり「国家」とは歴史的な産物なのである。
 近代国家の特徴は国内が基本的には資本主義経済体制となっており、政治的には中央集権的であり、まがりなりにも法律をもって支配層がその国を治めており、「国家防衛」のために近代的武器で装備された常備軍を持っているというのがその条件であろう。
 この形はその国家の政治的支配層がどのような利害関係で国内経済を支配し、その体制に「普遍性」発揮させるための法律を持っているかがキーとなるが、同時にその体制がどのような国際的関係の上に成り立っているかが重要な問題である。特に経済体制は一国内だけで自給自足的に成り立つことは近代においてはあり得ないことであり、必ず多国間との貿易を全体にして成り立っている。
 戦争はこの支配層が利権を握っている経済体制が別の国家あるいは国家連合によって脅かされるときに起きる。半近代的王権やその変形である近代的独裁国家においては完全なトップダウン体制による軍備を駆使して戦争が行われるが、より近代的「民主国家」では「国民のアイデンティティー」と称する「愛国心」を駆り立て、諸個人が「国家の家族」であるかのような思想を吹き込まねばならない。その上で「国民の支持を受けた」戦争に突入する。
 そして起きる戦争では、互いに諸個人としては何の恨みもない人々同士が「お国のため」をミッションとして互いに憎しみ合い殺し合わねばならなくなるのだ。
 このような「国家」の形を普遍化するところに(1)の思想は現れるし、それを認めれば必然的に(2)が必須化される。
 だからまずこの近代国家の特徴を歴史的に相対化することから問題を立て直すべきであろう。日本共産党を含めていまの野党の主張はこの近代的国家を普遍的な形として前提した上で「不戦」や「軍備の廃棄」を唄った9条を絶対化あるいは修正しようとするところに矛盾が生じ、安倍首相の主張に足をすくわれることになるのである。
 要は、近代国家を支配する資本主義経済体制が一方では「グローバル化」の度を高め、互いに依存関係をますます深めているのに対し、それを他方で国境で固めた国家を政治的に支配する階級の経済的利害によって有利に利用しようとするところから生じる矛盾である。
 国家の殻の中でその国の「生活水準」に相応しい賃金によって労働し、その国の支配層に「富」をもたらしている労働者階級は、グローバル化した世界でよりよい生活を求めてより「生活水準」の高い国へ移住しようとしてもそれを阻止される。それはこの「国家」という殻の中に閉じ込められて自分たちの職や生活を奪われないようにするには国家がそれを護ってくれなければならないと信じ込まされている各国の労働者階級が、すでに「国家」をその背に背負った「国民」という意識に染め上げられているからだ。
 しかし、事実は違う。グローバル化する経済はそれらの国々の人々が互いに経済的に依存し合って生きているのが現実だ。問題はそれを「国家間賃金格差」という形を利用して自分たちの利権を護ろうとする各国の支配層によって「国民」として分断されているという事実なのだ。そしてそのこと自体がグローバル経済を「グローバル資本」への富の集中という形にさせているのだ。
 本来、労働者階級に国境はない。なぜならば世界中の労働者階級はそれぞれの場でそれぞれの労働を行うことで、ともに世界レベルの富を生み出しており、それらは世界中の労働者によって共有されるべきものだからである。だから彼らには戦争を起こす理由など何一つないのだ。
 要はこの真実をいまの各国の労働者階級がどのようにして実現させるかなのだ。多分それを実現させるには長い時間が必要であろう。そしてその長い「過渡期」においていまの国家を支配する階級とどのように闘いどのように勝利していくかが問題なのだと思う。
 (3)の問題はそのような「過渡期」での問題として考えねばならないだろう。たとえ9条を維持するにしてもそれに手を加えるにしてもこうした歴史的展望がなければ必ず失敗するだろう。

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2017年2月25日 (土)

