哲学・思想および経済・社会

2018年12月15日 (土)

「市場経済原理」の根本問題について考える(その3)

 このように、市場経済社会とは、社会的生産物すべてが私的所有にもとづく商品として現れる社会であり、それらを生産するために日々働く労働者までもがその労働力を賃金と引き替えに買われる商品として扱われる社会である。
 この社会は、私的所有者間が平等で自由な商品交換によって成り立つことが原則であり、生産に必要な手段(機械設備や原材料など)を所有する人々(資本家)が、労働力しか持たない人々(労働者)からその労働力を購入して、生産手段と結びつけることによって社会的生産活動が行われている。
 労働者たちは労働者として役に立つための教育(ここでもすでに受験戦争という形で選別が行われる)を受けたのち、今度は労働市場に出て、自らの労働力を商品として資本家に買ってもらわなければならない。いわゆる「就活」あるいは「就職戦線」である。ここでは労働力商品同士が競争することになる。そこでの「勝利者」は如何に自分の労働力を高く安定した企業に買ってもらったか、ということであり、「敗者」はこの段階で「差別化」され、劣った労働力商品として社会的に評価されることになる。
 しかしこうして労働者予備軍内での激しい競争の結果、やっと就職した企業では、労働者の労働力は資本家の所有物であり、労働者はそれを資本家に売ることで(資本家と契約という形で)受け取る賃金によって「自由な消費手段購入者」となるが、その自らの社会的存在意義を表明する手段であるはずの労働力が資本家の支配下にあるため、労働における自己表現は資本家の自己表現となってしまう。労働の場においては完全に資本家に隷属した状態であり、本来の自由も平等もない。
 こうしてこの社会では基本的に平等ではない関係が前提され、それによって「自由な市場」が成り立っているのである。
 労働者は資本家から「消費者は王様である」などと持ち上げられて、資本家たちが労働者を使って生みだした生活消費財商品を購入し、「お客様」として扱われることで、「平等な社会」と勘違いさせられている。実は彼らが購入する商品は彼らの仲間の労働によって生みだされたものであって、それが資本家の所有物として市場で売られているのであり、いうなれば、労働者階級全体としてみれば自らが作ったものを自ら資本家から「労働力の代償」として受け取った賃金で「買い戻している」だけなのである。
 しかもその労働の過程で、生みだされる剰余価値部分はつねに無償で資本家の手に利潤をもたらし、それによってつねに資本家達は自らが必要とする生活消費財の他に生産手段や労働力を商品として買うことができ、それを用いて富を増やしていくことができるのである。このようにして資本家と労働者の関係、つまり階級としての関係が再生産されている。
つまり「自由で平等な市場経済社会」とはこういう不平等な階級関係が前提となって成り立っているのである。
 だからいかに資本家代表政府(私的思惑で動く各資本家達のうごきを社会全体として調整するために必要な政府——例えば安倍政権やトランプ政権など)が、「雇用を確保する」とか「消費者の生活を豊かにする」とか「消費拡大によって経済を活性化させる」とか言っても、その本意は結局、この賃金奴隷という形の階級関係をいかに維持し、労働者階級の不満をいかに逸らしながら、資本の成長を図っていくかということに過ぎないのである。
 まず基本的にこのような事実を踏まえた上で、この社会が依って立つ「市場経済原理」の矛盾をいろいろ考えてみよう。
(続く)

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2018年12月12日 (水)

「市場経済原理」の根本問題について考える(その2)

 市場経済原理」では「私的所有の自由」を原則としており、私的所有者間での所有物の交換が「商品」という形で価値の具現化である貨幣を媒介として行われる。社会的に必要な生産物の生産や流通を行う場合にもこうした「原則」が貫かれる。必要な生産手段商品を買うことができるだけのオカネをもっている者が、それを買い、同時に生産に必要な労働力をも商品として買う。ここで労働力商品の価値は、その労働力を日々再生産できるために必要な労働者の生活資料の価値である。生産手段の所有者はそれと「等価」な賃金を労働者に支払い、その労働力を買う。そして自分の買った商品同士を生産現場で結びつけて生産を行う。そこで生みだされた生産物は商品として市場に投入され、そこから企業の所有者は利益を得る。
 しかしこの生産的労働の過程で生みだされた生産物には生産過程で生産的に消費した生産手段の価値部分(不変資本部分)と労働者に支払った労働力の価値部分(可変資本部分)だけではなく、労働力の再生産に必要な価値を超えて支出された労働の価値部分(剰余価値部分)を含んでいる。労働力は「自ら価値を生みだす商品」であり、その価値(賃金として支払われる)よりも多くの価値を生みだす商品だからだ。この剰余価値部分は無償で知らぬ間に企業の所有者の手に渡っている。だからこの生産物を商品として市場に投入すれば、それがたとえ「等価交換」のように見えても、そこに剰余価値分の利潤が含まれている。実際には「生産費用」という形でこれらは「経費」とみなされ、市場の需要と供給の関係から、その商品を実際に価値よりさらにどれだけ高くまた多く売ったかによって利益を計算する。
 この市場の「原則」が貫かれていることにより、できるだけ高く売りたいにも拘わらず、競争相手が値下げで挑戦し、自社の商品が売れなくなれば、できるだけ経費を削減して市場価格を下げなければならなくなる。つまり市場では商品は不当に高い価格では売れないことになり、つねに適正な価格に自動的に調整される。これがいわゆる「神の手」であり「市場の法則」である。
 実はこの「神の手」は「自由市場」だから生じるというわけではなく、むしろ私的所有によって本来は社会的であるべき生産が行われているという矛盾から来るといえる。
 社会全体にとって必要なことを企業の利己的な生産・販売行為によって生じるアンコントローラブルな「市場の法則」を通して調整する世界を「自由市場」というのである。当然ここでは「神の手」ではなく生臭い私的欲望が社会全体を動かす駆動力になっている。そのため、この「神の手」はしばしば、とんでもない経済危機を呼び起こす。
 ところがその反面、企業内部では、できうる限り計画的かつ効率よく利益を稼ぐことが目指され、冷酷な合理的思惑で利益計算が行われる。私的欲望による駆動力をもとにアンコントローラブルな全体性と企業内部での冷酷な計画性といういわば相対立する矛盾の両面によって社会全体が動いているのである。
 こうした基本的矛盾の中で、経営者の「統治能力」とは実際に現場の労働で価値を生みだす労働とはまったく異なり、その生みだされた価値をいかに企業の収益として吸収できるかという視点から方略を合理的・計画的に考える能力である。これこそまさに「人格化された資本」の姿である。
 確かに、各従業員の仕事がどのような内容であって、どのようにそれを配置するか、どれだけ働けば良いか、などについて下位の従業員たちは知らない。あらかじめそれらを決める能力は従業員たちからは取り上げられていて経営者の「専業」とされているからである。実際には、「管理職」と呼ばれる上位の選ばれた従業員がこれら経営者の仕事の一部をそれぞれ分担する頭脳労働者としてこれを行い、経営者はただ「決断」を下すだけである。
 一方でその経営者の統治のもとで日々必要な労働を行っている多くの労働者たちには、あらかじめ決められた賃金のみが支払われる。そしてアンコントローラブルな市場の動きによって経営がうまく行かなくなり、「合理化」によって首を切られた従業員は残った従業員との間でいわれなき格差をつけられ、失業や不利な職場への配転という形でそれを見せつけられる。同じ労働者仲間であるにも拘わらず、「労働力商品」として互いに競争させられることの悲劇である。一方経営者はたとえ経営に失敗してもそれまでに貯め込んだ私財によって再起もできるし悠々自適のリタイア生活もできる。
(続く)

