哲学・思想および経済・社会

2019年4月30日 (火)

かわいそうな天皇家の人々

 今日は平成最後の日。平成天皇が自ら退位の「心情表明」をして、明治以来初めて天皇が生存中に代替わりし、元号が変わるということでマスコミは大々的にそれに関連する記事を連載している。そこで明治以来の近代天皇とはいったい何なのかについてちょっと考えてみよう。

 江戸末期、アメリカ、ロシア、イギリスなどの諸外国からの外圧に対して鎖国を守ってきた江戸幕府が危うくなり、薩摩・長州による「新政府」がそれに代わって登場したわけであるが、そのとき徳川家を中心とした幕藩体制のいわば地方分権型支配体制から強力な中央集権体制国家に生まれ変わるために、大久保利通やそれに加担する公家などによりそれまで民衆にはほとんど知られていなかった天皇が再び担ぎ出されてきて「錦の御旗」のもと、「公方様」より地位が上の存在として大々的に宣伝された。

 そして明治という元号がそれまでとはまったく異なる響きと重みを以て、それを体現する明治天皇が「富国強兵」のための中央集権国家のシンボルとなった。その後、それまで農民だった人々の中から紡績工場や、製鉄所などで過酷な労働に耐えて働く労働者が登場し、その血のにじむような努力の下に日本は近代的資本主義国家として成長し、日清戦争、日露戦争などで、多くの兵士の命が奪われながら半世紀も経たないうちに西欧列強に伍する「大日本帝国」が出来上がっていった。日本の近代化はこうして産業や軍事の面では近代化であり西欧化であったかもしれないが、働く人々は「天皇」の「臣民」であり、より強力な「親方日の丸」的国民意識が強められ、天皇は絶対的な権威を獲得していった。そして明治天皇が死んだときには日露戦争の功労者、乃木将軍は自ら腹を切って殉死したのである。

 その後登場した大正天皇は精神的な病を持ちながら、短い天皇としての使命をなんとか果たし、その間徐々に盛り上がってきた労働者や農民の運動が明治期とは異なる時代の雰囲気を作り出していった。

 そして昭和がやってきた。昭和初期には日本ではすでに働く人々は農民、労働者、サラリーマン、公務員などという具合に階層化され、資本主義化の進んだ産業界が財閥化し、その資本家達が経済的実権を握る中、それまでの戦争で勝ち続けた軍の権力が著しく強められ、やがて政治にも軍の力が反映されていった。そこでは財閥と軍部の確執も生じ、労働運動や左翼的思想のインテリたちが影響力を持ち始める中で、それを強権的に統治しようとする政権には天皇がより強力な権威をもつ必要があった。そして天皇は「神」となっていったのである。当時の日本政府は西欧の資本主義諸国とロシアに登場した「社会主義圏」と日本の間での経済的権益と軍事的確執を「東亜新秩序の建設」と称して東アジア諸国への権限の拡大によって有利な立場に持って行こうとした。それには「現人神」を家長としてその下で「一億国民」が家族として一丸となって闘うというイデオロギーが必要だった。このイデオロギーは思想界では明治以来の西欧文化へのコンプレックスを克服するための新たな目標として広められ、左翼的インテリや芸術家の多くが官憲の圧力のもとで「転向」を余儀なくされた。

 日本の歴史上類を見ない大規模で悲惨な戦争はこうして起こされ、一般市民を多く含む数百万の人々の命が失われ、産業は壊滅し、戦争は敗北したのである。戦後、天皇は「人間宣言」をした。米国を中心とした占領軍は最初は天皇を戦争犯罪者として裁くことを考えていたが、当時、ソ連との確執が強まる東アジアでの状況に対応して日本をその防壁としなければならないということで、天皇を戦犯扱いすることで日本の国民が左翼化を強めることを恐れた。そして天皇は戦犯を免れ、そこに「象徴」としての天皇を頂く「民主主義国家」としての在り方を示す日本国憲法が出来ていったのである。

