哲学・思想および経済・社会

2018年1月18日 (木)

社会主義理論学会第76回研究会に参加して(付録)

 このブログへの「迷える羊」さんからのコメントもあり、またそれがいまの若い人たちの見解を代表したものの一部とも考えられますので、ここで若い世代の人たちに向けてちょっと一言付け加えておきます。

 人の人生はその人が生まれて死ぬまでに過ごした生活を現出させている歴史的背景、つまり時代背景があるといえます。私が若者だった時代は戦後の高度成長期で、戦争で壊滅的となった日本の産業が再び立ち上がろうと懸命の努力をしていた時代でした。当時は資本家達も会社を大きくしていくことで日本の経済事情を改善し労働者の生活も良くなるだろうという思いがあり、学生や労働者もその思いを一部共有し実質的にそれを支えていたと思います。
 しかしやがて企業間の競争が激化し、さらには輸出を拡大して国際市場から利益を得ようとする新興企業が次々と登場し、アメリカなどと貿易摩擦が生じたり、国内的には工場廃棄物やクルマの排気ガスなどによる公害問題が増大しました。資本主義経済の矛盾がさまざまな形で一挙に現れたのです。最大の貿易相手であったアメリカ(終戦後の一時期にはアメリカ的生活や文化が若者のあこがれの的でした)がソ連圏との対立で核戦争の危機をもたらし世界のあちこちで地域的代理戦争が起きました。そうした中で、日本の企業が莫大な利益をあげてわれわれの生活もそれによって向上してきたように思えるのも、実は一方でこうした矛盾を生み出すことなのだということに気づきました。
 戦後「社会主義圏」からの影響を大きくうけていた学生運動や労働運動は、その時期から反戦や反公害運動を基調としたものに変化して行き、私もその影響を大きく受け、資本主義社会とは何なのかを真剣に考えるようになりました。
 しかし未熟で小市民意識を克服し得なかった当時の学生運動が必然的に下火になり、学生達もいつのまにかどこかの企業や公共事業体に就職して行き、サラリーマンとなっていきました。やがて日本の資本家達や政治家達は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われて自信過剰になっていきました。そしてモノとカネがありまるバブルの時代になっていったのです。学生の就職率も高く、「消費」もどんどん増えましたが、今思えば何とも醜い時代でした。
 そしてその醜いバブルは当然のことながら崩壊し、20世紀末には戦後最大の経済危機がやってきたのです。そして若者達は「氷河期」と呼ばれるような就職難に落とされ、生活に苦しみ将来に希望を失っていきました。
 このような資本主義経済の激しい浮き沈みの中でも労働者達は営々と企業のために毎日働き、諸外国からは日本人は「働き中毒だ」と言われていました。つまり日本の労働者階級はずっと勤勉であり続けたのです。しかし彼らを雇用し働かすことで莫大な利益を獲得してきた資本家企業の経営者達は労働者達の労働の成果を社会に還元させることなくいたずらにあまったカネを右から左へ動かすことでバブルという幻の楼閣を生み出しそれによって稼ぎまくっていたのです。
 20世紀末から21世紀初頭の長引いた経済不況の間、若者達は全体に暗い時代のなかに置かれていました。だからその状況を少しでも忘れさせるために「前向きな気持ち」をことさら強調させられたり、おもしろおかしいエンタメに没入していった人も多かったように思います。
 その後アメリカ発のIT産業による「情報革命」や中国などの巨大な新興資本主義国や市場が登場し、事態は再び一変しました。そしていま世界(資本主義)経済は好調で就職率も過去最高だと言われています。しかしこれはおそらくたまたまそうなっているように見えるだけであり、その内実は実に危ない橋を渡っていると思います(その理由はこのブログのあちこちで書いています)。
 というわけで、つねに資本主義に振り合わされ続くけてきた労働者達の生活があり、その中でいかに自分なりの希望を持ち続け、何とか人生を全うしようと努力することは当然ですが、その振り回され続ける人生の背景、つまり何故いくら勤勉に働いてもそうなるのか?という問題に少しでも関心があるならば、その矛盾の謎を解き明かし克服しようとして人生のすべてを捧げ尽くしたマルクスやレーニンに興味を感じてもおかしくないでしょう。

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2018年1月17日 (水)

社会主義理論学会第76回研究会に参加して(その4)修正版

(前回から続く)