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2018年12月 7日 (金)

「市場経済原理」の根本問題について考える (その1)修正版

 このところカリスマ的グローバル企業経営者カルロス・ゴーンの収入詐称問題や、GAFAなどのグローバル企業の「脱税」問題、そしてグローバル市場が拡大するにつれて拡がる世界的な社会格差の問題など、グローバル化した「市場経済」に関する問題がどんどん浮上してきている。  この問題について今朝の朝日新聞「異論のススメ」欄で佐伯啓思氏は、いまの市場経済には倫理観や道徳観がなく、アメリカ的な自由競争、自己責任、法の尊重(法に触れなければ何をしても良い)、能力主義、数値主義などがグローバル・スタンダード化し、短期間で業績を上昇させる経営者が、そのために採った手法の如何に関わらずカリスマとして祭り上げられ、法外な報酬を要求しても当然として認められる、と指摘している。  その上で佐伯氏は、自由経済主義者アダム・スミスは一方では道徳や倫理を重要視していた、各国にそれぞれの歴史の中で堆積されてきた価値観や常識の中にある「緩やかな道徳観念」があり、企業も市場もこうした自分たちの常識に基づいているべきだ、と主張している。いかにも朝日御用達の保守派らしい意見である。  いまの「グローバル市場経済」は、実はスミスの時代から急速に発展してきた資本主義経済体制の、いわば必然的結果であって、その過程で、自分の努力で商売をしていくらカネを儲けるのも個人の自由であって、その「自由な個人」同士での競争に勝った者が莫大な財を築いても誰も文句は言えない、という原則が貫かれてきた結果である。    その「自由競争」の過程で、勝った者が「能力のある者」であって、「能力のない者」は「能力のある者」の元で雇用され、労働力を酷使され、もらった賃金よって生活することで労働力を維持させ、実際にはその賃金分よりはるかに多く生みだされたその労働の成果を雇用者が無償で獲得し、それを私有化(企業による私有化)した上で市場において競争相手に勝つために闘うことになり、こうした目的に役立つ人間が「能力のある者」と見做されるような社会になっていったのである。  社会全体の業種がこのような形で生産活動や商売を続け行くことで社会全体が「経済成長」し、国際市場に進出して行く。こうした社会では当然その欲望のままに動く者は他者を手段として用いるし、「先進資本主義国」とそうでない国との間もそのような関係となるため、そこに人間関係や国同士の関係としての軋轢や衝突が生じ、それによる人々の不満の爆発を防ぐため「社会秩序維持」のため何らかの法的規制や国際法が必要になる。  こうした社会では「能力ある者」の経営する企業に雇用された従業員は経営者が稼いでくれるおかげでその「おこぼれ」に与り、何とか無事に生活できているという感覚を持つようになる。したがって彼らは経営者が業績向上のために大胆な人員削減を行っても、それによって解雇された仲間は「能力がなかった者」であり、残された自分たちは「能力を認められた者」としてそのおこぼれを頂くのは当然だ、という感覚を持つようになる。だから「低賃金国」の労働者が自分の所属する企業のカリスマ経営者のもとで如何に過酷な労働をさせられ、その犠牲によって彼らよりいくらかましな賃金が可能となっているという事実にも無関心で居られる。   これがあこぎな経営者をカリスマとして祭り上げる社会風潮を生みだし、社会常識化する。  世の中の「社会常識」がこうして形成されるのであって、そこでは従来積み重ねられてきた伝統的倫理や道徳観などはもはや古くなって捨て去られざるを得なくなる。社会常識とはそういうものであり、こうして現在の社会体制を築いている経済的土台の持つ論理や倫理が社会常識となっていくのだ。   だからこうした問題に伝統的社会常識や倫理を対置してみても全く意味がないといえる。むしろ新しく登場した社会常識や倫理の根拠となっている社会の土台の仕組み自体がもっている本質的矛盾に切り込まねばならないはずだ。 (続く)

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2018年11月30日 (金)

「超富裕層」による慈善団体への寄付行為とは何だろう?

 マイクロソフトのビル・ゲーツやフェースブックのザッカーバーグなどの世界的億万長者が慈善団体に私財の多くを寄付している。お金持ちはそれ相応に社会に寄与するべきだという考えからだろうか?それとも自分たちがあこぎな儲け主義者ではない「善良な市民」であるということを証明したいからだろうか?

