哲学・思想および経済・社会

2017年2月25日 (土)

「障害者は社会に不幸をもたらす」という思想について

 相模原の重度障害者施設であった元施設員の男による大量殺人事件が話題になっており、今朝の朝日新聞でも自身が障害をもった大学教員K氏と娘が重度障害者の元大学教員S氏のインタビュー対談が載っていた。両者とも「障害者問題」が他人事ではない存在なので、考え方は説得力があった。特にS氏はかつて1968-71年頃の東大紛争で助手共闘の主役的存在であった人なので私もよく知っている人だ。インタビューの中身は本日の朝日朝刊を見て頂ければ分かるのでここでは紹介しないことにする。

 私は、この中で論じられている問題をもっと基本的レベルで考えてみる必要があるのではないかと思った。特にこの殺人者が自分の行為を正当化している「確信犯」であると同時にこの男の考え方に基本的に賛同する人たちがかなり多く存在するという事実に関してである。
 S氏が言うように、この社会では価値を生みだすことのできる人が存在価値があり、そうでない人たちは社会にとってお荷物でしかない、という考え方はある意味でこの社会の論理を「社会常識化」している人たちにとって共通認識であろう。せいぜい「人道に反する行為」とか「社会的公序良俗に反する行為」とかいうことで反対するか、「人は存在するだけで意味がある」といった哲学的言説によってこの殺人に反対するかもしれない。
 表向き「人道に反する行為」としている政府高官達も実はかつて麻生財務大臣が思わず漏らしてしまったように、「お年寄りはさっさと行って頂けるように」しなければ、増え続ける社会保障予算を賄えなくなる、と考えているのは本音であろう(ここでは話しの成り行き上高齢者と「障害者」を同じ位置で扱っている)。なぜなら、こうした考え方が社会を支配している階級の人々にとっては「真実」だからである。
 いうまでもなく、社会を支えるためにそれぞれの場で働く個々の人たちが「価値を生む」存在として社会的に存在意義があると見られるようになったのは資本主義社会になってからである。そこでは「価値」を所有できる人たちが社会をコントロールし、だれでも働いて価値を得て所有する権利があるとされる。
 しかしそれを裏から見れば働いて価値を生み価値を所有できない人は社会をコントロールする権利がなく、努力の結果富を所有できた人たちの寛大な「人道意識」と「良心」による行為によって生かしてもらっている存在と見なされる。
 しかし、ここでもっと基本的なレベルで考えて見れば、人類は社会という「第二の自然環境」を形成してその中でそれぞれの能力をそれぞれれの場において発揮しながら本来の自然環境との物質代謝を繰り返しながら社会全体を支えていく中で、自らの「個」としての存在と「種の保存」を同時に維持発展させていく生物である以上、その「社会」という共同体の本質を考えなければいけないと思う。
 生物学的に見れば、人類のような高度に発達した生物はその種の維持において当然ある確率のもとで正常な状態でない個体が生まれる。これはある意味で生命体のもつ必然である。そして人類以外の生物ではこの正常な状態で生まれてこなかった個体は「淘汰」に任され、例えば他の生物の餌食となっていく。
 しかし人類においては、社会共同体の中で存在するため、「個」は共同体の担い手として存在し、「共助」の関係を形成する。そこでは、他者と自己の関係は実存としての自己が「他在」としての他者を前提としている。だから「障害」を持って生まれてくる人は、ある意味で自分の「他在」的な姿でもあり、自分の可能的存在(あったかもしれない姿) なのである。だから共助を本来の姿とする働く人々にとっては社会全体でこうした人たちの存在を支えなければいけないし、それは当然のことなのである。
 人類の歴史の中でもこうした「障害者」は社会の「内存在」としては認められず、疎外され、密かに死に追いやられた時代が長く続いた。
 しかし、いまや資本主義社会は高度な生産力のもと莫大な剰余価値を生みだす社会であり、しかもこれが本来あるべき社会的共有財としてではなく、資本家という「個」の所有物になっている時代である。そこでは個々の労働者による労働の成果が「他在」としての資本として資本家の私有財産になっていると同時に、資本家にとっては自己の私有財産の「他在」であるはずの労働者の労働は単なる「道具」としてしかみなされていない。だから働けない者は道具として役に立たないモノと考えられる。そしてこの社会を正当化する思想においてはこれが暗黙の「社会常識」となっていく。
  長い労働者達の闘争の結果として、少しずつ「税金」という形で社会保障のための予算が組まれてきているが、未だに資本家達の「道具」にされてしまっている労働者たちが生みだす莫大な剰余価値の大半が馬鹿げた市場競争のために注がれているため、社会保障の姿は本来の姿からはほど遠く、労働を搾取されている階級がその生きるための賃金から税金(例えば消費税)としてこうした社会保障の財源を捻出せざるを得ない状態である。
 いまわれわれは、支配的イデオロギーとしてのあやまった「社会常識」から解放されなければならないのだと思う。そうでなければいつまでたっても建前上は「人道的見地から障害者の生命は保障されねばならない」が、本音は「はやく行ってしまってほしい」という思想からは解放されないだろう。
 
 

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2017年1月14日 (土)

「働き方改革」を巡るいくつかの問題

 1月14日朝のNHK-TV「深読み」でいま安倍政権が進めている「働き方改革」をめぐる議論があった。視聴者を含めていろいろな立場の人たちが参加して行われたディスカッションを観ていて、以下に示すようないくつかの重要なポイントが論じられていなかった様に思う。

