哲学・思想および経済・社会

2018年6月22日 (金)

朝日デジタル版「哲学者が語る民主主義の限界」の限界(その2)

(その1)から続く。

 一言でいって、若き支配階級のインテリたちが抽象論をもてあそんでいるに過ぎないという感じである。

 人権は確かに「人間として充実した意味のある人生を送るための条件であり権利」である。そしていまの民主主義はこれを実現するためのシステムにはなっていない。何故か?その原因を探る姿勢がこの二人のインテリ知識人においてはきわめて抽象的であり、さらにいえば「上から目線」なのだ。

 たとえば「民主主義の価値の中心は平等だ」と言い、決定に平等な参加が出来るためのメンバーシップが必要だという。しかしこれは具体的には何を指すのか?いまの人々も「国民」というメンバーシップを持たされているではないか。それもマイナンバーというIndexを付けられて。 それなのに、選挙で投票した政治家達は政治の場でトップダウン的行政を行い、選挙民はみなそれをあるときは反発しあるときは熱狂しながらも「われわれの選んだ政治の専門家がやることなのだから」と言って結局それに従うことになる。

  若き二人のインテリたちは民衆達にも「価値と知」が必要だ、と言うが、それはオカネもなく忙しくて時間もなく高等教育のチャンスも少ないフツーの人たちにとっては無理な相談である。
 また、彼らは、価値(Value)=事実(Fact)=権利(Right)だという。しかしたとえ科学的事実が探究されてもそれを認識し理解する人の立場(社会的位置関係)によってそれは違った意味(彼らはこれを価値といっているようだが)を持つ。そしてそれを自分たちの立場の権利に結びつけようとするだろう。
 また、「国民国家と民主主義は相容れない、民主主義と主権は相容れない」とおっしゃるが、ガブリエル氏のいう「主権のない民主主義を考えるべきだ」という主張もあまりに抽象的すぎて何を言っているのか分からない。
 問題は「主権」とは誰にとっての主権なのかではないのか?近代の民主主義体制自体が、フランス革命以来本質的には変わっておらず、要するに私的所有の権利と自由を手にした階級がその「平等」を主張して政治の舞台に登場したことから始まる。そしてその私的所有の元となる価値を日々の労働において生み出している人々はむしろその富を私有する人たちのための道具にされてしまっている社会がいまでも続いている。本来は社会的共有財となるべき社会的な富が個人に私有され、それを多く持つ人ほど社会的におおきな権力を行使できる社会になっているではないか。富を私有する連中は互いにそれを増やすための「自由競争」を繰り広げ、そのために働く人々は労働現場で酷使されている。いまはグローバルな競争の中で、「途上国」の労働者が過酷な搾取のもとに置かれ、「先進国」の労働者達はそれによって自国の支配層が得る莫大な富のおこぼれを頂戴して「中間層」の地位を維持している。
  最近ではこの状態が崩壊しつつあり、途上国の紛争(その本質は階級闘争)で生活が不可能となった人々が「先進国」にどっと逃げ込んできたため、先進諸国の労働者階級も排外主義に走り、「国民国家」はますます閉鎖的国益主義に傾いている。
 マルクス・ガブリエル氏はカール・マルクスの本をちゃんと読んでおられないようだ。
 要するに「国民国家」とはそういう機能をもった統治機構なのであって、「行政と住民は知識的に非対称性を持っている」などとおっしゃっても、それは国民国家では支配層が行政を行い住民は被支配層なのだから当然なのである。
 さらに、この状態を克服するために専門家達を参加させる「公聴会」が必要で、ある場合には議会だけに頼らずに国民投票も必要だ」などとおっしゃるのは、あまりに現実をご存じないし、こんなことでは事態は到底片付かないのだ。イギリスのBREXITの実状を見てほしい。
 さらにいけないのは、民衆に「倫理の教育が必要だ」などと主張するのは、支配層の支配的思想を小さいときからたたき込み「洗脳」しておけば、無駄な議論や混乱を防ぐことができるということでしょう。まるっきり支配層側の思想ではないか。
 こういう主張をする方々が「国民国家モデルをグローバルに拡張した連邦モデルを目指すべきだ」などとおっしゃってもそれがグローバルな支配構造をつくることでしかないのではないか?このような形で国境がなくなっても、相変わらず強権的行政に支配される庶民とその状態にあきらめを感じ、従うしかない彼らの状態は変わらないだろう。
 問題は、共同社会をともに支える労働を行う人々が、ともにその生み出された価値を共有でき分かち合える様な生産=消費体制(経済システム)を生み出すことが必要であり、それによって初めてともに共同社会の一員であることが自覚でき、協力し合う気持ちになれる体制が可能となるのではないのか。そこに自然に共同体としての倫理や結束がうまれ、それは国境を越えた共同体社会へと発展しうるようになるのだと思う。
 こうした普遍的な社会の形態を前提にするのでなければ「人権の普遍性」を唱えてみても意味がない。
 このような考え方は偏った左翼思想でしかも古い思想ですか?マルクス・ガブリエルさん、国分功一郎さん。

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朝日デジタル版「哲学者が語る民主主義の限界」の限界(その1)