「障害者は社会に不幸をもたらす」という思想について

 相模原の重度障害者施設であった元施設員の男による大量殺人事件が話題になっており、今朝の朝日新聞でも自身が障害をもった大学教員K氏と娘が重度障害者の元大学教員S氏のインタビュー対談が載っていた。両者とも「障害者問題」が他人事ではない存在なので、考え方は説得力があった。特にS氏はかつて1968-71年頃の東大紛争で助手共闘の主役的存在であった人なので私もよく知っている人だ。インタビューの中身は本日の朝日朝刊を見て頂ければ分かるのでここでは紹介しないことにする。

 私は、この中で論じられている問題をもっと基本的レベルで考えてみる必要があるのではないかと思った。特にこの殺人者が自分の行為を正当化している「確信犯」であると同時にこの男の考え方に基本的に賛同する人たちがかなり多く存在するという事実に関してである。
 S氏が言うように、この社会では価値を生みだすことのできる人が存在価値があり、そうでない人たちは社会にとってお荷物でしかない、という考え方はある意味でこの社会の論理を「社会常識化」している人たちにとって共通認識であろう。せいぜい「人道に反する行為」とか「社会的公序良俗に反する行為」とかいうことで反対するか、「人は存在するだけで意味がある」といった哲学的言説によってこの殺人に反対するかもしれない。
 表向き「人道に反する行為」としている政府高官達も実はかつて麻生財務大臣が思わず漏らしてしまったように、「お年寄りはさっさと行って頂けるように」しなければ、増え続ける社会保障予算を賄えなくなる、と考えているのは本音であろう(ここでは話しの成り行き上高齢者と「障害者」を同じ位置で扱っている)。なぜなら、こうした考え方が社会を支配している階級の人々にとっては「真実」だからである。
 いうまでもなく、社会を支えるためにそれぞれの場で働く個々の人たちが「価値を生む」存在として社会的に存在意義があると見られるようになったのは資本主義社会になってからである。そこでは「価値」を所有できる人たちが社会をコントロールし、だれでも働いて価値を得て所有する権利があるとされる。
 しかしそれを裏から見れば働いて価値を生み価値を所有できない人は社会をコントロールする権利がなく、努力の結果富を所有できた人たちの寛大な「人道意識」と「良心」による行為によって生かしてもらっている存在と見なされる。
 しかし、ここでもっと基本的なレベルで考えて見れば、人類は社会という「第二の自然環境」を形成してその中でそれぞれの能力をそれぞれれの場において発揮しながら本来の自然環境との物質代謝を繰り返しながら社会全体を支えていく中で、自らの「個」としての存在と「種の保存」を同時に維持発展させていく生物である以上、その「社会」という共同体の本質を考えなければいけないと思う。
 生物学的に見れば、人類のような高度に発達した生物はその種の維持において当然ある確率のもとで正常な状態でない個体が生まれる。これはある意味で生命体のもつ必然である。そして人類以外の生物ではこの正常な状態で生まれてこなかった個体は「淘汰」に任され、例えば他の生物の餌食となっていく。
 しかし人類においては、社会共同体の中で存在するため、「個」は共同体の担い手として存在し、「共助」の関係を形成する。そこでは、他者と自己の関係は実存としての自己が「他在」としての他者を前提としている。だから「障害」を持って生まれてくる人は、ある意味で自分の「他在」的な姿でもあり、自分の可能的存在(あったかもしれない姿) なのである。だから共助を本来の姿とする働く人々にとっては社会全体でこうした人たちの存在を支えなければいけないし、それは当然のことなのである。
 人類の歴史の中でもこうした「障害者」は社会の「内存在」としては認められず、疎外され、密かに死に追いやられた時代が長く続いた。
 しかし、いまや資本主義社会は高度な生産力のもと莫大な剰余価値を生みだす社会であり、しかもこれが本来あるべき社会的共有財としてではなく、資本家という「個」の所有物になっている時代である。そこでは個々の労働者による労働の成果が「他在」としての資本として資本家の私有財産になっていると同時に、資本家にとっては自己の私有財産の「他在」であるはずの労働者の労働は単なる「道具」としてしかみなされていない。だから働けない者は道具として役に立たないモノと考えられる。そしてこの社会を正当化する思想においてはこれが暗黙の「社会常識」となっていく。
  長い労働者達の闘争の結果として、少しずつ「税金」という形で社会保障のための予算が組まれてきているが、未だに資本家達の「道具」にされてしまっている労働者たちが生みだす莫大な剰余価値の大半が馬鹿げた市場競争のために注がれているため、社会保障の姿は本来の姿からはほど遠く、労働を搾取されている階級がその生きるための賃金から税金(例えば消費税)としてこうした社会保障の財源を捻出せざるを得ない状態である。
 いまわれわれは、支配的イデオロギーとしてのあやまった「社会常識」から解放されなければならないのだと思う。そうでなければいつまでたっても建前上は「人道的見地から障害者の生命は保障されねばならない」が、本音は「はやく行ってしまってほしい」という思想からは解放されないだろう。
 