 電通社員の過労自殺問題などに見るような、働かせ過ぎが直接の問題であるが、これを、フツーの社員は他の国々の労働者と比較して日本的年功序列型労働のためもあって労働生産性が低く、残業が当たり前の様に長時間ダラダラと仕事をする傾向があるため、その反動で「できる社員」に仕事が集中する傾向がある、という見方がある。
 そこで労働時間ではなくその成果によって賃金を決めるべきだという主張が出てくる。しかしその「成果」の判断は生産ラインで働く労働者の様な目に見える形で現れる(マルクスは資本論の中でこの「成果主義」が必然的に労働強化をもたらすと指摘している) のではない種類の労働(デザイン、設計、ソフトウエア開発などの頭脳労働)においてはその判断基準がきわめてあいまいで恣意的なものになる。
 例えば、クルマのデザインをしている自動車メーカーのデザイン労働者は、1年かけて新しいクルマのデザインを考えたとしても、毎日数百台のクルマをラインから送り出している労働者よりも給料が高い。新しいデザインのクルマの売れ行きがその企業にもたらすであろう利益への貢献度が大きいという考えでそうなるのだろうが、実際にはデザイナーの労働はその車が販売された期間に生みだされたクルマの台数でその労働期間を割った値しか生産物の価値形成に寄与していないのである。1台のクルマにはその他生産ラインで毎日行われている労働や流通販売に必要な労働などを含めてクルマ全体の価値を形成しているのである。(もちろん実際にはデザイナーはその期間一つのクルマのデザインのみに携わっているわけではなく、さまざ まな別の種類のデザインワークを同時並行的に行っているのであるが)
 また「同一労働同一賃金」という」考え方がトップダウンで行われ、同じ仕事を行う非正規雇用労働者の賃金と正規雇用の労働賃金と同額にしようとすると、正規雇用労働者の賃金が減らされると危惧する人がいる。つまり会社として労働賃金分として用意できるカネが同じ額ならば、非正規雇用労働者の賃金が上がればその分正規雇用労働者の賃金が下がる、というわけである。
 この考え方は、経営陣が労働者に与える賃金分のカネを増やさないで「同一労働同一賃金」を実施することを前提としており、多くの企業で実際にもそうするだろう。経営陣が労働賃金として用意されたオカネを増やさないということを前提にする議論はそもそも間違いでなのであるが、さらにその背景には企業のあげた利益の分け前を経営陣と労働者がどう配分するかというとらえ方があることが問題だ。
  こうした「経営者と労働者による利益分配」というとらえ方は資本主義経済学では一般的であるが、実は根本的に間違っている。
 この場合、管理職などの資本運営責任の一端を担う経営陣がその下で雇用されて働く労働者に比べて同じ時間勤務していても桁外れに高級であるという事実をもって、会社が利益を挙げることができるのは経営陣の努力のおかげだから当然という考えが前提となっている。会社が利益をあげることができなければ労働者の賃金も増えないし、場合によっては会社がつぶれて労働者は失業するかもしれないというわけだ。
 しかし 経営陣が努力して獲得している企業利益(もうけているカネ)は元はといえば、あらゆる職場で労働者達の労働が生みだした成果である。労働者はその労働力を維持するに必要な生活資料を購入するための「賃金」を受け取り、職場での労働ではその賃金の価値を大きく上回る価値(剰余価値)を生みだしている。経営陣はその労働者が生みだした剰余価値を無償で企業の所有とするが、これがもたらす莫大な利潤の分け前としてその資本増殖のための企業経営にたいする努力への「報酬」を受け取るのである。だからここで同じように「俸給」として扱われる労働「賃金」と資本家的経営者の「報酬」とを同一視するのは致命的な誤りである。
 本来、労働者の生みだした価値はすべてそれを生みだした労働者たちに還元されなければならず、剰余価値部分は社会的に共通に必要な共通ファンドとして蓄積されるべきであり、それが「資本」という私的(企業)所有の形態をとり資本家間の競争のもとで資本家のために利潤を生みだす必要など全くないのである。
  ところが資本主義経済学では、あたかも世の中の価値はすべて賢い企業経営者の手腕と努力によって生みだされ、経営者の手足となって働いた労働者にはそれ相応の「報酬」を配分する、と考えるのである。
 本当に「同一労働同一賃金」を実施しようとするなら、正規雇用・非正規雇用という区別はおろか 「労働の中身」に関わらず企業経営者も労働者も同じ時間働けば同じ給料にするべきなのだ。
 そして労働賃金は怪しげな「成果」による配分ではなく、その労働が社会的に必要な特定の 労働結果を生みだすために要する平均的労働時間という基準において考えるのでなければおかしい。

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2016年9月26日 (月)

あらためて資本論を学ぶ

2年ほど前から「資本論を読む会」というグループに参加している。最初半信半疑でこの会に参加しはじめたのであるが、やがて、じつにキチンと資本論を学ぶということをコツコツと続けているその努力と誠実さに感服し、ほとんど欠かさず出席している。この会のリーダーはすでに何回も資本論を読んでおり、資本論の記述に出てくる関連した論者の文献も実によく読んでいる。これまでこのブログで資本論について大きなことを言ってきたがだんだん自分の不勉強が恥ずかしくなってきた今日この頃である。

 例えば、いまは資本論第2巻「資本の流通過程」を読んでいるが、その中で「資本の回転」の問題が扱われている部分がある。ここでマルクスは固定資本と流動資本の区別について論じているが、そこでスミスやリカードへの批判が多くのページにわたって書かれており、そこでは彼らがいかにこの概念を誤ってとらえているか、そして不変資本と可変資本の区別と混同しているか、またスミスとリカードの誤りの質がどう違うかなどについてが具体的に指摘されている。
  この部分はなかなかマルクスの意図がつかみにくく、解釈も一義的に行われにくいところなので苦労する。しかし実はここはかなり重要な部分であるという感じがしてきている。それはこの部分でマルクスは当時の経済学の主流であったスミスやリカードへの徹底した批判を通じて、資本の回転とはいかなる意味を持っているのかをあきらかにしようとしているのが分かってきたからである。
 宇野弘蔵がこの資本の回転の部分を軽視していたらしいことも知り、そう言われてみれば、宇野「経済原論」にはほとんどそのことが触れられていなかったことを思い出した。宇野経済学から多くを学んだ私にとって、ひとつの「宇野離れ」が始まった。恥ずかしながら、このブログでも宇野批判めいたことを書いたが、それはもう少し資本論をキチンと理解してからでないといけないと実感した
 宇野が資本論を「原論」として純化することによって資本論をより明確に「科学」たらしめんとしたことは知られており、資本論が自然科学とは違った意味での科学であることには間違いないが、それを「純化」するとはどういうことなのかが問題である。言い換えればマルクスがなぜ、ここでかくも執拗にスミスやリカードの批判を通じて回転資本の概念を明確化しようとしているのか、その意図を知るべきだろうと思うのである。
 宇野は例えば「資本論の経済学」の中で、理論と実践の関係について述べており、そこでは理論はあくまで純化されねばならず、実践はそれを歴史的発展段階応じて(段階論として)把握した上で政治的実践に適用することで理論の政治経済的意義をあきらかにするというようなことを書いている。しかし、このようにマルクスの理論は純化されるうものなのか? 宇野は実践との関わりで理論がその歴史的発展段階をあきらかにするということを主張するが、逆に現実の具体的社会への批判や活動が理論(原理論)を成長させるのであって、「いまここにある現実の矛盾」をあきらかにしていくことこそ理論を豊かにしていく推進力なのではないだろうか?
 確かに宇野弘蔵はじつに綿密に資本論の原典に当たり、それを「自分なりに」キチンと理解するという主体的把握の態度を貫いたことには立派であったし、私など足下にもおよばないだろう。しかし、どうもそこには最初から「いまここにある現実の矛盾」へのまなざしが乏しく、むしろ原理論からの適用という視点で現状分析を行っているように見え、理論としての純化が優先していたのではないだろうか? つまり学者的視点しかなかったのではないか? それにくらべてマルクスはつねに「いまここにある現実の矛盾」から出発しておりそれが理論研究の原動力になっていたと思うのである。