 6月20日朝日朝刊デジタル版に表記の特集記事で、ドイツの若手哲学教授、マルクス・ガブリエル氏と日本の若手哲学教授、国分功一郎氏の対談が載っていた。

 テーマは大まかに言えば、現代の民主主義国において強大な行政権力が力を持った政治体制が「主権」によってコントロールすることができるのか?という問題である。
 ガブリエル氏は、これに関する国分氏からの手紙に応えてまず次の様に述べる。
民主主義は人権を行使するための政治システムであるが、歴史上登場した民主主義はギリシャにおいてもフランス革命においても失敗した。その原因は「みんなのため」という基本概念が実現出来ていなかったからだ。いまの民主主義もグローバリズムの中で途上国の人々への「アウトソーシング」という犠牲の上で先進国の人々が民主主義を保っているので理想的な民主主義ではない。民主主義のリーダー達が科学的知識を持っていないことも欠陥だ。こうした難点を克服するには哲学と科学が必要で、制度としては「公聴会」も持ち、人々の情報が行き届く「公共圏」が必要だ。
 そこから二人の対談が始まる。これを逐一書くスペースもないので、論点の要点のみを書いておこう。
 ガブリエル氏は「国民国家と民主主義は相容れない」と主張する。民主主義は普遍性が重要だが、国民国家というシステムを追い求めると結局独裁的な形となり排外主義的になる。国民国家を超えるグローバルなメンバーシップが必要だ。
これに対して国分氏は「国民国家という枠を取り払ってしまったら、主権はどうなるのか?主権のない政治はありなのか?」と疑問を投げかける。
 ガブリエル氏は「民主主義は普遍的価値システムだから主権という概念とは相容れない。主権なしの民主主義を考えるべきだ。」という。国分氏は「民主主義と主権は相容れないという考えだと思うが、しかし主権が必要な場面もある。たとえば沖縄の基地問題だ。」と突っ込み「行政と住民は知識が非対称的で、知識と情報の平等な共有が必要だ。」と主張する。
 ガブリエル氏は「政治家にはなくても官僚が専門的知識を持っている。専門知識を共有するためには公聴会が必要で、さまざまな分野の専門家がこれに参加することが必要だし、公共圏におけるジャーナリズムも必要だ。しかしインターネットは野放しにはできない。」と主張。
 これに対して国分氏は「民主主義の実現ルートは議会だけではなく、住民投票も必要だ。一方いまのグローバル社会では行政には常にスピードが求められる。」という。
  ガブリエル氏は「民主主義の実現には市民に倫理が必要だ。倫理的判断ができるように早くから哲学の教育が必要だ。」と主張。
  国分氏「ハンナ・アーレンとが言うように、大衆は何も信じていないから何でも信じるということになる。つまり<軽信>だ。そして騙されることに驚かない。ある意味で信じることは必要だ。」と主張。
  ガブリエル氏「自由に考えることができることが必要だ。そのために自分の判断の基礎となるべきものを持つべきだ。」という。
 立憲主義についてガブリエル氏は「立憲主義はいわば上から目線であり、<こう決まってる>という視点だが、民主主義はボトムアップ的だ。しかし民主主義が投票で決められることには限界がある。人間の尊厳に拘わる問題は勝手に決めるわけにはいかない。民主主義は民主主義自体を否定することはできない。」と主張。また倫理は教育できるのか?という疑問に対しては「人間は生まれたときからある種の倫理的感性を持っているが、そのときに選択肢にある限定が必要だ。それが結局誤った判断を防ぐことになり、排外主義に傾く様な考えを持たないようにすることに繋がるし、異なる意見を持つ人との議論も一定の合意の方向を見いだせる様になる。」とし、多数決は民主主義か?という疑問に対しては、「多数が勝ち、ではなく、倫理的な土台にもとづく合意形成が重要なのだ。」と言う。
 ここで会場からの質問に移り、「民主主義と主権は相容れない、国民国家も必要ないとするならそれに代わる新しいシステムがありうるのか?」という質問があった。
 これに対して国分氏は「国民国家と国家は同じではなく、国民国家がなくなっても国家はシステムとして残る。」と応えた。
 ガブリエル氏は「国民国家に代わるものとしては連邦モデルを考えている。つまりグローバルな政府である。国民国家モデルをグローバルに拡張した連邦モデルだ。」と応えた。
 大体以上がこの記事の内容であるが、これに対する私の見解は次回のブログに書くことにする。
(続く)

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2018年5月21日 (月)

再び「誰が資本家?私は労働者?」について

 以前一度この問題に触れたことがあったが、いま国会で「働き方改革法案」が審議され、その中にいわゆる「高プロ」条項が含まれるために議論が混乱している状況を見ると、ここでもう一度一体誰が労働者なのか?について考えてみる必要があるようだ。

