哲学・思想および経済・社会

2017年7月27日 (木)

朝日新聞 論壇時評「AIが絶対できないこと」の致命的落とし穴

 今朝(7月27日)の朝日新聞「論壇時評」に歴史学者 小熊英二氏が「AIに絶対できないこと」と題した評論を書いている。

 小熊氏はさまざまな論者の指摘や事例を挙げ、 AIは過去のデータから推論出来ることしかやらないから、既存の考え方やこれまでの傾向の枠組みでしか予測ができず、新しい提案やイノベーションはできない、とAIの基本的限界を突く。そして「新技術の導入だけで経済が成長するなどという期待は、高度成長への誤解に基づくノスタルジーにすぎない。古い社会や古い政治を延命するためにAIを使えば多くの人が犠牲になる。それこそ「人間がAIに負ける」という事態にほかならない。そうでなく、AIと共存できる社会に変えていくために、人間にしかない英知を使うべきだ」と主張し、最後に藤井四段がAIに勝てるか?という疑問に対して「彼は勝とうとしていない。AIを相手に練習し、AIを自分を磨く道具にした。まるで、自動車と競争するのではなく、自動車を使いこなすべく社会を変えた人々のように。」と結んでいる。
 小熊氏はAIにはできず人間にしかできないことは、これまでの枠組みにこだわらず、新しい変革ができることだ、というのであるが、もしそうであれば、AIを含む、本来人間にとっては「道具」にすぎないものに、なぜ人間の生活や生き方が支配され振り回されるのかを考えるべきであろう。
  AIやITなどの技術を「変革」の道具として考えているのは社会の経済や技術を一手に握っている人たちであり、フツーの人々は、そのひとたちの思惑に文字通り支配されている。
  モータリゼーションでクルマが人間の生活形態を変えていったとき、それは「便利な生活」というコトバが生活のすべてのありようを変えていった時代であった。生活消費財が高価な「耐久消費財」という機械製品に取って代わられ、TV、冷蔵庫、クーラー、自動車が生活必需品化されていった。決して高くない賃金からローンを組み、これらの高価な耐久消費財を苦労して買った。全国に自動車道路が整備され、電気供給などのインフラがどんどん拡大され、原発がどんどん建設された。
 そうした「技術革新」による生活の変化の中で一方では天然資源がどんどん消費され、それと比例して自然環境はどんどん破壊されていった。
 そして、東日本大震災の様な大災害が起きると、フツーの人々は家族の命を奪われるとともに、生活の場が破壊されそれまで使っていた家財のすべてががれきの山となって積み重なってしまった有様を見て、これまで生活が便利になるためと思って受け入れてきたことが一体何だったのか分からなくなるのである。
  「便利な道具」がすべて失われたとき、自分たちの生活や生きる意味がなんであったのか、何のための「便利」だったのかに疑問を感じざるを得なくなる。つまり「便利な生活」は技術や経済を一手に握っている人たちにとっての「経済成長」にとって必要なことだったのであり、いわば「トップダウン的革新」であったことを思い知らされたのだ。
 こうした状況が続く中でAIは人々の生活をトップダウン的に変えていくだろう。AIやIoTなどの技術を競い合い「イノベーション」を推し進める人たちは、彼らの「経済成長」や「競争力強化」のためにフツーの人々の生活や生き方そのものを「経済成長の道具」と考え、その未来までをもコントロールし、支配しようとしているのである。
 AIがそのような人々の「道具」である以上、フツーの人々は「AIが人間を支配する日が来るかもしれない」という不安を抱くのは当然である。
 付け加えておくが、AIは「これまでの枠組みからの推論しかできない」というのは考えが浅い。AIはやがてこれまでの枠組みを外して新たな「イノベーション」の可能性をも提供するようになるだろう。すでにそうした「AIの創造性」に関する研究が進んでいる。これが実現したとき、フツーの人々はさらに人間としての基本的要素である「創造性」すら支配されてしまうことになるだろう。

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2017年5月20日 (土)