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2016年8月16日 (火)

政府閣僚の靖国神社参拝をめぐって

 今年も外交的配慮からか安倍首相は靖国参拝を見合わせ「玉串料」で済ませた。しかし、戦没者追悼式の場では、「反省」という意味の言葉は外した。そして高市総務大臣と丸川五輪大臣が靖国を参拝した。参拝後のインタビューで両大臣とも「国策の犠牲になり亡くなられた方々への尊崇の念で参拝した」と応えていた。丸川大臣はそれに加えて「この国のやり方なのであって諸外国がとやかく言う問題ではない」と付け加えていた。そして自衛隊海外派遣部隊を励ますためにジブチに出張中の稲田防衛大臣は、現地で「今の平和な日本は、故郷や国を護るために出撃していった多くの方々の命の積み重ねの上にある」と述べた。

これらを見てはっきりしていることは、「国策」や「故郷や国を護るため」という言葉によって当時の国や軍の指導部が「大東亜統一」の国策のもとに愛国心を煽って国民を駆り立てて戦場に送り出してきたという最も重大で核心的事実は消し去られているということだ。そして日本人と共にあれほど多くの中国、フィリピン、アメリカなどの人々の命を奪い、当時日本に併合されていた韓国や台湾の人々を戦場に駆り出し命を落とさせていたことについては、「国を護るため」という言葉によってすべて消し去られ何も触れられていないのである。
 しかも靖国にはそうした戦争責任を負うもっとも重要な人物たちも「合祀」されており、戦争を引き起こした連中とそれによって命を失った人々がともに「英霊」として祀られているのである。これを「この国のやり方なのであって諸外国がとやかく言う問題ではない」で片付けられると思っているのだろうか? いまの天皇でさえこれに「深い反省」を表明しているというのに。
 しかし、一方でこの期に、とばかりに竹島に政府閣僚が上陸して「反日」感情を煽っている韓国の現政権や、南シナ海や東シナ海などで軍事力によって所属不明だった地域を事実上占領していこうとする中国現政権のやり方も安倍政権と同様に狂っているとしか言いようがない。
尖閣諸島に関しては、「所属不明」が事実であろうし、それを何等の交渉もなしに「国有化」してしまい、「領土上の問題は存在しない」としてしまった 前民主党政権も問題である。中国も韓国も日本もこうした「領土問題」への無益で危険な「国策」によって憎悪を生みだし、それによって国内の「民意」を愛国的にまとめていこうとするやり方は戦争の原因への深慮や反省がまったくないことの証明であろう。
こうした「国家指導者」たちの思想こそ、いくら「不戦の決意」を表明しても戦争を再び生みだす大きな要因を抱えているのである。

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2016年6月14日 (火)

柄谷氏の憲法観に見るリベラル・インテリの危うさ

 今朝の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」欄「憲法を考える」に、柄谷行人氏の「9条の根源」という論評が載っていた。柄谷氏は、いまの憲法は自民党の改憲策動では変えられないという。その根拠として、現行憲法は自発的なものではなくアメリカから押しつけられたものではあるが、それは日本人の無意識レベルでの「超自我」の問題なのであり、人間の内なる死の欲動である「超自我」が外に向けられて攻撃欲動に転じた結果としての悲惨な戦争体験がもとでそれが逆に内に向けられた結果であり、その意味で9条は日本人の「超自我」になってしまったというのだ。

 柄谷氏は、同じ敗戦国であるドイツ人が戦争に対する反省が深いといわれ、それに比べると日本人は倫理性や反省に欠けるといわれるが、決してそうではなく、それは9条という無意識レベルで存在する日本の「文化」となっているのだという。
 氏はさらにいう。現行憲法の1条(天皇条項)と9条はいわばセットであって、最初は9条は1条の副次的産物だったが、後にそれが逆に9条こそが重要になった。天皇が9条を支持しているのは9条を守ることが1条を守ることになるからだ。現行憲法は、カントの「永久平和のために」という精神が実現されたものともいえる。もし国連で日本が9条を実行すると宣言すれば、すぐに常任理事国になれるだろう。9条はたんに武力の放棄ではなく、日本から世界に向けられた贈与なのだ。そしてそれによって日本に賛同する国が続出し、それがこれまで戦勝国が牛耳ってきた国連を変えることになり、カントの理念に近づくことになる。カントの「諸国家連邦」は非現実的と批判する人もいるが、それは人間の善意や反省によってできるのではなく、人間の本性にある攻撃欲動が発露され、戦争になった後にできるのだ。国連も日本国憲法のそのようにして生まれた。それが何で非現実的といえるのか、と主張する。
 たしかにユニークな把握かもしれないが、いかにもリベラル派観念論哲学者の考えである。現実世界は決してそんな甘いものではないだろう。現に戦争の後にできた国連は世界中で発生する戦争をおさめることができず、日本国憲法も再び軍事力の保持に向かって動き出している。しかし、かといってもちろん安倍政権が目指す対外的軍事力として国軍を復活合憲化し、それを前提とした国内治安取り締まり強化をさせることが現実的というのも間違っていると思う。それはかつてわれわれが通ってきた道に再び戻ることになるからだ。
 私は「超自我」よりも「真の反省」が重要であると考える。なぜなら無意識化された「超自我」はどのような形に意識化されるか分からないからである。それは再び、前とは違った形で「国家のために死ぬ」という精神構造を復活させるかもしれない。昨今のスポーツ振興などに見られる国威発揚の有様をみてもそれが危惧される。
日本人の精神の中に、もし無意識化された9条があるならば、それが戦争体験への反省としていかなる明確な意志の形をとるようにできるかが問題ではないのか? 
私は、その意味で、現行憲法9条はいかにも観念的「戦争放棄」であるように思える。それは柄谷氏がいうように1条と9条がセットとして作られているという事実からも明らかである。近代における戦争は究極には近代資本主義社会のもっとも典型的な統治形態である「近代的国家」と「近代的個(自我)」の関係における矛盾に根源があると思う。
 反戦の問題を深くしかも現実的にとらえるならば、資本主義国家における個人の実存がかかえる矛盾とそれが生じる物質的基盤つまり資本主義社会そのものの根本的矛盾が問題となるはずだ。そしてそこにこそ、資本主義社会以後の社会への歴史敵展望が開かれるのではないだろうか?
柄谷氏に見られる様なリベラル・インテリの主張がもつ危うさは、やがて世界中で国家間の戦争への危機が高まってきたときに、まったく無力な反戦観であり、安倍政権の主張する改憲と国民総動員の軍事国家への道を阻止することなど決してできないことを示すことになるだろう。第一次世界大戦の際の社会民主主義者たちがそうであったように。

