哲学・思想および経済・社会

2020年3月13日 (金)

コロナウイルスは民主主義体制に危機をもたらすのか?

やっと重い腰を上げてWHOが新型コロナウイルス流行のパンデミックを認めた。そしてトランプがこの状況に対する入国制限などの措置を発表した。そしてそのトタンに世界中で株価の大暴落が続いた。この一連の事実がいまの世界情勢を象徴していると感じた。

おそらくWHOは中国からのプレッシャーや世界経済への気遣いからパンデミック宣言を避けていたと思われる。しかし現実はそれでは済まされない状況となた。トランプもコロナウイルスの流行などは大した問題ではなく、株価の下落も一時的問題だと高をくくった様な発言をしていたが、パンデミック宣言が出るやいなや、突然一方的で強力な規制措置に出た。また発生源の中国では一時は武漢の医療崩壊などで大変な状況だったが、国家の強力な指導力で押さえ込みつつあることを強調している。そしてわが安倍政権も緊急非常事態宣言を法制化して首相の権力を強化しようとしている。

いまコロナウイルスという自然界からの全人類に対する突然の攻撃のもとで、人類社会は、これまでの民主主義では対抗できなくなりつつあるのだろうか?民主主義体制は、対立する意見同士の議論を繰り返し、互いに納得することで物事を決めてゆくシステムであるが、それなりに時間がかかり、このような緊急非常事態ではむしろ強権的なトップダウン方式の方が敵に対処しやすいといえるのだろうか?もしそうだよすれば、この事態が世界中でトップダウン的政治体制を促進させることにならないか?

だが、ここで問題なのは緊急事態に対処するシステムが必ずしも常に強権的政治体制を必要としているわけではなく、民主的合議制の中にこうした緊急事態への対処の仕方を組み込むことが必要なのだと思う。ではいかにして?

まずどの様な状況を「緊急事態」として受け止めるかである。コロナウイルスのような自然界からの攻撃は確かに人類がコントロール不可能な事態なので緊急事態であるが、戦争などは「人災」であって、他国からの軍事的侵略行為などがあった場合、これをコントロールする手立ては人間の手中にあるはずだ。株価暴落や金融危機などの「経済的緊急事態」についても同様だ。こうしてまず「緊急事態」の中身を見定める能力が問われるが、次にはさまざまな緊急事態を想定した対処の仕方をあらかじめ合議の上で決めておくことが必要だろう。その決め方は徹底して民主的に行われる必要がある。ひとことで言えば、「緊急事態」に関してあらかじめ民主主義に基づくボトムアップ的な合意形成がまず作られていなければならず、それにしたがって緊急事態に迅速に対処すべきなのだと思う。

はたしていまのアメリカ、中国、日本などではそうなっているといえるだろうか??それが問題だ。

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2020年3月 7日 (土)

「市場経済」の矛盾について考える---その5:市場経済の根本的な矛盾とは何か?(修正版)

 ここでこのシリーズの第1回目で述べた内容をいまの資本主義社会に生きるわれわれの視点から再び捉え返してみよう。

 市場経済とは、個人が自分の所有する財を自由に売り買いすることで、社会全体の生産と消費の流れがうまく回るという風に考えられている仕組みである。そこには、この私有財産の売り買いが自由に行えなくなると社会全体での経済が回らなくなるという意識がつきまとっており、だから個人の自由が基本的に認められた「自由主義社会体制」などとも言われている。しかしそこには自分の富の獲得のために競争相手のそれを奪い取り、自分のものにしてゆくという競争原理が貫かれており、この原理がその必然的結果として生みだした社会が資本主義社会であるといえる。資本主義社会では個人の富はその人の努力によって作られたものであり、何人もこれを侵すことはできないという不文律がある。それにしたがって競争によって相手を打ち負かし、その富を自分のものとして獲得していくことは「自助努力の結果」としてここでは理にかなったことなのである。しかし、どんな有能な資本家であろうとも、自分一人でその富を築けるわけはなく、それまでに多くの他者の努力の結果を自分のものとして獲得して来なければ「成功者」になることはできなかったはずだ。この社会では私的蓄財者としての資本家は、他者の膨大な労働の結果を独り占めし、それが成功者として尊敬される社会なのである。資本家に代表されるこの社会での成功者の典型的姿は、社会共同体において自らが受け持つ分担労働の共同体的存在意義に歓びと生きがいを見いだすのではなく、「自由な」競争を通じて共同体での他者の労働の結果を独り占めし、それによってあらゆるモノを買うことが出来る形の財であるカネを溜め込み、そのカネを使って人々の生活やこころまでをも支配している姿である。

 彼は言うだろう「自由市場での競争に負けて利潤を挙げられなくなれば、企業存続のために従業員の整理という苦渋の決断をしなければならない」そして実際に各持ち場での労働によって社会的に必要な財を生みだしている労働者たちは解雇あるいは配置転換される。こうして生みだされた財が商品として市場で交換され流通されることを通じて私的な富の所有者が潤いながら、社会的な生産と消費の流れが成り立っている。その生産と流通はそれぞれの資本家たちの私的欲望が合成された形での「市場の法則」によってドライブされ、逆に個々の資本家たちの意識はその法則に支配されている。それが「レッセ・フェール」(神の手に任せる)市場経済の法則にしたがって合理的に個人の富を増やすことが社会を豊かにするという考え方を生みだし、近代経済学や近代的自由主義の思想が誕生した。そしてこの社会の仕組みがあたかも人類社会にとって普遍的なものであるかのような思想(イデオロギー)が「社会常識」として一般化する。

 一方で、社会の主役であるべき労働者たちは、資本家たちにその労働の結果を奪われながらその労働力をつねに資本家に売り渡せるように再生産するために必要な生活資料を資本家から買い戻して生きている。資本家達は労働者の労働過程で搾り取る剰余価値部分だけでは足りず、労働者の生活資料の流通過程を速めることでさらなる利潤を獲得しようとする。そのため、「消費拡大」を訴える。労働者たちは自らの労働において歓びを見いだすことが出来ないので、生活資料の消費の場面でそれを見いだそうとする。だからこうした状況での労働者たちをこの社会では「消費者」と呼ぶ。そして労働者の生活、人生のすべてが資本家達のカネ儲けのチャンスとして組み込まれ、誕生から死までのすべての生活上のイベントがビジネスの対象となる。労働者たちの人生はあたかも商品を買って消費することだけが生きがいのようになってしまい、それが「ゆたかな社会」であるかのような幻想を植え付けられる。

 個々の労働者の生活においては、その「収入源」である労働賃金を獲得するためには資本家企業に雇用されねばならない。したがって「就活」の名の下に行われる労働市場(労働力商品市場)では個々の労働者予備軍は競争相手である。互いにその能力を資本家に売り込み競争に勝った者が資本家に雇用される。だからそこでは本来の共同体での共同労働を分担する仲間としての絆は失われ、孤立した個人としての「自由」が強調される。この「個人の自由」は資本家の私有財産の獲得の自由と共通の基盤の上に立つ思想であり、一方で「個人の絶対的な自由」を強調しながら他方では「何をしてもいいというわけではない」という外的な規制を前提とするという矛盾を孕んでいる。しかし、いったん、資本家が自分の利益追求に失敗して企業を「合理化」する必要に迫られ、労働者を解雇したり、労働力市場での雇用を止めたりして多くの労働者が失業すれば、事態は一変する。労働者たちは団結し、本来の共同体社会の絆を、つまり労働者階級であることを再び目覚めさせられるのである。