 戦後の日本では政治は一応形の上では民主的に選挙で選ばれた議員による国会での審議を通じて行われるということになっており、天皇は国家の「象徴」として政治的権力はなく、「人間天皇」であるはすなのだが、憲法で定められた「基本的人権」もなく選挙権もない存在となった。個人としての主体性のない「象徴」とは、いわば諸個人としての「国民」を星とすればそれを「精神的に」統治するブラックホールのような存在となったのである。ただ「公務」と称する政府文書への「御名御璽」を押印する儀式的行為や内閣の任命式や国賓招待などの儀礼のときに登場し、「国民に愛され」なければならない存在となった。考えてみればお気の毒な話である。巷に生きる一般庶民の方がずっと人間的な人生を送ることができる。

 本来ならば戦争犯罪人であったはずの昭和天皇の「後始末」に生涯を掛けた平成天皇はおそらくそのことを感じていたのではないだろうか?だからあの「退位の心情表明」は彼の痛切な自分の存在意義への告発なのではなかったか?

 そして次の令和天皇はいったいこの時代に「人間」としてどのような人生を生きようと欲しているのだろうか?

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2018年12月28日 (金)

「市場経済原理」の根本問題について考える (その10) 修正版

 最後にもう一つ重要なことが抜け落ちていたので追加する。それは、人は私的所有欲がなくなれば、自らすすんで何かをやりたいと思わなくなるのではないかという疑問だ。莫大な私財を築き上げた資本家は何でも欲しいものが手に入るようになることが人生最大の目標であり、あらゆる「ビジネスチャンス」を見逃さず「成功」を手にした人物であろう。
 資本家が「社会のため」と言いつつ、このような私的所有欲や名誉欲が原動力であることは誰でも知っているが、労働者も資本家企業からもらった給料で「消費者」として商品を買って自分のものにする所有欲が生きる意味の様になっているのを見ると、人間がこの私的所有欲から解放されるのは並大抵のことではないかもしれない。
 しかし、「モノやカネや権力を持つこと」と、自分の「人生における自己実現」とは常に同じわけではない。
 結論から言えば、前者は後者の疎外形態であるといえるだろう。言い方を変えれば「やりたいことを実現させること」は人類に普遍的な欲求といえるだろうが、「モノやカネや権力を持つこと」はその特殊に歴史的な、つまり人類史においてある特殊な時代である資本主義社会に特有な形態であるといえる。
 「モノやカネや権力を持つこと」が「人生における自己実現」であるような社会は、私的個人と社会が所有形態の上で対立した状態にあり真の意味での「共同体」ではないともいえる。個人の生活を成り立たせている消費財への私的所有欲という当然の欲求が、社会的剰余生産物が増大するにつれて私的個人によるその独占的あるいは排他的所有という形を生み、その独占的排他的所有への欲求が社会的に必要なモノへの支配を目指すようになれば、それを基板として登場した社会は、社会的に必要なモノが諸個人とは対立した形態で存在することになる。個人の生活に必要な所有と共同体に必要な共有財の私的占有との対立が個人と社会におけるこうした矛盾の両極形態となっているのである。
 だから個人が自己主張を強めれば社会と対立し、自己主張を遠慮すれば否応なしに全体社会に呑み込まれてしまう。そういう社会としての対立的矛盾が常に内在しているのだ。
 その対立的矛盾こそがますます人格化された資本の私的所有欲を掻き立て、資本の蓄積を促し、その疎外された意識の対象化され物化された形態である「資本」が社会を支配を強化させることになるのだ。
 自己が個でありながら同時に共同体的(社会的)存在でもあるという共同体に必須な厳然たる真理が矛盾なく存在するためには、社会的所有という形での人間の存在のあり方そのものが変革されねばならないだろう。本来マルクスの目指していた社会主義はそのようなものであったはずだ。
 しかしそれを目指した社会(ロシア革命でもたらされた社会)がその過程での過渡期社会において生みだしてしまったのが、いわゆる「スターリン主義的社会」である。そこでは、党と「国家」が資本家的支配に代わって労働者階級を支配するようになり、完全なトップダウン体制が出来上がり、諸個人の私的所有は政治的に圧殺された。そこに生まれた社会は資本主義よりはるかに「自由」のない社会であった。これはいうなれば「過渡期社会の疎外形態」であるといえるだろう。そしてその矛盾が完全に行き詰まったところで、その打開策として歴史を逆行して「市場原理」を導入したのがいまの中国である。
 ここでは党・国家による労働者階級への独裁的支配のもとで、労働力商品としての「やる気」を持つことが宣揚され、巨大な人口の労働者たちの「疎外された私的所有欲」による莫大なエネルギーとそれを誘導統括する強力な国家権力によって資本主義陣営よりはるかに急速に「経済成長」(資本の集中化)したのだ。これも「過渡期社会の疎外形態」のソ連型とは別な形態といえるだろう。
 私たちは私的所有を人間的欲求の基盤とする資本主義社会のもつ特有な矛盾がもっとも顕著に表れる「市場経済原理」のもとで、自らは「自由な個人」という意識を持たされていてもそれが知らぬ間に「市場原理」に支配された意識になってしまっているという事実を知るべきである。そしていまそこから脱出するための「手立て」と「目指すべき方向」の再確認を必要とする時期なのだと思う。
(以上)