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2016年5月31日 (火)

ブルジョア的「自由民主」を超えるものは何か?(その3:自由の質的変革)

 ところで、最近の安倍政権でもささやかれていることであるが、個人の自由にもある程度制限があって然るべきではないか、という議論である。安倍政権にはこれを「公共的利益を守るため」と称して「おおやけ」という形で国家の立場を個人の上位に持って行こうとする策略が見え見えなのだが、個人の自由を重視するいわゆるリベラル派も個人の自由には自制がなければだめであるという。最近、あまりにも利己的な主張が増えて、他者の立場を配慮することなく自分の主張を押し通そうとする事例が増えているからこういう議論が出てくるのだろう。

 しかし、これはブルジョア的自由の典型的矛盾の一つと考えて良いであろう。もともとブルジョア的自由は、私的所有の自由が基本であって、それを維持するために「自由な競争」による富の奪取を正当化するのである。自分がリッチになれば他者が貧しくなっても仕方がない。それは自助努力が足りなかったからだ、ということになる。競争に勝った者は負けた者より優位に立つのは当然だ、というわけだ。こうしていまの資本主義社会は競争相手を容赦なく倒しながら発展してきた。
 それに対して、プチ・ブルジョア層の代表的立場であるリベラル派は、私的所有の権利を認めながらも相手の立場をもっと考えるべきだという立場であるといえるだろう。要するに「理性ある資本主義」を主張する。資本主義社会がまだ余裕があった時代にはそれがある程度通用した。しかし、いま資本家たちがそんな呑気なことを言っていたら、競争相手にたちまち打ち倒され、自分の破滅を招くような危機的な状態に資本主義社会全体が突入してきたのだ。だからリベラルの代表である日本の民進党やアメリカのオバマ政権はその理想とは裏腹に、経済の実質を握るグローバル資本の競争の前にほとんど何もできずに終わり選挙民の期待を裏切った。
 一方、「大衆」と呼ばれる人々は、そのほとんどが現実には労働者階級に属しながら、ブルジョア的イデオロギーに染め上げられてしまったため、そうした自覚がなく(そうなってしまったのは労働組合にも責任があるのだが)、資本家的経営者からサラリーをもらって個人生活を築くことがもっとも大切なことになっているため、この自由を護るために自己主張をする。これは労働者の権利という意味ではもっともなことである。しかし、それがブルジョア的自由という観念に支配されているため、その延長に他者の立場を考えない利己的な主張が現れる。「自由な個人」としては自分が雇用者に売り込んだ労働力商品である以上、他の労働者は労働力商品としては競争相手である。呑気なことを言っていたら職を奪われかねないから競争相手を蹴落とさねばならなくなる。だから他の労働者に自分の個人としての自由を奪われないように自己防衛することになる。いまヨーロッパが渦中にある移民問題がその典型である。これがブルジョア的自由という思想の「コインの裏側」であり、ポピュリズムの動力源でもある。
この思想の延長上に個人と「おおやけ」の関係があり、個人間の「自由の衝突」を調整する機関として国家や法律が機能することになる。ブルジョア的自由という思想においては個人の自由と国家への奉仕は裏と表の関係ともいえる。だからリベラル派はこうした支配階級の根本的矛盾を乗り越えることは決してできないのである。
 だが、階級的意識を持った労働者が目指す自由はこれとは質的に異なる自由である。それはまず第一に社会は単なる「利己的個人の集合体」ではないということを知っていることである。本来の社会は一個の有機体であり、すべての働く人々がそれぞれの固有な能力によってその有機体の一部を担っており、その中で社会的に必要なモノやシステムが生みだされ、分配され、機能し、消費されている。だから他者との社会的紐帯を前提としなければ自己の自由はありえないことを知っている。たとえ他者との競争があってもそれは互いに相手を高めるための競争であって、決して相手を打ち倒すための競争ではない。そのような関係の中で自分を高めていくと同時に社会を高めていく自由が労働者階級的自由である。
 日本をはじめアジアでは家族的紐帯が古くから社会の倫理的側面を支えてきたが、それは古代や中世においては宗教的倫理と相まって支配階級の統治の手段として利用されてきた。その残滓が日本でもつい70年前まで通用していた。だから資本主義社会が西欧で生まれ、アジアに持ちこまれて「近代化」が進められる過程で、西欧的「個人主義」や「自由主義」への反発が当然現れ、それは天皇を頂点とする父権的家族を紐帯として国家をイメージさせる思想になっていったと考えられる。
 ここでいう労働者階級が主導権を持つべき社会は、それとは完全に異なる。個々の労働をつなぎ合わせることで個人の能力を社会全体の能力としていくボトムアップ的紐帯による社会と考えるべきであろう。そこにはブルジョア的自由やアジア的家族主義と全く質的に異なる自由があり、それを支える倫理があるはずである。
それが具体的にはどのような形の社会となって現れるのかは、これから先の歴史の中で労働者達が直面する現実的諸矛盾との闘いの中で勝ちとっていく自由の形によって決まるだろう。

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2016年5月30日 (月)

ブルジョア的「自由民主」を超えるものは何か?(その2:労働者階級の自由とは?)