 マルクスが資本論を書いた19世紀中葉の時代には、労働者はまさに工場で油まみれになって12時間以上働く人々であり、炭鉱の地下で命がけで長時間労働を行う人々であった。しかし、21世紀のいま、働く人たちは、同じ賃金労働者であっても、たとえば管理部門では、コンピュータで様々なソフトを動かし、労務管理や財務管理、そして企画書作成などを行う人々もあり、生産場面では、やはりコンピュータで設計図を描き、シミュレーションで試作過程を短縮し、品質管理でもAIが用いられ、製造現場の労働者もロボットの監視役になっていたりする。19世紀とはまったく様変わりしている。
 一方で資本家はいうまでもなく「人格化された資本」として資本の目的意識を持ち、資本の戦略を身を以て実践する人々である。
 生産手段の私有化という資本主義の基本原理も、個人による文字通りの「私有」ではなく、企業という「法人」が所有する形である。そしてその企業はそこで働く人間や設備などを含めていわば「商品」として売買される。いわゆる企業買収である。
 さらには、その企業に出資や投資して経営権の一部を握る人々(株主などとして)が多数存在し、中には中産階級化した労働者も株主としてほんのわずかではあるが企業の経営に関与している。これでは誰が資本家なのか分からない。
 このように分散化され階層化された労働者階級と資本家階級が「階級」の存在すら見えなくしている状態で考えねばならないことは、これらが資本主義経済体制特有の分業形態であるということだろう。労働者は資本の生産過程での役割をその時代の技術的水準に応じて分割され分担させられる。そして資本家もその資本の意図の実現という機能を様々な形で分業化して分担している。
 これらの分業形態のどこに労働者と資本家を区別する一線があるかを考えてみれば、それは「労働賃金がなければ生活できないかどうか」であろう。労働者は生活のために労働し、資本家は企業利益という形で資本を増やすことを目的とし、雇用した労働者の労働力をそのための「道具」として用いる。
  たとえば、商品企画や経営戦略の作成などを行っていて自分たちの仕事の内容が企業の利益に直接結びつくものであっても、企業から賃金を受け取って生活している人が大部分であり、これらは一応労働者といえるだろう。彼らは企業を解雇されれば他の就職先を見つけなければならない。
 一方で、この会社に投資している人々は直接にその商品企画や経営戦略の作成は行わず、ただそれが利益に繋がるかどうかを「評価」するだけである。こういう人々はその持ち株がなくても生活できるし、その会社に雇用されているわけでもない。かれらは単に株式市場の動きによって株を売買しその差額によって労働者の生み出す価値の一部をピンハネするだけの資本家である。
 そして企業のいわゆる経営陣の人々は、自分たちの経営手腕で企業の利益を上げ従業員を養っていると自負し、多額の報酬を受け取っているが、実はこれは労働賃金とは全く別の「報酬」である。彼らはまさしく資本の支配権と意志を遂行する「機能資本家」なのであり、その「報酬」は労働者達の生み出した価値である。従業員を養うというポーズを取りながら労働を搾取し、会社の利益のために必要とあらば大量人員整理も辞さない。
 いわゆる「高プロ」は高度な頭脳労働によって企業の利益に直接結びつく労働を行うことで高額な賃金を受け取っている「労働貴族」であるともいえるだろう。しかし彼らも労働者のはしくれである以上は、長時間労働などで心身共に疲弊して労働力を破壊されるようなことがあればこれは一種の労災である(もっとも企業はこうした高度な労働力は失いたくないであろうが)。いくら裁量労働といえども彼らだけが長時間労働を許される理由はどこにもない。
 さらに世の中を見れば、一人社長といって建設業界などで大企業からの仕事を下請けし、自らの裁量で一日12時間以上も働いている「経営者」もいる。彼らはていの良い形で親会社から自立した企業の経営者という形を採らされることで、労働基準法から外されている実質的下請け労働者である。
 そしてもっとも困ったことは、実質賃労働者であるにも拘わらず、高額な賃金を受け取ってはたらく「労働貴族」たちがいまの資本主義社会では「中産階級」を形成し、彼らは自分たちを労働者階級の一員ではなく、「市民」なのだと自覚していることである。そして彼らは下層の労働者に対して一定の優越意識を持ち、自分たちは優秀だからこういう豊かな生活の恩恵に与れるのであり、能力のない者はそれなりに貧しい生活をしても当然だ、という潜在意識をもっているということだ。
 こうした「市民意識」を持つ人々は自分たちは「社会人としての良き常識」を持っており、人々に迷惑をかけることはしない。だからストライキなど反対だ、と言ったりする。
 しかしよく考えて欲しい。彼らが比較的リッチな生活を営み、「良識ある市民」として優越意識を持てるのも、実は下層の労働者の過酷な労働のおかげであり、もっと言えば世界中の「低賃金諸国」(こうした国々ではいまだにマルクスの時代の労働者と同様に過酷な労働が再現されているのである)での膨大な数の労働者の労働を搾取しているグローバル資本の「おこぼれ」を回り回って頂戴しているからに過ぎないのだということを忘れてはならないだろう。

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2018年4月21日 (土)

「民主主義」の背後にある矛盾

 最近海外ニュースを観ていると、フランスで国鉄労組や航空会社のパイロット組合のストライキが続いており、かなりの労働者がそれに参加している様だ。しかし、繰り返されるストにパリの駅では乗客たちの反発が強まっている様だ。いつものパターンである。かつて日本でもこうした光景が繰り返された。そしてそれは「庶民の日常生活に与える影響が大きい」という理由で、労組側への暗黙のプレッシャーが強まり、やがて交渉は妥結する。労働者は「庶民」から区別され、「庶民」はつねに正義なのである。

 ストは労働者の権利であることが主張されながら、それは反面で労働者の「エゴ」と経営者の「寛容さ」との間せめぎあいの様な受け止め方をされる様になり、行き着く先は「労使協調」というところに「落ち着く。「会社が利益をあげれば労働者も潤う」という意識がそこに根強く存在する。
 こうしてストやデモの様な場面では常に「労働者」と「一般庶民」は区別されるのである。この「労働者たち」と「一般庶民」を区別する見方はどこから来るのか?
  実はこれこそが「暗黙の支配的イデオロギー」なのだと思う。この「暗黙の支配的イデオロギー」の裏には、「庶民の日常生活を護る」という形で、現実に階級社会である資本主義社会をあたかも労働者も資本家も一体となって国を構成している社会、つまり階級など存在しない社会として見せるという機能を果たしていると言える。
  この「暗黙の支配的イデオロギー」とはその社会での「社会常識」という形で現れ、こうした「社会常識」の上に成り立っている政治形態がいまの「民主主義」なのである。
 この「民主主義」は、例えば全ての住民が投票権を持ち、住民の 選挙によって選ばれた代表者が政治を行うという形であり、「自由」で「平等」な社会での普遍的政治形態であると考えられている。
 しかし、ここでの「自由」はつねに「エゴ」と裏腹であり、「平等」は「画一化」と同義語になっていく。だから自由に意見を言うことが、勝手な主張ばかりして社会の秩序を乱していると言われ、何が何でも「格差是正」と叫ぶのは画一化だ」と言われるとにもなる。
 そうなると今度は、「能力あるものが社会の指導層になることは当然だ」という意見が「正論」として受け止められ、能力ある経営者のもとで皆が協力して一体になって働くのが良い社会だ、という主張が常識化され、やがて「強いリーダー」への要望が強まり、独裁的指導者が容認されて行く。
 こうして近代の歴史では「民主制」は結局烏合の衆の不毛な論議をもたらす主張がリアリティーを持つ様になり、それへの反動が「強いリーダー」を求める要求になり、やがて独裁色の強い指導者が登場して権力を振るう様になる。やがてまたその反動で再び「リベラル」を標榜するグループによって「民主制」が登場するということが繰り返された。民主制と独裁制はいわば同じものの表と裏の関係の様に思える。
 いまの社会が「強いリーダー」のもとで「消費を拡大することが社会を豊かにする」という「社会常識」のもとで、過剰な消費を促進させることでしか経済が発展しなくなっており、有限な地球においてはいつか必ず破綻を来すことが明らかになってきていながら「リベラル派」含めて誰もそれを止めることができない。
  それは全ての社会的分業形態がその矛盾を誰にも止められない様な社会構成として存在し、あらゆる人々はその中に組み込まれて働いているからである。
 そこには個人的性格や主張がどうあろうとも、社会を支えるために必要な様々な種類の労働が、労働者の労働力を買い取り支配する一握りの人たちの手に握られ、「自由市場」という激しい生存競争の場のもとで彼らがその労働の産物(これが価値であり資本である)を売買し合うことで「成長」する階級と、自分の能力を「労働力商品」つまり価値・資本を生み出す商品としてそうした階級に売りに出さねば生活できない状態にされている絶対多数の労働者階級(いわゆる庶民の本質的立場)がいて、この社会全体は成り立っているのだ。
 全ての分業種つまり資本家企業においてこうした労働力の売り買いが「雇用契約」という形を通して行われ、「強力なリーダーシップの経営者たち」によって買い取られてその指揮監督のもとで行われる労働の過程で、自らの労働力を再生産するために必要な生活資料の価値分を超えた労働によって生み出される剰余価値が無償で吸い取られ、それが労働者自身を支配する資本の力になっていく社会、それが資本主義社会である。
  「強力なリーダーシップの経営者たち」にとっては、競争に勝つことが使命であって過剰消費による地球資源・環境の破壊がもたらすであろう破滅的危機などどうでも良い。そしてそこに雇用されて働く労働者たちはただ所属する分業種において様々な形で「強力な経営者」のための資本増殖への機能を果たす歯車としてしか存在意義がない。
  こうした社会をその普遍的姿として位置付けようとする「社会常識」のもとで「民主的選挙」が行われる。その当然の結果として選ばれた支配層を代弁する立場でしかない政治家たちはグローバル資本の渦中にある世界で「国の総資本を代表して」他国と利害をせめぎ合う。
 こうした世界における基本的矛盾が土台から克服され、本当の意味で階級のない社会での生産と消費が実現されないない限り、その矛盾を覆い隠す様な「自由」や「民主主義」はニセモノであるとしか言いようがない。