朝日新聞オピニオン欄「私の視点」での内田氏の意見に賛成する

 今朝の朝日新聞 オピニオン欄の「私の視点」に投稿されていた弁護士の内田雅敏氏の「”異論のススメ”に異論」で述べられている意見に私は全面的に賛成する。

 内田氏は5月5日付けの朝日 佐伯啓思氏のコラム「異論のススメ 憲法9条の矛盾 平和守るために闘わねば」への異論を展開している。
 ここで、内田氏は佐伯氏が、中国との国交回復が行われた後も尖閣問題は棚上げされ領土問題は解決されておらず、厳密にはいまだに戦争状態は終結していないとし、結局平和を守るためにも闘わねばならないであろうと述べ、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持(憲法前文)するわけには行かなくなった。この信頼を前提としていた非武装平和主義は成り立たない」と結論していることへの反論をしているのだ。
 ここで内田氏は憲法前文が「諸国家」ではなく「諸国民」としていることを指摘し、「国同士はどうあれ、民衆同士は戦争を望んでいない。国が、メディアが、反日、反中、反韓をあおらねば、民衆同士は仲良くできる。外国人観光客の多さを見ればよい」と反撃している。まさにその通り!
 内田氏はそれに付け加えて「今日のような事態は憲法制定当時にもあったし、十分想定されていた。(それにもかかわらずーー引用者追加)戦争の惨禍を体験した先人たちは、戦争は絶対にしてはならないと覚悟し、戦争放棄・平和主義の憲法を歓迎した。として47年に出した文部省(当時)の「あたらしい憲法のはなし」を紹介している。そこには「みなさんは、けっして心細く思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことくらい強いものはありません」 私はこれをまったく正論と思う。
 この「異論のススメ」を朝日に連載している佐伯啓思氏の憲法観についてはすでに私のこのブログの「朝日「耕論」における佐伯啓思氏の憲法見解への疑問」(2015.05.01)というページで述べているが、そこで私は佐伯氏が「国民主権国家」における憲法の矛盾を書いていることへの反論を書いておいた。
  そのコラムで佐伯氏は「近代憲法の根本は国家権力に対する個人の基本的権利の保護にある、としばしばいわれるが、それは生命、財産、自由といった人権こそは人類の普遍的権利だからとされるからだ。ところが、他方で、近代憲法のもう一つの柱は国民主権である。つまり国家権力を構成しているものは国民の意思とされる。するとたちまち疑問が出てくるだろう。基本的人権保障という憲法の根本理念は、この国民の意思を制限し、それに対抗することになるからだ。」というのである。そして「憲法の根拠は、普遍的な人権保障にあるのか、それとも国民主権にあるのか、どうなのか」という原理的な疑問に突き当たるというのだ。その延長上に「(国家の)平和を守るために(国民は)闘わねばならない」という氏の発想がある。まさに安倍政権の憲法改定論と軌を一にする思想である。
 つまり佐伯氏の頭の中には「国家」とそのもとで支配されている「民」の区別がない。近代国家では民が民主的に国家の統治者を選ぶことができるとされており「国民主権国家」とされているが、実はこれがイコール本当の民主主義ではない。近代国家はそれが治める地域の人々の労働を基礎とした経済的土台の上に成り立っており、その労働の成果をだれが掌握しているのかが問題なのである。言い換えればその地域における生産と消費のサイクルを規定している経済的仕組みを誰がコントロールしているのかである。
 確かに封建制や絶対王政の時代に比べれば、民主的な統治形式を持ってように見えるがそれはいわば「国家の外向きの顔」であって、経済システムそのものは決して民主的ではない。これが資本主義経済を基盤とした国家の形であり、そこには労働者や農民が生み出した価値の大半を雇用者(つまり資本家企業)という形で私有化し、その関係を基礎として社会の経済システムを維持するのである。
  そこでは経済的支配者も被支配者もともに「個人」として平等な立場であるかのような虚偽のイデオロギーが支配し、「民」はバラバラな個として分断される一方で、国家がそれを互いに「自由」競争原理を通じて私的利害を貫くためのシステムとして政治的支配構造を確立しているのが近代国家なのだと思う。これは決して普遍的な国家像ではないし、本来の民主主義でもない。いわば民主主義的顔を持ったみえない階級社会なのでありその統治構造が近代国家なのである。
 しかしだからこそ、憲法が必要なのであり、この憲法は支配される「民」の立場からそれを支配する「国家」に制約を与える役割が重要なのである。
 「国家」の名の下にその利害を護るために何の恨みもない他国の「民」と戦わされてきたわれらはどれだけ多くの無意味な死や破壊をこうむってきたか!これが「平和」を守るための戦いの現実ではないのか!

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2017年5月13日 (土)