 そして「国家」の存在は、実はこうした賃労働と資本という階級関係を覆い隠すための総資本家の立場を代表したものとなり、個々の資本家に対しては独占禁止法や労働法などによってあきらかな不法行為を禁じながら、基本においてはこの市場経済の法則をいかにスムースに貫徹させるかに腐心する。だから労働者も、実は不当に剰余労働部分を無償で資本家に持って行かれていながら、しかも労働賃金は資本家的収入ではないにも拘わらず資本家と同様に「所得」から税を国家に納めなければならず、それを元にして社会的に必要な共通経費を賄っている。それが足りなくなれば、「平等な負担」と称して一律に消費税を取り、一方では景気浮揚のために資本家からの税(法人税)を減税するのである。

 そして「国家」がもっとも強力に機能するのが戦争の場である。必然的に独占や寡占を生みだす資本主義経済体制は、それを総資本の代表機関としての国家によって調整させ、さらにそれが国家同士の競争になれば国家間での争いとなり、そこでは最後には国家の指導のもとでの軍事力で勝負を決することになる。そこでは労働者階級や農民たちが「国家」という幻想共同体の中で一体化され、「国民一体となって敵と戦え!」という命令一下、兵士として前戦に送られ、何百万という兵士が「お国のために」死ぬのである。しかし現実は世界中の労働者や農民たちがともにその労働を通して地球上の人類の生活を支え合っているのであって、どこかの国のそれを経済的に支配する連中によってこの人類世界共同体を独り占めしたり打ち壊すことなど許されるはずはない。

 こうして賃労働と資本という階級関係のもとで人間労働の対象化された結果であるモノ(生産物)が資本として生きた労働力を持つ人間を支配する社会が「自由主義市場経済」によって必然的に生みだされた結果なのである。本来マルクスが目指した社会主義社会とはこうしたモノとヒトの転倒した関係を、反転させることによって本来の姿を取り戻すべき社会であったにも拘わらず、いまの自称「社会主義市場経済体制」はあたかもそれを目指しているかのように振る舞っているが、それが市場経済で成り立っているならば、その社会では労働者は賃金奴隷という階級から決して解放されることはないのである。このことにまず気づかなければならないのはそれらの国の労働者階級であろう。

  

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2020年3月 4日 (水)

「市場経済」の矛盾について考える---その4:「社会主義市場経済」という矛盾

 このような資本主義社会という形で現出する市場経済の矛盾をその根本から克服するはずだった社会主義がなぜいま市場経済なのか?

 一口に言って、いまの自称「社会主義国」はかつてマルクスが唱えたそれとはまったく別物であって、単なる一党独裁制という政治体制のもとで実際には資本主義的経済を一党独裁体制の国家主導で実施する「より過激な資本主義経済」の国なのである。なぜこうなったかについては、それ自体政治社会学の最大の課題の一つであって、とてもこのブログで私ごときが語り尽くせるようなものでなないが、資本主義社会が行き詰まりを見せ始めた20世紀初頭から中葉にかけて、それが要因となって引き起こされた二つの世界大戦という世界情勢の激しい動揺の過程で行われた論争や、闘争を通じてマルクスの考えていた本来の社会主義(共産主義)の基本的考え方は異なる方向にねじ曲げられ、形式上「自由と民主主義」を掲げる資本主義社会の延長に労働者に配慮した市場経済社会を生みだそうとする「社会民主主義者」と、それを巧みに利用しようとする資本主義体制側の攻勢を背景に、ロシアで革命を起こしたばかりのレーニンがそれに反発してマルクスが「ゴータ綱領批判」で述べた「過渡期社会におけるプロレタリアのディクタトル」という政策を、革命直後のロシアに適用しようとした。しかし彼の死後、今度はそれを政治的な独裁体制として悪用して自らの権力をふるおうとしたスターリンなどによる政治的な歪曲が重ねられ、いつのまにか労働者階級を国家機構と結びついた党が支配して行くという政治形態が固定化され、その本来の姿である労働者のインターナショナリティーが見失われ、「一国社会主義(実は国家という支配の枠組みの中で労働者や農民が党官僚という支配階級に奉仕させられる社会)」という主張が絶対化されるなど、マルクスのそれとはまったく異なる方向で労働者階級をトップダウン的に支配し指導する強権的政治体制が「社会主義国家」を名乗るようになって行ったという歴史的経緯がある。

 そこでは労働者たちは党官僚の作った「5カ年計画」などにもとづき、社会的に必要と思われる労働部門にトップダウン的に配置され、そこで「ノルマ」を課せられて労働させられた。生活消費財は配給のような形で分配され、自らの意志でやりたい仕事に就くことはほとんど不可能に近かったと考えられる。労働者たちは国家のために労働奉仕を行っているという形となりそこでの個人の自由は基本的に失われた。国家や党の指導者は絶対的存在であり、彼らの言うとおりに働いていればいずれは幸福な世の中が来ると信じ込まされた。しかしこうした無理な体勢はいずれその矛盾が吹き出すことになり、党官僚などの支配層は次第に資本主義社会での「自由市場の合理性」に目を向け始めたのである。「社会主義国」内部でも国家統制のもとで生活消費財を中心に市場経済方式が導入され、労働者で才能のある者はエリート層へ進出していった。しかしそのことがかえって「社会主義国家」の矛盾を露わにし、資本主義体制への一種のあこがれを生みだすことになっていった。

 しかもその間、資本主義体制側もこれらに対抗してケインズらの考え方を採り入れ、国家が財政面での指導力を発揮して公共投資などを増やし、労働者の雇用を生みだし賃金を維持させ、それによって労働者階級の生活手段の消費を拡大させ、いわゆる「市場の好循環」を生みだし、資本の生産・流通体制を維持発展させて行くという、新たなタイプの資本主義経済体制(国家独占資本主義とも呼ばれる)を打ち出し、アメリカを中心に広まっていったため、それがいわば資本主義社会の普遍化された姿の様にとらえられるようになっていった。第2次世界大戦後のいわゆる東西冷戦の間に資本主義体制側の主導権を握ったアメリカでは、社会主義者や共産主義者は悪の権化である「赤いサタン」と見做され、そうした思想が労働者階級の間にも広められた。こうして「社会主義=自由のない独裁体制の社会」というイメージが定着し、やがてそのイメージを生みだしていた自称「社会主義諸国」側がその内部矛盾によって自己崩壊を起こして行った時期に、生き残った「社会主義国」である中国やベトナムなどが「市場の開放」により資本主義体制側からの投資を呼び込みその安い労働力によって世界の商品市場に躍り出ようとしたのである。それを実現させたのが「大躍進運動」で大失敗をして中国の農民や労働者を危機に陥れた毛沢東一派に変わって登場した鄧小平だった。