 どちらにしてもアメリカ的「自助努力」の精神からいえば、能力ある者はその能力に応じて事業を成功させ、お金持ちになることが当然だという思想があり、お金持ちになれば、それなりに世の中のために貢献するのは当然だという思想があるだろう。確かに会社のカネをかすめとって自分のための報酬にしてしまうゴーンのような人物よりいくらか「善良」かもしれない。
 しかしここに大きな落とし穴がある。それはこれらの「超富裕層」が稼いだお金は、彼ら自身の労働が生みだした価値では決してなく、元はといえば彼の所有する企業で雇用された多くの労働者たちが生みだした価値である。
  経営主の行った「労働」といえば、それら多くの労働者が生みだす価値の大半である剰余価値部分を如何にして多く無償で(つまり搾取行為を「合法化」して)獲得し、如何にしてそれを自分の企業の所有物として大量に市場に売りに出し、できうる限りの利益を得るか、という事に関する戦略や戦術を巡らす「頭脳労働」である。これが世間では「経営能力」とか「企業ガバナンス」とか言われる能力である。
 彼らはそれを自分の「経営力」つまり「お金を稼ぎ出す手腕」として位置づけ、その「能力と努力」のおかげで自分の企業に雇用している従業員が「豊かな生活」をしていられるのだと考え、したがってそれに相応しい「報酬」をもらって当然だ、と結論づける。
 そしてその法外な「報酬」によって築き上げられた財産はどんなに個人的な贅沢三昧をしても使い切れないので、慈善団体に寄付して世の中から「偉い人」と思われたいのだろう。
 その中にはトランプのように政治的野心をもって、カネにものを言わせて大統領にまでのし上がる者もいる。
 そこで考えてみよう。こうした超富裕層の稼ぎ出したとされる巨額の資産は、本来はその価値の源である労働を提供した労働者たちのものである。しかしそれはむしろ労働者諸個人の所有物ではなく、すべての労働者たちが協働して生みだした価値であり、その意味では社会的富であるはずだ。
  もちろん労働者自身の生活を営むために必要な資財は個人的所有であり個人的に消費されるべきものである。しかし、それを超えた額の価値、つまり剰余価値部分はそのまま社会の共有財となるべきものである。そしてそれはあらゆる社会的事業、例えば社会保障やインフラ建設整備、医療、教育などに使われるべきものである。
 しかしいまの資本主義社会(剰余価値の不当な搾取を合法化している社会)においては、この巨額の社会的共有財にあたる部分を一握りの超富裕層たちが私有化しているので、これを労働者たちからの税金として徴収してまかなっているのである。つまり労働者階級はこうして社会的共通費に当たる部分を不当にも二重取りされているのである。
 超富裕層の人たちはそれを個人の財産として(不当に)獲得しておいてから、今度はさも善良そうな顔をして慈善団体などに寄付するのである。だからそんな連中を「偉い人」などと思うのは大間違いである。

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2018年11月29日 (木)

「生きがい」は会社のためか社会のためか?

 カルロス・ゴーンが拘置所で、「私が逮捕されたので、従業員の士気が落ちる」と言ったそうだ。確かにTVで見た映像ではゴーンは工場の現場を視察しながら従業員に励ましの言葉をかけていた。おそらく従業員はその言葉で「よし、このボスのためにも会社のためにがんばろう!」と感じただろう。

 しかし、かつて日産が経営危機に陥った際、彼は、容赦なく国内主力工場でだった村山工場を閉鎖し、大幅な人員削減を行った。「コストカッター」としての面目躍如である。
 つまり豪腕資本家経営者とは企業の利益を維持するためには容赦なく首切りを行って「合理化」をするが、首の繋がった従業員には、労働力商品として賃金で買い取ったその労働力の使用価値をフルに発揮してもらうため(つまり賃金として支払う生活消費財の価値分を超えて生みだされる剰余価値部分ができうる限り多くなるよう)に、「やる気」を起こさせ、励ましの言葉をかけるのである。
 そこで私は考えた。どんな人でも若いときに自分が何のため生きているのか、自分の存在意義は何なのか?という疑問を持つが、やがてさんざん苦労した挙げ句に得る結論は「置かれた場所で咲く」ことなのかもしれない。
 私はかつてこのブログで、例の「置かれた場所で咲きなさい」という宗教家の言葉がもてはやされたとき、それを批判して、「置かれた場所があるなら、置く人がいるはずだ、置かれた場所で咲きなさいとは、そういう立場の人が言う言葉であって、置かれた人が言うことではない」といった趣旨を書いた。
  その気持ちは今でも変わらないが、ここで一つ言っておきたいことがある。人生において、自分の存在意義を感じることができるということは、すばらしいことであることは確かである。自分が何のために生まれてきて、何のためにこうして生きているのか、その意味を感じ取ったとき、人は本当に幸せなのだと思う。しかしこの紛れもない事実において、大きな虚偽がまかり通っているのがいまの資本主義社会なのではないかと思う。
 いま世の中では社会的教育を受けた後、ほとんどの若者が、会社に就職する。労働市場(正しくは労働力商品市場)での動向は、就職率(つまり資本家企業による労働力商品の購買率)として常に大きな話題となり、「良い会社」に就職できれば人生の目的の半分以上が達成できたと感じる人が多いだろう。そしてその会社の中で与えられた仕事をこなせるようになり、そこで会社のために尽くせるようになることが人生の歓びとなり、誇りとなっていく。これはある意味で当然のことである。つまり「会社のため」を通じて「社会のため」になっているという意識であり、実感である。
 しかし、この「会社のため」の内実を見ると、生産部門では他社とのシェア争いに勝つためできるだけ商品の回転率を上げねばならず、次から次へと新製品を作らねばならない。そのため従業員は長時間労働を課され、「会社のために」と自分に言い聞かせて一生懸命働く。また販売部門では従業員が「お客様のご要望にお応えしてサービスできるよう、できる限り多くの商品を取りそろえております」といって顧客を持ち上げるが、その本音は、できるだけ多くの商品を売って儲けを増やしたいということである。だから世の中に廃棄物や不要品の山ができようともそれは買った人の責任であるとされる。しかもその顧客は競合他社の従業員かもしれないのである。
  他社との競争に負けないため、会社に貢献し、会社がより多くの利益をあげて、自分たちの給料が上がり生活が潤うようになることが従業員としての「生きがい」となるが、これがそのまま「社会のため」とはなり得ないことが見えてくる。
  競争に勝つということは、負けた企業があるということであり、そこの従業員がどういう目に遭っているかは、想像するのは簡単だろう。そしていかにいま自分の会社が「勝ち組」の企業であっても、「勝つため」に合理化の対象とされ切り捨てられた同僚は、いわば会社にとってランクの低い人間というレッテルを貼られ、「生きがい」を失っていく。その惨めな姿は「明日の我が身」かもしれないのである。
 会社がより多くの利益を得て、授業員の生活が潤うようになるという思いも、実はこうした競争に負けた企業や、切り捨てられた同僚や、自分の会社の利益を増やすために海外で驚くほどの低賃金で過酷な条件のもとで働く多くの人々の犠牲の上にそれは成り立っているという事実、それを知るべきだろう。
 誰かがリッチになれば誰かが必ずより貧困になる。地球レベルで進むこの激烈なそして無駄なつぶし合いの競争の結果、「格差社会」の上層部にのぼることができた一握りの人たちがリッチになっていくのである。これが資本主義的「自由市場」の論理であり「法則」である。
 しかし、もちろんその「裏返し」でしかない国家統制による経済体制や、働く歓びや自助努力の余地のない「ノルマ労働」などによるトップダウン社会はさらに酷いものであることはいうまでもない。
 われわれが望む社会は、「置かれる場所」と「置く人」が同じ人であるような社会であり、「会社のため」がそのまま「社会のため」になり得る社会である。言い換えれば、自分が何のために生きているのか、どのような存在意義があるのかを自分の手で生みだしたものによって実現し、実感できる社会なのだと思う。そこにはすべての地球上の人間たちが互いにその存在意義を感じ合い、互いにそれを助け合って生活できる社会があるはずだ。そしてそれは決して宗教的な「教え」による妄想などではなく、現実の社会の中で実現されうることなのではないか?
 