憲法9条をめぐる国家と戦争に関する基本的問題を考える

 安倍内閣の政策下、憲法9条がいま風前の灯火となっているが、国会での論議でもいつも基本的問題が触れられていない。

それは、
(1) 国家間の戦争はなくなることはないのか?
(2)自衛のための軍備は必要不可欠なのか?
(3)軍隊組織を持たない国家が他国からの侵略や戦争にどう対応するべきなのか?
といった問題である。
 まず(1)に対しては、常識的意見としては個人間の喧嘩がなくならないのと同様に国家間の戦争はなくならない、という考え方があるが、そこでもう一度よく考えねばならないことは、個人間の喧嘩と国家間の戦争とはまったく次元が異なるということだ。
  そもそも「国家」というものが何なのかが問題であり、それを未来永劫なものとして普遍化すること自体問題だと思う。確かに人類の歴史で例えば部族間抗争などという形で起きていた「いくさ」が文明社会の登場とともに「国家」が登場して以来、「戦争」となっていったと言えるだろう。しかし、その「国家」も古代国家、中世の国家、そして近代国家と歴史的に変遷してきており、その形も中身も大きく変化してきている。つまり「国家」とは歴史的な産物なのである。
 近代国家の特徴は国内が基本的には資本主義経済体制となっており、政治的には中央集権的であり、まがりなりにも法律をもって支配層がその国を治めており、「国家防衛」のために近代的武器で装備された常備軍を持っているというのがその条件であろう。
 この形はその国家の政治的支配層がどのような利害関係で国内経済を支配し、その体制に「普遍性」発揮させるための法律を持っているかがキーとなるが、同時にその体制がどのような国際的関係の上に成り立っているかが重要な問題である。特に経済体制は一国内だけで自給自足的に成り立つことは近代においてはあり得ないことであり、必ず多国間との貿易を全体にして成り立っている。
 戦争はこの支配層が利権を握っている経済体制が別の国家あるいは国家連合によって脅かされるときに起きる。半近代的王権やその変形である近代的独裁国家においては完全なトップダウン体制による軍備を駆使して戦争が行われるが、より近代的「民主国家」では「国民のアイデンティティー」と称する「愛国心」を駆り立て、諸個人が「国家の家族」であるかのような思想を吹き込まねばならない。その上で「国民の支持を受けた」戦争に突入する。
 そして起きる戦争では、互いに諸個人としては何の恨みもない人々同士が「お国のため」をミッションとして互いに憎しみ合い殺し合わねばならなくなるのだ。
 このような「国家」の形を普遍化するところに(1)の思想は現れるし、それを認めれば必然的に(2)が必須化される。
 だからまずこの近代国家の特徴を歴史的に相対化することから問題を立て直すべきであろう。日本共産党を含めていまの野党の主張はこの近代的国家を普遍的な形として前提した上で「不戦」や「軍備の廃棄」を唄った9条を絶対化あるいは修正しようとするところに矛盾が生じ、安倍首相の主張に足をすくわれることになるのである。
 要は、近代国家を支配する資本主義経済体制が一方では「グローバル化」の度を高め、互いに依存関係をますます深めているのに対し、それを他方で国境で固めた国家を政治的に支配する階級の経済的利害によって有利に利用しようとするところから生じる矛盾である。
 国家の殻の中でその国の「生活水準」に相応しい賃金によって労働し、その国の支配層に「富」をもたらしている労働者階級は、グローバル化した世界でよりよい生活を求めてより「生活水準」の高い国へ移住しようとしてもそれを阻止される。それはこの「国家」という殻の中に閉じ込められて自分たちの職や生活を奪われないようにするには国家がそれを護ってくれなければならないと信じ込まされている各国の労働者階級が、すでに「国家」をその背に背負った「国民」という意識に染め上げられているからだ。
 しかし、事実は違う。グローバル化する経済はそれらの国々の人々が互いに経済的に依存し合って生きているのが現実だ。問題はそれを「国家間賃金格差」という形を利用して自分たちの利権を護ろうとする各国の支配層によって「国民」として分断されているという事実なのだ。そしてそのこと自体がグローバル経済を「グローバル資本」への富の集中という形にさせているのだ。
 本来、労働者階級に国境はない。なぜならば世界中の労働者階級はそれぞれの場でそれぞれの労働を行うことで、ともに世界レベルの富を生み出しており、それらは世界中の労働者によって共有されるべきものだからである。だから彼らには戦争を起こす理由など何一つないのだ。
 要はこの真実をいまの各国の労働者階級がどのようにして実現させるかなのだ。多分それを実現させるには長い時間が必要であろう。そしてその長い「過渡期」においていまの国家を支配する階級とどのように闘いどのように勝利していくかが問題なのだと思う。
 (3)の問題はそのような「過渡期」での問題として考えねばならないだろう。たとえ9条を維持するにしてもそれに手を加えるにしてもこうした歴史的展望がなければ必ず失敗するだろう。

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2017年2月25日 (土)

「障害者は社会に不幸をもたらす」という思想について

 相模原の重度障害者施設であった元施設員の男による大量殺人事件が話題になっており、今朝の朝日新聞でも自身が障害をもった大学教員K氏と娘が重度障害者の元大学教員S氏のインタビュー対談が載っていた。両者とも「障害者問題」が他人事ではない存在なので、考え方は説得力があった。特にS氏はかつて1968-71年頃の東大紛争で助手共闘の主役的存在であった人なので私もよく知っている人だ。インタビューの中身は本日の朝日朝刊を見て頂ければ分かるのでここでは紹介しないことにする。