 かくして中国式「社会主義市場経済」がスタートし、アメリカなどの資本家達からの投資を呼び込み、またたくまにその膨大な数の労働者とその安い労働賃金とで、大量に安く生みだされる商品が世界中の商品市場を席巻し、アメリカやヨーロッパ、日本など主要資本主義国にどんどん生活資料商品として輸出されるようになった。皮肉なことに、たてまえ上は資本主義を否定している「社会主義国」である中国での一党独裁体制がむしろ「自由経済」を主張する資本主義国よりはるかに効率よく市場経済をコントロールできるのだ。中国でのこの強力な国家主導型市場経済体制はたちまち主要資本主義国での高賃金によるモノづくリ産業を危機に陥れ、モノづくリ産業は一斉に労働賃金が安くて優秀な労働力がいくらでも得られる中国に生産拠点を移しはじめ、中国はまたたくまに「世界の工場」となった。そして最初は先進資本主義諸国から技術導入していた中国の生産技術力を急速に高め、またたくまに技術先進国の仲間入りを果たし、同時に莫大な国際収支の黒字によって潤う中国の新興資本家階級や党官僚たち、その周辺に群がる「中間層」がその蓄財した富によって生活消費財や贅沢品を海外でどんどん買い漁ったりするようになり、消費市場としても世界最大の規模に巨大化していった。こうしてアメリカを中心とした資本主義経済の国々は中国やベトナムなどの「社会主義市場経済」の国々と経済的な「持ちつ持たれつ」の関係となっていった。

 政治的には「社会主義国」という看板を上げ、共産党の一党独裁体制と政府官僚たちが支配する社会であり、そのもとで成長した新興資本家かちは稼いだカネの一部を国家に税として納め、労働者を比較的低賃金で雇用するという経済体制でどんどん成長する(資本を蓄積する)中国はやがてその資本力によってアフリカなどの「開発途上国」での経済支援という形で、資本の輸出を通じてその地域の安い労働力を確保し、それによって政治的支配力をも増大させ、世界経済を自ら牛耳ることを画策するまでになった。それに対するアメリカは自らの世界経済での主導権を奪われまうという危機感から政治的には中国との対立を深めながら同時に経済的には依存し合うという奇妙な関係となっていった。

 しかしアメリカでは資本主義経済体制のもたらす必然でもある社会的格差の拡大が深刻な状況となっており,IT産業が主力となっているアメリカでそれに要求される能力を身につけるために必要な高等教育を受けようとする若者たちはその高額な授業料が支払えず、奨学金にたよることが多い。それがもらえない貧困な家庭の若者は最初から不利な労働条件で働かざるをえなくなり、たとえ奨学金をもらうことが出来、大学を卒業しても就職先がつぶれたりして失業すれば、奨学金の返済も出来ず、病気になっても高額な保険に入ることができなければ医者にかかることもできない。こうした立場に追い込まれた若者たちには自称「社会民主主義者」サンダース氏の支持者が多い。

 かつて高賃金で「豊かな生活」を営んでいたアメリカの中間層労働者たちはいつのまにか、こうした資本主義国や「社会主義」国の資本家達に莫大な富が集中していく中で、どんどん貧困層に落ちていく人々が増えている。いまや「リベラル派」オバマやバイデンなどの支持基盤であった中間層は2極化し一握りの「成功者」は富裕層に、そうでない多数の人々が貧困層に凋落しつつある。

 そしてそれに似た事態は中国でも起きている。新興資本家やその周辺の富裕層は党官僚らと一体化し、支配階級として国の「経済成長」を推進しようとしているが、本来の社会主義では主役であるはずだった労働者階級や農民たちはトップダウンの党官僚支配の社会で被支配層にされてしまっており、資本主義諸国と同様、自らの生みだす生活消費財を買い戻すことで生活する「消費者」となっていった。産業の集中した大都市では地方の貧困地域から毎日職を求めて集まる期間労働者の集まる場所があり、ホームレス化した若者たちが多数たむろしている。大都市のマンションやアパートは家賃が高騰して低賃金労働者は済むこともできない。こうして「社会主義国」中国でも一方で党官僚と結びついた一握りの資本家とその「おこぼれ」で潤う中間層、そして他方で彼らに支配されている労働者農民という階級社会が厳然として存在し、社会格差はますます拡大している。もしマルクスが生きていてこの事態を知ったなら、「断じてこれは社会主義ではない!」と怒髪天をつくほど怒ったであろう。

 「自由と民主主義」を掲げる資本家階級が支配するアメリカでも、「人民が支配する」はずの中国でも実際は党官僚やそれと結びついた資本家達が市場経済の仕組みを通じて社会の経済を支配しており、どちらの国でも実際に社会的富を生みだしている労働者階級は未来のない格差社会で生きるしかなくなっている。これが市場経済を基盤とする資本主義的経済のもたらす必然的な結果であり、それが市場経済の「法則」であるともいえる。

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2020年2月29日 (土)

「市場経済」の矛盾について考える---その3:「売れ筋商品」が支配する社会の恐ろしさ

 市場経済の矛盾のもう一つは、市場での「売れ筋」商品が社会を支配することである。すべての社会的生産物が商品として生みだされる資本主義社会(完成された市場経済社会)では、それを売って利潤を挙げないと企業の存続が危うくなり、市場から淘汰されてしまうという市場経済の「法則」から、少しでもその競争に勝たねばならなくなり、市場でもっとも売れている商品のデザインや売り方に追従しようとする。しかも大量生産で作られる商品はそれを生産するために行う設備投資が半端じゃない。そのために株主から融資が必要で、株主に「これなら売れそうだ」と思わせないとカネが借りられない。だから企業はリスクをとらず、結局販売店では売れ筋の商品が大部分を占め、そこに「人気第1位の商品」などと張り出され、消費者の購買欲をそそっている。こうして世の中に出回る商品はメジャーなものかそれと似た追従品が支配し、ユニークであっても売れ筋でないものは店から姿を消す。あとは「宣伝」やマスコミなどでそのユニークな商品がたまたま脚光を浴びればたちまち今度はそれが売れ筋商品となり、「行列ができる店」の商品となったりするが、やがていつのまにかその行列も消えてなくなる。

 こうした中で深刻なのは言論・出版業界であり、そこでは出版物が初めから「売れ筋」狙いとなって、売れそうもない内容の本は最初から配本業者の思惑によって印刷部数が制限される。したがって世の中で話題になりそうな本しか店頭には並ばない。その代わりいったん話題となればたちまち「ベストセラー」となりその本を書いた著者は有名人になる。いったん有名人になりさえすればその人が書いた本はどんな内容のものでも「話題作家の本」として販売店に平積みされる。こうして世の中は「メジャーな価値観や社会観」に支配されてゆき、少数のしかし本当は重要な意見や考え方は注目もされず世の中から抹消されてゆく。いうなれば、「自由な販売競争」という市場経済の「法則」にもとづく見えない言論弾圧である。このことは「自由で民主的な選挙」にも同様な形で現れ、自らを売り出す資金と宣伝力がある候補者が政治を支配して行く。カネも宣伝力もない候補者はいくらまともな意見を主張していてもこの「市場の法則」によって抹殺される。