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2018年10月23日 (火)

マルクス生誕200年シンポジウムに参加して(全体の感想)

(前回からの続き)

 まず、大内氏の記念講演については、私にとっては非常に新鮮だった。しかし敢えて言えば、大内氏は理論家として、モリスや宮沢賢治といった実践家の運動に見る社会主義が「まぶしかった」のではないかと思った。この講演を聞きながら、かつては工業デザイナーを目指し、デザイン教育の場で働いていた私自身もいまそこから遠ざかっており、思考が空回りしているようにも感じるからだ。

  モリスが行ってきた工芸運動が否定的にではあれ20世紀モダンデザイン運動に引き継がれ、第一次世界大戦後の社会民主主義の影響を強く受けたバウハウス運動に結実したこと自体は評価すべきだと思うが、それはモリスが否定した資本主義生産様式特有の機械制大工場での疎外された労働による生活資料の生産を結局は受容する形となり、その後、資本主義的分業種としてのデザイナーの労働が登場したことは歴史的事実である。工業デザイナーの労働は20世紀型資本主義的分業種に特有の「疎外形態」をもつ頭脳労働だからである。これについてはいま執筆中の私の本の中で詳述するのでここでは省略するが、要するに、マルクスの社会主義がソ連型となって20世紀末に破綻したということの理由についてはもっと深く掘り下げて考察しなければならないのに、それがマルクスへのモリス的視点が欠如していたことに根拠を求めること自体が安易であると思う。

  研究者としてはやはりモリスやオーエンの「社会主義」とは一線を画する段階で登場したマルクスの社会主義の本質とその理論の深さを理解することが求められているのだと思うし、そこにこそ「ソ連型」といわれるスターリン主義的エセ「社会主義」への徹底した批判を行う理由があるのだと思う。かくいう私は大内氏の足下にも及ばない「マルクス学徒」であって、専門的研究者でもないので、むしろ宇野弘蔵や大内氏たちの後継者こそが頑張って欲しいと思う。後継者とは師匠のマネをするのではなく師匠を徹底的に批判してそれを乗り越えることが求められているのだと思う。ヘーゲルを師匠であると公言したマルクスが、その師匠を徹底的に批判してマルクス主義の新たな地平を生み出したのだから。

 次に第4分科会に参加して、まず感じたことは、協同組合運動という実践活動を長年やってきている人たちであって、その経験と実績は私などのような実践活動の経験が乏しい研究者にとってはある種の畏敬の念を感じざるを得ないということだった。そんな私の立場からとてもではないが「物言い」など付けられない。しかし、敢えてここで私の辛口の感想を書かせてもらおうと思う。

 まず第4分科会全体として、マルクスの社会主義との関連を通じて資本主義的生産様式への徹底した批判とその克服への道を探ろうとする視点が弱いと思われた。このことは大内氏のような理論研究者が実践活動へのある種のコンプレックスを(おそらく)感じているのと裏表の関係にあり、実践活動の実績と経験の豊富さ故にかえってその活動の社会的意味や歴史的使命を明確にしようとする思考が働かなくなっているのではないかと感じられた。

 やはりいまの資本主義社会全体を覆っている支配的イデオロギーとしての「市民意識」の限界を自覚すべきであり、生産の場で疎外された労働を行わざるを得ない労働者階級が、そこから受け取った賃金で、生活資料市場で資本家の販売する商品(実は自分たちが資本家企業に雇用されて生産した商品)を購買する(つまり買い戻す)、ことに存在意義を与えられ、実際は生産者であるにも拘わらず「消費者」として祭り上げられ、資本家階級の利益追求に奉仕しながら労働者としての階級意識が「市民意識」という形に染め上げられてしまっているいまの社会の矛盾を掘り下げるべきではないだろうか?こうした賃労働と資本の関係に基づく生産と消費の矛盾がいまだに基盤となっているのが現代のグローバル化した資本主義社会であり、その中でただ、生活協同組合の様な活動を市民運動的に拡大して行っても結局は資本の市場の法則に組み込まれざるを得なくなる。