 私は、この中で論じられている問題をもっと基本的レベルで考えてみる必要があるのではないかと思った。特にこの殺人者が自分の行為を正当化している「確信犯」であると同時にこの男の考え方に基本的に賛同する人たちがかなり多く存在するという事実に関してである。
 S氏が言うように、この社会では価値を生みだすことのできる人が存在価値があり、そうでない人たちは社会にとってお荷物でしかない、という考え方はある意味でこの社会の論理を「社会常識化」している人たちにとって共通認識であろう。せいぜい「人道に反する行為」とか「社会的公序良俗に反する行為」とかいうことで反対するか、「人は存在するだけで意味がある」といった哲学的言説によってこの殺人に反対するかもしれない。
 表向き「人道に反する行為」としている政府高官達も実はかつて麻生財務大臣が思わず漏らしてしまったように、「お年寄りはさっさと行って頂けるように」しなければ、増え続ける社会保障予算を賄えなくなる、と考えているのは本音であろう(ここでは話しの成り行き上高齢者と「障害者」を同じ位置で扱っている)。なぜなら、こうした考え方が社会を支配している階級の人々にとっては「真実」だからである。
 いうまでもなく、社会を支えるためにそれぞれの場で働く個々の人たちが「価値を生む」存在として社会的に存在意義があると見られるようになったのは資本主義社会になってからである。そこでは「価値」を所有できる人たちが社会をコントロールし、だれでも働いて価値を得て所有する権利があるとされる。
 しかしそれを裏から見れば働いて価値を生み価値を所有できない人は社会をコントロールする権利がなく、努力の結果富を所有できた人たちの寛大な「人道意識」と「良心」による行為によって生かしてもらっている存在と見なされる。
 しかし、ここでもっと基本的なレベルで考えて見れば、人類は社会という「第二の自然環境」を形成してその中でそれぞれの能力をそれぞれれの場において発揮しながら本来の自然環境との物質代謝を繰り返しながら社会全体を支えていく中で、自らの「個」としての存在と「種の保存」を同時に維持発展させていく生物である以上、その「社会」という共同体の本質を考えなければいけないと思う。
 生物学的に見れば、人類のような高度に発達した生物はその種の維持において当然ある確率のもとで正常な状態でない個体が生まれる。これはある意味で生命体のもつ必然である。そして人類以外の生物ではこの正常な状態で生まれてこなかった個体は「淘汰」に任され、例えば他の生物の餌食となっていく。
 しかし人類においては、社会共同体の中で存在するため、「個」は共同体の担い手として存在し、「共助」の関係を形成する。そこでは、他者と自己の関係は実存としての自己が「他在」としての他者を前提としている。だから「障害」を持って生まれてくる人は、ある意味で自分の「他在」的な姿でもあり、自分の可能的存在(あったかもしれない姿) なのである。だから共助を本来の姿とする働く人々にとっては社会全体でこうした人たちの存在を支えなければいけないし、それは当然のことなのである。
 人類の歴史の中でもこうした「障害者」は社会の「内存在」としては認められず、疎外され、密かに死に追いやられた時代が長く続いた。
 しかし、いまや資本主義社会は高度な生産力のもと莫大な剰余価値を生みだす社会であり、しかもこれが本来あるべき社会的共有財としてではなく、資本家という「個」の所有物になっている時代である。そこでは個々の労働者による労働の成果が「他在」としての資本として資本家の私有財産になっていると同時に、資本家にとっては自己の私有財産の「他在」であるはずの労働者の労働は単なる「道具」としてしかみなされていない。だから働けない者は道具として役に立たないモノと考えられる。そしてこの社会を正当化する思想においてはこれが暗黙の「社会常識」となっていく。
  長い労働者達の闘争の結果として、少しずつ「税金」という形で社会保障のための予算が組まれてきているが、未だに資本家達の「道具」にされてしまっている労働者たちが生みだす莫大な剰余価値の大半が馬鹿げた市場競争のために注がれているため、社会保障の姿は本来の姿からはほど遠く、労働を搾取されている階級がその生きるための賃金から税金(例えば消費税)としてこうした社会保障の財源を捻出せざるを得ない状態である。
 いまわれわれは、支配的イデオロギーとしてのあやまった「社会常識」から解放されなければならないのだと思う。そうでなければいつまでたっても建前上は「人道的見地から障害者の生命は保障されねばならない」が、本音は「はやく行ってしまってほしい」という思想からは解放されないだろう。
 
 

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2017年1月14日 (土)

「働き方改革」を巡るいくつかの問題

 1月14日朝のNHK-TV「深読み」でいま安倍政権が進めている「働き方改革」をめぐる議論があった。視聴者を含めていろいろな立場の人たちが参加して行われたディスカッションを観ていて、以下に示すようないくつかの重要なポイントが論じられていなかった様に思う。

 電通社員の過労自殺問題などに見るような、働かせ過ぎが直接の問題であるが、これを、フツーの社員は他の国々の労働者と比較して日本的年功序列型労働のためもあって労働生産性が低く、残業が当たり前の様に長時間ダラダラと仕事をする傾向があるため、その反動で「できる社員」に仕事が集中する傾向がある、という見方がある。
 そこで労働時間ではなくその成果によって賃金を決めるべきだという主張が出てくる。しかしその「成果」の判断は生産ラインで働く労働者の様な目に見える形で現れる(マルクスは資本論の中でこの「成果主義」が必然的に労働強化をもたらすと指摘している) のではない種類の労働(デザイン、設計、ソフトウエア開発などの頭脳労働)においてはその判断基準がきわめてあいまいで恣意的なものになる。
 例えば、クルマのデザインをしている自動車メーカーのデザイン労働者は、1年かけて新しいクルマのデザインを考えたとしても、毎日数百台のクルマをラインから送り出している労働者よりも給料が高い。新しいデザインのクルマの売れ行きがその企業にもたらすであろう利益への貢献度が大きいという考えでそうなるのだろうが、実際にはデザイナーの労働はその車が販売された期間に生みだされたクルマの台数でその労働期間を割った値しか生産物の価値形成に寄与していないのである。1台のクルマにはその他生産ラインで毎日行われている労働や流通販売に必要な労働などを含めてクルマ全体の価値を形成しているのである。(もちろん実際にはデザイナーはその期間一つのクルマのデザインのみに携わっているわけではなく、さまざ まな別の種類のデザインワークを同時並行的に行っているのであるが)
 また「同一労働同一賃金」という」考え方がトップダウンで行われ、同じ仕事を行う非正規雇用労働者の賃金と正規雇用の労働賃金と同額にしようとすると、正規雇用労働者の賃金が減らされると危惧する人がいる。つまり会社として労働賃金分として用意できるカネが同じ額ならば、非正規雇用労働者の賃金が上がればその分正規雇用労働者の賃金が下がる、というわけである。
 この考え方は、経営陣が労働者に与える賃金分のカネを増やさないで「同一労働同一賃金」を実施することを前提としており、多くの企業で実際にもそうするだろう。経営陣が労働賃金として用意されたオカネを増やさないということを前提にする議論はそもそも間違いでなのであるが、さらにその背景には企業のあげた利益の分け前を経営陣と労働者がどう配分するかというとらえ方があることが問題だ。
  こうした「経営者と労働者による利益分配」というとらえ方は資本主義経済学では一般的であるが、実は根本的に間違っている。
 この場合、管理職などの資本運営責任の一端を担う経営陣がその下で雇用されて働く労働者に比べて同じ時間勤務していても桁外れに高級であるという事実をもって、会社が利益を挙げることができるのは経営陣の努力のおかげだから当然という考えが前提となっている。会社が利益をあげることができなければ労働者の賃金も増えないし、場合によっては会社がつぶれて労働者は失業するかもしれないというわけだ。
 しかし 経営陣が努力して獲得している企業利益(もうけているカネ)は元はといえば、あらゆる職場で労働者達の労働が生みだした成果である。労働者はその労働力を維持するに必要な生活資料を購入するための「賃金」を受け取り、職場での労働ではその賃金の価値を大きく上回る価値(剰余価値)を生みだしている。経営陣はその労働者が生みだした剰余価値を無償で企業の所有とするが、これがもたらす莫大な利潤の分け前としてその資本増殖のための企業経営にたいする努力への「報酬」を受け取るのである。だからここで同じように「俸給」として扱われる労働「賃金」と資本家的経営者の「報酬」とを同一視するのは致命的な誤りである。
 本来、労働者の生みだした価値はすべてそれを生みだした労働者たちに還元されなければならず、剰余価値部分は社会的に共通に必要な共通ファンドとして蓄積されるべきであり、それが「資本」という私的(企業)所有の形態をとり資本家間の競争のもとで資本家のために利潤を生みだす必要など全くないのである。
  ところが資本主義経済学では、あたかも世の中の価値はすべて賢い企業経営者の手腕と努力によって生みだされ、経営者の手足となって働いた労働者にはそれ相応の「報酬」を配分する、と考えるのである。
 本当に「同一労働同一賃金」を実施しようとするなら、正規雇用・非正規雇用という区別はおろか 「労働の中身」に関わらず企業経営者も労働者も同じ時間働けば同じ給料にするべきなのだ。
 そして労働賃金は怪しげな「成果」による配分ではなく、その労働が社会的に必要な特定の 労働結果を生みだすために要する平均的労働時間という基準において考えるのでなければおかしい。