 いまブルジョア的自由を体現している支配層は、一国内での市場競争を超えて、世界全体が一つの市場となって競争し合う形となっている。競争の主役は資本であり、その人格化である資本家たちである。彼らが雇用する労働者はいまでは頭脳労働者が大半を占め、身体的労働を行う労働者は「生活水準の低い」国々の労働者や「先進資本主義国」の貧困層がほとんどである。頭脳労働者はいわば資本家の頭脳の代行を行う労働者であり、高学歴者が多い。これら頭脳労働者の多くは、国境を越えてさまざまな国へ出向いてその国の労働者の管理などを経験する。そしてやがてその中からもっとも能力が高いと資本家に認められた者はその企業の経営陣に加わる。その名の通り資本の機能を実行する「エグゼクティブ」として。

一方身体的労働者は単純な作業を主としており、代替がきくため、企業の都合で首のすげ替えや雇い止めなどにされやすい。「使い捨て労働者」である。そのためさまざまな企業に短期間雇用されることを繰り返す非正規雇用が多くなり、つねに、より賃金の低い国々の労働者に仕事を奪われる脅威に晒され、不安定な生活を余儀なくされる。彼らは生活に余裕がないため結婚もできないことが多く、たとえ結婚して子供ができても高額な教育費が払えないので、子は大人になってからも安定した職に就けないことが多い。

 富裕な労働貴族たちはますます富裕になり、「起業」などによって新興資本家(つまり支配階級の一員)になるチャンスも得やすくなる。一方下層労働者はますます貧困化し、他国の低賃金労働者たちと劣悪な条件で競争しなければならなくなる。こうして労働者間の格差は拡大する。

  いま資本主義経済化の進んだ国では、情報、サービス(介護・医療なども含む)などの産業に従事する労働者が増えており、他方で工場でモノを作る労働者は生産拠点が低賃金労働の国々に移ったため減少しているが、土木建設、物流、小売り業などモノの世界で働く労働者は増えている。当然ながら世の中、情報やサービスだけでは成り立たず、生活を支えるモノが必要だからである。また毎日人々の労働や生活を支えるための社会インフラで働く人々、例えばゴミの収集や道路の清掃・補修あるいは危険な電柱上や汚い屋根裏などで電気配線などの維持修理を行う人々の存在なくして社会は成り立たない。社会を一つの有機体と考えれば、身体的労働も頭脳労働もともにその手足や脳に当たる。どちらが低級でどちたが高級な仕事かなどという比較はできないはずだ。そういった比較ができるのはただ労働力が商品として価格を付けられる社会においてのみである。頭脳労働者は身体的労働者に対して、優越意識を持ち、身体的労働者は自分自身を蔑視しがちである。しかし、ともに社会が必要とする労働を行う労働者階級の一員であり、そのことに同じプライドを持つべきであるし、互いにそれを認め合うべきである。
 労働者が階級としての自覚を持ち、団結するというのは、単に雇用主である資本家に賃上げや労働条件の改善を求めるためだけではない。それはほんの端緒に過ぎず、そこから始まる新しい社会の仕組みづくりへの一歩である。それは資本がとっくの昔に国境を超えてグローバルに循環しているのだから当然それに対決するために国境を超えて団結しなければならないはずだ。
資本家階級は国境線を引き「国民国家」という形でその支配的統治の普遍化を図るが、それは同時にまた「私的所有の自由」と「自由な市場競争」という資本のイデオロギーによって生みだされる「国民国家」間での戦争を繰り返すことになる。一方でグローバル化しながら他方で「国民国家」を普遍化しようとする矛盾。そしてつねにその矛盾の犠牲者は「ナショナリズム」というイデオロギーによって戦場に駆り出される労働者階級なのである。
 社会の主役である労働者階級による社会的労働が、それを自らの私的所有を増やすための手段として用いる資本家階級によって支配されてしまっている社会、それが資本主義社会である。
その社会に内在する「自由」の対立は一言でいえば、「社会的生産を私物化する自由」と「社会を支える労働者の連帯的所有に基づく自由」の対立である。
そして「社会的生産を私物化する自由」 を主張する資本家層は、資本家のために賃金奴隷として働く労働者の存在なくしてはあり得ないが、労働者は資本家によって私物化された社会的生産を資本家たちの手から社会全体のために取り戻すことによって、はじめて自由な労働者として解放されるのである。
それは、商品の購入によって、つまりお金によって他者の生みだした富を自分のモノとして私有化する自由では決して なく、人々の協働によって生みだされる社会的富をその協働の一員である自分がその労働の成果を他者と分かち合い、それによって自分と他者の社会における存在意義を互いに理解し合うことのできる自由である。

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2016年5月28日 (土)

ブルジョア的「自由民主」を超えるものは何か?(その1:その矛盾)

 アメリカ大統領選共和党候補者のトランプ氏は、両極的に対立する民主党候補者のサンダース氏とともに、これまでのアメリカの政策に不満を持つ人々の不満のはけ口的シンボルと見なされてきたが、朝日新聞などの「良識的リベラル派」からは危険なポピュリズムの現れともみなされているようだ。民主主義は衆愚政治をも生みだすというわけだ。「ゴーマニスト」の小林よしのり氏も「ヒトラーも民主主義から生まれた」と言っている。小林氏が何を言いたいのかはさておいて、いまの「自由と民主主義」の持つ矛盾は明らかである。