 そうした「売れ筋商品化」社会において商品の販売はその「市場競争原理」という法則にしたがって量販体制に向かうことになり、ローカルな小さな小売店は大資本の量販店やチェーン店に押されてつぶされて行く。だから日本中どこの街に行っても同じような商品を並べる量販店やチェーン店が並んでおり、同じような町並みとなりその土地固有のローカリティーは失われて行く。あるときはこの失われたローカリティーへのノスタルジーを今度は「観光資源」として利用しようとする業者が登場し、いかにもわざとらしい「ローカリティー」を看板にした町並みを後からつくっていくことも多い。しかしこれはもちろん本物のローカリティーではない。しかしこうして「外来者」に媚びる形で「おこぼれ」を頂戴して生き残こる以外、地方固有文化は滅びて行かざるを得ないのが実状だ。

 その一方で量産・量販体制を発展させるため、現場で働く労働者の労働もそれに適応するため「規格化」され、画一的な労働になっていくとともに、量産工場や販売店の従業員のほとんどが低賃金で雇用される期間労働者(パートタイマー)になっていく。つまり労働力を売って生活しなければならない人たちは、画一化された労働力としてしかその社会的存在意義を与えられなくなる。若者たちは学校を卒業すれば、どこかの企業に自分の能力を「労働力商品」として売りに出さねば生活して行けない。だから就職試験は人生の大きな節目となる。彼らは就活に明け暮れ、それに乗じて就職のための訓練所も現れる。学校でも訓練所でも若者たちは企業での労働に「やる気」を見せるように教育され洗脳される。たとえそれが本音でなくても自分でそう思い込まなければ自分を労働力商品として売り込むことができないからだ。こうして商品の画一化は労働力商品の画一化となっていき、諸個人の個性も画一化される。人々が望むと望まざるにかかわらず画一化された商品に囲まれ、画一化された労働を行い、労働以外の「趣味や遊び」の世界でしか自分の個性を表現できなくなる。またその状況を商品を売る側はターゲットとして「個性的商品」を売り込もうとする。しかしそれはあくまで「個性的」を看板に「売れ筋商品」を狙うモノでしかない。これが広告の演出する幻想としての「ゆたかで個性的な生活」の裏側にあるリアルな市場経済社会の姿である。

 この社会では宣伝やマスコミが大きな役割を果たす。それらの業界は商品の生産販売を行う企業から莫大なカネを出してもらい、マスコミを通じて人々の情緒や感情に訴える「幻想」を生みだし、話題性の大きな広告を出すことに注力する。人々はその幻想に惑わされてあまり必要でもないモノをどんどん買わされることになる。こうしてこの体制を維持しようとする人々による「消費の拡大」が叫ばれ、オリンピックまでもがそのために利用され、それをテコに彼らの代表政府による絶え間ない「経済成長」が目指される。

 しかしいったい誰のため何のための「経済成長」なのか? それは人々に幻想をばらまきながら必要でもないモノをどんどん消費させ、それによって一握りの人々の私有財産をどんどん殖やしながら、結局「宇宙船地球号」の自然を破壊してやがては人類全体の存続をも危うくするのではないのか?この経済体制を維持しながらSDGsだエコ社会だなんていうことは理論的にも現実的にもできっこない単なる幻想にしか過ぎない。

 こうした「売れ筋商品化社会」は、いわば市場経済体制のもたらす必然であり、その「法則」であるともいえる。


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2020年2月25日 (火)

「市場経済」の矛盾について考える---その2:新型コロナウイルスと株式市場の動きをめぐって

ここで目の前に起きている事実をもとに市場経済の矛盾を考えてみよう。

 いまや「世界の工場」となった中国を発生源とする新型コロナウイルス肺炎の流行が世界中で起こり初めており、その影響で中国では多くの企業が仕事を休んでいる。そのためいまや世界中にサプライチェーンを張り巡らしている国々で中国からの部品や製品の調達が停止するとともに、世界一の巨大消費市場でもある中国では伝染を恐れて街に人影が薄れ、消費もガタ落ちとなっている。また新型コロナ肺炎が中国以外の国々にも拡散し始め、その影響で各国での人々の警戒感が強まっている。そのため、世界市場での商品や人の動きが鈍くなり、各国の株式市場は軒並み大幅に下落している。このままでは、ウイルスが侵入した国々での人々の生活は大きく影響を受け、日々の生活に必要な物資の供給にも影響が出て来そうだ。

 この状況を加速しているのが株式市場での投資家の思惑だ。世界中の生産と消費活動が連携し合い複雑なネットワークを形成しているいまの経済状況で、本来はいかに安定した生活資料の供給ができるかが経済における最重要課題なのだが、投資家たちは、自分達の私的利害にしか関心がないため、目先の損得で動く。その私的利害の目先の損得が世界経済を動かし、それがそのまま人々の生活に大きな影響を及ぼす。これが株式投資という形で資本を調達し企業を運営して利益を挙げようとする機能資本家と、その企業に自らの富の一部を投資して、その企業が上げる利益の分け前を頂戴しようと目論む投資家(本来の資本家)たちによって成り立つ現代の資本主義経済体制の矛盾として如実に現れている。

 ひとことで言えば、私的利害にしか関心のない連中のために、世界中の経済活動が支配されているのだ。世界中の生活者は彼ら投資家の私的な富の増大のために生活全体を支配され、振り回されているのだ。その市場経済という仕組みの根本に関わる矛盾が今回の新型ウイルスの拡散による危機的状況で極めて鮮明に現れたといってよいだろう。

 日本の安部政権は中国での新型コロナ肺炎の流行に対して、初動を見誤ったと言われているが、彼らの頭の中には新型ウイルス肺炎のもたらす市場経済的影響の方が重要であって、人々の生活を護るという意識はいつものように二の次であることがはっきり分かった。安倍政権はアベノミクスで大量の日銀券をばらまき、過剰な貨幣流通によって経済活動を刺激し、景気を良くしようとしたが、その弊害は国家の借金を増やしながら資本家達に利益をもたらすだけで、生活者たちは老後に備えた預金の金利がマイナスとなってなけなしの貯金もどんどん目減りしてゆくという形で如実に現れているのだ。

 愚策はすでにとっくの昔に失敗した。トランプのカリスマ音頭に踊らされて活況を呈していたアメリカ株式市場の波にのって日本の株式市場も活況を呈してきたが、その根無し草的本質がいまや明らかになりつつある。私的利害の思惑だけで動く投資家があたかも「雇用を生みだし労働者の生活を護る」かのように言うことがウソであったことが明らかになってきたからだ。彼らが「労働者の雇用を護る」のは企業が儲けを出し、投資家たちに大きな利益が得られる場合のみであって、その見込みがなくなれば投資家たちはその企業から手を引き、たちまち労働者は解雇され、貧困な状態に突き落とされる。資本家が新型コロナ肺炎の流行によって労働者が病気で働けなくなることを気にするのは、自らの富の源泉である労働力が確保できなくなり企業の存続が危うくなることが心配なのである。しかしこれは資本家が「性悪」の人間であるからでは決してなく、これが市場経済にもとづく資本主義経済の「法則」だからなのである。資本家は彼がどんなに思いやりがあり頼りになる人物であっても資本家である限りはこの資本主義経済体制の「法則」が人格化した姿なのである。