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2016年9月26日 (月)

あらためて資本論を学ぶ

2年ほど前から「資本論を読む会」というグループに参加している。最初半信半疑でこの会に参加しはじめたのであるが、やがて、じつにキチンと資本論を学ぶということをコツコツと続けているその努力と誠実さに感服し、ほとんど欠かさず出席している。この会のリーダーはすでに何回も資本論を読んでおり、資本論の記述に出てくる関連した論者の文献も実によく読んでいる。これまでこのブログで資本論について大きなことを言ってきたがだんだん自分の不勉強が恥ずかしくなってきた今日この頃である。

 例えば、いまは資本論第2巻「資本の流通過程」を読んでいるが、その中で「資本の回転」の問題が扱われている部分がある。ここでマルクスは固定資本と流動資本の区別について論じているが、そこでスミスやリカードへの批判が多くのページにわたって書かれており、そこでは彼らがいかにこの概念を誤ってとらえているか、そして不変資本と可変資本の区別と混同しているか、またスミスとリカードの誤りの質がどう違うかなどについてが具体的に指摘されている。
  この部分はなかなかマルクスの意図がつかみにくく、解釈も一義的に行われにくいところなので苦労する。しかし実はここはかなり重要な部分であるという感じがしてきている。それはこの部分でマルクスは当時の経済学の主流であったスミスやリカードへの徹底した批判を通じて、資本の回転とはいかなる意味を持っているのかをあきらかにしようとしているのが分かってきたからである。
 宇野弘蔵がこの資本の回転の部分を軽視していたらしいことも知り、そう言われてみれば、宇野「経済原論」にはほとんどそのことが触れられていなかったことを思い出した。宇野経済学から多くを学んだ私にとって、ひとつの「宇野離れ」が始まった。恥ずかしながら、このブログでも宇野批判めいたことを書いたが、それはもう少し資本論をキチンと理解してからでないといけないと実感した
 宇野が資本論を「原論」として純化することによって資本論をより明確に「科学」たらしめんとしたことは知られており、資本論が自然科学とは違った意味での科学であることには間違いないが、それを「純化」するとはどういうことなのかが問題である。言い換えればマルクスがなぜ、ここでかくも執拗にスミスやリカードの批判を通じて回転資本の概念を明確化しようとしているのか、その意図を知るべきだろうと思うのである。
 宇野は例えば「資本論の経済学」の中で、理論と実践の関係について述べており、そこでは理論はあくまで純化されねばならず、実践はそれを歴史的発展段階応じて(段階論として)把握した上で政治的実践に適用することで理論の政治経済的意義をあきらかにするというようなことを書いている。しかし、このようにマルクスの理論は純化されるうものなのか? 宇野は実践との関わりで理論がその歴史的発展段階をあきらかにするということを主張するが、逆に現実の具体的社会への批判や活動が理論(原理論)を成長させるのであって、「いまここにある現実の矛盾」をあきらかにしていくことこそ理論を豊かにしていく推進力なのではないだろうか?
 確かに宇野弘蔵はじつに綿密に資本論の原典に当たり、それを「自分なりに」キチンと理解するという主体的把握の態度を貫いたことには立派であったし、私など足下にもおよばないだろう。しかし、どうもそこには最初から「いまここにある現実の矛盾」へのまなざしが乏しく、むしろ原理論からの適用という視点で現状分析を行っているように見え、理論としての純化が優先していたのではないだろうか? つまり学者的視点しかなかったのではないか? それにくらべてマルクスはつねに「いまここにある現実の矛盾」から出発しておりそれが理論研究の原動力になっていたと思うのである。

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2016年8月16日 (火)