 国分氏の主張は、要するにポスト・スターリン主義社会でも国家や市場経済は存続し、資本主義経済体制での株式会社制を労働者の持ち株会社として転換し、そこに共同占有社会(富の個人分有と生産手段の占有)という形を実現して行くというものであろう。どこかで見たことのある主張であるが、これはどう見ても社会主義社会などではなく資本主義の「改良版」である。国分氏の主張の一番の問題点は、スターリン主義体制へのどのような批判に基づきこうした主張が出てくるのかであろう。
 レーニンは確かにマルクスの考え方を継承して、それを眼前のロシアの状況を踏まえてそれに適応させるべく党綱領の草案を考えたであろうが、だからといってそれがスターリン主義の源流となったと単純に言うことは出来ないはずだ。
  前述したようにレーニンがあくまで過渡期社会への対応措置として実行しようとしたプロ独や生産手段の国家所有といった政策をスターリンは絶対化し、プロ独を一党独裁体制へと変貌させ、それに基づく一国社会主義建設を至上命令としてしまったことが本来の社会主義への道を閉ざさせることになったのだと思う。
  むしろ本来の意味でのプロレタリアート独裁を徹底させていくことにより、それを生産手段の社会的共同所有の形態にまで高めて行くことができれば、社会主義社会はかつてのスターリン主義的「社会主義国」とはまったく異なる姿になり得たのではないだろうか?
  前衛党はプロレタリアートを指導する立場にありながら、同時に彼らが直面する現実的諸問題からさまざまなことを学ばねばならないし、プロレタリアートが完全に支配階級となることができ、階級社会が終わりを告げたときには「党」も消滅することになるはずだ。
  そこには社会的共同体の生産と消費を管理しそれを運営する労働者の組織が必要であるが、それは労働者自身の主体的判断で運営され、だれかの指令やノルマに従うものではない。
 それと同時にこうした社会共同体は、ある地域全体を一つの単位とした生産管理と行政が一体化した組織が共同生産体制を形成することになると考えられるが、それらの地域社会共同体はさらにそれらの複数連合体を作らざるを得ないだろう。それぞれの地域の条件や特徴があるからだ。当然それらの地域共同体間での物流や情報網などのインフラ網は必須であるがそれはもはや資本の商品流通やその手段としてではない。
  これら非階級社会の連合体はグローバルに結びつきどこに「国境」があるのかも定かではないだろうし、それを「非政治的国家」と呼ぶが呼ばないかはあまり問題ではなく、むしろそれがブルジョア国家とどう違うのかが問題であろう。
  ブルジョア国家はそれを実質的に支配する資本家階級の私的所有権と利権を護るための「共同体」であり、そこでは労働者も資本家もともにその国家を維持し、護るための法律があり、その下で「合法的に」労働の搾取が行われている。そして何よりも「自由競争による市場」を前提としたブルジョア国家どうしの際限のない利益獲得競争が必然となり、互いに自分の利害を護りながら競争に打ち勝つために「政治的戦略」やそれをバックアップする「暴力装置」を必要とすることが特徴である。
 現在の「グローバル資本家」達はしかし自分たちの国境を越えて全世界で資本を流通させ回転させねばならなくなっているので、つねに、一方で「経済的互恵関係」を主張しながら他方で同時に軍事力の増強を必要とし、それによる国境や領海の管理に怠りない。こうしたブルジョア国家のもとに置かれた労働者階級はその上部構造である支配的イデオロギーに染め上げられて「愛国心」を高揚させられ、一朝事あれば、支配階級のために戦争に駆り出され命を捧げさせられる。スターリン的一国社会主義はこうしたブルジョア国家と区別がつかない国家として大量の労働者・農民達をこうした国家間の戦争に送り出したのである。
 これは資本主義社会の経済がグローバルに発展すればするほど激しくなる対立で、ブルジョア国家とはこうして一つの国家において経済的国家と政治的国家が矛盾的同一性を保っていると考えられる。経済的には一国では成り立たず、しかし国家間の競争と利益争奪戦は避けられないという矛盾だ。
  プロレタリアートが主役となった社会共同体ではこのような矛盾は当然なくなっているはずだ。戦争をこの地球上からなくすためには世界中の労働者階級が、すでに形成されつつあるグローバルに結びついた経済的基盤の上でこうした共同社会連合を目指して手を結ぶことができるようになることを目指すのはいわば歴史の必然といえるだろう。そしていまそれを意識的に進めるための国際組織が絶対に必要であろう(スターリン体制はそれを放棄してしまった)。
 国分氏が「一国一工場」制という場合の「一国」はこうした労働者の共同体内が生産体制としてあたかも一つの生命体のように有機的に結合され、それぞれの労働者の主体的判断の下で運営される状況を指すのであれば理解できる。しかしそれはスターリン体制では実現され得なかったし、資本主義社会の株式会社制でも当然実現できるはずがない。
  株式会社の従業員全員が株主となってその会社を運営したとしても、市場経済が存続し、相変わらず労働者と資本家の関係は存続するであろうし、賃労働という形の労働力の商品化はなくならないであろう。それは相変わらず私的所有にもとづく商品経済社会であって、社会的富を私的に占有しようとする欲望がつねに社会を支配し、それに成功した者が支配階級となる社会は存続するだろう。
 そういう意味でこの国分氏の主張は私にはまったく評価できない。
 最後に、この「社会主義理論学会」への参加者を見るとほとんどが(私を含めて)中高年の人々であった。若い人はほとんどいなかった。そのこと自体、つまりこうした学会での研究がいまの若い学生や労働者にとってリアリティーがあるものなのか、そこが大きな問題であると感じた。
 以上
 

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2018年1月16日 (火)

社会主義理論学会第76回研究会に参加して(その3)

(前回から続く)