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2018年12月21日 (金)

「市場経済原理」の根本問題について考える (その9)

 この単純再生産の表式は、社会主義社会では、次の様な意義を持つと思う。
 一つは、社会的総生産物に対象化された労働量が、どの様な部門のどの様な種類と量の労働の対象化によってもたらされたかを把握することによって、それをどの様に分配するべきかを決めることができる。
 もう一つは、社会的に必要な生産物を生みだす労働力がどの部門のどの種類の労働にどれだけ配置されねばならないかが分かる。
 そしてこの表式を用いた労働者階級自身による計画的経済が「市場経済原理」というアンコントローラブルな「原理」の矛盾を克服できる唯一の方法であるといえる。つまり、現在の「市場経済原理」の中で無政府的過剰競争が生みだされ、その結果による地球規模での自然破壊や資源の枯渇が進んでいく状態に対して「消費拡大が経済を活性化させる」として過剰消費型経済を加速させないと経済が維持できないという末期資本主義の絶対的矛盾と、それに対して「市場経済原理」が何ら打つ手を持てない状態とは異なり、社会的生産を担う労働者階級自身によるグローバルな観点からの生産計画と資源の計画的使用が可能になり、それによって地球の危機は救われることになるだろう。
 もちろん、このことを理論的にキチンと証明するには、「拡大再生産」の論理が必要であり、これについては現在のところ筆者の力量を超える課題なので専門家に任せることにしたい。
 ここで一つの問題は、社会的に必要な労働の配置を決めても、労働者があまりやりたくない種類(例えば3K労働など)の仕事もある。資本主義社会では、いやな仕事やキツイ仕事は雇用者が高い労働賃金を設定するか、低賃金でも働いてくれる移民労働者を使うが、それは資本の論理による労働力の配置の形であり、労働者を単なるモノと同様な手段としてしか見ていない。
 しかし社会主義社会では労働力市場は存在しないし、労働手段は人間としての労働者が用いる物的手段でしかないので、こういう分野にこそ資本主義社会で高度に発達したAIやロボット技術を導入するであろう。
 そしてさらに重要なことは、現在の社会的分業種(業種)やそこでの労働内容は、あくまで資本主義経済体制に適した特殊な形で発達してきた労働の形態(例えば単純肉体労働など)であって、これは社会主義経済体制の確立とともに次第にそして大きく変化していくことが確実であるということだ。
 将来的には、人間の頭脳と肉体の機能が有機的結びつき、生物学的に健全な発達をするに相応しい形の労働形態が労働者階級自身によって生みだされていくに違いない。
 また生産手段についても同様である。特に労働手段はいまとは全く違った形に発展して行くことは確実である。それは資本主義社会での様に、労働の搾取のための道具ではなくなり、本来の人間能力の延長手段としての役割を果たすような形での進化を遂げるだろう。だからAIによる「シンギュラリティ」などという不安はどこかに吹っ飛んでしまうだろう。
 こうして歴史的に特殊な資本主義経済体制の根本矛盾を示す「市場経済原理」は克服されるだろう。そしてその過程はどこかの政党が主張するように、いわゆる「2段階革命論」的発想による、まず資本主義経済を発達させてその後に社会主義に向かうなどという政策から、「社会主義にも市場経済は必要だ」などと主張することは結局大きな誤りであることも明らかにするだろう。
(さらに続く)