 私はいまの「自由と民主主義」に「ブルジョア的」という但し書きをつける立場である。というのは、そもそもいまあたかも普遍的思想であるかのように扱われている「自由と民主主義」が登場した歴史を見ればそうとしか言えないからだ。フランス革命で政治的主導権を握った「市民(ブルジョアジー)」はそれまで古い王権との確執の中で商取引を通じて社会の経済的実権を徐々に握ってきた豪商や富豪が中心であって、その「商取引の自由」が彼らの主張であったと考えられる。そこにいわゆる町人である職人や小商店主、ある場合には農民までもがブルジョア革命に付き従っていたと考えられる。しかし「市民」すなわちブルジョアジーの主役はあくまで商人たちであると言えるだろう。そしてその後、それまで古い権力によって抑圧されてきた人々のさまざまな能力の解放という意味では大きな役割を果たしたこともあって、思想としての「自由と民主」が支配的になっていったと考えられる。
  しかし、この「自由と民主」を掲げたブルジョア革命の思想的の下で進められてきた産業革命を通じて、その結果労働者階級が生まれてきたのであり、この「自由と民主」は決して彼らの思想ではないことはあきらかである。そこではもはや商人たちは単なる商人ではなく、産業資本家であり、財力にものをいわせて生産手段を私有化し、生産手段をもぎ取られた労働者の労働力を自由に商品として買い取ることで生産物を商品として生産し、それを市場で自由に販売することによって私的利益を自由に上げながら社会的生産・消費を切り回す自らの社会的地位を普遍化する思想として「自由と民主」主義を支配的イデオロギーとして確立させたのである。しかしその思想のもとで、自らの社会的人格表現でもある労働力を資本家に売ることによってしか生活できない、つまり実質的には決定的に自由を奪われた「賃金奴隷」である賃労働者の存在なくしては資本家の存在はありえないという事実をマルクスはあきらかにしたのである。つまり労働力という特殊な商品の使用価値、「価値を生みだす」機能によって、それを買ったときの価値(労働賃金)よりはるかに多くの価値を生みださせ、しかもそれをあたかも「等価交換」であるかのように装って私物化してしまう雇用関係によって資本主義体制における社会的生産が成り立っているということをあきらかにしたのである。
 こうして経済的実権を握った資本家達は当然、彼らの地位を正当化するための政治的意識を持ち、それが「民主主義的政治」と呼ばれる、いまの政治的統治システムを生みだしてきた。「市民」が「自由」な選挙で代表を選び、その代表者達が議会で自由に議論しながら政策や法律を決めて行く、というわけだ。形の上ではもっともらしいが、そのシステムのもとで相変わらず労働者階級は賃金奴隷のままである。労働者たちは、雇用主である資本家が他の資本家的企業との競争に勝つために奮闘努力させられ、それを自ら進んでやれるように洗脳教育され、会社のために人生のすべてを捧げつくされる。そして資本家たちの競争が過熱化し、過剰な資本がだぶついて「不況」がやってくればたちまち労働者たちは資本家から「合理化」の名の下に解雇あるいは雇い止めとなるか労働条件の悪い職場に配転される。そして高齢や障がいで働けなくなった労働者は資本家にとって「社会のやっかい者」以外の何者でもなくなる。そうした人々への複利厚生は資本家が行うのではなく、労働者たちの生活費として支払われる賃金から税金として国家が徴収したカネで行われる。だから「消費税」などという不条理なものが必要になる。
 こうした生産の場での矛盾や悲惨な状況はしかし、一方で労働者は生活資料商品の「消費者」であるとされ、消費の場では主役として自由勝手なことが言えるという仕組みによって補完されている。商品が売れなければ自らの立場が危うくなる資本家にとっては当然の振る舞いであるが、労働者たちは生産の場で奪われた自由を生活資料商品の購買の場で「消費の主役」として祭り上げられて、そこで日頃の鬱憤を晴らすように仕向けられているのだ。
いうなれば「消費拡大」とは資本家にとっては自らの儲けを護ると同時に、「私的所有の自由」を表看板として労働者たちの不満の「ガス抜き」をするための最も良い手段なのである。しかし、このような仕組みになったのも20世紀前半の労働者階級のプロテストによる「成果」であり、それがなければいまもって労働者は動物的レベルの最低生活を余儀なくされていたであろう。しかし、この「消費拡大」も資本家階級側での過剰資本による資本への圧迫を避けるための手段として、再生産に直接結びつかない消費を増やして行かねば資本主義経済が成り立たなくなるという危機的状況への対応でもあった。ケインズ的に言えば「有効需要の喚起」なくしては資本主義経済が成り立たなくなったのである。そのため、この消費はブレーキが効かず、戦争による大量破壊・殺戮や浪費による資源枯渇という形での人類や地球環境そのものへの危機へ向かわざるを得なかった。これこそ資本主義経済体制の根本的矛盾の現れである。
  これに対して資本主義社会の支配層は被支配層である労働者がその矛盾に気づき、階級としての自覚を持つこととそれによる団結をもっとも恐れており、それを防ぐ有効な手段として均一化された「市民意識」を一般化させ、労働者の資本家も一人一人の市民として欲しいモノを買うことができる自由を享受できるのが自由民主の社会だとキャンペーンするのである。これによって労働者たちは一個人として資本家と対等な立場にあるかのような錯覚に落としこまされ、チャンスさえあれば自分も資本家になれると思わせ、階級としての労働者同士の連帯感をも失わせ、互いに労働力商品としての競争相手としてアトム化した個人にされてしまうのである。
 支配的階級である資本家層の代表である政府は、「経済成長のもとで、雇用が進み、賃金が上がり、需要が拡大すれば、それがまた経済成長の原動力となり、経済の好循環が現れる」などとうそぶいているが、その中でどんどん拡大する「格差」、かつて資本家たちに「高度成長」をもたらしてきた労働者達はいまや高齢化し、その大半は貧困化し、将来に希望を持てない若者の増大、結婚生活が成り立たないような貧困な若者の増大、そこから来る「少子化」と人口減少、そして絶望感から来る犯罪やテロ行為の増大などなど、そして展望を失った人々の中から登場したのが前述の「ポピュリズム」なのである。こうした事態はいま国境を越えた世界的規模で進んでいる、その中で行われた「G7サミット」で資本家代表政府の要人たちは「危機感」を共有しているようであるが、それがどのような危機なのかその本質は彼らに分かろうはずもない。そして底の浅い「リベラリズム」や「ナショナリズム」はいわば「疎外された意識の両極的イデオロギー」であって、放っておけば再び戦争の渦に世界を巻き込みかねない危うい思想なのである。
 それではこうした「ブルジョア的自由と民主主義」の矛盾を超えてわれわれは何を目指すべきなのかそれが問題である。(以下次回以降に続く)

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2016年5月13日 (金)

人工知能が人間を支配するという「妄想」について

最近になって将棋や碁の世界で、「名人」と目される人たちが相次いで人工知能に敗れるという事態があり、話題を呼んだ。そこで話題になったのが「深い知識の学習」と呼ばれる人工知能の新たな技術である。人工知能開発初期に有名だった「マイシン」という医療判断支援システムがあった。こうした人工知能は単にそれまでの治療のノウハウを集めて学習される技術であって、当時もてはやされたいわゆる「エキスパート・システム」はほとんどそうしたものであった。しかし、この知識学習システムは、なぜそれが「知識」として受け継がれてきたのかその理由に関しては無知だった。そのため、少し応用範囲が異なったりするとたちまちその支援システムが使えなくなりつねに新しい知識を次から次へと知識ベース化して行かねばならなかった。