 2番目の講演者は、国分幸氏である。テーマは「ポスト・スターリン主義の社会に寄せて」であった。国分氏は、まず、「1:スターリン主義体制は「一国一工場」体制である。」という大項目から論を展開した。
  国分氏は、現存した社会主義国はユーゴを除いて、いずれもレーニンの4つのテーゼに集約される特徴を持っていると指摘する。
 それは、(1)共同所有=国有、(2)社会主義社会=国家独占的な「一国一工場」体制、(3)市場廃止の国営計画経済、(4)社会主義社会における「階級のない(非政治的)国家の存続」であるという。
  この4つの括り方については何故そう言えるのかが示されなかったし、実際にそのように括れるのかは私には甚だ疑問に思える。その上で、国分氏は上記の4つについて次の様に述べた。
 (1)についてはマルクス・エンゲルスによる直接的主張はないが、レーニンの「ロシア共産党綱領草案」に出てくるもので、非政治的国家による国有を共同所有(社会的所有)とするものである。だから(4)のテーゼと関係する。マルクス・エンゲルスの場合、共同所有(社会的所有)は、民法の「共有」とは異なり、共同体所有(総有)を意味する。さらに後期マルクスの「4つの大きな謎」として挙げられている「国有は共同体所有か?」「社会主義に国家は存続するか?」「再建される個人的所有とは何か?」「共同所有を共同占有と改定したしたのは何故か?」という諸問題とも関連する、と述べ、ここでも指摘されたこれらの諸問題間の連関や論理的な展開はされなかったが、単なる問題提起と考えるべきなのであろう。
 上記(2)のテーゼについては、マルクスは「社会的生産を自由な共同労働の一大調和的体系(one large and harmonious system)に転化する。」(暫定中央評議会派遣員への指示1868)、「共同の生産手段を用いて労働し、協議した計画に従って、多くの労働を一個同一(une seule et meme)の社会的労働として支出する自由な人々の一つの連合体(une reunion)を考えてみよう。」(フランス語版資本論)、「工場制度(le systeme)のこれら熱狂的弁護者たちは、「いったい諸君は社会を一つの工場(une fabrique)に変えたいのか?」と金切り声を発する。(同上)、「...すべての生産手段が全国民から成る巨大な連合体の手に集積されたならば、」(英語版 共産党宣言 エンゲルス)、さらにレーニンはこの体制を「一事務所一工場」(国家と革命) と明言している、と国分氏は問題提起する。
 さらに上記(3)については、市場廃止の計画経済として、「一国一工場」体制には全国規模での経営・管理の中央集権化とそのための諸機関が「不可欠であり、そうした計画経済を担いうるのは国家に類したものだけである、と述べる。これは問題提起ではなく国分氏の主張であろう。
 そして(4)については、マルクスが「人民全体が統治するようになる。そうすると統治される者がいなくなる。...そうなれば、政府はなくなり、国家はなくなるだろう」というバクーニンの主張を受けて「階級社会が消滅すれば、今日の政治的意味での国家は存在しなくなる」と述べているが、ゴータ綱領では「国家制度(Staatswesen)は共産主義社会においてどんな転化をこうむるか、換言すれば、そこでは今日の国家機構に似たどんな社会的機能が残るか?...共産主義社会の将来の国家制度 ...」と述べていると指摘し、これらのマルクスの言葉に置いて、彼が共産主義社会に非政治的国家が存在することを事実上認めたものと考えられる。そしてレーニンはこれをより明確に追認している、としている。
 したがって一国社会主義を主張するスターリン主義の歴史的な根は深いといえる、と国分氏は指摘する。
 国分氏は次に「2:国家死滅論の諸課題」という2番目の大項目に入る。ここでは、レーニンの2段階的国家死滅論(プロ独国家→ブルジョアなきブルジョア国家(階級のない非政治的国家)としての社会主義段階→非政治的国家も死滅した共産主義段階へ)を挙げ、このような従来の国家死滅論の前提として、社会の階級への分裂を伴う経済的発展がこの分裂によって国家を必然とした、というテーゼと、階級の死滅とともに国家も不可避的に死滅する、というとらえ方がされていると指摘する。
 ここで国分氏は、次の様に主張する。政治的国家には二つのタイプがあり、一つは、専制主義時代以前の古アジア的国家であり、共同体所有とそれを外敵から防御する機構の形成→その自立化とそれに専従する集団の支配階級化(分業に基づく階級)という形で国家が形成された。二つ目は古代ヨーロッパ的国家であり、そこでは奴隷制や商業の伸展に基づく私的所有の発展が階級対立として激化し、そこに国家が形成された。そして第二のタイプは国家死滅のテーゼも論理的帰結として理解できるが、第一のタイプでは共同所有に基づく階級社会と政治的国家が存在し、政治的国家の死滅というテーゼは当てはまらない、と主張する。
 その上で国分氏は、「一国一工場」構想は市場廃止の計画経済を目指すサンシモン派、フーリエ派、ブランキ、ブレイなどの流れから必然となったものであり、マルクスの構想にもそれが反映されていると指摘する。
 そして最後に「ポスト・スターリン主義の社会主義の基本的特徴として、次の様な項目を挙げる。(1)市場経済に基づく、(2)資本主義の株式会社を協同組合に転換する。(3)協同組合的所有(含有)を共同所有の形態とする(従業員持株制)。(4)生産手段の共同占有(Gemeinbesitz: 共同組合による自主的な経営・管理)、(5)利潤の共占有(Mitbesitz: 利潤分配制)。
  そしてこう結論する。この社会では、従来は資本家や地主などの特定の人々に限定されていた人格的独立性が、個々人の持ち分を伴う「含有」(個々人的共同所有)を物的基礎にして、万人の享受できる普遍的権利となる。ちなみに「この社会にも非政治的国家は存在する。
 以上が国分氏の主張であるが、これらの主張は古典的な文献からの引用にもとづくものであり、現在の資本主義社会の状況や、スターリン主義体制がなぜいかにして形成され崩壊したかなどの分析は一切行われていない。だから最後の結論もリアリティーがなく、資本主義体制内での「改良主義的提案」としかいいようがないものになっていると思う。 正直その観念論的恣意性とリアリティーのなさに失望した。
 これについて逐一検討する必要もないと思われるが、私のコメントを次回に記すことにしようと思う。

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社会主義理論学会第76回研究会に参加して(その2)

(前回からの続き)

 講演の後、紅林氏に対して慶応大の大西氏から次の様な3点についての質問があった。(1)紅林氏がNPOなどの非営利的協同経済システムを育成することが重要であるとされたが、それは基幹産業においては困難が多い。そこでやはり「株式会社社会主義」という考え方も必要だろう。(2)「プロ独」=独裁という図式は正しいとはいえず、政治的な意味での「プロ独」と「階級的独裁」は区別すべきである。(3)民主制に対して楽観的すぎる。多数決の暴力ということもあり、少数者の存在が過小評価されやすい。かつての「ソヴィエト・システム」では労働者、農民、知識人などの階級連合が目指され、そこでは単なる多数決ではなくそれぞれ異なる集団間での利害の調整が試みられた。