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2018年12月20日 (木)

「市場経済原理」の根本問題について考える (その8)

 マルクスは、資本論第1巻で資本の発生の論理とその本質そしてその歴史的生成経緯について述べた後、第2巻ではその資本が社会的な流通過程でどのように回転と循環が繰り返されることで増殖され、その社会的再生産が社会的総生産物という形を通じて繰り返されるかを述べている。
 そこで「再生産表式」が出てくるのであるが、ここでマルクスは社会的総生産物を生産手段(I部門)と生活消費財(II部門)の2つの生産部門で区別している。つまり社会的生産物の持つ使用価値における目的と手段の関係における区別といえる。
 これらの社会的総生産物の2つのカテゴリー間で、それらすべての生産物に含まれる価値(資本)部分がどのように社会的に交換・流通されることで社会的総生産物の生産が繰り返されるかを述べている。
 そこでは、生産物に含まれる資本価値を不変資本部分(c)、可変資本部分(v)、剰余価値部分(m)という3つの資本価値部分で捉えることで、その価値部分のやりとりの分析を通じて社会的総生産物の再生産に必要な条件を論じている。
 不変資本部分とは生産手段が生産過程で労働により生産物に移転させた価値部分であり、可変資本部分とは、労働者が労働過程で生みだした、自分の労働力を再生産するのに必要な生活消費財の価値部分(労働賃金に当たる)を生みだすのに要した労働量を表す価値が、そして剰余価値部分は、v部分に必要な労働時間を超えた労働時間で生みだされ、資本家が無償で獲得する価値部分である。
 資本主義的生産物としてすべての生産物に、当然c とvだけではなく剰余価値部分mが含まれている。つまり年々の社会的総生産物全体の価値構成とその総量は、I(c+v+m)+ II(c+v+m)で表せる。
 その上で、マルクスは単純再生産、つまり同じ規模での社会的総生産が毎年繰り返される状態については、I(v+m)= II(c)という関係が維持されなければならないとしている。
 その意味は、I部門の生産物は生産手段であるが、その生産のために新たに追加された労働時間の対象化された価値部分I(v+m)は、それを生みだした労働者の労働量に対応する生活資料と交換されねばならず、一方II部門で消費手段の生産に用いられ消耗した生産手段の価値II(c)部分は、その補填としての生産手段を必要としており、それと同価値量のIIの生産物である生活消費財とIからの生産手段が交換される。
 この式には出ていないが、I部門の生産物の残りの部分は、他の生産手段生産分野の生産手段として、同じ部門内での異種生産分野間で必要とする生産手段が交換される。同様にII部門の生産物の残りは、同じ部門内での他の消費財生産分野で労働者が必要とする生活消費財として交換される。
 こうしてその年の終わりには再び前年と同じ構成の総生産物が用意され、翌年も同じ規模での社会的生産物が開始される。
 この表式は資本主義的生産様式における生産物価値の構成とその流通に必要な条件が述べられているのであって、社会主義経済体制においては、資本価値は存在しないのだから、このc, v, mという価値構成による再生産表式の分析は何の意味もない、という人もいる。
 こういう主張をする人たちは、cで表現される生産過程における価値移転問題など社会主義においては無意味だと主張する。そうしないと「移転された価値部分」という把握によって、社会主義における生産物の分配問題が矛盾するからだというのである。