 もちろんこうした生活協同組合などの実践活動という形で、資本主義社会が克服された後に実現すべき生産・消費システムの原型を「いまこの場」から創っていくことは必須である。しかしそれは同時に、一方でその活動を階級闘争の一環としてリードしていくべき政党組織などが必須であると思う。そうした政党組織自体はいうまでもなく、スターリン主義的な独裁体制ではなく徹底的に民主的運営を行えなければならず、その活動の中で自分自身も意識的に変革され「支配的イデオロギー」から解放されて行かなければならないのだと思う。

 随分偉そうなことを書いたが、これは私自身への反省でもあり、すでに人生の終末に近づいている人間としてあの幼少期に体験した太平洋戦争とその後の厳しい食糧難、住宅難の生活、そしてその後「高度経済成長」の時期にもっていた「デザイナーへの夢」の欺瞞に気づいたときの衝撃や、その後バブル経済のバカ騒ぎがもたらした「豊かな世界」の欺瞞と退廃をずっと見てきた一人の人間として、これがいま思うことなのである。

  戦後日本の資本主義社会の中に生きてきた私の人生そのものが「疎外された知識労働者」そのものであったこと、そしてその自覚からの私なりの「場所的な闘い」がいまの若者たちにとって何か意味を持つのではないかと淡い期待をもってこのブログを書いているのである。

(以上)

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マルクス生誕200年シンポジウムに参加して(分科会4 その2)

 (前回からの続き)最後は「共生型経済推進フォーラム」の柏井宏之氏からの「日本における社会主義運動と生協運動」という題目での報告だった。

 柏井氏は1945年敗戦直後と1960年安保闘争時代の生協運動を中心として取り上げた。1946年4月の帝国議会選挙には、社会党、自由党、進歩党、共産党などとともに、「日本協同党」選出議員が14人当選した。日本協同党はイギリスの協同党がモデルで1918年には代表をイギリスに送っている。1920年以降は資本主義、社会主義に対する第3の道として協同主義を掲げて議会活動し、戦後はイギリス労働党とも密接な関係を持ってきた。改造社の山本実彦、井栄火災の井川忠雄、雪印乳業の黒澤西蔵など社会事業家が中心だった。その後日本農民党、大同クラブの三木武夫らと合同して協同民主党となり、進歩党の後進である民主党の一部と合同、改進党を経て、1955年保守合同の波に吸収された。協同党は国家主義ではあるが保守反動派とは異なり保守リベラルと革新中間政党の領域にも基盤を持っていた。

 1960年安保、三池党争の後、社会党、共産党、新左翼の運動が労働運動を巡って争われ、少数ではあるが地域生協づくりが始まった。共産党が大学生協中心だったのに対し、社会党左派はパルシステムを作り、革新無所属や社民党を支持してきた。岩根邦雄は社会市民連合からローテーション制と歳費管理の「代理人運動」へ向かい、地方議会に革新無所属も違うローカル政党を作った。1988年に自民党の「生協規制」が声高になる時、生活クラブ生協からの「生活市民派からの提言」で、「「生協規制」の政治と協同運動の政治」の章でプロジェクトチーム内の意見が分かれ、結局無署名のまま出された。当事者であった自分は、賀川豊彦のトータルな社会運動としての協同組合(利益共栄、人格経済、資本協同、非搾取、権力分散、超政党、教育中心)に学び、 「超政党」とは「反政治」でも「政党任せ」の「政治的中立」でもなく、被選挙人に独占された政党を超えて行くものとして協同党兵庫のイメージからこの章を書き換えた。

 他方で1988年、武田桂次郞らにより谷川雁の「サークル村」や女たちの伝習館闘争を引き継ぐものとして「グリーンコープ」が登場し、「女が農業を発明し、男が工業を発明する」史観の上に、さまざまな「外化」に「内化」を対置させる独特な文体によって「疎外されたもの(国家、男)を疎外したもの(社会、女)に向かって止揚解体していく、つまり社会と女を自律させてゆくことを目指した。その方法は分業をタテの支配系からヨコの連帯系に組み替える運動と事業体である。「生活クラブ」とはまったく違う用語法だが、「生活クラブ」の女性たちの自主運営、自主管理と共鳴し合い、現代では全国市民政治ネットワークの地域政党の連合を創っている。

 そして最後に柏井氏はこう主張する「1937年の協同組合原則の中にあった「政治的中立」は、その原則から外された後も、厚生労働省はこれをもって協同組合を呪縛している。そもそも内部を律する原則が外部からの禁止条項のように言われる不都合は労働運動や社会運動に認められている政治的自由から見ても取り除かれるべきである。

 NPO法以降、政党への意欲が薄れていることは危機である。協同組合の政党への無関心は、非営利事業の権力への従属が深まっている証拠である。

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 以上がこの第4部会の報告の概要であるが、この後会場からの質疑応答に移った。 その内で重要と思われるものだけを取り上げて書いておこうと思う。

 一つは、 GSEF2018 ビルバオ大会でのメインテーマで、「包摂的で持続可能な地域創生への価値と競争力」が目標として掲げられたことである。このうち「競争力」とは何かというのが問題となった。報告者は、「「競争力」が独立してではなくテーマ全体の関連性の中で使用されており、一般に理解される能力やコスト、効率の競争ではない」とし、「貧富の差、格差が生じないよう意識し、かつ環境に配慮し、持続可能な社会の発展を遂げていく価値、それに持続して取り組む力、市場へのアクセスとして理解する」としている。