 その後、村岡氏から大西氏への反論としての質問があり、「プロ独」は絶対に否定されるべきだ、マルクスは間違っている。今日の議会制民主主義の下では政治と経済は完全に分離されいるからだ、という主張が述べられた。
 紅林氏からはこれらの質問に、支配と独裁は区別すべきだと思う。民主制については議論の過程が重要である、と応えた。
 その後、平岡氏から、マルクスが主張する生産力の高度化が社会主義を可能にするという考え方に反していまの資本主義は生産力の増大が限界に来ているのではないか?という問題提起があったり、遠藤氏や岩田氏から国連機関に関する問題点の指摘などがあったが、佐藤氏から、協同組合連合の運動は誰がそれを指導するのかが問題だ、という指摘があり、紅林氏がそれに対して、協同組合運動は直接に社会主義を目指すものではない、と応えていた。
 最後に、旧民主党系の人から、紅林氏の考え方はフェビアン主義とどこが違うのか?という質問が出たが、紅林氏は、フェビアン主義とはある面で協調はできるが私の立場は基本的にはマルクス主義だ、と応えた。
 以上がこの講演とそれを巡る質疑の概要であるが、最後にこれらに対する私自身の疑問点を記しておこう。
 紅林氏は「社会主義的変革」としてわざわざ「的」を付けているが、その意図は直接社会主義変革は行えないがそれに向けた部分的変革を意味する、と述べている。それがあの3つの方法の提案なのだと思う。しかし、同時にその方法が限界を持っていることも確かである。だから彼は「資本主義下における民主主義の限界」や「民主制≠民主的な政治」という事実を指摘しているのだと思うが、その限界を超えるために必要なのが「経済民主主義の徹底」や「参加民主主義の徹底」なのだろうか?私はそうは思わない。そしてその疑問はさらにマルクスやレーニンが肯定した「プロレタリア独裁」の否定に対する疑問に繋がる。
 マルクスもレーニンもそれがあくまでも社会主義への過渡期の政治形態であることを強調している。まだ労働者階級が社会の政治経済的実権を確実に握ったとはいえない不安定な事態でのある意味でやむを得ない政治形態なのである。パリコンミューンもボルシェビキ革命もそのような状況で実行された。そしてその「プロ独」肯定がスターリン主義体制を生み出したとする指摘に私は反対だ。なぜなら、スターリン主義体制はこの「過渡期政治体制」としてのプロ独を一国社会主義と一党独裁の「絶対化」という形で疎外された形にしてしまったことに原因があるのだと思うからだ。
 もし、現代の資本主義社会では議会制民主主義が定着し、そこではマルクスやレーニンの時代と違ってその枠内で「社会主義的変革」が可能であり、そのままそれを段階的に進めれば「社会主義」が実現されるのであれば、「プロ独」などという政治形態は不要かもしれないが、現実にはそのような資本主義の枠内での漸次的社会主義の実現などはあり得ず、単なる幻想に過ぎない。
  なぜなら、資本主義社会はその経済的基盤において「資本主義」なのであり、現在の議会制民主主義はその上部構造としての統治形態に過ぎないからだ。
 20世紀後半以降、当時の「社会主義体制」からの影響で始まった資本主義経済体制の修正変化に伴い、過剰化した資本を労働者の生活資料商品という形に転換し、それを労働賃金によってどんどん購入させ消費させることによって資本の過剰化を防ぎながら(資本の)成長を維持する形態に変わってきた。その中で労働者階級は実際には生産現場で価値を生み出す労働を行いながら資本からは「消費者」として位置づけられ、労働賃金を一定程度高騰させながら労働者にそれを生活資料購買に支出させることによって資本が潤う形をとってきた。それが際限のない「消費拡大」とそれによる資源・環境破壊をもたらすことになったと同時に、労働者階級が「階級」としての団結と自覚を失い、「生活保守主義化」し、アトム化された諸個人として「消費者の要求」を「自由に」申し立てることで不満を解消させようとする社会に変わってしまったのだと思う。
 こうした状況では議会制民主主義は単なる「支配的イデオロギー」の内部での「市民的意識のぶつけ合い」しか行い得ない場となってしまってるし、労働者はすでに自分自身を「労働者階級の一員」であることすら意識しなくなっている。労働者階級は「市民意識」に染め上げられた「中間層」と「市民意識」から疎外され希望のない下隅の生活を余儀なくされている人々に分断されている。こうした深刻な事態をまず認識することが重要であると思う。
 さらに、労働者協同組合や社会的連帯経済などを資本主義経済へのオルタナティブとして育成することも必要ではあるし、それは「協同組合運動は直接に社会主義を目指すものではない」かもしれないが、まずその経済組織を運営する労働者自身が明確な階級意識を持つことがなければ資本主義市場の中では単なる資本主義経済システムの補完物にしかなり得ないであろう。
 そして社会主義政党は、まずその組織自体の内部機構が資本主義的企業や政党とは異なる歴史的に新たな民主制(労働者階級的民主制)の形態を取った(あるいは目指す)ものであるべきで、そこから初めて「独裁的ではない政治」の可能性が生まれるのだと思うが、それは「大衆政党」であってはならないと思う。
  なぜなら、資本主義体制のもとで「大衆化」された労働者その他の人々は思想的には何ら確たるものがなく、支配的イデオロギーの補完としてのポピュリズム的意識状況をつねに持っているからだ。まずはそれらの「大衆」に迎合することなく、どう向き合うのかが問題であろう。したがって社会主義政党は今後も資本家階級とその政治体制と対決する場面では、ある歴史的条件によって「プロ独」の形をとって「変革(革命)」を遂行する必要が出て来ざるを得ないと思う。
 そして今日のグローバルな資本主義体制の下では国際的な労働者階級の連携組織が必須であり、資本主義諸国の互恵を目的とした国連機関などに頼るのは馬鹿げていると思う。
 次回は2番目の講演者国分氏の講演について述べることにしよう。

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2018年1月15日 (月)

社会主義理論学会第76回研究会に参加して(その1)修正版

 昨日慶応大学で開催された表記学会をのぞきに行ってきた。内容は、紅林進氏の「民主制の下での社会主義的変革」と国分幸氏の「ポスト・スターリン主義の社会主義について」という二つの講演とそれをめぐる質疑であった。

 紅林氏の講演は同名の著書の発刊に合わせたものであったが、その内容の一部に関する以下の様なものであった。
  まず「社会主義的変革」の定義として、生産手段の私的所有を廃止し社会的所有とする。労働力商品化の廃絶。生産現場における労働者主権の確立。経済民主主義の徹底。経済を市場に任せるのではなく、意識的計画的なコントロール、とする。
 「民主制」については、人民主権の下、「人民の、人民による、人民のための政治」を行い、具体的には、自由・平等・公正な選挙と複数政党制に基づく議会制民主主義と、人民が直接参加する直接民主主義により行われる政治制度、とした上で次の様な論を展開する。
 民主制イコール民主的政治とは必ずしもいえないが、マルクスやロシア革命の時代と違って、今日では普通選挙の実現により、議会制民主主義に基づく政権交代や変革が可能である(暴力革命の否定)。しかし、資本主義下での民主主義の限界として、労働現場、生産現場における民主主義の欠如、資本の専制支配が問題となる。そこでは私的所有権、経済的自由、市場経済の絶対化が原則とされ資本による経済、政治支配が行われている。
 そこでこの<資本主義の限界を乗り越えるため>、労働現場、生産現場を含めた<経済民主主義>の徹底、私的所有権や経済的自由の絶対化を改め、社会権、平等性を重視するとともに、直接的民主主義を含めた<参加民主主義>の徹底と情報公開の徹底をさせ、中央集権的官僚機構の分権化、民主化、政治家や高級官僚へのリコール制の拡充、教育委員など一部の公務員への選挙制の導入、軍隊や警察機構の縮小や民主化(自衛隊や警察にも労働組合を)、治安立法の廃止、などを進める。
 ここでマルクスの経済理論や政治理論とどう向き合うかが問題であるが、経済理論は以下の問題については基本的に継承すべき(ただし科学的検証が必要)である。それは労働価値説、搾取の否定(剰余価値理論)、生産手段の私的所有を廃止し、社会的所有にする。労働力商品化の廃絶。市場に任せるのではなく意識的計画的な経済をめざす。労働者生産協同組合の連合体を形成し、<アソシエーション型の経済・社会>をめざす。これらにはソ連型社会主義経済の失敗も含めて再検討すべき課題もある。
 マルクスの政治理論には問題が多い。例えば<プロレタリア独裁の主張という誤り>。彼が「ゴータ綱領」の中でパリコンミューンについて評した中で資本主義から共産主義への過渡期の段階では政治的過渡形態としてプロレタリアート独裁を肯定し、レーニンもこれを「どんな法律によってもどんな規則にも束縛されない無制限の権力」として肯定したがこれは誤りであって、結局のちにスターリン独裁体制に繋がった。ロシア革命は良くも悪くもその後の資本主義社会や開発途上国の革命のありかたに多大な影響を与えたが、一方でプロ独や暴力革命を奉ずる左翼を生み出し、他方で議会制民主主義を通した変革を阻害した。
 しかし民主制の下での社会主義的変革はさまざまな困難性(形式的な自由・平等主義による階級の隠蔽、労働者の生活保守主義化、旧ソ連圏の崩壊によるオルタナティブの喪失など)を生む。そこで、それを克服して社会主義的変革を実現させるにはどうすればよいかを考える。そこで次の3つの提案をする。
 (1)資本主義の枠内での政権交代、政策、諸立法などによる大企業に対する規制や改革の推進。しかし政権を担うのは一党である必要はなく、連立政権や連合戦線的な政党でよい。
 (2)労働運動や社会運動の推進。資本の搾取や収奪、専横に対する対決や交渉を通じて、資本主義の矛盾を明らかにし、労働者の団結を促し、労働条件の改善を図ると共に生産の主人公が誰なのかを示して、社会主義に向けて労働者の意識を高める。
 (3)非営利的共同経済システム(労働者協同組合、社会的連帯経済、社会企業、NPO、NGOなど)を育成し、それによって営利中心の資本主義に代わるオルタナティブな非営利経済組織、経済運営が可能なのだということを示し、それによって社会主義に親和的な価値観や意識をつくりだす。
 最後に、社会主義政党の役割について。社会主義に向けた新しい社会のビジョンを打ち出し、具体的で実現可能な政策として提示し、その実現にむけて民衆に訴え、組織し、活動して行く役割としてきわめて重要である。<この政党は一枚岩である必要はなく、多元的な価値観や考えを尊重し、知的、道徳的ヘゲモニー(ただし前衛主義に陥らないように注意が必要)の党であるべきで、党内的にも民主主義を徹底すべきである>。
 以上が紅林氏の主張であるが、ここで<>で括った部分は私が注意すべき点としてマークした部分である。
 紅林氏の主張は最後の3つの提案に集約されていると考えられるが、私なりに整理すると、次の様になる。
  まず議会制民主主義の枠内での社会主義の実現を目指し、そのためには社会主義政党が労働組合や民衆への社会主義ビジョンを示しそれへの具体的実現に必要なプロセスを段階的に促し実践することによって労働組合や生産現場の人々の意識を社会主義容認へと導く必要がある。しかし社会主義政党は「前衛党」ではなく「プロ独」は否定されるべきであり、あくまで直接的民主主義に基づく政治を行う大衆政党であるべきだ。そして経済体制としては 資本主義経済体制にはオルタナティブとして対抗しうる具体的経済体制として非営利的協同経済システムを育成し、国際的には国連機関などへの働きかけを通じてグローバル化した資本への規制や労働者の権利を確立させていく運動を展開することで、国際的な連携による社会主義体制を生み出していく、という主張であると思われる。
  これについての私の詳しいコメントは紅林氏への参加者からの質疑を含めて次回で行うことにする。
 