そうした欠陥を補うために、ある思考や判断を支援する知識がなぜ、どのような理由でノウハウとして扱われるようになったのかといういわゆる「メタ知識」をも学習させることが研究された。これが深層学習と呼ばれる人工知能の新技術として開発され、その成果が、将棋や碁の名人の持つ深層知識をも学習させてそれに対抗できる人工知能をうみだしたのである。
 ところがこうなると、将来人類は人工知能に支配され、人間が機械に支配される世の中が来るのではないかというSF的な妄想を抱く人たちが現れる。しかしこれが「妄想」とはいえそれが現れるそれなりの理由がある。それは、現代社会が生みだした技術がそもそも人間の人間としての尊厳を失わしめる社会経済システムが生みだしたものだからである。そのことはいわゆる産業革命の歴史を見ればよく分かる。産業革命の歴史は産業資本主義社会という資本主義経済体制の発展段階への生産システムの成立過程なのであるが、それは一言でいえば「生産の合理化」という言葉で示される。
 もともと生産的労働は生産手段と不可分であったものを、商品経済で蓄財した資本家達が、思うように商品を作らせるために自立小生産者から生産手段を奪い取り、それと同時にそれによって生産手段から切り離された労働力をも「雇用された賃金労働者」というかたちで買い取り、両者を商品生産で利潤を挙げようとする私的所有にもとづく目的意識のもとで合体させ、生産活動をさせようとしたのが産業革命のモチベーションなのである。
資本家達は、商品市場では「自由競争」を旨として競争によって販売利益を競うため、市場での価格競争が最大の問題となり、いかに安い市場価格で売ってもそこから利潤を挙げられるかが技術的最重要課題となった。最初は労働賃金の抑制とその中で労働時間の極限までの延長や労働強化、つまり絶対的剰余価値の増大による利潤の増大を、そしてさらにその「生理的限界」を越えるために労働の生産性を上げることによる剰余価値部分の比率の増大、つまり「相対的剰余価値の増大」を目指したのである。
極言すればこの「相対的剰余価値の増大」こそが資本主義社会での技術革新の基本的モチベーションである。いかにそれが「人類の幸福と社会生活の進歩のため」といわれようともである。そのことを踏まえて人工知能の技術をみれば、それが人間労働の頭脳労働的側面の「合理化」であることが分かる。
 産業革命で人間労働の身体的労働の側面が局限にまで単純化され機械に従属する形に「合理化」されてきた結果、いまわれわれが目にするように資本家が所有する巨大な生産システムに「雇用され」過酷な身体的労働に従事させられたあげく、生産システムがさらに合理化されれば、労働者達は生産ラインから放逐されてきた。巨大な生産システムから資本家にとって莫大な富が生みだされてもそれが労働者にとっては自分の生活を維持するにもたりないほどの価値としてしか還元されず、もしそこから追放されれば生きていくことすらできない労働者の世界である。だから「人工知能が人間社会を支配するかもしれない」という恐怖感は生産手段に従属支配させられてきた過去の経験からそれなりの根拠があるのである。
 しかし、それが「妄想」であるというのは、次のような意味においてである。
人工知能はあくまで広い意味での労働手段であり、「道具」である。人間を支配するような「道具」を生みだそうとする意図は、労働そのもの、従って労働を行うことによって社会の中で自分自身の存在意義を表現する労働者の意図からは生まれ得ないからだ。
そうした意図を持つことができるのは、労働の意図や目的をそれが必要とする生産手段や労働手段から切り離し、生産手段や労働手段が資本家的な私的所有のもとに置かれ、その所有者の意図のもとで生産的労働が私的な欲望を充たす手段となってしまうような社会でだけありうる話である。
 したがって、「人工知能は価値を生みだすのか?」という疑問に対しても次のようにいえるだろう。
人工知能システムを生みだした技術に過去において少しでも人間労働が参与しているならば、過去の労働が移転した価値を維持しており、それ自体は「価値物」であるといえる。しかし、生産的労働のあらゆる側面が人間労働ではなく人工知能システムによって行われるようになれば、それは決して価値を新たに生みだすことはない。なぜならばどんなに完璧な人工知能システムであっても、それが「生きた労働」によって社会的目的を達成する手段として用いられることがなければ新しい価値を生みだすことはできないからである。もし資本家が生産過程から一切の人間労働を放逐し人工知能や自動機械システムに置き換えることができたとすれば、彼はそこから過去の労働による価値意外に何ら新しい価値を生みだすことができなくなり、したがってひとかけらの剰余価値も生みだすことができなくなる。結局それによって資本家自身もそれを継続させることに何の意味をも見いだせず、生産の継続が不可能となるのである。

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2016年2月 6日 (土)

資本主義社会とは何なのか?<4ー商品化される労働者の生活と人生>

(2016.05.12一部修正)

資本主義社会でも他のあらゆる歴史上登場した社会と同様、日々そこに生活している人たちが必要なモノがつくられ、消費されていることはいうまでもないことであるが、ここではそれが資本の拡大再生産のために行われ、社会が必要とするモノはそのための手段としてつくられ、消費されている。だから労働形態を含め生産と消費の仕組みや構造は資本の拡大再生産にもっとも都合が良く分割再構成(資本主義的分業形態として)されており、消費の形もこの社会特有の形(資本主義的生活様式)になっている。そしてこれらの生産と消費の仕組みを動かすための政治もまた同様である。

  こうしたすべて資本主義社会特有の形態であるものが、ここでは普遍的な形態であるかのように扱われ、学校でもそう教育されている。こうした思想的状況をわれわれは「資本主義的イデオロギー」と呼ぶ。