 社会の経済は本来ならば、社会全体で必要なモノをそれぞれの持ち場で働いて生みだしている労働者たちがともにその労働の成果を分ち合うための経済システムでなければならないはずだ。それをいまの資本主義市場経済では、本来社会的共有財であるべきもの(生産手段)を私的に所有する人々がその所有物を用いて、労働力という商品の持ち主である労働者からそれを「労働賃金」という形で買い取ることで、労働者に商品を作らせ、それを市場で売買することで利益を得て自らの企業を存続させながら私的な富を増大させるために、社会的に必要なモノを生産し消費する仕組みになってしまっている。そして表面上の「自由主義経済」とか「平等な市民」とかいうスローガンによってそのような事実が覆い隠されてしまっており、資本家も労働者もマスコミなどに煽動されて株式市場の動向にただただ一喜一憂しているのだ。アメリカの大統領選予備選で「左翼」といわれているサンダース氏が大きな支持を得ていることは、アメリカの生活者たちのこういった世の中のおかしさへの疑問や不満の直感的な現れであろう。

 

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2020年2月19日 (水)

「市場経済」の矛盾について考える---その1:資本主義社会発生の論理

 このところ自分の健康問題や高齢近親者の死や入院などさまざまな出来事が重なったためほとんどこのブログを書く精神的余裕がなかった。しかしそろそろ人生の終わりに近づきつつある自分にとって、ずっと考え続けていることを文章で記録しておかないと何も残らないことになるので、ここで少しでも何か書いておこうと思い直した。

 いま新型コロナウイルス肺炎の流行で中国は大変なことになっているが、その世界経済への影響も大きく採りあげられている。いまや中国は世界市場で大きな役割を果たし、アメリカとその同盟国やヨーロッパなどの旧来の資本主義圏と経済的には相互依存する関係にある。この中国は自称「社会主義市場経済体制」といっているが、これは一体何なのか?「市場経済体制」とは資本主義にとってもも社会主義にとっても共通の普遍的な流通経済の仕組みなのか?そのことを考えるに当たってまず資本主義市場経済とは何かを考えてみよう。

 そもそも資本主義経済体制とは、基本的に社会で必要とされる生産物がすべて商品として作られ、それを市場で売買するという商品経済体制であるが、商品経済とは社会的分業体制において、特定の分業種の生みだした商品を所有する個人あるいは団体がそれを互いに市場で売買することで交換し合い、社会的な生産と消費の回転をさせていく社会といって良いだろう。この一見当たり前に見える経済体制を支えている論理の矛盾を鋭く深く追究したのがマルクスである。
 まずマルクスは「経済学哲学手稿」で述べているように、人類は本質的に、協働的共同体社会(さまざまな分業種により社会的に必要なモノを生みだす労働を分担し合う生活共同体)を形成してそれによって諸個人の生活を維持している「類的存在」であり、そこにその構成員である諸個人と共同体社会全体との関係が成り立っていると考えている。資本主義社会は、それ以前にあった社会の階級制にもとづく共同体の特徴である、自分達のために必要なモノを作らせる支配的階級とその支配階級の意図にしたがってモノを生みだす被支配階級という関係によって成り立つ階級的共同体社会の延長上にあり、その発生過程で古くから存在した、異なる共同体社会間での物流を担う商人たちが、その交易によってもたらされた富を蓄積して経済的に大きな力を持つようになった結果、この古い階級制によるモノ作りの関係が徐々に崩されて、富を私的に所有する商人達が社会的経済の実権を握るようになったことで生まれた社会経済体制である。そのため資本主義社会は一見すると古い意味での階級のない社会(自由で民主的な市民社会)の様に見える。だがしかし...。

 それまで自らの手でモノを生みだせなかった商人たちは、モノ作りの職人工房全体をカネで買い取り自分の所有物にし、自ら売って儲けがありそうなモノをそこで作らせるようになった。職人たちはそれまで自分たち巷の住人のために必要なモノや貴族や武士などの支配階級が要求するモノを作っていたが今度は商人が売るために作らせるモノを作るようになった。職人たちの使う工具や工房は商人の所有物となり、商人は職人工房の「オーナー」となった。職人たちは工房のオーナーである資本家に雇われて働く「労働者」になったのである。

 資本家たちはやがて職人たちの古い手工具による高度な技能と時間のかかるモノ作りでは効率が悪いと感じはじめ、徐々に工房内の作業を分割し同時並行的な作業で効率を上げようとした。そしてそのために個々の職人の労働は単純作業と化し、その仕事の修得に高度な技能養成は不要となり、誰でもできる単純労働になった。そしてその単純作業に取って代わるような作業機が導入された。かつてその高い技能によって誇り高い職人であった人々は自らの意図と技量で道具を操る労働から、機械の運動に従属した単純労働を行う工場労働者となり、資本家たちは自らの意志で「売るための商品」を労働者に作らせ市場に送り出す産業資本家となった。やがて作業機全体が原動機で動かされるようになり、労働者は巨大な工場システムの一部としてその中に組み込まれるようになった。大量に商品が生産されるようになると、それを売りさばくため、商品市場での競争が激しくなり、さらに大量生産に拍車がかかり、労働力がたりなくなった。一方で産業資本家が利益獲得のための収奪した農地から追い出され生産手段を奪われた多くの農民たちが賃金労働者として資本家の工場に流れ込んだ。こうしたものづくリの劇的変貌過程がいわゆる「産業革命」である。

 これによって生みだされた産業資本主義社会では、やがて人々が生活に必要とするモノすべてが商品として資本家の私的企業によって生みだされ、人々は生活資料のすべてをカネで買わないと生きて行けないことになり、そのための収入を稼ぐために賃金労働者として資本家の企業に雇用されねばならなくなったのである。こうして資本家は人々の労働力を商品として買い取る代わりにそれに相応しい賃金を払うという一見平等な「商品所有者」どうしの取引の形で、買い取った労働力を彼の所有する生産手段と合体させて労働させることにより、その労働の生みだす価値の大半(労働賃金分を超える剰余価値部分)を無償で収奪することが合法的に行われるようになったのである。つまり本来は商品であり得ない人間の労働力(自分が社会的に何者であるかその存在意義を示す能力)をも商品として「平等」に「自由に」に取引するかのように見える社会なのである。しかし現実にはこの産業革命によって生みだされた社会は自らの労働力を売りに出さなければ生活できない階級と、その労働力を自らの私的な富の増大のための道具として用いながら富を蓄積していく階級という二つの階級を生みだし、そこに新たなそして旧社会よりはるかに深刻な「格差」を目に見える存在として生みだしたのである。

 この産業資本主義社会での「産業革命」は初めは低賃金の単純労働者を生みだしたが、やがて資本家自身の意図を代行して複雑な機構の機械を設計するに必要な高度な工学的知識を持つ設計技術者や「売れる商品」全体のアイデアを考えるデザイナー、そして作られた商品を市場でいかに大量に売りまくり、競争企業に打ち勝つための戦略を常に考える販売戦略担当者、などの頭脳労働者を「人材」として比較的高賃金で雇用するようになる。そのため、資本家としての機能もそうした頭脳労働者によって分業化され分担されるようになる。そしてこれらの頭脳労働者たちは低賃金で働く単純労働者たちを見下す立場となり、自らが実は単に資本家の意図を具体化させるために自分の知的労働力を売っている労働者階級の一員であるという事実に全く無自覚な存在となったのである。これがいわゆる「中間層」である。