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2018年4月15日 (日)

これもまた「民主主義」? E. トッドの民主主義論で考えさせられること

 安倍「一強」政権は、森友、加計問題で、次々国会での発言とは食い違う証拠が出てきたにもかかわらず、以前として「強気」で「カエルの顔にションベン」といった有様である。しかもこんなひどい政権なのに相変わらず支持率が30%を下らない。なんということか!しかしこんな嘆きごとを発するのは「一部」の者に過ぎないのだろうか?

 おそらく安倍政権は景気が維持される間、支持率が下がらないことをよく知っている。だから「強気」で「カエルの顔にションベン」なのだ。
 ところで先日読んだ「世界の未来」(朝日新書)であのエマニュエル・トッド先生が面白いことを言っている。
  「民主主義」は親族のつながりからできた「核家族」という共同体の発生から登場した人類史の中でもっとも古い統治政治形態だというのだ。それは「他者」がいることで「自分たち」を定義できるというシステムで、そういうグループのデモクラシーなのだ。かつてはヨーロッパのいたるところで見られたが、それがこうしたシステムの発展とともに絶対主義的体制の登場などで斥ぞけられて行った。そしてイギリスの代議員制度はその生き残りなのだ。というのである。
  古い昔にあった民主主義は、小さなグループが自分たちの間で組織した形でありそれはある程度排外的だった。グループが形成されるのは他のグループに対抗するためでありそこにグループ内での民主主義があり、常にある程度排外的なのだ。今のアメリカやヨロッパで起きていることはこうした民主主義の原型の再登場なのだ。しかし、次の段階があり、自分たちのグループ内での平等になじんでくると、やがて近隣のグループ同士が自分たちは似ていると気づき始める。これが民主主義の普遍的段階への一歩なのだ。
 この観方に立つと、トランプ大統領もイギリスの「BREXIT」も民主的に投票された結果であり、投票したのは大衆層だ。それを普遍主義的で文明化された国の民主主義にとって後退だというのは間違っており、古い民主主義の再登場だと言える。
  そして民主主義にも、「リベラル型」「垂直型」「権威主義型」など様々なタイプがあるが、共通していることは、人々に選挙権があって、政府が人々の期待することを実行する体制であるということだ。そしてその結果が悪ければ投票した大衆自身が尻拭いをしなければならないということだ。
  戦後日本でも大衆の民主的代議員制投票によってずっと自民党が支持されてきた。日本ではアメリカのように政権が入れ替わるということを大衆が望まない(つまり「親方日の丸民主主義」と言うことだろう)。それに比べて今のEU体制は普遍的民主主義を自認するエリート政治体制であり、自信過剰なエリートたちが大衆の期待を必ずしも実現していない。
 これだけ見るとトッド氏はとんでもない保守主義だと思われそうだが、必ずしもそうでなく、次のように主張する。
  西欧的民主主義は絶対的で普遍的なものではなく、様々な地域での特有な歴史と形態を持っており、むしろその中にいる大衆自身がその欠陥に気づき、良い方向にそのシステムを軌道修正すべきものであることを示唆している。
 この見方はなかなか面白いが、それによれば今の安倍政権も民主的政治の結果であり、大衆の投票結果なのであり、それをとやかく言う筋合いではないが、しかしその後の結果を見て、この先どうなるかを少しでも真剣に考えれば、遠からずわれわれ大衆はとんでもない「尻拭い」をしなくてはならなくなるということに気づくべきだろう。目先の「景気」が良いからと言ってこんなひどい政権を「親方日の丸」と呑気に考えているととんでもない事になる。
  そろそろ「政権交代を好まない」日本の民主主義もボトムアップの力を発揮する時がきたのでないだろうか?
 