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2018年1月 7日 (日)

AIが「人工知能」であるということの再確認

 AIがビッグデータからの学習で人間を超えた予測と判断能力を持つようになり、やがてはあらゆる部面で人類の能力を超えたAIが登場する。という問題(シンギュラリティ)が人々に期待と不安を抱かせているが、この問題については以前このブログでも取り上げた。しかし今朝の朝日新聞などでは、人間がAIに勝るのは「意味を知る」ことだとしか言っていないのを見ると、まだこの問題には解答が与えられていない様に思える。

 言葉や文章の意味を理解するということはある面では現在のAIもその能力を持っている。構文解析や膨大な辞書機能を組み込んだAIはそれを可能にしている。翻訳できるAIもすでに実用化され一般に普及している。
 ここで「意味を理解する」というのはもっと「深い意味」のことであろう。それは例えば、「目的」である。何のためにこれをやるのか?その目的の意味を理解していなければ、いくら「適切な手段」を探しても求める答えはえられない。
 その「目的」はある特定の個人が置かれている状況や背景に深く関わっていると同時に、その個人のこれまで生きてきた人生の中での体験や学習などのすべての内容、さらにいえば、それを特定の人格として表現させている生物学的根拠であるDNAの形成過程までをも含むすべての歴史的要素が凝縮されて「問題意識」やそれへの解決の方向づけとしての「目的意識」を生み出していると考えるべきであろう。たとえそれが眼前のきわめて具体的問題の認識であってもそうである。人間はそうとは意識せずとも、この「深い意味」を背景に背負って、ものごとへの「認識」と「判断」を下すのである。
 この個人の「問題意識」や「目的意識」の持つ深い意味を理解することはたとえ人間であっても「他者」の立場からでは難しい。ましてAIに於いておや、である。ここに芸術表現や情感などが人間には必要になる根拠もあるのだと思う。芸術は構文解析や辞書機能が役立たぬ世界である。
 そもそもAIとは人間がある必要に迫られて生み出した「手段」であり、人工的に作られた「知的道具」なのである。手段や道具が目的を脅かしたり変更させたりすることはあるが、それはほとんどの場合、「目的」が間違っていたことを人間に理解されるために意義をもっているのであって、違和感を感じながらもいやいやながら道具や手段に支配されることは本来の主体としての人間にはありえないといえるだろう。
 もしそのような事態が生じるのであれば、それは主体であるはずの人間が自ら生み出した道具や手段に支配されるような状況がそこにあるからだろう。
 人類はもともと「類的存在」であり社会共同体を形成することによって高度な文明を築き上げてきた。その共同体社会はその構成員である諸個人がそれぞれ社会生活に必要な労働を分担し合い、互いにそれぞれの存在意義を認め合って生活するのが本来の姿であったにも拘わらず、その社会が一握りの富や権力を持った人たちによって支配されている場合には、その社会の構成員が担う現実の分担労働とその役割に対する自覚も、「支配者に与えられた仕事、支配者達へのその謝礼」という形で結びつく。だから目的と手段の間に違和感があっても「お上のやることだから仕方がない」として我慢することになる。
 現代の資本主義社会ではこの関係が依然として存在しているにも拘わらず、「誰でもが努力すれば資本家として支配階級の一員になれる」というイメージが醸成され、「自由・平等」な社会としての外見を持つようになっているが、実は社会全体が諸個人の「分担労働」の成果をこの支配層達への蓄財に供するための労働という形になっている。
 だからこの支配層の蓄財のための手段である諸個人の労働が同じように手段であるAI つまり「人工知能」に支配されてしまうという不安を生み出すのである。そしてこの自らが支配層のための「道具人間」にされてしまっている現実の矛盾が不安感や不満を生み出すことへの対策として、「便利で楽しい」生活が演出され、人々にIoTを売り込み、こうした社会の進歩に遅れてはならないという感覚を植え付け、それによって本来不要な消費を次々に生み出すことで過剰となっている資本を処理しているのであって、そのこと自体がまた支配層のさらなる蓄財の手段になっているのである。
 われわれが目指すべきは、このような社会の延長上にある偽物の「便利で楽しい」社会ではなく、社会の諸個人がそれぞれその主体性を発揮できることがそのまま社会全体の発展に繋がる社会であり、そこでは諸個人の目的意識と社会の目的意識が一致する社会であるはずだ。
 そしてそこではAIは本来の意味で人間の道具であり手段であるはずだ。
 

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2017年12月 5日 (火)

「自由・平等・民主・公正・中立」とは何だろう?(修正版)

 先の総選挙で躍進した立憲民主党は「どんなイデオロギーにも偏らない公正中立な立場」の政党なのだそうだ。もうひとつの看板である「草の根的ボトムアップ」志向は私も支持するが、「公正中立な立場」とは一体なんだろう?