 しかし、この「競争力」とは資本主義経済の本質である市場競争の中にアクセスする協同組合運動が当然それと競争して行けるだけの市場での競争力を持たねばならないことになり、結局はモンドラゴンでのファゴールの倒産に見るような結果を想定しなければならず、それに対抗することは自動的に市場経済の一部として取り込まれていくことになると思われる。

 もう一つの質問は、階級闘争との関連であった。このような運動が結局政治闘争と切り離されて単なるユーザ参加の通信販売組織のような形になってしまえばそもそも当初目指していた資本主義的生産様式への対抗としての意味がなくなっていくのではないか、という疑問である。これには司会者もお手上げ状態でこの議論は中断されてしまった。

 さてこうした内容全般に対する私の率直な感想を次回にまとめてみようと思う。

(以下次回に続く)

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2018年10月22日 (月)

マルクス生誕200年シンポジウムに参加して(分科会4 その1)

 (前回からの続き)午後は5つの分科会に別れてシンポが行われた。私はどの分科会に出ようかと昼飯を食べながらさんざん迷った挙げ句、結局、午前中の大内氏の記念講演の内容に関連した「コミュ二タリア二ズム」の現状として生協活動などを推進しているグループの第4分科会:世界を変革する社会連帯経済を巡って」というセッションに出ることにした。まずその内容を紹介する。

 この会場は大きなラウンドテーブルが置かれた中位の会議室だったが、すでに私が行ったときは満席に近い状態だった。どうも大半が協同組合運動関係の人のようだった。
 まず「ソウル宣言の会」の若林氏からGSEF(Global Social Economy Forum)「グローバル社会的経済協議会」の活動の概要に関する報告があった。この協議会はソウル市長の朴元淳氏の呼びかけで2013年にソウルで準備会が持たれ、「ソウル宣言」が採択された。そこでは社会経済のグローバルな連帯を謳った次の様なスローガンが掲げられた。
 貧富の格差拡大、非正規雇用の増大、金融・財政危機、環境破壊など社会が直面している困難が世界共通であること。その原因が新自由主義的グローバリゼーションにあること。これに対抗する協同組合や社会的経済のさまざまな組織活動が世界的に生まれていること。
 こうした草の根的参加型民主主義を方法として公平で公正な社会を目指し地域循環型の持続可能な社会が人類にとって希望となっている。こうした運動をグローバルなネットワークで結び連帯を強めることが必要。
 そうしたグローバルネットワークを推進するための具体的な提案をすること。
 社会的経済を発展させるためには地方政府、自治体との友好的な協力関係(参加型民主主義の地方自治)が必要であること。
 この方向に沿って、2014年ソウル大会が開催され、ソウル宣言を基礎としたGSEF憲章が制定され、GSEFが発足した。
 2016年にはモントリオールで大会が開催され、2018年にはスペインのビルバオで大会が開催された。
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 このあと、「羅須地人協会東京支部」の平山氏からGSEF 2018ビルバオ大会と絡めた報告があった。ヨーロッパでは以前から社会的経済として存在し、フランスでは1901年にアソシエーション法が制定され、2016年にはそれが社会的・連帯経済法となってソ連型社会主義が崩壊した後にグローバルな新自由主義による地域経済破壊と格差拡大に対抗してそれまでの社会主義に代わる運動として起こってきた。1980年のICA(国際協同組合同盟)モスクワ大会での「レイドロウ報告」で生産的労働のための協同組合、社会の保護者をめざす協同組合地域社会の建設などを目標とし、そのモデルとしてモンドラゴン協同組合が紹介され、一躍有名になった。(平山氏からはモンドラゴン協同組合訪問記が紹介され、これについても説明があったがここでは省略する)
 日本でも1970年代から企業の倒産争議における自主生産闘争が活発になり、パラマウント製靴、東芝アンペックス、そして解雇された国労組合員などによる長期に渡る闘争の結果実質的に勝利したケースもある。また1980年代には下町の中小企業での企業を超えたコミュニティー・ユニオンが成立し、自主生産企業とコミュニティー・ユニオンの組み合わせの中にレイドロウの提起した協同組合地域社会の可能性を実感した。そして1984年の「ニュー社会党宣言」での「社会連帯部門」の内容は今で言う社会的連帯経済とさほど違わないものだった。しかし西欧型社会民主主義を目指した社会党はその後、実質的に崩壊した(なぜそうなったのかが問題だ---野口)。ソ連崩壊前に「階級闘争」と「プロレタリア独裁」というテーゼを生産できたことが唯一の成果であった(「成果」なのか?誤りなのではないか?---野口)。しかしソ連崩壊後のいま、「左派」を称した人たちも非営利協同や協同社会を語るようになった。いま気になることは、ヨーロッパ各国の多くの協同組合は1970年代に大型化した消費組合が倒産したり株式会社化したりして衰退してしまった中で、しかもいま反移民とポピュリズムが跋扈しているヨーロッパで、モンドラゴン協同組合がヨーロッパ社会に波及できるか、またモンドラゴンの企業と労働組合の関係はどうなるのか、といった問題である。
 かつてロバート・オウエンが市場経済から弱者(労働者階級は「弱者」ではない---野口)を守るためにコミュニティーづくりを試み労働運動と協同組合が一体となった世界を目指したが、いま必要なのはオウエンが目指した様なコミュニティー型の協同組合と労働組合でありそれが一体となって支える社会的連帯経済によるコミュニティーだと思う。
(しかしオウエンがなぜそれによって社会変革をできなかったのかが問題ですね---野口 )
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 その次は、「NPO法人共同連」の堀利和氏から「障がい者が構想する共同社会」という報告があった。日本では古くから琵琶法師、按摩、などという形で視覚障がい者特有の職業が認められており、明治以後もこうした形は存続した。これはいわば貴族や武士階級の様な特権階級の庇護のもとにあった。しかし、1970年代になって府中療養センター闘争が起こり重度脳性マヒ者の「青い芝の会」による運動が始まった。それは健全者による「庇護」という形ではなく、「共生」を目指す、障がい者の主体的運動だった。73年にイヴァン・イリイチが提唱した"Convivial"つまり地域で共に育ち、学ぶ、共に生き、共に働くための運動として展開された。国による法制として 1960年に身体障害者雇用促進法が制定され、70年には義務化され、85年には大改正が行われた。70年代には雇用でも授産事業でもない法外措置としての「小規模作業所」が作られ、自治体の助成を受けられるようになった。堀氏が代表を務める「共同連」では「先生と訓練生」の関係ではなく、労働者の同僚として共に働く関係、つまり「共働事業所」が目指された。そこでは障がいのある人、ない人が自らの労働能力に応じて対等平等に働き、「賃金」ではなく、それぞれの生活実態に合わせた分配が「分配金制度」として行われる。
 共働事業所は現在では「社会事業所」へと発展させ、イタリアの「社会協同組合法や2007年の韓国の「社会的企業育成法」に学び、ひきこもり、ニート、依存症者、ホームレスなどを含む社会的に排除された者30%以上が、そうでない者と共に働く共同事業所を目指している。しかしいまのところ法案大綱を提案するに留まっている。
 この経済活動は「社会連帯経済」の一分野であって、「WISE(Work Integration Social Enterprise)と定義されているが、自分はこの"I"を"Including" として「労働包摂型」を目標とした社会的企業として位置づけている。
 こうした労働包摂型社会事業所の働き方は、労働力商品化を止揚した働き方ともいえる。労働の交換過程論からいえば、等労働量交換であって、形式的等価であっても実質的には非人間的不等価交換である資本主義経済から実質的等価交換の経済へ、さらに人間的不等価交換システムとしての「贈与と互酬性および再配分」の経済(S. ラトゥーシュ?--野口)であるともいえる。それは資本主義も国家社会主義も超えた「共生社会・主義」であり市民社会に代わる「共生社会」である。
(うーむ、こうなると首をかしげたくなるな---野口)
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(以下次回に続く)