 

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2017年1月14日 (土)

「働き方改革」を巡るいくつかの問題

 1月14日朝のNHK-TV「深読み」でいま安倍政権が進めている「働き方改革」をめぐる議論があった。視聴者を含めていろいろな立場の人たちが参加して行われたディスカッションを観ていて、以下に示すようないくつかの重要なポイントが論じられていなかった様に思う。

 電通社員の過労自殺問題などに見るような、働かせ過ぎが直接の問題であるが、これを、フツーの社員は他の国々の労働者と比較して日本的年功序列型労働のためもあって労働生産性が低く、残業が当たり前の様に長時間ダラダラと仕事をする傾向があるため、その反動で「できる社員」に仕事が集中する傾向がある、という見方がある。
 そこで労働時間ではなくその成果によって賃金を決めるべきだという主張が出てくる。しかしその「成果」の判断は生産ラインで働く労働者の様な目に見える形で現れる(マルクスは資本論の中でこの「成果主義」が必然的に労働強化をもたらすと指摘している) のではない種類の労働(デザイン、設計、ソフトウエア開発などの頭脳労働)においてはその判断基準がきわめてあいまいで恣意的なものになる。
 例えば、クルマのデザインをしている自動車メーカーのデザイン労働者は、1年かけて新しいクルマのデザインを考えたとしても、毎日数百台のクルマをラインから送り出している労働者よりも給料が高い。新しいデザインのクルマの売れ行きがその企業にもたらすであろう利益への貢献度が大きいという考えでそうなるのだろうが、実際にはデザイナーの労働はその車が販売された期間に生みだされたクルマの台数でその労働期間を割った値しか生産物の価値形成に寄与していないのである。1台のクルマにはその他生産ラインで毎日行われている労働や流通販売に必要な労働などを含めてクルマ全体の価値を形成しているのである。(もちろん実際にはデザイナーはその期間一つのクルマのデザインのみに携わっているわけではなく、さまざ まな別の種類のデザインワークを同時並行的に行っているのであるが)
 また「同一労働同一賃金」という」考え方がトップダウンで行われ、同じ仕事を行う非正規雇用労働者の賃金と正規雇用の労働賃金と同額にしようとすると、正規雇用労働者の賃金が減らされると危惧する人がいる。つまり会社として労働賃金分として用意できるカネが同じ額ならば、非正規雇用労働者の賃金が上がればその分正規雇用労働者の賃金が下がる、というわけである。
 この考え方は、経営陣が労働者に与える賃金分のカネを増やさないで「同一労働同一賃金」を実施することを前提としており、多くの企業で実際にもそうするだろう。経営陣が労働賃金として用意されたオカネを増やさないということを前提にする議論はそもそも間違いでなのであるが、さらにその背景には企業のあげた利益の分け前を経営陣と労働者がどう配分するかというとらえ方があることが問題だ。
  こうした「経営者と労働者による利益分配」というとらえ方は資本主義経済学では一般的であるが、実は根本的に間違っている。
 この場合、管理職などの資本運営責任の一端を担う経営陣がその下で雇用されて働く労働者に比べて同じ時間勤務していても桁外れに高級であるという事実をもって、会社が利益を挙げることができるのは経営陣の努力のおかげだから当然という考えが前提となっている。会社が利益をあげることができなければ労働者の賃金も増えないし、場合によっては会社がつぶれて労働者は失業するかもしれないというわけだ。
 しかし 経営陣が努力して獲得している企業利益(もうけているカネ)は元はといえば、あらゆる職場で労働者達の労働が生みだした成果である。労働者はその労働力を維持するに必要な生活資料を購入するための「賃金」を受け取り、職場での労働ではその賃金の価値を大きく上回る価値(剰余価値)を生みだしている。経営陣はその労働者が生みだした剰余価値を無償で企業の所有とするが、これがもたらす莫大な利潤の分け前としてその資本増殖のための企業経営にたいする努力への「報酬」を受け取るのである。だからここで同じように「俸給」として扱われる労働「賃金」と資本家的経営者の「報酬」とを同一視するのは致命的な誤りである。
 本来、労働者の生みだした価値はすべてそれを生みだした労働者たちに還元されなければならず、剰余価値部分は社会的に共通に必要な共通ファンドとして蓄積されるべきであり、それが「資本」という私的(企業)所有の形態をとり資本家間の競争のもとで資本家のために利潤を生みだす必要など全くないのである。
  ところが資本主義経済学では、あたかも世の中の価値はすべて賢い企業経営者の手腕と努力によって生みだされ、経営者の手足となって働いた労働者にはそれ相応の「報酬」を配分する、と考えるのである。
 本当に「同一労働同一賃金」を実施しようとするなら、正規雇用・非正規雇用という区別はおろか 「労働の中身」に関わらず企業経営者も労働者も同じ時間働けば同じ給料にするべきなのだ。
 そして労働賃金は怪しげな「成果」による配分ではなく、その労働が社会的に必要な特定の 労働結果を生みだすために要する平均的労働時間という基準において考えるのでなければおかしい。