 前回のブログ「リベラル派がはらむ根本的問題点」でも書いたが、「リベラル」というのも一つのイデオロギーといえるだろう。そしていまではそれはいわゆる「中間層」を形成している知識(頭脳)労働者をバックに持った労働者階級の上層部と一部の新興資本家などのイデオロギーが結びついたものである思われる。
 「自由・平等・民主・公正・中立」などという概念は「保守派」も「リベラル派」もともに強調し、これが普遍的思想のように考えられているが、果たしてそうであろうか?
 確かにこうした概念はある意味で普遍性をもっていると思われるが、こうした概念が普遍的と考えられるようになったのは、近代になってからだ。つまりその背景に歴史性をもっているといえる。それはそれ以前の封建制や君主制という階級制が「保守勢力」として認識され、その歴史的使命が終わったと考えられるようになってから現れた新しいイデオロギーといえるだろう。それは旧勢力の体制では農業や手工業などで進化した生産力をベースにした社会の経済的運営がうまくいかなくなったという実態があったからであろう。
 そしてその新たな生産力を「富の所有」に結びつけて社会を発展させようとする資本家階級が登場したのであるが、それによってそれまでの体制は「旧勢力」あるいは「保守派」とみなされるようになった。そしてそれから250年ほど経ったいまでは、その資本家階級が支配勢力となりそのイデオロギーが「普遍的」とみなされるようになった。
 資本主義社会は一方で科学技術の劇的進化をもたらした反面で経済面での矛盾を露わにしてこの100年間で何度も危機に陥った。そのつど修正を施しながら生き延び、いまでは「社会主義に打ち勝った普遍的社会形態」と自負するまでになったが、実はその内実はボロボロで表面だけを何とか取り繕っているにすぎない。そのボロボロの内実があらゆる場面で噴出し、彼らはオノレの富を増やすことだけに奔走し、世界全体の先行きの見通しはまったくないようだ。つまり修正を重ねてきた資本主義体制はいまや世界レベルで合理的に人類社会を進化させるには不適切な「旧体制」となってしまったのだ。
 そうした状況に不満と不安を持った人々が新たな勢力の台頭を期待するようになっているが、それはともすれば「強いリーダーシップを持った」と称される独裁的政治家(トランプがその典型)であったりする。ちょうど1930年代の世界不況時代にヒトラーがドイツ民衆の圧倒的支持を得て登場したときのように。
 こうした独裁的政治家の多くは「リベラル」を「軟弱で結論をだせない連中の間違ったイデオロギー」として攻撃し、強力なトップダウン政治による経済発展を目指そうとする。
 実はすでに資本主義社会はこうした独裁体制のもとでないと効率よく動かなくなってしまったからである。「社会主義」を名乗る中国も内実は独裁的資本主義国家であるといえる。
 そしてこの独裁者でないとやっていけなくなった資本主義社会が支配権を確立していく中で表面に現れない形での抑圧と搾取を強められているのがいわゆる「開発途上国」の労働者階級である。
 経済的覇権を握っている「先進」資本主義国連合の経済的支配のもとで労働者が過酷な搾取を繰り返されている国々の労働者階級にとっては「先進」資本主義国の労働者階級が掲げる「リベラル思想」はまったく関心の対象にはなっていない。そんな高邁な思想より、明日も食っていけるかどうかの方がはるかに重大な問題だからだ。
 言い換えれば、「先進資本種諸国」の経済が世界経済を支配する中で実はそれらの国々の労働者階級はグローバル資本による「開発途上諸国」の労働者の搾取のおこぼれによって「中間層」の生活を維持できているにも拘わらず、彼らの犠牲を当然の前提として「リベラル」だの「強力なリーダーが必要だ」などと言い合っているのであって、「開発途上諸国」の労働者階級の悲惨な実像は彼らにとっては「人道的救済」の対象でしかない。
 そして同様に「先進資本主義諸国」内部でも忘れられた下層労働者階級 、例えば非正規雇用労働者や「自営業者」とされながら実際は労働基準法から除外された過酷な労働者であるような人々、そしてラストベルトの労働者たちのようなかつて資本家に莫大な富をもたらしながらその後社会の脱落者として切り捨てられた人たちが、毎日の生活に苦しみながら生きているのである。
 つまり「自由・平等・民主」は彼らのある種の「エゴ」の上に掲げられているスローガンなのであって、問題は「誰にとって誰からの自由なのか、誰にとって誰との平等なのか、誰にとって何が公正なのか」が問われなくてはならず、その視点からは「公正・中立」などという立場は本来ありえないのである。
 

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2017年11月15日 (水)

資本が太るほど社会は崩壊に向かう(「国難」の真実)