 こうして資本主義特有の分業種とその構成体として資本主義社会が生みだされ、それ全体が如何に効率よく売れる商品を生みだし、大量に販売するかという資本家の意志の貫徹形態として現れることになった。これが「市場経済」の上に建つ資本主義社会でのすべての労働や生活全体の在り方を生みだしているのである。そこで働くほとんどの人々は、自分の本当の意図ではない資本家の目的意識の一端を担う労働を行いながら、それによって資本家から賃金を得て、実は自分たち自身が生みだしたモノである生活資料を、資本家の所有物としての商品として市場で「買い戻す」ことによって毎日生活しているのである。しかし資本家たちは、人々の生活に必要な賃金が稼げるように「社会に雇用を生みだしている」と主張しているのである。そしてそこに生きる生活者は、労働力が発揮できるすべての年齢期間、資本家企業の歯車の一つとして身も心も資本家経営者と一体となって自らの社会的存在意義を資本のために捧げつくすのである。これが「賃労働と資本」という形での階級が厳然として存在しているにも拘わらず、それが見えない階級社会としての資本主義社会の現実であり「市場経済」体制の本質である。

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2019年11月12日 (火)

「敵」を見誤るな

先月末に「前立腺ガン」の宣告を受けたこともあって、かれこれ1ヶ月以上、このブログへの書き込みをしていなかった。存在を忘れられてしまわないように久しぶりにまた書くことにした。

このところ、ベルリンの壁崩壊30周年を記念する祭典などがあり、いまのドイツ東部での生活者の意識調査の結果が合わせて発表されていた。それによるとあの「自由世界への解放」という歓びの一時期があったが、いまではそれ以前とほとんど変わりがないか、かえって格差が広がり将来への不安が増えたと答える人々が多かった。「自由社会」への希望が打ち砕かれた人が大半をしめているのだ。

ベルリンの壁崩壊後、旧東独地域も資本主義経済が押し寄せ、労働者階級は労働市場で職を求めなければならなくなった。「自由社会」は「競争社会」と同義語であって、労働市場での競争に負けた労働者は失業したり、より条件の悪い職場で働かねばならなくなった。一握りの勝者は西側社会に溶け込みリッチな生活を営むことができるようになったが多くの旧東独地域の労働者は競争に勝ち抜くすべを持たず、社会の下層に落ちて行かざるをえなくなった。

その中でリッチな西側の人々を中心に中東紛争からの避難民を受け入れようという「寛容」な政策が採られ、中東から多くの避難民を受け入れ平均的ドイツ人と同様の社会保障を受けられるようになった。平均以下の「2級市民」扱いしか受けていない旧東独地域の労働者は当然これに不満を持ち、その不満を利用して勢いを伸ばしてきた民族主義的な極右政党「ドイツのための選択肢」に選挙で投票が集まった。

これとは少し異なるがアメリカでもかつての鉄鋼や自動車産業の中心地であった地域で産業の衰退により「ラストベルト」化し取り残された労働者階級の下層への転落が起き、一方で西岸地方のIT産業の繁栄でリッチになった人々が中心となっている「民主党系」の政治グループは、「リベラル」を掲げてグローバルな立場から環境保護、人種差別反対や性差別の撤廃などを主な政策にした政治を進めてきた。それに対して「アメリカ・ファースト」を叫びアメリカ人労働者の優遇を主張するトランプにラストベルトの労働者たちは熱狂的に支持をした。イギリスの"BREXIT"をめぐる騒動やヨーロッパでの民族主義政党の台頭などもそれぞれ異なる背景ではあるが根底にはこれと似た状況があるように思われる。

このような一見「リベラル」と見られる「民主勢力」が貧困化した労働者階級からは「敵」とみなされ、保守・民族主義的ナショナリストが「味方」として支持されるようになったのは現在の労働者階級にとっては大きな誤りであるとともに一つの悲劇だと思う。この延長上にあるかもしれない1930年代のファシズムと世界戦争の悲劇を繰り返してはならない。

「リベラル派」の人たちは自分達が社会的・経済的に優位な立場であるがゆえの「寛容さ」をもっており、一方でそんな余裕がなく日々の生活に苦しんでいていて将来にも何の希望も持てない下層労働者の人々は「不寛容」にならざるを得ないのだ。いま世界人口の圧倒的多数派を成す下層労働者階級は「不寛容」と言う形でその不満を爆発させている。

問題はかつては存在した「労働者インターナショナル」という国際的な労働者階級の運動組織がいまや消え失せ、それを理論的に指導するグループもスターリン主義や毛沢東主義に汚染されてしまい、マルクスの理想とは180度違う民族主義的独裁体制を生みだしてしまったことだ。そのことにより、世界中の労働者階級は資本主義経済の防壁である国境のカベの中に閉じ込められ、相手の国の労働者階級を資本家階級と一体化したかのように「国民」としてとらえ、互いにそれを自分達の「敵」とみなすようになってしまったのである。

その中で、社会の中間層以上になることができた人々はその経済的格差の存在による優位な立場を前提とした「グローバルでリベラルな」スタンスを取れるであって、実はそれは資本主義国家間の経済的格差として現れる資本蓄積の格差を前提として、富裕国で富を蓄積した資本家階級を中心としてグローバルに経済的貧困国の労働を搾取する自由が認められている人々にとっての「自由」であり「民主」なのであって、中間層以上の人々はその「おこぼれ」によって豊かな生活を営むことができている。中東の移民を受け入れるドイツ政府の政策は、決して「人道的な立場」などによるのではなく、実は労働力不足を比較的低賃金でも働いてくれる移民労働者によってカバーしようということであって、それは国家間の賃金格差や一国内の社会格差なくしてはありえない立場なのである。その様な「リベラル」は資本主義的な弱肉教職敵競争の「自由」であって、本来社会全体が共有すべき富や政治をその競争に勝ち残った一握りの階級が支配し続けていることによって保証される「自由」なのである。

だから世界中で格差や不当な労働搾取に苦しむ労働者階級の本当の「敵」は他国の労働者階級ではなく世界中の労働者たちが生みだした富を私物化している資本家階級が支配する政治や社会体制なのである。マルクスの言った「万国の労働者、団結せよ!」はいまも真実である。ナショナリズムや民族主義はもちろんのこと、外見だけのまやかしの「リベラル」や「グローバル」に惑わされることなく、本来あるべき普遍的な自由と民主をグローバルな立場からいまこそ考えねばならないのだと思う。

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2019年10月 3日 (木)