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2016年9月26日 (月)

あらためて資本論を学ぶ

2年ほど前から「資本論を読む会」というグループに参加している。最初半信半疑でこの会に参加しはじめたのであるが、やがて、じつにキチンと資本論を学ぶということをコツコツと続けているその努力と誠実さに感服し、ほとんど欠かさず出席している。この会のリーダーはすでに何回も資本論を読んでおり、資本論の記述に出てくる関連した論者の文献も実によく読んでいる。これまでこのブログで資本論について大きなことを言ってきたがだんだん自分の不勉強が恥ずかしくなってきた今日この頃である。

 例えば、いまは資本論第2巻「資本の流通過程」を読んでいるが、その中で「資本の回転」の問題が扱われている部分がある。ここでマルクスは固定資本と流動資本の区別について論じているが、そこでスミスやリカードへの批判が多くのページにわたって書かれており、そこでは彼らがいかにこの概念を誤ってとらえているか、そして不変資本と可変資本の区別と混同しているか、またスミスとリカードの誤りの質がどう違うかなどについてが具体的に指摘されている。
  この部分はなかなかマルクスの意図がつかみにくく、解釈も一義的に行われにくいところなので苦労する。しかし実はここはかなり重要な部分であるという感じがしてきている。それはこの部分でマルクスは当時の経済学の主流であったスミスやリカードへの徹底した批判を通じて、資本の回転とはいかなる意味を持っているのかをあきらかにしようとしているのが分かってきたからである。
 宇野弘蔵がこの資本の回転の部分を軽視していたらしいことも知り、そう言われてみれば、宇野「経済原論」にはほとんどそのことが触れられていなかったことを思い出した。宇野経済学から多くを学んだ私にとって、ひとつの「宇野離れ」が始まった。恥ずかしながら、このブログでも宇野批判めいたことを書いたが、それはもう少し資本論をキチンと理解してからでないといけないと実感した
 宇野が資本論を「原論」として純化することによって資本論をより明確に「科学」たらしめんとしたことは知られており、資本論が自然科学とは違った意味での科学であることには間違いないが、それを「純化」するとはどういうことなのかが問題である。言い換えればマルクスがなぜ、ここでかくも執拗にスミスやリカードの批判を通じて回転資本の概念を明確化しようとしているのか、その意図を知るべきだろうと思うのである。
 宇野は例えば「資本論の経済学」の中で、理論と実践の関係について述べており、そこでは理論はあくまで純化されねばならず、実践はそれを歴史的発展段階応じて(段階論として)把握した上で政治的実践に適用することで理論の政治経済的意義をあきらかにするというようなことを書いている。しかし、このようにマルクスの理論は純化されるうものなのか? 宇野は実践との関わりで理論がその歴史的発展段階をあきらかにするということを主張するが、逆に現実の具体的社会への批判や活動が理論(原理論)を成長させるのであって、「いまここにある現実の矛盾」をあきらかにしていくことこそ理論を豊かにしていく推進力なのではないだろうか?
 確かに宇野弘蔵はじつに綿密に資本論の原典に当たり、それを「自分なりに」キチンと理解するという主体的把握の態度を貫いたことには立派であったし、私など足下にもおよばないだろう。しかし、どうもそこには最初から「いまここにある現実の矛盾」へのまなざしが乏しく、むしろ原理論からの適用という視点で現状分析を行っているように見え、理論としての純化が優先していたのではないだろうか? つまり学者的視点しかなかったのではないか? それにくらべてマルクスはつねに「いまここにある現実の矛盾」から出発しておりそれが理論研究の原動力になっていたと思うのである。