 安倍首相が先の衆院選挙で政権のキャッチフレーズとして「国難突破」を強調していたが、選挙で勝利した途端に、「国難突破」はどこかに吹っ飛んでしまったようだ。

 マスコミでは史上空前の株価上昇持続、GDPは今年もプラス、などと騒がれ、「人手不足」で失業率は最低に下がったと宣伝している。そして大企業の増収が続き、カネを右から左に動かすだけで何ら社会的有用労働を行わない投資家たちがぼろ儲けしている。これを支配層は「好景気」と呼ぶ。
  しかし大企業では儲けの大半を予測不能な将来の変化に備えて内部留保に回している。だから労働賃金は上がらず、正規雇用は増えない。人手が足りず儲けに支障が出れば即短期雇用契約の労働者を雇い、経済不況などで利益率が下がれば即労働者をクビにできるようにしているのだ。
 実質的に社会を支えている労働者階級の生活は「消費の低迷」にも現れているように、ただでさえ、子どもの教育費、住居費、介護・医療費、ガス電気通信費などに莫大な費用がかかり、両親は共稼ぎでないと生活を維持できなくなっている上に先行き不明な将来に備えて貯金など蓄財を増やさねばならなくなっている。
 これは結局、労働者の生活に必要な財やその子どもたちを次世代の労働者として育て教育する費用をすべて労働者自身の生活費から支出させようとする支配層の方針によるのである。しかもそうした労働者階級の生活費は商品購買を通じて生活資料を生産する資本家企業の儲けとなり、教育費は教育資本の儲けとなり、個人の貯金や蓄財は金融企業の儲けとなり、インフラ費用もすべてそれを経営する資本家企業の儲けとなるのである。だから「消費が拡大」しないと資本家達は儲けが減り、そこに雇用されている労働者の賃金も減らされるのである。
 このような仕組みの矛盾から、いま日本では「少子高齢化」が進み、これを安倍首相が「国難」と言っているが、実はその「国難」の真の原因を作っているのは「アベノミクス」に代表される戦後日本の資本主義経済体制なのである。
 戦後日本の資本主義社会は、戦争でゼロリセットを掛けられて、ほとんど壊滅状態から立ち上がり朝鮮戦争での「特需景気」などをテコとして急成長した。しかしこれは戦争で悲惨な経験をして家族を失い食うものもなくなった生活から何とかして立ち上がろうとした農民や労働者階級の必死の努力によるものであって決して資本家の経営手腕能力のせいではない。
 そして何とか将来の社会が明るいものとして見えてきた労働者階級は懸命にその「明るい未来」に希望を託して働いたのである。その結果が「高度成長社会」であった。だから本来ならばここで労働者階級によって生み出された社会的富はすべて社会全体のための共有財として労働者の子どもの教育費、医療費、その他の社会保障や老後に必要な諸費用などに用いられなければならないはずであったが、当然そうはならなかった。
  最初は年々少しずつ上がる賃金で子どもを大学まで進学させることができるようになり、国立や公立の比較的教育費の安い教育機関で優秀な若者が育っていった。そして実生活では次々と現れる家電製品やクルマ、エアコンなどの商品を分割払いで無理して買いながら徐々に「便利で清潔な」家庭生活を築いていった。
 しかし、その状態は1990年頃を境に変貌していった。資本主義経済固有の矛盾により必然的にバブルが崩壊した経済体制の中で賃金は相対的に低下し、失業者が増大し、「明るい未来」の夢はたちまち消えていった。
 やがて21世紀に入り「IT革命」などによって産業構造の一大変化が訪れ、企業の経営形態や労働者の雇用形態も変貌していった。しかし資本主義経済体制の基本は変化しなかったのである。そのため雇用は短期契約となり、経営者は「辣腕経営者」が何億円もの年収で国を問わずにスカウトされてくる様になった。彼らは、企業の収益を最優先し、「人員整理」や「合理化」などで労働者は犠牲となった。
 本来なら社会全体のための共有財として蓄積されなければならなかった富は、こうした資本家達のもとに占有され、激しさを増すグローバル資本間の競争に勝つために投資されていった。そしてそれを総資本の代表である政権が金融政策や経済・財政政策によって支えていったのである。
 いまや労働者階級は横のつながりを失った「個人消費者」としてバラバラな存在となり階級的な結束が失われ、一握りの巨大な資本の力の前に何もすることができなくなり、富裕層となった人々を除いて労働者階級の多くの人々は子どもを育てて未来の生活を築いて行ける展望も失いつつある。だから多くの若者は結婚もせず、独身生活を自分のためだけに楽しむという「閉じられた人生」に生きる意味を見いださざるを得なくなっているのだろう。この「深層のあきらめ心理」が若者達の保守化をもたらしているのだろう。
  やがて社会は家族同士の支え合い、世代間の交代などがスムースに行われなくなり、このままでは資本が太れば太るほど社会は普遍的な持続性を失い、崩壊に向かわざるを得なくなっている。安倍首相は歴代の自民党政権がその結果としてもたらした「国難」を「アベノミクス」によって再びそこへ回帰することで「突破」しようというのだからあきれたものである。
 いま社会はこうした社会の危機を忘れさせるための「麻薬的キャンペーン」が次々と生み出され、大はオリンピックや「観光ギャンブル産業立国構想」から小は「楽しい」スマホソフトの世界まで目先の興味や快楽で人々の心を捉え真実から目を逸らそうとするイデオロギーが充ち満ちている。
 安倍内閣の支持率が上がっているのはこうした「虚偽のイデオロギー」が社会を支配しているからなのであろう。騙されてはいけない!

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2017年10月25日 (水)

若い世代の人たちの「保守化」とその背景について考える(修正版)

 今朝の朝日新聞に、今回の衆院選挙投票結果が公表された後に行った「本社世論調査」の結果が載っていた。 自民公明合わせて定数の3分の2を超える議席を得たことについての質問には「多すぎる」が51%で「ちょうどよい」が32%だった。しかし18〜29歳の層では、「ちょうどよい」が56%「で多すぎる」が23%だった。それ以外の年齢層ではおおむね「多すぎる」が多数であった。おそらく今回躍進した「立憲民主党」に投票した人たちの多くは中高年層で、ずっと自民公明独占体制に不満を持ちながら、煮え切らない「民進党」を支持する気にもなれなかった人たちであろう。