佐伯啓思氏の「○○ごっこする世界」への批判がもつ虚偽のリアリティ

10月2日朝日朝刊の「異論のススメ」で佐伯啓思氏が表題のような評論を書いていた。佐伯氏はかつての江藤淳の米国からの自立を欠いた日本の政治・思想解への批判を擁護しながら、江藤の代表的評論「ごっこの世界が終わったとき」から次の様な主張を取り上げている。「日本では、全共闘の暴力的な反政府運動があり、また他方では三島由紀夫が結成した「楯の会」による自主防衛や、新たなナショナリズムの動きに揺れていた。しかし、このどれもが「革命ごっこ」「ナショナリズムごっご」に過ぎない。真の現実を見ない虚構の中の遊びにすぎない「ごっこ」が日本の戦後米軍依存体制での政治における左翼や右翼にあり、そのリアリティのない「虚構」の中で互いに争っていた。戦後日本の課題は平和と繁栄の維持にあるが、他方で対米従属を脱して、失われたアイデンティティを取り戻す点にあった。ところが戦後日本は対米従属国家としてアイデンティティを失うことで平和と繁栄を手にしてきた。ところが、いまや情勢は変化しつつある。米国は経済的に疲弊し、アジアからの軍事力の撤退を検討しており、日米関係の再編、再構築の可能性もでてきた。遅かれ早かれ、日米関係は変化せざるを得ない。日本は米国の弱体化した経済を支える代わりに米軍基地の返還を求め、自主防衛に向かい初めて日本は独自立した国家として「世界」というリアリティに直面するだろう。そのとき日本人は改めて「あの戦争」における敗戦の意味と、300万に及ぶ死者たちを真に想起することになるだろう。われわれが現在ここにいる自分たちのことだけを考えるのではなく、死者たちの霊を共同体のものとして受け止めた時に初めて、われわれは自らに自信をもつことができるようになるだろう。」

この江藤の主張は50年前のものだが、佐伯はこれに対して果たしてその50年後の現在、どうなっているかについて次の様に述べている。「国内外の状況は大きく変化したものの、江藤さんが述べた日本の自主独立あるいは日本人のアイデンティティの回復へ向かっているとはとても思われない。ここでいうアイデンティティとは福沢諭吉のいうところの「一身独立、一国独立の精神」、あるいは「自主独立の気風」といったぐらいの意味である」佐伯はいう、「かつての「ごっこの世界」は終わったように見え、すべてが現実の外交や社会状況に対応した現実主義の一点に向かって収斂している。しかしこれは江藤が「ごっこの世界という現実に直面していない状況」と批判していた際の「現実」なのだろうか?とてもそうとは思えない。例えばグローバル競争の世界は何の根拠もなく自由競争は利益と繁栄をもたらすという虚構の上に、いわば市場競争ごっこをはじめた。トランプは日米安保条約の破棄も考えているらしいというのに中国や北朝鮮の脅威から米国は日本を守るだろうという虚構、憲法に関していえば、護憲派も改憲派もそもそも主権者とは何か、国家の防衛と憲法と主権者の関係は、といった根本的問題を問おうとしない。いわば「護憲・改憲ごっこ」である。世界はまた壮大な「ごっこ」に傾いているのだ。なぜなら今日の世界はそれを導く確かな価値も方向感覚も見失い、人々の生存への必至のあがきや個人や国の尊厳に向けた命がけの戦いともほとんど無縁になっているからである。」そして佐伯は江藤のいう「ごっこが終わればあの戦争の死者たちと本当に向き合うことができる」という主張がいまだに実現していないことを嘆くのである。

だが私は佐伯のいう「「ごっこ」でない真のリアリティ」の中身に疑問を持つ。例えば「一身独立、一国独立の精神」、あるいは「自主独立の気風」をアイデンティティだといい、「今日の世界はそれを導く確かな価値も方向感覚も見失い、人々の生存への必至のあがきや個人や国の尊厳に向けた命がけの戦いともほとんど無縁になっているからである」と佐伯がいうとき、なぜあの戦争であのような悲惨な死が「国の尊厳に向けた命がけの戦い」として、あたかも当然のように扱われていたのか?それがもしアイデンティティでありリアリティであるならば、人は「国家の尊厳」という共同幻想を護るために自分自身の人生を捧げようとすることがリアリティなのか?これそもっとも危険な「ごっこ」だったのではないか?

私はいまでも幼かったとき味わった終戦直後の何ともいえない解放感を覚えている。空襲警報のサイレンもなくなり、敵襲があったら自決してでも恥をさらさないなどというおそろしい世間の風潮に耐えねばならないつらさから解放されたときの歓びを忘れない。あれこそが私にとって真のリアリティだったのだと思う。だからその後、青年期になってから「国家や企業のために自分の人生を捧げる」などという欺瞞に満ちた社会観に疑問を感じ学生運動にも関わった。そのときはそうした感覚が時代感覚としてリアリティを持っていたのであり、それは決して「革命ごっこ」などではなかった。

佐伯はつねに現実のリアリティを見下す決して自ら傷つかない高みから、すでにその虚偽性を歴史の中で証明されてしまった「妄想のリアリティ」にしがみつきながら現代社会を批判している。いまの若者たちは現代という社会の中でつねにリアリティをもって生きているし、「生存への必至のあがき」を繰り返しているのだ。佐伯啓思よ、いいかげんに目を覚ませ!

 

 

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2019年8月18日 (日)

2.26事件はその「背景」が物語るものこそ重要だ

先日のNHKスペシャルで放映されていた2.26事件の真相を明らかにする軍部極秘資料の話は興味深かった。「2.26事件」とは昭和11年2月26日に起きた陸軍青年将校らによるクーデター「未遂」事件であるが、この事件は当時陸軍中枢部にあった「皇道派」といわれるグループが関与しているといわれており、この軍中枢の将官につながる若手の将校が引き起こしたクーデターであるいわれている。その思想に大きな影響を与えたのが後述する北一輝である。当時は大恐慌の影響が広く世界を覆っており、日本も昭和恐慌といわれる状態で困難な状況に置かれていた。第1次大戦で戦勝国になったにも拘わらず、国際的な軍縮への動きの中で軍部は思うような振る舞いができず、一般庶民も失業にあえぎ、農民は凶作の影響もあって貧困に追い込まれていた。「皇道派」の主張は当時経済的にも政治的にも行き詰まっていた政府を倒し、天皇直属の軍が政治の主導権を握り、不景気で疲弊した労働者や農民をその旗印のもとに結集して強固な結束のもとで「東アジアの盟主」として欧米との衝突にも立ち向かわねばならないというものだったようだ。決起に参加した若手将校たちの多くも貧しい農民の出身であったという。
 それにしても当時の政権の中枢にあった首相や大臣たちを暗殺してこの主張を強行しようとしたのだから恐ろしい話である。しかもそれは実は陸軍中枢に名を連ねる面々があらかじめ計画を練ったものでるらしいことが最近発見された「極秘資料」によって明らかになってきた。結局、事態は天皇が自分の重鎮を殺害され権威を傷つけられたことへの憤りから決起部隊の鎮圧を命じたことによって軍中枢部は「ほっかむり」をして若手将校が血気にはやってやったこととして彼らに罪をおっかぶせてこれを鎮圧した。そして結局処刑されたのは決起を直接指導した若手将校たちと思想的な指導者とみなされた者たちであり、黒幕の軍中枢部の面々は無罪放免であった。この翌年に始まる中国への侵略戦争を皮切りに太平洋戦争に突入し、昭和20年8月15日の敗戦まで数百万の日本人とそれに近いアジア各国の人々を殺戮し街を焼き尽くした悲惨な戦争を推し進めたのである。