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2018年4月 7日 (土)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(6)

 このシリーズで最後にもう一つ重要な問題を書いておこう。それは現代の過剰資本時代の「貨幣」の姿とその役割についてである。経済学の素人である私がこんな難しい問題に口出しすべきではないかもしれないが、「過剰資本の不生産的処理」を問題とする以上はこの「貨幣」問題は避けられないように思う。

 資本主義経済が基本的にG-W-P-W'-G'という資本の形態変化による循環(G:貨幣資本、W:商品資本、P:生産手段と労働力による生産資本)のもとで資本の増殖を目指すことが経済発展のモチベーションになっていることは周知の通りであり、ここでは貨幣資本は商品の流通を媒介する支払い手段としての役割を果たしながら、同時にあらゆる富に変えられうる究極の力を持つ対象として私的所有の欲望の対象になっている。
 しかし、商売の必要上、商品と商品の交換は直接貨幣を支払うことのできない場合に一時的に資金を貸し出したり、手形のような形の信用証券を用いて支払うこともできるようになって行った。それは同時に、貨幣を蓄積した資本家の一部が、資金繰りに困る資本家のためにその蓄積貨幣の一部を利子を付けて貸し出し、私的蓄積によってストックされている資本を流動化させ、社会全体の資本の流通過程をスムースにしていくという役割を果たしながら、その「手間賃」を「利子」という形で受け取るという形で直接貨幣が貨幣を生む(G-G')資本の増殖形態(利子生み資本)を生み出した。
  また貨幣も最初は金や銀といったそれ自体が価値を持つ貴金属が用いられていたが、やがて、それを直接持ち歩かないでも済む紙幣のような代替貨幣あるいは形式的貨幣が登場し、例えば銀行や国家などによる信用を背景に発行されるようになった。
  さらには資本家企業が起業や運営に必要な資本を集めるために、資本を募集する際に発行する株はそれが借金の利子のような形の配当を株主にもたらし、その企業の運営が好調で多くの利潤をもたらすことによる配当の増大が見込まれればそれが高く売れるということから、それを売買する市場が登場し、そのほかの証券を含めてそれ自体の売り買いが儲けの手段にもなっていった。
 つまりここではG-G'という過程が「投機」という形で売買のうまさ加減で単に株を売り買いすることだけで莫大な富を増やしていくことになる。
  こうして貨幣はそれ自体の価値を離れて間接化された存在となり、いわば流通手段の表象となり、実際の貨幣でなく銀行や証券会社による単なる数字のやり取りだけで莫大な貨幣の私的所有権が動かされるようになった。しかも従来は金との交換を前提とした紙幣であったものがいまではそれが不可能な状態となり基軸通貨を中心に行われる為替レートの変動にいよって調整される「約束事」としての通貨になってしまった。
 そのためこのG-G'という取引の形は、現在の様な過剰資本がグローバルに流動化している時代には、実際の商品としての生産手段や生活手段の売買の量をはるかに超えて行われる様になっていると考えられる。
  つまりG-W-P-W'-G'による資本の増殖を超えてG-G'が暴走している「根無し草マネー」による過剰資本の処理と言えるのではないだろうか?
 それは例えば莫大な借金により国家財政を成り立たせている資本家政府の状況を見ても分かる。これらの借金はバックに国家や中央銀行が「保証人」として控えているから信用が成り立つという勝手な論理の上で行われているが、「根無し草」であることには変わりない。だから、この「思惑」だけで激しく回転する過剰流動資本は、何かがきっかけでつまずくとたちまち世界的な大恐慌が訪れることになるに違いない。
 過剰となった資本の不生産的処理のための生活消費財の過剰な大量消費を前提とし、それを促進させる商品流通資本や宣伝広告資本が、生産資本を牽引し、それによる過剰なエネルギーや資源の消費を加速させ、そしてその上に乗っかって「思惑」だけで過剰な流動資本がネット上を激しく動き回るいまの資本主義社会では、この馬鹿げた資本の空回りのために一人一人の生命力の発露である人間労働がとことん使い回され酷使されているのである。
 さてこの辺でこのシリーズを終わりにしよう。間違いがあれば遠慮なく指摘して欲しい。
以上

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2018年3月31日 (土)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(5)

 なぜ私が過剰資本の不生産的処理の問題にこだわるのかについて若干記しておこうと思う。

 資本主義社会はその本質上、生産手段を所有する資本家が、労働力をその再生産に必要な生活資料の価値で買い取り、それに必要な価値生産時間を超えた時間労働させることによって不払い労働分としての剰余価値を取得しながら社会的に必要な生産物を商品資本として生産するという形ではあるが、歴史上一定の時期までは資本の利潤と蓄積を追求する競争の中で、急速に生産力を向上させてきた。