 「資本主義的イデオロギー」では、この(資本主義)社会は、自由で平等な個人の集合体によってできているとされているが、そこでは社会を支えるために働く人々が、そうした人々を働かすことによって資本を増殖させている人々、つまり資本の運動が人格化された人々「資本家」によって運用される企業に雇用されており、本来は諸個人の人格を社会的に表現するはずの労働内容や労働力は、資本家に売り渡されることによって彼らの価値増殖の手段として行使されている。資本家階級は自らの所有する生産手段をもって労働者を働かせることによって労働力の再生産に必要な価値(労働賃金として表現される)以上の価値(剰余価値)を手に入れ、これを含む生産物を商品として市場で売ることで利潤を得る。本来この剰余価値部分は社会的に共通に必要なファンドととして労働者階級全体に還元されるはずのものであるが、資本家はこれを私的に所有し、これを再び資本の増殖のために用いる。この間、資本は資本家の貨幣として生産手段や労働力を買うために用いられ、それによって生み出される商品という形をとり、再び市場で増加した貨幣として資本家の手に環流する。
 資本のもとでモノはこうして作られ、流通し、消費されるが、労働者に与えられる賃金は生活資料の購入に当てられ、食料や衣類という消耗品はもちろん、耐久消費財や家、土地などという労働者の生活にとっては生きるために必須の要素をも生涯かけて獲得しなければならない。土地は本来自然そのものであり、人間のつくったものではないから価値はない。しかし資本主義社会では私有を前提とした資本家階級によってこれが財産として扱われ、需要と供給の関係だけでまったくとほうもない価格がついて売りに出される。だから労働者にとっては生涯働いて稼ぐ賃金すべてを前取りされて(ローンなどという形で)それを「住むための場所」として獲得しなければならなくなる。
  こういう生活資料を獲得する行為が労働者の人生そのものとなる。それはまた労働力商品同士の競争という形で展開され、生きるための闘いでもある。受験戦争や就職戦線という形で展開される労働力商品同士の戦いは若い労働者予備軍にとっての生涯を左右する闘いとなる。本来互いに連帯し団結し合わねばならないはずの労働者たちは、個々バラバラに切り離され互いに対立・競争しあう個々の労働力商品という形にされている。これが労働者階級の「自由で平等な」生活の実態である。
 一方資本家は、自ら得た利潤のうち資本増殖に必要な部分を除いた余りは自分の個人的所得として生活資料の購入や余暇や趣味に当てる。だからそうした資本家や富裕層の贅沢な趣味や遊びのために奉仕してそのおこぼれを頂戴しながら生きる人々もまた労働者の中には存在する(近年はそうした人々が増加している)。そして資本家は土地や家などは財産の一部として運用する。彼らにとっては金儲けが生き甲斐であり、人生の意味であり、儲けたカネはどう使おうと勝手である。ときには貧困な人々への寄付などして社会から感謝されたくもなる。だがなぜ彼らが貧困を強いられているのかなどまったく知らぬふりをして。
 こうして本来労働者階級にとりもどされるべき社会的富の大半は個々の資本家によって互いの競争に打ち勝つために投資され、のこりは「法人税」などとして資本家たちが共通に必要な社会的経費として蓄積され用いられる。社会的共通経費として労働者階級から税金という形で賃金の一部から吸い上げられる莫大なカネは、労働者階級にとってみれば本来資本家がその全所得から支払うべきものである。いわく福利厚生費、社会的教育費、医療保険費、行政費、警察公安費、 防衛軍事費etc.etc,,,である。形の上では対等な個人として資本家も労働者も税金を払わねばならないという形であるが、資本家は本来社会共通ファンドとなるべき部分のほとんどを、自らの経営努力の成果という名目で私的な財産の増殖に用いている。
  他方、労働者階級は、生涯資本家の富の増殖のために働いて獲得できるのは労働者として生きるために必要なモノであって、全人生を通じて得られる財産といえるモノはせいぜい持ち家くらいであり、これは自分の子供など次世代の労働者のために引き継がれるが、これも相続税の対象とされ、不動産資本家によって商品として利潤の対象にされる。ほとんどの場合、次世代の労働者は親から財産を引き継ぎ蓄積することができないで、再びゼロリセットの人生を送らざるを得なくなる。そしてその生活は誕生から死に至るまでのすべての出来事が資本家的ビジネスのターゲットとなるのである。
 これが「自由で平等な」な資本主義社会の労働者たちの真実である。
  資本家達は市場での互いの競争に勝つために熾烈な価格競争を展開し、そのために生産性がどんどん高められ(効率よくモノがつくられるようになり)、商品として生み出されるモノはもはや過剰になった生産力がもたらす過剰資本(そのままでは利潤に結びつかない資本)の圧迫を排除し、再びそれを利益に変えるための手段として絶えず必要もない需要を生み出させ、そこで消費させる商品をどんどんつくる。労働者は「消費者」として次から次へと新しいモノをどんどん買い、どんどん捨て、また買うことを繰り返すのが彼の存在意義であるかのように思わされている。そのために必要なカネを資本家から「賃金」として貸与される。
いまの資本主義社会は、こうした自転車操業を維持させる経済システムによって辛くも崩壊を免れているのである。それは一方でつねに大量のエネルギー消費と廃棄物の山を築くことで地球環境を破壊し、他方ではアジア。アフリカや中南米などの「開発途上国」で低賃金労働の搾取を拡大させ、モノはこういう人たちによってつくられ、「先進資本主義国」の労働者達によって惜しげもなく使い捨てされ、それによってグローバル資本家はどんどん肥えて行く。
そしていま、「先進」資本主義諸国の「中間層」労働者も格差拡大といわれるような形で崩壊しつつあり、グローバル資本家階級が「開発途上国」の膨大な数の労働者達への労働搾取から得る莫大な富の「おこぼれ」によって潤う時代は終わりを告げつつある。いまは経済的に余裕のある家の子供だけがエリート教育を受けることができ、 大多数の家庭では子供の学費を稼ぐために母親もパートタイマーとして働かねばならなくなったり、授業料を払えない家庭の子供達は学校に行けなくなり、ドロップアウトした若者達は「開発途上国」の労働者と同水準の労働賃金でしか働けなくなり、希望のない日々を過酷な労働によって維持しなければならなくなっている。

「豊かなモノに溢れた生活」も、一方ではいわゆる「ブランド商品」などのように恣意的な供給抑制により、実際の価値から遙かにかけ離れた市場価格で売られる「付加価値商品」が富裕層のために存在し、他方、貧困化する労働者たちの生活では、どこかの国で低賃金でつくられた100均商品が大半を占めるようになり、自身の少ない賃金もスマホの高額な通信料であっというまに消えていく。

これが「腐朽化した資本主義社会」の姿である。 いったい何のため、誰のためのモノづくりなのか、何のため、誰のための新製品開発、デザイン開発なのか?よく考えて現実を見よう。

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