政府閣僚の靖国神社参拝をめぐって

 今年も外交的配慮からか安倍首相は靖国参拝を見合わせ「玉串料」で済ませた。しかし、戦没者追悼式の場では、「反省」という意味の言葉は外した。そして高市総務大臣と丸川五輪大臣が靖国を参拝した。参拝後のインタビューで両大臣とも「国策の犠牲になり亡くなられた方々への尊崇の念で参拝した」と応えていた。丸川大臣はそれに加えて「この国のやり方なのであって諸外国がとやかく言う問題ではない」と付け加えていた。そして自衛隊海外派遣部隊を励ますためにジブチに出張中の稲田防衛大臣は、現地で「今の平和な日本は、故郷や国を護るために出撃していった多くの方々の命の積み重ねの上にある」と述べた。

これらを見てはっきりしていることは、「国策」や「故郷や国を護るため」という言葉によって当時の国や軍の指導部が「大東亜統一」の国策のもとに愛国心を煽って国民を駆り立てて戦場に送り出してきたという最も重大で核心的事実は消し去られているということだ。そして日本人と共にあれほど多くの中国、フィリピン、アメリカなどの人々の命を奪い、当時日本に併合されていた韓国や台湾の人々を戦場に駆り出し命を落とさせていたことについては、「国を護るため」という言葉によってすべて消し去られ何も触れられていないのである。
 しかも靖国にはそうした戦争責任を負うもっとも重要な人物たちも「合祀」されており、戦争を引き起こした連中とそれによって命を失った人々がともに「英霊」として祀られているのである。これを「この国のやり方なのであって諸外国がとやかく言う問題ではない」で片付けられると思っているのだろうか? いまの天皇でさえこれに「深い反省」を表明しているというのに。
 しかし、一方でこの期に、とばかりに竹島に政府閣僚が上陸して「反日」感情を煽っている韓国の現政権や、南シナ海や東シナ海などで軍事力によって所属不明だった地域を事実上占領していこうとする中国現政権のやり方も安倍政権と同様に狂っているとしか言いようがない。
尖閣諸島に関しては、「所属不明」が事実であろうし、それを何等の交渉もなしに「国有化」してしまい、「領土上の問題は存在しない」としてしまった 前民主党政権も問題である。中国も韓国も日本もこうした「領土問題」への無益で危険な「国策」によって憎悪を生みだし、それによって国内の「民意」を愛国的にまとめていこうとするやり方は戦争の原因への深慮や反省がまったくないことの証明であろう。
こうした「国家指導者」たちの思想こそ、いくら「不戦の決意」を表明しても戦争を再び生みだす大きな要因を抱えているのである。

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2016年6月14日 (火)

柄谷氏の憲法観に見るリベラル・インテリの危うさ

 今朝の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」欄「憲法を考える」に、柄谷行人氏の「9条の根源」という論評が載っていた。柄谷氏は、いまの憲法は自民党の改憲策動では変えられないという。その根拠として、現行憲法は自発的なものではなくアメリカから押しつけられたものではあるが、それは日本人の無意識レベルでの「超自我」の問題なのであり、人間の内なる死の欲動である「超自我」が外に向けられて攻撃欲動に転じた結果としての悲惨な戦争体験がもとでそれが逆に内に向けられた結果であり、その意味で9条は日本人の「超自我」になってしまったというのだ。

 柄谷氏は、同じ敗戦国であるドイツ人が戦争に対する反省が深いといわれ、それに比べると日本人は倫理性や反省に欠けるといわれるが、決してそうではなく、それは9条という無意識レベルで存在する日本の「文化」となっているのだという。
 氏はさらにいう。現行憲法の1条(天皇条項)と9条はいわばセットであって、最初は9条は1条の副次的産物だったが、後にそれが逆に9条こそが重要になった。天皇が9条を支持しているのは9条を守ることが1条を守ることになるからだ。現行憲法は、カントの「永久平和のために」という精神が実現されたものともいえる。もし国連で日本が9条を実行すると宣言すれば、すぐに常任理事国になれるだろう。9条はたんに武力の放棄ではなく、日本から世界に向けられた贈与なのだ。そしてそれによって日本に賛同する国が続出し、それがこれまで戦勝国が牛耳ってきた国連を変えることになり、カントの理念に近づくことになる。カントの「諸国家連邦」は非現実的と批判する人もいるが、それは人間の善意や反省によってできるのではなく、人間の本性にある攻撃欲動が発露され、戦争になった後にできるのだ。国連も日本国憲法のそのようにして生まれた。それが何で非現実的といえるのか、と主張する。
 たしかにユニークな把握かもしれないが、いかにもリベラル派観念論哲学者の考えである。現実世界は決してそんな甘いものではないだろう。現に戦争の後にできた国連は世界中で発生する戦争をおさめることができず、日本国憲法も再び軍事力の保持に向かって動き出している。しかし、かといってもちろん安倍政権が目指す対外的軍事力として国軍を復活合憲化し、それを前提とした国内治安取り締まり強化をさせることが現実的というのも間違っていると思う。それはかつてわれわれが通ってきた道に再び戻ることになるからだ。
 私は「超自我」よりも「真の反省」が重要であると考える。なぜなら無意識化された「超自我」はどのような形に意識化されるか分からないからである。それは再び、前とは違った形で「国家のために死ぬ」という精神構造を復活させるかもしれない。昨今のスポーツ振興などに見られる国威発揚の有様をみてもそれが危惧される。
日本人の精神の中に、もし無意識化された9条があるならば、それが戦争体験への反省としていかなる明確な意志の形をとるようにできるかが問題ではないのか? 
私は、その意味で、現行憲法9条はいかにも観念的「戦争放棄」であるように思える。それは柄谷氏がいうように1条と9条がセットとして作られているという事実からも明らかである。近代における戦争は究極には近代資本主義社会のもっとも典型的な統治形態である「近代的国家」と「近代的個(自我)」の関係における矛盾に根源があると思う。
 反戦の問題を深くしかも現実的にとらえるならば、資本主義国家における個人の実存がかかえる矛盾とそれが生じる物質的基盤つまり資本主義社会そのものの根本的矛盾が問題となるはずだ。そしてそこにこそ、資本主義社会以後の社会への歴史敵展望が開かれるのではないだろうか?
柄谷氏に見られる様なリベラル・インテリの主張がもつ危うさは、やがて世界中で国家間の戦争への危機が高まってきたときに、まったく無力な反戦観であり、安倍政権の主張する改憲と国民総動員の軍事国家への道を阻止することなど決してできないことを示すことになるだろう。第一次世界大戦の際の社会民主主義者たちがそうであったように。