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マルクス生誕200年シンポジウムに参加して(記念講演について)

 昨21日に専修大学で行われた表記シンポに行ってきた。午前中は宇野派の大御所、大内秀明氏の「晩期マルクスのコミュ二タリア二ズム」という題目の記念講演だった。会場は講堂のような大きな部屋だったがおよそ120-130人ほどが入っていた。 その半分以上が白髪の高齢者であった。

  そこで最初に示されたスライドでのデータが、興味深かった。それはイギリスのある調査会社の調査データであるが、「あなたはマルクスの目指した社会を良いと思いますか?」という質問に応えた約30カ国でのアンケート結果だった。それによると「良いと思う」と応えた割合が80%以上で第1位だったのが何と中国であった。そして何と最下位が日本なのだ。上位には南米やアフリカなどが入り中位にはヨーロッパの国々、そのやや下にロシア、そして日本より少し上にアメリカがあった。

 この結果をどう見るかについては別の機会に考えるとして、日本人のマルクスに対する態度は実に冷たいものだと知った。特にいまの若者たちはほとんどマルクスにシンパシーを感じていないようだ。しかし、戦後の1950-70年頃までは日本のマルクス研究は世界のトップクラスであったし、大学の経済学科での位置も非常に高かった。
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 そこから大内氏の話は進み、さまざまな理由でこうなったのだろうが、それはマルクス経済学での役割を担った自分たちの責任でもあると反省を込めて言った。そしてその一つの原因として日本のマルクス主義がレーニンらによるソ連系からの流れが圧倒的に強く、ソ連が崩壊するとその後その弊害が強く出たためという。
  しかし、ヨーロッパではむしろマルクスが晩年になってパリコンミューンの影響を受けて手直したフランス語版の資本論からの影響が強く、たとえば、イギリスではこのフランス語版資本論を読んだモリスとバックス共著による「社会主義」(1893)がドイツ語の資本論よりもはるかに広く読まれていたとのことである。
 私はここで、かのウイリアム・モリスが出てきたので驚いた。モリスは私がデザイン学科の学生だった当時、必読文献だったペヴスナーの「モダンデザインの展開---モリスからバウハウスまで」で、周知している「アーツアンドクラフツ運動」の指導者である。私の頭の中ではモリスはマルクスを読んだがあまり良く理解できず、むしろラスキンやオーエン的社会主義に親近感を持っていたということであり、彼の「アーツアンドクラフツ運動」も結局は中世的職人組合の世界に戻ることを主張して、社会の近代化の中で挫折し、それが形を変えてドイツ工作連盟やバウハウスなどのような大陸での新たなモダン・デザイン運動に形を変えて継承されたという筋書きであった。
 しかし大内氏の説はそうでない。モリスはむしろイギリスでのマルクス思想の伝道者だったというのである。そしてヨーロッパではむしろレーニンらによるソ連型社会主義より前にこのモリス・バックス的社会主義が広く浸透していたので、ソ連崩壊後もマルクスへの関心はそれほど落ち込んではいないというのである。まさに「なるほど!」であった。
 そして大内氏は戦前に日本にマルクス思想が入ってきた当初はこのモリス系の流れだったという。堺利彦などがそれを代表しているというのだ。しかしその後ロシア革命の影響が強くなってきていわゆる「講座派」が台頭し、これまでのモリス系マルクス主義は「労農派」系として再構成され講座派に対抗する形が出来ていったというのである。これも「なるほど!」というしかない。
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 しかしその後、大内氏はそのモリス系マルクス主義は日本では宮沢賢治によって受け継がれたというのである。宮沢は「農民芸術運動」という実践のなかで彼の思想を表現していった。それは芸術家としてのモリスの影響が非常に大きかったというのである。
 ここで私はちょっと疑問を感じた。宮沢はマルクスの思想よりもモリスの思想に傾倒したのではなかったか。彼の中ではおそらくマルクスの経済学や哲学の神髄は理解されていなかったのではないかという疑問である。
 しかし大内氏はこのモリス系マルクス主義には晩期マルクスがパリコンミューンの影響を受けてその思想に変化を来した結果、むしろコミュ二タリア二ズムという方向に移行しつつあったのではないかというのである。そして後年レーニンが強調し、スターリン派によって著しく歪められてしまった「プロレタリア独裁」の原型はマルクスによるパリコンミューンに見られた職人組合的、つまり自分たちの手で作り自分たちで消費する地域共同体組織としてのコミュ二タリア二ズムだったのではないかというのである。
 これに関しては私もいまのところどう考えて良いか分からないが、その辺の歴史的実証があいまなので今後の研究を待つしかないと思う。
  そして大内氏はいま宮沢賢治の農民芸術運動や「東北砕石工場」を拠点とした「産業組合青年会」などに注目し、彼のコミュ二タリア二ズム的運動について研究しているのだそうだ。 
  大内氏はすでに86歳でいま仙台近郊の老人ホームに居り、「余命幾ばくもない私なので言いたいことはどんどん遠慮なく言わせてもらう」とその「枯れた境地」を語っていた。
 この講演はマルクス経済学の理論研究とはいえないが、マルクス主義の別な側面に光を当てたものとして私には大変興味深かった。そして大内氏は最後にこういったのである「マルクスの理論研究も大事だが、それがいかに実践の中で生かされてきたかが問題だ。その意味ではモリスがデザインという実践の中でその思想を別の形で表現してきたことは重要だ」と。私もこの考えには賛成だ。大内氏は宇野弘蔵の3段階論の持つ欠陥を多分自分では自覚せずにこう言う形でその矛盾を表現したのではないだろうか?
(続く)