 世論調査のその他の質問への回答の率については新聞紙上を見てほしいが、この若い世代の人たちの反応が気になった。
  前回の「迷える子羊さん」のコメントへの対応にも書いたが、いまの若い世代の人たちの多くが「消費しない生活」でも自分なりの楽しみ方を見つけて生活し、「自分が富裕層でなくても何とか幸せに生きていると感じている」という若者がけっこう多いことを実感し、それはそれで支配層の馬鹿げた矛盾だらけの「消費拡大=経済成長」のキャンペーンに乗らないという意味では悪くはないとコメントした。
 そこで今回の選挙結果とその後の世論調査の結果を見て、次の様なことを考えた。若い世代の中にはこの様な「富裕層でないがそれなりに幸せ」グループが多いが、その他に一握りではあるが未来を約束されたエリート候補生もいることは確かだ。頭が良くて一流大学に入り、いまの「好景気」の中で一流企業に就職するか、自分の手で「起業」し、自己実現して行ける可能性が高い人たちである。こういう人たちもおそらくいまの政権に反発する理由はほとんどないだろう。
  そして残る「その他」の若者グループに、今回立憲民主党や反安部陣営に投票した人たちでいまの社会のあり方に大きな疑問を感じているが「支持する政党なし」の人たちが入るのだろう。しかしおそらくこうした人たちは若い世代の中ではいまだ少数派なのだろう。だからこの世代全体としては上記の様な保守的な態度を表明する若者の比率が多くなるのだろう。
 どんな時代にもその時代のエリートになって社会の上層部に居場所を見いだせるグループはいる。そしてどの時代でもそうした「支配層」に支配されることをある意味当然と考え、その中で与えられた人生を無難にすごそうとする人たちがいる。
 エリートになろうとしている人たちは、自分の能力を社会のために役立てるという確信のもとでそれを実現させるために努力しているのだと思っているだろうし、現に「支配層」になっている人たちも自分のやっていることが社会を成り立たせているのであってその意味で大きな社会的責任を持つと感じているのだろう。
 しかし、そうした支配層の「自己実現=社会のためになる」、という意識と行為そのものが実はその時代を支配している「矛盾をはらんだ法則」に支配されているといえる。いまの社会ではその「矛盾をはらんだ法則」は資本主義社会全体を支える経済法則であるといえ、「市場経済」を支配するこの「法則」はそれを支える支配層の人々(例えば、機能資本家や金融投資家などとそれを政治的・法律的に支える政治家など)がその任務を遂行すること自体がその「法則」を生み出し、同時にそのことによって自分たちの行為がその「法則」に支配されているという「相互規定的」な形になっている。
 そして今の社会でその「法則」を生み出す経済の仕組みは、一方で被支配層である労働者階級が労働の能力を支配層に売り渡すことで自分の労働でありながら他者の意図の代行であるという形で労働の主体的意図を放棄させられるがゆえに、その反面で、与えられた賃金でつつましく生活資料を「購買・消費」することが自分たちの社会的存在意義なのだという認識を持つことになり、その様な生活が「幸せ」なのだと自らに言い聞かせるようになる。そしてそうした意識を反映した「社会常識」が育つ。「置かれた場所で咲きなさい」というわけである。それは倫理的には「美しく見える」かもしれないが、その本質は虚偽である。
  他方で支配層はその買った他人の労働で自分たちの社会的生産での「自己実現」をすること、つまり社会的富の所有権と支配権を拡大するという、「人格化された資本」の意図と行為によって経済的「法則」を実現させる。その中でその「法則」のもつ矛盾が確実に育っていく(その「矛盾」の内容についてはこのブログで何度も書いているのでここで改めて述べることはしない)。
 時代の変わり目というのはそうした外観上の「安定期」の中で徐々にその下地を生み出し、やがて何かをきっかけに一気にその矛盾を顕在化させ、そのときになって人々はこれまでの社会の仕組みや「常識」がもはや通用しないことに気づかされる。歴史はそれを何度も繰り返してきた。
 いまはその矛盾がすでに顕在化しているにも拘わらず、それを覆い隠す思想(支配的イデオロギー)があまりにも強く社会を覆っているので、いまだ、 人々はそれを明確な形で認知していないのだと思う。
 だからいまはこの「支配的イデオロギー」との闘いが重要なのだと思う。「社会常識化」されている「虚偽のイデオロギー」の虚偽性を明らかにして、そこから真実を明るみに出して行くべき時期なのだと思う。 それによって、いずれ若い世代の人たちがいつかはこの矛盾に気づき、本当に自分が実現すべき新たな時代の担い手としての自覚を持つようになると期待している。

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2017年10月10日 (火)

マルクス経済学はノーベル経済学賞の対象から外されている

 毎年ノーベル賞の時期になると日本人が受賞するのではないかと期待が高まり、マスコミはそれに身構えている。今年は文学賞に日系イギリス人のカズオ・イシグロ氏が受賞したために、「日系」というだけで大々的に取り上げられた。いつも下馬評に上がる村上春樹氏は今年もダメだったので、出版社は大きく計画がずっこけて、慌てて村上氏の本を引っ込めてイシグロ氏の本を大増刷し始めた。出版業界とはこういうものなのだ。

 ところで、経済学賞にはアメリカの経済学者リチャード・セイラー氏が受賞した。心理学を応用した「行動経済学」という分野を築いた功績だそうだ。彼は受賞の記者会見で「「研究でもっとも重要なのは経済の主体は人間で、経済モデルはそれを組み込まねばならないという認識だ」と述べている。つまり、これまでの経済学は人間を主体として考えていなかったということである。そう、それが資本主義経済の本質だからである。
  資本主義経済学は、人間の存在や人間の社会的労働の意義を、資本の増殖や蓄積を基調とした「経済成長」の手段として位置づけそれを「社会全体の成長」と同意義に捉えているために、その理論がいくら人道的、自由主義的思想という外被をかぶっていても本質的に人間主体ではないのである。そして心理学的手法で経済学に貢献するということは、経済的効果におよぼす人間の心理を読み解き、それを経済モデル構築のために役立つ形で利用しようということであろう。
 実はマルクス経済学はこうした資本主義的経済学とは本質的に異なる立場であって、人間が人間本来の生き方や社会的役割を自らの主体的意志決定によって決めて行ける社会を生み出すために、経済学的理論をその手段として用いているのであって、それは深い哲学的人間観に基づいており、資本という存在が人間の労働が生み出した富を基体としながら人間のあり方や社会的役割までをも支配する存在となっている資本主義社会の仕組みを徹底的に批判したのである。
 そしていまのノーベル賞という「権威」を与える立場にある審査委員会は、こうしたマルクス経済学を「非科学的なイデオロギーに基づく偏った理論」あるいは「すでに死んでしまった過去の遺物」としか考えていないために最初からマルクス経済学者を受賞の対象から外しているのである。
 一方で、物理学や生物、医学、化学などの分野は、まさに唯物論の世界そのものであって、疑う余地もない自然界の法則性はまさにマルクスの思想とまったく同じ基礎の上に立っているといえる。これを「偏ったイデオロギー」などという人はおそらくいないだろう。マルクスは実はこれと同じ土壌の上に、経済学の理論を打ち立てようとしたのである。
 残念ながらいまではマルクスの理論は世の中の片隅でしか生きられないが、やがて必ずこの理論が再び世界を、そして歴史を動かす時が来るに違いないと思う。
 しかしそのためには、資本主義の現状分析だけではなく、いま「社会主義」といわれている旧ソ連や、今の中国、そして北朝鮮などの国々で行われている政治や経済政策などがいかに本来のマルクスがめざした世界と異なるあるいはその正反対の形になってしまっているのかを徹底的に暴き出し、批判を加えて行ける立場を持てなければならないだろう。そういう視点こそ「社会主義理論研究」といえるのではないだろうか?

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