 そして社会主義体制においては、社会的生産物の分配は生活消費財だけに限られ、生産手段は分配されることなく「社会的所有」となる、と主張している。では一体誰がどのようにそれを管理運営するのだろうか?まさか「国家管理」ではないだろうと思うが。
 この主張についての問題点は別の機会に論じることにするが、筆者は明らかに間違いであると考えている。
 ひとつだけ言っておけば、「価値移転」問題は資本主義生産特有の問題ではない。普遍的な意味での労働過程において、労働者が新たな使用価値を生みだすために用いる生産手段にはそれをつくるために費やされた過去の労働(死んだ労働)が対象化されており、これが新たに加えられる労働(生きた労働)によって生産的に消費された分、新たな生産物の中に合体された価値の一部として「移転」するのである。つまり「生きた労働」が生産手段としての使用価値を機能させながら、新たな生産物の使用価値を生みだすのに寄与した過去の{死んだ労働}の量である。
 ここでいう「価値」は、「社会的に必要な抽象的労働」として生産物に対象化された労働量つまり必要労働時間である。社会的総生産物にはさまざまな社会的分業種が生みだすさまざまな使用価値を持った生産物が、全体としてみれば、それぞれ「社会的に必要な労働」の一部という観点からは等質に抽象化され、対象化されている。その意味で、ここでの「価値」つまり価値規定はあらゆる社会での労働生産物において普遍的な意味を持つのである。
 この本来社会的な規定である「価値」が私的所有を前提とした資本主義経済体制において当然生じる矛盾を社会的生産物の市場での売買という形で資本主義的に「解決」しようとするのが「市場経済原理」であり。そこに貫かれる「価値法則」であるといえる。
 さて、このような問題に注意して考えれば、社会主義生産体制における単純再生産の条件はやはり、I(v+m)= II(c)で表されると考えられ、そこでのcは生産手段に過去の労働で対象化された価値が新たな生産物に移転してきた部分であり、v+mはそれを用いて生産した生産物に新たな労働によって追加されて対象化された価値部分である。その結果生みだされた生産物には両者とも「死んだ過去の労働」の対象化された結果としての価値として含まれている。
 しかし、重要なことは、ここでのvとmの区別は、「可変資本」と「剰余価値」ではなく、「労働者の個人的生活に必要な生活資料の生産に必要な労働量」と「社会的共通財として必要な生産物の生産に必要な労働量」である。そしてこの両者の比率は、当然資本主義でのような「搾取率」ではなく、「労働者階級自身が合議の上で決める比率」に基づいている。労働者の生活が十分に豊になってくればm部分は増大させることができる。
 そして社会主義社会での生産物の分配は、労働者個人の生活消費財についても社会的共有財としての生産手段にしてもそれらを総体として生産するに要した社会的総時間のうち、自分が寄与した労働時間分に応じて分配される。
 生産手段の場合は、原則として、各生産物分野の生産拠点ごとにそこでその生産物を生産するために消費した生産手段の価値部分(価値移転分)に要した労働時間量の合計に相応する価値量の生産手段が分配される。しかし、消費手段と違って、生産手段の消費期間はまちまちであり、更新時期もまちまちであるため、こうした事情が考慮された上で適正に分配されなければならない。
 またその他の社会的共有財(社会インフラ、社会保障、医療、教育などに必要な財)は、社会的に必要不可欠な財としてあらかじめ、v との比率を決めて控除しておかねばならないだろう。
(続く)

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「市場経済原理」の根本問題について考える (その7)