ここでこの2.26事件の真相をめぐるいくつかのドキュメンタリーではもっぱらその本当の首謀者が誰だったのかを問題にしているが、私はそれよりもこうした事件を起こさせた当時の社会的背景の問題が重要だと思っている。まず大正期に入って日本は、実質的にほとんど戦わずして第1次世界大戦の戦勝国になって「世界の5大列強」の一つとみなされるまでに「富国強兵」化され、それによって産業資本家達が莫大な富を蓄積していった。政治的には明治の元勲たちによる藩閥政治などへの弊害や反発もあって一応政党による「議会制民主主義」が建前となり、さまざまな政党による政治が根付いたように見えた。しかし一方でロシア革命によって活性化した社会主義運動の影響も入ってきて、農民運動や当時増大しつつあった工場労働者のストライキなどがあちこちで行われる様になった。一方で大都市圏では西欧やアメリカからの文化的影響もどんどん入ってきて、生活自体が西欧化していった。そしていわゆるサラリーマンという形の新たな労働者層が急増していった時期でもある。文化的にはモダニズムやデカダンスといった流れが最新の流行としてもてはやされ、なんとなく戦後の一時期に似た雰囲気もあったようだ。

こうした「大正デモクラシー」時代が1929年のウオール街での株の大暴落をかわきりに1930年代前半に世界的な経済恐慌へと急速に展開した。当時も「就職氷河期」が訪れ、大学は出ても就職できず困窮している若者が続出し、今でいう「格差拡大」が進んでいた。農村部でも貧困は深刻化し、食いはぐれた優秀な若者たちが軍に吸収されていった。

2.26事件の思想的首謀者として処刑された北一輝は、幸徳秋水や河上肇ら当時の「社会主義」運動家などから強く影響を受け、しかしその「社会主義」を烏合の衆によるボトムアップではなく天皇を頂点に頂く形で統合したトップダウン国家によって実現しようというものであったようだ。北はこれを「国家社会主義」と呼んでいたらしい。北の「国家社会主義」は当時の社会的風潮を、金持ち階級による政治の専横がもたらす政治的危機と経済的貧困、そしてそうした世相を反映した「退廃的文化」、と批判的に見て、これにとって代わる「天皇中心として全国民を家族とみなす様な日本古来の伝統や倫理に基づく国家」を打ち立てる「昭和維新」を目指すということだったようだ。しかしここで問題なのは、「社会主義」ということばの持つ内容である。何をもって「社会主義」というのか、この解釈によって内容が真逆のものにあるからだ。北の「社会主義」はいわば精神的中心として「天皇」があり、民はこの中心にむかって自分の能力のすべてを捧げることで幸せになれる、という考え方があるのではないかと思われる。皮肉なことに「決起派」が処刑された後、「皇道派」の望んだような「天皇を戴くお国のために身を捧げる」という思想への流れがインテリをも巻き込んで急展開していった。いまは「リベラル」の顔のような振りをしている朝日新聞も当時これに積極的に加担した。

こうしたマスコミを動員した世論操作による思想誘導は「20世紀型絶対主義体制」ともいうべきもので、ドイツのヒトラー体制、ソ連のスターリン体制などにも共通する、国民のすべてはカリスマ的指導者の下で「国家」のためにその労働を捧げるという思想はかつてのフランス絶対主義王政などよりもずっとイデオロギッシュである。こうした思想がなぜ第1次世界大戦後の「社会民主主義」政権のヨーロッパや日本で登場したのか、そしてなぜこうした「社会主義国家」や「国家社会主義」を掲げる新興国が「国家」の統帥者としてカリスマが必要だったということが問題なのだ。国家=カリスマにすべてをゆだねる国民の集団、これは当時とある意味で似た現代という危うい時代に生きているわれわれにとって極めて重要な問題だと思う。トランプしかり、習近平しかり、プーチンしかり、そして日本では自称「リベラル」派や「護憲派」の中で何故か最近、天皇が国民のアイデンティティーの「象徴」として必要だとする主張(朝日新聞など)が多く見られるようになってきた。どうもキナ臭い。

ちなみにいえば、本来のマルクスが目指していた「社会主義社会」(マルクスは共同体社会と呼んでいた)の「キモ」は、社会を支えるための労働を自分の能力に応じた分担形態で行う諸個人(労働者)はその労働において自分が何者であるかを示すことができ、自分自身の実存を認識できるし、その「場所」における実存に基づいて他者の実存を理解することができ、そしてつねに「主体的に」生きながらそれが同時に社会全体を支えていることになる。だから決してカリスマなど必要なく、したがって「象徴」の必要もなく、基本的にトップダウンでもなくボトムアップでもない「フラット」な社会であるといった考え方であると私はとらえている。これはあくまで「私のとらえかた」であるが。

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2019年7月31日 (水)

人間の生きる意味は「生産性」なの?

 31日の朝日新聞朝刊、「医療」欄に、「便秘の人、仕事に影響も」という小さな記事が出ていた。「兵庫医科大学などの研究チームの分析によると、慢性便秘症患者は、1週間に占める欠勤率が8.8%で、便秘でない人(3.8%)の2.3倍だったそうだ。注意深く仕事ができななど、健康上の問題が生産性に影響した割合は、便秘の人が33.2%で、便秘でない人(19.1%)の1.7倍だった。こうした数値をもとに、日本人の平均賃金に照らして経済的損失を推計。年間約122万円にのぼり、便秘でない人(年間約69万円)の1.8倍に相当した。便秘の症状が重い人ほど、生産性が落ちていた」とある。研究チームの主張は便秘が病気と考えている人は少ないが、これもれっきとした病気であることを理解し早期に治療をきちんとするべきだ、ということのようだが、私はなぜそれが「生産性」と結びつけられて語られているのかにおおきな疑問を感じた。

 以前、このブログでも取り上げてことがあるが、自殺者の増加が社会の生産性に悪影響を及ぼす、という趣旨の記事が出ていたことがあった。なぜ自殺者が増加するような社会なのかこそが問題なのに! そして国会議員の中にも、秘書に向かって「生産性が低い人間は生きている価値がない」などと豪語する人がいるようである。自分の貧しい人間性をアピールしているようなものである。

 人間は「生産性」のために生きているわけではないはずだ。そもそも「生産性」とは一人の労働者が単位時間に生み出せる労働生産物の量の割合を意味するものであって、生産に投下した資本価値を超える価値を生みだすための労働の価値生成力を問題とする雇用者(資本家)側の人間観である。彼らにしてみれば、労働者は価値を生みだすための道具に過ぎず、労働者の用いる生産手段と同列に扱われている。それが資本主義経済の基礎だからである。この価値を生みだす労働者が毎日生活の中で労働力を養って維持して行かせるために賃金が支払われて(正確には前貸しされて)いる。だから労働賃金はできるだけ低く抑えないと、労働力を維持するために与えた賃金の価値に対してそれが生みだす価値との比率が低くなってしまう。これを労働者の「生産性が低くなる」というのである。

 だから、賃金を支払わなくても文句も言わずにせっせと何時間でも働いてくれるロボットが、単なる労働手段にすぎないにも拘わらず、人間より「生産性が高い」と見做されてしまうのである。

 どんな人でも多かれ少なかれ何らかの弱点や病気や障害を持っているといってもよいだろう。ただそれらを平均した「健常者」だけを標準とした「生産性」で測られ、それに達しない人は「生産性が低い」と言われてしまうことの底にあるこうした「非人間性」こそが問題ではないのか?

 人間は道具ではない! まして道具であるロボット以下の存在だと見るならば、やがてそういう人間観の社会は必ず滅びることになるだろう。

 

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