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2016年5月31日 (火)

ブルジョア的「自由民主」を超えるものは何か?(その3:自由の質的変革)

 ところで、最近の安倍政権でもささやかれていることであるが、個人の自由にもある程度制限があって然るべきではないか、という議論である。安倍政権にはこれを「公共的利益を守るため」と称して「おおやけ」という形で国家の立場を個人の上位に持って行こうとする策略が見え見えなのだが、個人の自由を重視するいわゆるリベラル派も個人の自由には自制がなければだめであるという。最近、あまりにも利己的な主張が増えて、他者の立場を配慮することなく自分の主張を押し通そうとする事例が増えているからこういう議論が出てくるのだろう。

 しかし、これはブルジョア的自由の典型的矛盾の一つと考えて良いであろう。もともとブルジョア的自由は、私的所有の自由が基本であって、それを維持するために「自由な競争」による富の奪取を正当化するのである。自分がリッチになれば他者が貧しくなっても仕方がない。それは自助努力が足りなかったからだ、ということになる。競争に勝った者は負けた者より優位に立つのは当然だ、というわけだ。こうしていまの資本主義社会は競争相手を容赦なく倒しながら発展してきた。
 それに対して、プチ・ブルジョア層の代表的立場であるリベラル派は、私的所有の権利を認めながらも相手の立場をもっと考えるべきだという立場であるといえるだろう。要するに「理性ある資本主義」を主張する。資本主義社会がまだ余裕があった時代にはそれがある程度通用した。しかし、いま資本家たちがそんな呑気なことを言っていたら、競争相手にたちまち打ち倒され、自分の破滅を招くような危機的な状態に資本主義社会全体が突入してきたのだ。だからリベラルの代表である日本の民進党やアメリカのオバマ政権はその理想とは裏腹に、経済の実質を握るグローバル資本の競争の前にほとんど何もできずに終わり選挙民の期待を裏切った。
 一方、「大衆」と呼ばれる人々は、そのほとんどが現実には労働者階級に属しながら、ブルジョア的イデオロギーに染め上げられてしまったため、そうした自覚がなく(そうなってしまったのは労働組合にも責任があるのだが)、資本家的経営者からサラリーをもらって個人生活を築くことがもっとも大切なことになっているため、この自由を護るために自己主張をする。これは労働者の権利という意味ではもっともなことである。しかし、それがブルジョア的自由という観念に支配されているため、その延長に他者の立場を考えない利己的な主張が現れる。「自由な個人」としては自分が雇用者に売り込んだ労働力商品である以上、他の労働者は労働力商品としては競争相手である。呑気なことを言っていたら職を奪われかねないから競争相手を蹴落とさねばならなくなる。だから他の労働者に自分の個人としての自由を奪われないように自己防衛することになる。いまヨーロッパが渦中にある移民問題がその典型である。これがブルジョア的自由という思想の「コインの裏側」であり、ポピュリズムの動力源でもある。
この思想の延長上に個人と「おおやけ」の関係があり、個人間の「自由の衝突」を調整する機関として国家や法律が機能することになる。ブルジョア的自由という思想においては個人の自由と国家への奉仕は裏と表の関係ともいえる。だからリベラル派はこうした支配階級の根本的矛盾を乗り越えることは決してできないのである。
 だが、階級的意識を持った労働者が目指す自由はこれとは質的に異なる自由である。それはまず第一に社会は単なる「利己的個人の集合体」ではないということを知っていることである。本来の社会は一個の有機体であり、すべての働く人々がそれぞれの固有な能力によってその有機体の一部を担っており、その中で社会的に必要なモノやシステムが生みだされ、分配され、機能し、消費されている。だから他者との社会的紐帯を前提としなければ自己の自由はありえないことを知っている。たとえ他者との競争があってもそれは互いに相手を高めるための競争であって、決して相手を打ち倒すための競争ではない。そのような関係の中で自分を高めていくと同時に社会を高めていく自由が労働者階級的自由である。
 日本をはじめアジアでは家族的紐帯が古くから社会の倫理的側面を支えてきたが、それは古代や中世においては宗教的倫理と相まって支配階級の統治の手段として利用されてきた。その残滓が日本でもつい70年前まで通用していた。だから資本主義社会が西欧で生まれ、アジアに持ちこまれて「近代化」が進められる過程で、西欧的「個人主義」や「自由主義」への反発が当然現れ、それは天皇を頂点とする父権的家族を紐帯として国家をイメージさせる思想になっていったと考えられる。
 ここでいう労働者階級が主導権を持つべき社会は、それとは完全に異なる。個々の労働をつなぎ合わせることで個人の能力を社会全体の能力としていくボトムアップ的紐帯による社会と考えるべきであろう。そこにはブルジョア的自由やアジア的家族主義と全く質的に異なる自由があり、それを支える倫理があるはずである。
それが具体的にはどのような形の社会となって現れるのかは、これから先の歴史の中で労働者達が直面する現実的諸矛盾との闘いの中で勝ちとっていく自由の形によって決まるだろう。

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2016年5月30日 (月)

ブルジョア的「自由民主」を超えるものは何か?(その2:労働者階級の自由とは?)