 私的所有を前提とする商品市場の「レッセフェール」による無政府的合理性を旨とする資本主義市場経済原理が破綻し、「国家独占資本主義」という国家介入型資本主義が導入されたにも拘わらず、その矛盾から再び「新・自由主義経済」なる形に戻った現代の資本主義経済は、当然のことながら何ら「市場経済原理」の基本的矛盾を超えることはできていない。
 しかしその矛盾を本質的に超えることが出来るはずの社会主義経済も旧ソ連時代に破綻した。そしてその破綻を「市場経済原理」の導入で乗り切り、党・国家主導型資本主義経済体制になったのがいまの中国である。
 それでは本来の社会主義経済が目指していたものはどのような経済体制なのか、このことについてはマルクスもほとんど記述を残していない。「ゴータ綱領批判」での「労働証紙制」など断片的な記述しかない。
 しかしまず考えねばならないことは、労働者階級が主導権を握った社会では、社会的な労働の目的は単なる「際限ない私的財産の増殖・蓄積のための手段」や「労働力を再生産するのに必要最低限度の生活」ではなく、労働者諸個人の充実した生活の維持と発展を前提として、その主体的労働を通じて自分の社会的存在意義を表現し確認しうることにあるのだと思う。自分はこの社会で何のために存在し、何のために働き、この社会に生きることがどういう意味があるのかを労働を通じて表現し確認するができる社会である。
 こうした生き方を確保して行くために必要な生産手段(社会的に必要なモノを生みだす労働に必要な手段)は個人の私的所有物ではなく、社会的共有であるべきなのは明らかである。
 ここで重要なことは、「社会的共有」イコール「国家所有」ではないということである。「国家所有」とは一国社会主義を奉じる支配階級としての党官僚たちのカテゴリーであり、労働者階級の視点ではあり得ない。このことへの誤解を乗り越えることが必須である。
 なぜなら、労働過程は個人としての労働者自身による「表現手段」であるが、それは同時に社会的に必要な労働であるから、そこに用いられる手段は当然社会的に必要な手段でもあり、労働者自身の主体的労働過程の従属物(客体的手段)でありながら彼個人の私有物ではあり得ないからである。
 もし生産手段が彼の個人的私有物であれば、それは社会的共有を前提とした共同体から切り離され、個人的欲求達成の手段となり、小規模な職人的労働や芸術表現ならまだしも、高度に発展した生産技術を用いる生産体制であるならば、やがてその生産物への私的所有と社会的所有の対立へと発展し、資本主義の矛盾を再生させることになる。
 資本主義社会は個人的富の蓄積を基本動機として発展してきた社会であり、そこでは高度な生産技術と科学技術を生みだしたが、それは私的所有の増大(私的企業の利益増大)のために社会的に必要な生産をその手段とするという形で発展してきたためにとんでもない矛盾に突き当たってしまったことはすでに歴史が証明している。
 社会主義社会はその目的と手段が逆立ちした矛盾を正立させることによって克服し、人類本来の社会的生産活動を実現させようとする社会である。
 そしてこのように、生産手段の社会的共有化を前提とした上で、「協働」による共同体社会を維持発展させて行くために必要不可欠な問題、つまり、病気や怪我など何らかの原因で通常の労働ができなくなった人たちや、高齢でリタイアした労働者への生活保障、必ず襲ってくる自然災害への備え、そして今後の社会発展に必要なインフラや宇宙開発などのために必要な社会的共通財を維持・蓄積していくことであろう。これらと生産手段をまとめて「社会共通財」と呼べば、社会主義社会は、「個人生活に必要な消費財」と「社会共通財」という2種類のカテゴリーの社会的生産物の生産と消費の繰り返しによって成り立つと考えてよいだろう。
 このように社会主義社会は「協働」による共同社会であり、そこで生産される生産物は、その社会的に必要な労働の総量(総労働時間)のうち、自分の行った労働がその中でどの位の量的比率をしめているか、つまりどの位の時間労働したかによって、それに応じた生産物の量を分配されることになる。そこではもう資本価値の表象としての貨幣は不要であり、生産物の分配には「労働証紙」とも呼ばれる労働時間証明書(ポイントカードの様なものと考えて良いだろう)を媒介として行われる様になるだろう。
 そこで次に必要なことは、この大きく分けて2つの種類の社会的生産物(生産手段を含む社会共通財と個人的生活手段)がどのように生産・流通され社会的な再生産を維持発展させて行くのか、という問題である。
 ここで必要なのは、マルクスの資本論第2巻、第3編「社会的総資本の再生産と流通」に述べられている「再生産表式」についての考察である。
 次にこれについて考えてみようと思う。
(続く)