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2016年8月16日 (火)

政府閣僚の靖国神社参拝をめぐって

 今年も外交的配慮からか安倍首相は靖国参拝を見合わせ「玉串料」で済ませた。しかし、戦没者追悼式の場では、「反省」という意味の言葉は外した。そして高市総務大臣と丸川五輪大臣が靖国を参拝した。参拝後のインタビューで両大臣とも「国策の犠牲になり亡くなられた方々への尊崇の念で参拝した」と応えていた。丸川大臣はそれに加えて「この国のやり方なのであって諸外国がとやかく言う問題ではない」と付け加えていた。そして自衛隊海外派遣部隊を励ますためにジブチに出張中の稲田防衛大臣は、現地で「今の平和な日本は、故郷や国を護るために出撃していった多くの方々の命の積み重ねの上にある」と述べた。

これらを見てはっきりしていることは、「国策」や「故郷や国を護るため」という言葉によって当時の国や軍の指導部が「大東亜統一」の国策のもとに愛国心を煽って国民を駆り立てて戦場に送り出してきたという最も重大で核心的事実は消し去られているということだ。そして日本人と共にあれほど多くの中国、フィリピン、アメリカなどの人々の命を奪い、当時日本に併合されていた韓国や台湾の人々を戦場に駆り出し命を落とさせていたことについては、「国を護るため」という言葉によってすべて消し去られ何も触れられていないのである。
 しかも靖国にはそうした戦争責任を負うもっとも重要な人物たちも「合祀」されており、戦争を引き起こした連中とそれによって命を失った人々がともに「英霊」として祀られているのである。これを「この国のやり方なのであって諸外国がとやかく言う問題ではない」で片付けられると思っているのだろうか? いまの天皇でさえこれに「深い反省」を表明しているというのに。
 しかし、一方でこの期に、とばかりに竹島に政府閣僚が上陸して「反日」感情を煽っている韓国の現政権や、南シナ海や東シナ海などで軍事力によって所属不明だった地域を事実上占領していこうとする中国現政権のやり方も安倍政権と同様に狂っているとしか言いようがない。
尖閣諸島に関しては、「所属不明」が事実であろうし、それを何等の交渉もなしに「国有化」してしまい、「領土上の問題は存在しない」としてしまった 前民主党政権も問題である。中国も韓国も日本もこうした「領土問題」への無益で危険な「国策」によって憎悪を生みだし、それによって国内の「民意」を愛国的にまとめていこうとするやり方は戦争の原因への深慮や反省がまったくないことの証明であろう。
こうした「国家指導者」たちの思想こそ、いくら「不戦の決意」を表明しても戦争を再び生みだす大きな要因を抱えているのである。

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