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2018年10月19日 (金)

人類にとってAIとは何かを考える(その3 AIの未来)

 このような事実に踏まえると、「ポスト資本主義」の社会ではAIはどのような形になっていくのだろうか?

 「ポスト資本主義」が本当に資本主義の矛盾を克服し得るための大前提は、「賃労働と資本」(つまり社会的富を資本として私有化する個人が、その増殖を目的として、社会的に必要な労働をそのための手段として「労働力商品」の形で買い取ることで経済が成り立つ)という関係から労働を解放することである。
  社会的に必要な労働を分担して行う人々が「資本の増殖」のためではなく、直接その社会のあり方をコントロールできる社会の実現こそ必要である。それがどのような形、どのような過程で実現されるのかは今のところは分からない。しかし、少なくともバルトリー二が言うような「資本主義の良い面を残して悪い面をなくして行けば良い」という様なものではないだろう。あるいは「拝金主義の悪徳資本家」がいけないのであって、まっとうな資本主義になればよい、というものでも決してないだろう。いかに「良い資本家」であっても彼は自分の所有する企業の維持と利益を挙げるために激しい競争の中で必死に「死んだ物化した労働」を用いて「生きた労働」から剰余価値を引き出さねばならないのであって、それが資本の法則だからである。
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 資本主義経済の末期的形態である「消費駆動型資本主義経済」での様に、過剰資本の圧迫から逃れるために、必要もない「ニーズ」を掘り起こし、資本の生産物である商品を購買させるために大規模な広告キャンペーンが繰り広げられ、そこにありもしない「AIによる未来社会の夢」が描き出されて、IoTとか音声認識自動車とかが「ハイテク新商品」として売りまくらねば経済が成り立たなくなるのは、本末転倒の極みである。
 なぜなら、いま「消費駆動型資本主義経済」によって、必要もない商品がどんどん売りまくられることで廃棄物や排ガスの増大で自然環境は破壊され限りある地球資源の消費が加速されている。そのため一方で「消費拡大が経済を成長させる」と声高に叫ばれながら、同時に他方で「持続可能な経済成長目標(SDGs)とかCSVなどが叫ばれている。過剰消費によってしか経済が維持できない今の資本主義はまさに「矛盾的自己同一」の世界である。
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 資本主義社会は本質的に「持続不可能」な経済体制である。それは私的所有が社会を支配し、本来社会全体にとって必要な目標が、資本の維持増殖という私的目標を前提としなければ成り立たない経済体制だからだ。多くの「生きた労働」を道具として支配する少数の「死んだ労働」の保持者が市場の自由競争というアンコントローラブルな世界の法則によって支配された状態で健全な社会的共通目標など築いていけるはずはない。だからSDGsやCSVも単に絵に描いたモチでしかなく、企業のイメージアップ広告の手段にすぎないものだろう。タテマエとホンネの齟齬やマスコミや広告による「洗脳」(いまではインターネットやスマホという手段による)は矛盾した社会の支配者が真実を覆い隠すために用いる常套手段である。
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 労働者が主体の社会では、社会的必要労働を分担する形態、つまり分業の形それ自体もこうした社会の実現に従って大きく変わっていくはずだ。その社会は資本主義社会が残した遺産として高度な科学技術や医療、教育などをこの労働者主体の社会に相応しい形に再構成し直し、高度な生産力は資本の生産力としてではなく社会的な共通目的のための生産力として再編成され、まず労働者の個人生活に必要な生活資料の充実に向けられ、剰余価値部分は社会的共有財や共同のシステムのために用いられ蓄積されるようになる。そうなって初めて「経済の成長=社会の成長」が実現されるだろう。そこではもう「過剰資本」に悩まされることはない。
 そこでは、資本の道具としての頭脳労働の「代替」としてのAIではなく、本来の人間労働の「延長」としてのAIが用いられるようになり、人間の頭脳の苦手な部分を補助する手段として活躍するだろう。それによって労働する人々は、必要に応じてAIを用い、人間の尊厳が破壊されるような方向でAIを用いる必要はまったくなく、そう考える者もいなくなるだろう。またそうなっても人間は労働をせずに「仮想現実」の世界で遊んで暮らすことで生物体としての人類の絶滅を待つのではなく、相変わらず自分の筋骨系・脈管系・脳神経系の労働能力をフルに生かしつつ、生物学的な進化をも可能にしていくだろう。
(以上)
 

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