  しかしその蓄積される資本と高度化した生産力によって資本が過剰化し、それによって生じる矛盾が様々な形で現れる様になり、新たな資本の投入によっても予期された利潤を生まなくなった。しかし資本主義体制ではその過剰化した資本を本来あるべき形である社会共有財に転化することは原理的に不可能であり、生産的消費(生産手段の補填増強や労働力の増員などによる社会的富の増大のための消費)に追加資本を回すことでは過剰化した資本を処理できなくなったと考えられる。
  そのため、それをこうした生産的消費に直接結びつかない形で処理する様になっていったと考えられる。それが例えば軍需生産物の増産、無駄と言える様な過剰な消費材の際限ない増産、そして第三次産業的な部門への莫大な投資などによって資本を何とか過剰化させないで凌いでいるのが現在の資本主義体制であると思う。これはまさに爛熟期を過ぎ「腐朽化した資本主義社会」であると言えるだろう。
 そしてこの歴史的に特殊な「腐朽化した資本主義体制」に相応しい形態での社会的分業化が進行していると考えられる。
  いわゆる情報技術の進展によってすでに進んでいた頭脳労働と単純労働に大きく別れる分業化は頭脳労働のさらなる分化とヒエラルキー化が進み、資本家も「人格化した資本」としての機能がそれに相応しく分業化され、資本運用の意思決定権を持つCEOを中心にそれを補佐する経営陣という形に分業化し、時にはそれらが「分社化」して独立した資本家が担当している。そして今ではその上に全ての運営資金を支配する金融資本家が銀行や持株会社などを通じて君臨しており、事実上資本家の本質的役割であるマネーのやりくりによる資本の増殖に携わっている。
 資本家の仕事を含めてこれら全てが「社会に必要な労働」という形をとって忙しく動き回り、日々資本の蓄積・増殖に寄与している。この資本の蓄積と増殖がこの社会では「経済成長」と呼ばれ、これが「成長」すれば、労働者もその分前を少しばかり多めに頂けると考えられている(アベノミクスがその典型例)。こうして「コンピュータ社会」、「情報化社会」、「ユビキタス・ネットワーク社会」、そして「IoT」などなど次々と打ち出されるキャッチフレーズのもとで、新興資本家たちは旧資本家の硬直化した体制を更新すべく快活に明るく振る舞い、彼らによって推進される「イノベーション」によって不要化され、次々と「下流」に落ちて行く技術労働者たちは孤独で先のない状態に置かれることになる。
 いま蓄積する社会的富(いまは資本として)がわずかな人々(独占資本家)の手に握られ多くの人々(労働者)が貧困化して行くという現実を見て、ただ富の偏在や格差拡大を批判して格差縮小や富の再分配を主張するだけではダメで、こうした社会全体の分業形態、労働形態、そしてそれらによって回転する生産と消費のメカニズム全てを変革して行くことなしには本当の改革はありえないと思う。
  それは社会全体の在り方の変革であり、同時に人間(諸個人)の実存そのものの変革でなければならないと思うのだ。
 こうした次世代社会への長期的展望を見据えた現実批判の基礎に、本来生産的であるべき社会的富の蓄積が過剰資本として生産を圧迫しそれを不生産的方法で処理しなければならないという矛盾への認識が必要であると私は感じている。
 人は共同体社会における「(現在の)生きた労働」において、自分がどの様な存在であるのかを表現し、その労働の結果を「(過去の)死んだ労働」として対象化しつつ、その蓄積を「未来の社会」への寄与となしうる、そんな社会を私は望む。
 社会的総生産物の再生産という問題は、生産物に含まれる価値形態をcは対象化された労働の形態つまり過去の労働の成果であり、vは現在の生きた労働であり、mは未来のためのその蓄積であると考えれば、人は過去の労働の成果(生産手段)を用いながら現在の生きた労働を行うことで社会全体を維持させ、mとして蓄積されるその成果を以って社会を未来に向けて発展させて行く。そのために必要な社会的労働と生産手段の配分に必要な条件だといるのではないだろうか?
 

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2018年3月25日 (日)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(4)修正版

 前回に書いた様に、新たな資料を得て、これをもとに考察を重ねた結果、今のところ、次のような結論に達した。

 資本の蓄積が順調に行われるためには、社会的総生産物において、I(v+m)=IIcという単純再生産の条件(ここで Iは生産手段生産部門、IIは生活消費材生産部門、cは不変資本部分、vは可変資本部分、mは剰余価値部分を指す)を充たす価値関係がまず必要であり、その上でI(v+m)>IIcを行う必要があるが、その場合、資本家の収入部分である mの一部から、新たな追加資本が過程に投入されねばならないが、その追加される資本においても I(v'+m')=IIc'という均衡関係が維持されなければならない。(ここでc', v', m' は追加資本のc, v, m部分を指す)
 もしこの関係が維持されていれば蓄積は過剰資本を生ぜずに行われるが、この追加資本分の関係が I(v'+m')>IIc'となってしまう場合はそこに過剰な資本が生じることになり、 I(v'+m')<IIc'の場合は縮小再生産となってしまう。(アンダーラインは修正部分)
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(以下は全面書き直し部分)
 この過剰資本状態が生じるのは生活消費財生産部門で必要な生産手段の需要を超えて、生産手段が生み出される状態であり、逆に縮小再生産となるのは生活資料生産部門で必要な生産手段の生産がその需要を満たしえなくなった状態であると考えられる。
 縮小再生産状態は今の場合考察の対象外なのでここではのぞくことにする。
上記の様な過剰資本状態は、いずれ過剰資本を蓄積させ、これが拡大再生産を阻害して資本家にとっての収入部分を減らすことになる。
 そこで個々の資本家は様々な方法でその過剰資本を処理することによって、自分達の収入部分を減らさずに増加させようとするであろう。しかし、彼等の行為は常に「市場の法則」の中で行われねばならず、社会的総生産において上記の均衡が計画的に維持されて拡大再生産を行う事は出来ない。そこで「市場の法則」の中で、結果的に過剰資本の処理が可能となった方法を資本家階級全体が推し進めることになる。それを大きく二つのケースで考えれば、次の様な二つが考えられる。
(A)戦争で用いる武器や戦争関連製品の生産を増加させ、これによって生産手段生産部門での過剰資本を不生産的に処理する(武器は破壊のための道具であり再生産には決して結びつかない)。
(B)過剰に生活消費材の生産を促し、それによって生産手段生産部門での過剰資本を不生産的に処理する。
 差し当たりこの(B)のケースがここでの問題であるがその場合なぜこれが「不生産的処理」なのかである。
ここでは直接的には労働賃金の上昇が行われ、それによって労働者が生活消費材の購入に支払う貨幣を増やすが、それは一方で労働者の生活資料を増やし、「豊かな生活」を演出させるが、同時にそこに支払われた貨幣は再び資本家の手に戻り、次の投資に向けられる。
 労働者が生活のために何を必要とするかが、社会全体の需要を形成するはずであるが、それがむしろ資本拡大のための手段とされてしまい、如何に人々の「消費への過剰な欲求」を掻き立てるかが、資本家階級社会の目的になっている。
 だから社会的生産の主人公であるはずの労働者階級が「消費者」として位置付けられ、それを促すために自ら所有する生産手段を利用している資本家階級が「生産者」として位置付けられてしまう。
 生活消費材は労働者階級自身が要求する本来の需要としての質や量としてではなく、資本家が過剰消費を促しそれによって過剰資本を処理するための手段として、つまり本来の生産的消費としてではない形で供給されることによって需要を超えた過剰な消費を歯止めの効かない状況で生み出していると言える。そしてそれが資本家階級全体にとっては過剰資本の不生産的処理となっており、実質的には過剰な資本が存在するにも関わらずこれを彼等にとっての利潤をもたらす手段としている。
 以上の様に捉えた上で、Sさんからの指摘をとらえ直すと次のように言えるのではないかと思う。
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(以下は修正の必要がないと思われたのでそのまま残した部分)
 前回でとらえ直したY.Sさんの指摘の(1)についてはすでに一応回答し直しているが、
(2)の労働賃金の高低差は労働力の養成費や労働力市場で決まる労働力商品の価格(人手が足りなければ賃金は高騰し、余れば下落する)であって、そこにvm部分を入れることなどあり得ないのでは?という指摘に関しては、その通りだと思う。私が「資本家の取得するmの一部をvに忍び込ませる」と言ったのは、追加資本分として資本家が用意するm'部分をそのような言い方で示したということであって、ここに述べられているような追加資本の持つべき「法則」を深く認識していなかったためであることを認める。(3)については労働者へのサービス産業はある意味で消費生活の社会化ではないか?という指摘に関しては、サービス産業は確かにそういう性格を持っているが、しかし現状ではそれが資本にとって過剰資本拡大への回避手段になってしまっており、そこに、過剰な消費を促すという本来の目的ではない動機が全面化していると思われる。
(4)ファミレス、居酒屋などはそこに資本が参加するのは労働者の需要があるからだ、という指摘に関しては、今の労働者階級がなぜそのような需要を生じさせているのかを考えれば、家庭内で食事を楽しむ時間もなく家族形態そのものが崩壊状態にあるためとも言えるのであって、そこに資本がつけ込んで新たな「儲け先」を見つけているわけで、それは決して肯定できるものではないと思う。
 さしあたり、私は以上のように把握しているが、これにも誤解や無理解があるかもしれないので、読者からの批判を受けたいと思う。
 