 いまブルジョア的自由を体現している支配層は、一国内での市場競争を超えて、世界全体が一つの市場となって競争し合う形となっている。競争の主役は資本であり、その人格化である資本家たちである。彼らが雇用する労働者はいまでは頭脳労働者が大半を占め、身体的労働を行う労働者は「生活水準の低い」国々の労働者や「先進資本主義国」の貧困層がほとんどである。頭脳労働者はいわば資本家の頭脳の代行を行う労働者であり、高学歴者が多い。これら頭脳労働者の多くは、国境を越えてさまざまな国へ出向いてその国の労働者の管理などを経験する。そしてやがてその中からもっとも能力が高いと資本家に認められた者はその企業の経営陣に加わる。その名の通り資本の機能を実行する「エグゼクティブ」として。

一方身体的労働者は単純な作業を主としており、代替がきくため、企業の都合で首のすげ替えや雇い止めなどにされやすい。「使い捨て労働者」である。そのためさまざまな企業に短期間雇用されることを繰り返す非正規雇用が多くなり、つねに、より賃金の低い国々の労働者に仕事を奪われる脅威に晒され、不安定な生活を余儀なくされる。彼らは生活に余裕がないため結婚もできないことが多く、たとえ結婚して子供ができても高額な教育費が払えないので、子は大人になってからも安定した職に就けないことが多い。

 富裕な労働貴族たちはますます富裕になり、「起業」などによって新興資本家(つまり支配階級の一員)になるチャンスも得やすくなる。一方下層労働者はますます貧困化し、他国の低賃金労働者たちと劣悪な条件で競争しなければならなくなる。こうして労働者間の格差は拡大する。

  いま資本主義経済化の進んだ国では、情報、サービス(介護・医療なども含む)などの産業に従事する労働者が増えており、他方で工場でモノを作る労働者は生産拠点が低賃金労働の国々に移ったため減少しているが、土木建設、物流、小売り業などモノの世界で働く労働者は増えている。当然ながら世の中、情報やサービスだけでは成り立たず、生活を支えるモノが必要だからである。また毎日人々の労働や生活を支えるための社会インフラで働く人々、例えばゴミの収集や道路の清掃・補修あるいは危険な電柱上や汚い屋根裏などで電気配線などの維持修理を行う人々の存在なくして社会は成り立たない。社会を一つの有機体と考えれば、身体的労働も頭脳労働もともにその手足や脳に当たる。どちらが低級でどちたが高級な仕事かなどという比較はできないはずだ。そういった比較ができるのはただ労働力が商品として価格を付けられる社会においてのみである。頭脳労働者は身体的労働者に対して、優越意識を持ち、身体的労働者は自分自身を蔑視しがちである。しかし、ともに社会が必要とする労働を行う労働者階級の一員であり、そのことに同じプライドを持つべきであるし、互いにそれを認め合うべきである。
 労働者が階級としての自覚を持ち、団結するというのは、単に雇用主である資本家に賃上げや労働条件の改善を求めるためだけではない。それはほんの端緒に過ぎず、そこから始まる新しい社会の仕組みづくりへの一歩である。それは資本がとっくの昔に国境を超えてグローバルに循環しているのだから当然それに対決するために国境を超えて団結しなければならないはずだ。
資本家階級は国境線を引き「国民国家」という形でその支配的統治の普遍化を図るが、それは同時にまた「私的所有の自由」と「自由な市場競争」という資本のイデオロギーによって生みだされる「国民国家」間での戦争を繰り返すことになる。一方でグローバル化しながら他方で「国民国家」を普遍化しようとする矛盾。そしてつねにその矛盾の犠牲者は「ナショナリズム」というイデオロギーによって戦場に駆り出される労働者階級なのである。
 社会の主役である労働者階級による社会的労働が、それを自らの私的所有を増やすための手段として用いる資本家階級によって支配されてしまっている社会、それが資本主義社会である。
その社会に内在する「自由」の対立は一言でいえば、「社会的生産を私物化する自由」と「社会を支える労働者の連帯的所有に基づく自由」の対立である。
そして「社会的生産を私物化する自由」 を主張する資本家層は、資本家のために賃金奴隷として働く労働者の存在なくしてはあり得ないが、労働者は資本家によって私物化された社会的生産を資本家たちの手から社会全体のために取り戻すことによって、はじめて自由な労働者として解放されるのである。
それは、商品の購入によって、つまりお金によって他者の生みだした富を自分のモノとして私有化する自由では決して なく、人々の協働によって生みだされる社会的富をその協働の一員である自分がその労働の成果を他者と分かち合い、それによって自分と他者の社会における存在意義を互いに理解し合うことのできる自由である。

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