*付記:以上が前半部分に大幅な修正を行った結果。これに伴って「過剰資本の不生産的処理についての考察(1〜4)」も一部修正してあります。2018.03.29

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2018年3月22日 (木)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(3)修正版

 前回のY.Sさんからの指摘を読み直してみて、それに対する私の回答は必ずしもY.Sさんが指摘された問題への適切な対応ではなかったと反省している。Y.Sさんの指摘で重要と思われる要点を改めて列挙すれば以下の点ではないかと思われる。

(1)私が提起した「過剰資本の不生産的処理」の方法としての労働賃金への資本家の剰余価値の一部の追加(私はこれをvmとした)があるとすれば、資本家はそれに投資する際に利潤率が下がるにも拘わらずそのようなことをするのか?
(2)労働賃金の高低の差は、その労働力の養成費と労働力商品の市場価格として高低差(人手不足なら賃金が上がる)なのであって、それ以外の何物でもないのではないか?
(3)労働者へのサービス産業はある意味で消費生活の社会化なのではないか?
(4)ファミレス、居酒屋などに関してそこに資本が参入するのは労働者の需要がある以上否定できないのではないか?
 そしてY.Sさんの指摘には直接はなかったが、その指摘の背景にある疑問、つまり実際に資本家に利潤を生み出している以上、それを「不生産的処理」と言えるのか?という疑問があるように思われる。
 これらについてもう一度キチンとした答えが必要であると考えるが、いずれもかなり高度な問題であって、私の提起が基本的に誤りであるかどうかを含めてもう少し検討したいと思う。
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 そこでその前にまず、先日「資本論を読む会」でM.Mさんからもらった資料(越村信三郎著「図解資本論」の一部と大谷禎之介著「図解社会経済学」の一部 )を読み、そこに書かれてあるマルクスの拡大再生産論に関する指摘などを改めて読み直してみた。
 マルクスが資本の蓄積が始まり社会的総資本の拡大再生産が進むための必要条件について述べられており、それは生産力が高まり、資本構成(c/v)が高度化しても過剰資本を生み出さずに社会的に拡大再生産を進めるためには、I(v+v'+m')=II(c+c')という均衡が保たれなければならないということが指摘されている(ここでv'は蓄積された資本のうちからv部分に追加された部分でありm'は資本家の利潤に追加された部分、c'は生産手段に追加された部分である。)。つまり I(v+m)>IIcという拡大再生産の表式は I(v+v'+m')=II(c+c')が成り立たないと破綻なく進まないということであり、蓄積された資本のうち再生産に投じられる追加部分の各部門への価値構成は、単純再生産の条件である I(v'+m')=IIc'を充たさなければならないということであると私は理解した。
 もしこの均衡が崩れればそこには資本の過剰が生じ、恐慌というリスクが待ち構えていると考えて良いだろう。もちろん恐慌が何故起きるのか、に関しては単に過剰な生産物だけが原因ではなくもっと様々な要素が考えられなければならないのであるが、それについてはここでは触れないことにする。
 とりあえず、このようなマルクスの指摘については私の指摘の中では触れてこなかったし、それへの曖昧で即時的な認識が「vmのvへの追加」という言い方になっていたように思う。Y.S さんの指摘の(1)に関しては、この辺の私の認識の浅ささがあったように思う。
 要はこれが直ちに「過剰資本の不生産的処理」とは言えないということであって、
この追加資本がI(v'+m')=IIc'という関係を保ちながら社会的総資本がI(v+m)>IIcを実現しえなくなった時に過剰資本が生じ、それが資本主義体制全体を圧迫しその拡大を妨げるようになったときに、初めてこれを「不生産的に処理」する必要が出てきたということである。
 この辺は今少し深く考えてみないといけない問題なので、少し時間を頂きたいと思う。しかし
これに対する異論や反論がその前にあれば、 もちろん ウエルカムである。
(アンダーライン部分を修正)

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2018年3月19日 (月)

「過剰資本の不生産的処理」を巡るディスカッション(2)

このY.Sさんからのメールへの野口からの返信です。

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Y.S さん
 ご指摘に対する私からの回答を以下の添付書類で送りました。
よろしくお願いします。
野口尚孝
(以下添付書類)
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Y.S 様
 私の「過剰資本の不生産的処理についての考察」へのコメントありがとうございました。
ご指摘の件ですが、まず問題になるのは「過剰資本」とは何か、ということですが、これを私は、資本家にとって追加資本を投資してもそれに見合う利潤が得られなくなった状態の資本を指すと考えています。蓄積される資本が利潤を生み出せなくなっていくことは、資本の回転がうまく行っていないということでもあるので、資本家は何とか回転を速めて利潤を取り戻そうとすると思います。放っておけば過剰資本は蓄積を無意味な存在と化し、やがて回転を止め「恐慌状態」となるからです。
 しかし現代の資本主義体制があの1930年代の大恐慌時代を経て、その後その生産力が高度化していくにも拘わらず、外見上この過剰状態を示さず、資本家に利潤を与え続けているのは何故か?という疑問が次の問題です。
 大内は「国家独占資本主義」の中でその疑問に対し、それが大量消費という状況を生み出し、そこで過剰資本を不生産的に消費させるシステムができあがってからだと言っているのですが、国家が中央銀行を媒介とした金融政策で貨幣を増刷し、流通貨幣量を増やすことで資本の回転を上げ、これを推進していることを指摘していますが、それ以上のことは言っていません。
 私はこの大内の把握は基本的には正しいと思っています。しかし、これをもう少し理論的に整理できないか考えていました。そこでとりあえず、マルクスの社会的総資本の再生産表式によって説明できるのではないかと考えたのが、前述のブログです。I(v+m)>IIc という拡大再生産表式が保たれなければ資本の蓄積は生産的に増加しないので(恐慌の場合はこれが保たれなくなる)、過剰生産状態であってもこの表式が成り立つ様な状態を維持しているのだと考えました。つまり過剰生産を過剰でなくするためにそれを不生産的に使わなければならない状態に陥っていると解釈しました。そうなるとI(v+m)>IIcにおいて生産的資本として用いられるcやv部分ではなくm 部分が増加するしかないと考えたのです。つまり資本家の利潤の一部として自分のために消費する部分を生産的資本として追加するためにはそれを不生産的に消費する分野に投じるしかないと考えました。
それがmの一部をvに忍び込ませて労働者階級の消費欲を掻き立ててII 部門の資本家による生活消費財商品の回転を速めることでそこに利潤を生み出し、それを生産手段部門の資本家にも分配することで全体としてI(v+m)>IIcを保たせる、のだろうと考えました。
 Y.S さんのご指摘のように、実際の労働賃金の高低の差は労働力の養成費の違いであるとともに、労働力市場での労働力の「価格」の違いでもあるのですが、いわゆる「最低賃金」という概念からすると労働者が生活を維持しながら資本家の求める労働力の再生産ができるための最低の水準がvに当たるのではないかと思います。それ以上の部分はむしろ本来資本家にとっては本来は無駄な出費であり、「不生産的要素」であると考えるでしょう。
 しかしそれが資本家にとって「無駄な出費」ではなく、間接的に利益をもたらすためには本来のm部分の一部をvに追加するという方法を考えたのだと思います。従ってまずこのとらえ方が基本的に間違っているかどうかが問題ですね。
 次に、ご指摘の「過剰生産が現代資本主義に恒常的に存在するものではないのでは?」という問題ですが、確かに投資すべき資本は中央銀行のオーバーローンで拡大し、資本家達はそれによって莫大な利益を獲得しているのですが、それが何に投資されているかが問題です。クルマや高額家電製品の生産に投資されてきた資本は確かに労働者階級の生活を一見豊にしてしてきたように見えますが、それは同時にそれらが生み出す廃棄物による環境汚染やエネルギー消費の爆発的増加による資源枯渇問題などを必然的に起こしてきました。これはいわばアンコントローラブルな社会的消費(私はこれを過剰な消費と呼んでいます)の拡大がもたらす必然的結果です。
「IT革命」にしてもこれがもたらすさまざまな社会的弊害の面をも見なければならないと思います。
 いまやそうしたアンコントローラブルな過剰消費が「先進資本主義国」では飽和状態になり、同時に地球的規模での環境問題・資源問題などが大きく立ちふさがってきたために資本は過剰資本を再び処理しきれなくなってきているのではないでしょうか?
 最後にサービス産業の拡大についてですが、企業のいわゆる「アウトソーシング」は私はサービス産業の拡大ではないと思います。それは現代資本主義に特有の分業形態の進展だと思いますし、それはもともと資本の生産性を高める目的で行われるものです。また医療、教育。保育、介護などはむしろ本来社会的に必須な労働分野であってそこには労働者自身が生み出した剰余価値部分が彼らのために当てられなければならないのだと思いますが、それを資本家階級が私的財産と化しているので、労働者が賃金の一部を税金として支払い、そこから政府がこうした事業に支出し、新たな資本家企業として成り立つ様支援しているのだと思います。結局この分野もあらたな労働の搾取を生み出しているのです。これは直接には生産的分野ではないにしても間接的には生産的労働を補助する部分といえるのではないでしょうか?
 ファミレス、や居酒屋などは、労働力のリフレッシュに必要な部門といえるでしょうが、これはあきらかに不生産的消費部門だと思います。たしかにこれらは一旦投資された後はサービス労働を搾取しながら利潤を確保しているわけですが、その投資は生産的資本に転化されるものではなく、いわば不生産的に消費されることによって生み出される利潤なのだと思います。
結局こうした形での過剰な資本の不生産的処理がなければ生産的資本そのものが成り立たなくなっているのが現代資本主義の特徴ではないでしょうか?
 以上、ご指摘の問題に対して私が考えていたことを繰り返すような形になってしまいましたが、その辺をどうお考えなのかについてまたさらに本質に突っ込んだご指摘を頂ければ幸いです。
 2018.03.19  野口尚孝
 

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