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2018年12月19日 (水)

「市場経済原理」の根本問題について考える (その6)修正版

 このような矛盾に充ちた「市場経済原理」が鄧小平による「改革開放後」の「社会主義」中国で採り入れられた。これを「社会主義市場経済」と呼ぶのだそうだ。中国はこれによって急速な経済発展を遂げて日本を追い越し、アメリカに次ぐ世界第2の経済大国となり、いまや衰えつつあるアメリカを脅かす存在となっている。
 この体制を「国家資本主義」と呼ぶ人もいるようだが、そこでは党・国家の方針で「豊かになれる者から豊かになればよい」という自助努力の奨励で私的所有への欲望を原動力として「能力ある者が能力の低い者に仕事を与え、生活ができるようにさせる」という形で賃労働と資本の関係を育成させたのである。
 そのため「豊になれる」能力を持った者の私的所有への強烈な欲望が原動力となって急速に中国の経済は資本主義化し、富裕層が育っていった。しかしそれは当然同時に、労働者階級と資本家階級という階級関係の育成となり、階級間格差が増大した。
 また地方の農民たちは、この資本主義経済化の中で、政策的にその地域に縛り付けられ、「豊かな者」になるチャンスを奪われた。貧しい生活から生みだされた安い農業生産物により都会の労働者たちは安い賃金でも生活して行ける体制を維持し、低賃金労働による資本家の剰余価値分を増やすことで経済発展を促す必要があったからだろう。「労働者・農民の政府」であったはずの党・国家は、事実上社会主義経済を放棄し、資本主義化することにより、労働者や農民を裏切ったともいえるだろう。それともこれがいわゆる「2段階革命」のステップだとでもいうのだろうか?
 そこでまず本来の社会主義経済体制を目指す革命がどのように変質し挫折してこのような形になってしまったのかを見てみよう。
 最初の社会主義を目指した労働者による革命であったロシア革命で、資本主義化の立ち遅れた当時のロシアにおいて社会主義的計画経済を実施することが困難であることを悟ったレーニンらが採った新経済政策(NEP)がその後、スターリンらによる革命政府乗っ取りによって、定式化された「2段階革命戦略」という方針の中で規制事実化され、市場経済原理が部分的に導入された。同時に、本来社会主義が目指していた社会主義社会実現へのインターナショナルで永続的な革命を「非実現的」として排除し、それぞれの国での「一国社会主義」実現という方針が定式化されてしまった。つまり資本主義的支配形態である「近代国家」が普遍化されてしまい、そのため、「国家」イコール「社会」という誤った観念が定着してしまったのである。
 こうした中で、資本主義陣営と対峙しつつ、一国での社会主義実現を目指す党・政府による「ノルマ労働」に見られるような上意下達的な労働形態を基礎とした「計画経済」が進み、党・国家官僚が支配階級化し、労働者は被支配階級化していったのである。
 「国家社会主義」を名乗るナチス党独裁の国家統制型資本主義国ドイツとの闘いに勝ったソ連は、戦後の一時期は5カ年計画がうまく行っているようにも見えたし、宇宙開発などの国家的事業ではアメリカを凌いでいた時期もあったが、その後「消費駆動経済」を進めたアメリカ型「国独資」の成功と裏腹に、それと対決していたソ連「社会主義計画経済」は内部矛盾は深刻化し、行き詰まりが進み、1950-60年代になって東欧「社会主義諸国」から「自由化」を求める運動が勃発した。そしてそれは1980年代末にはついに「社会主義圏」全体に拡がり、「自由化」を目指す人々によって東欧、ソ連などで「社会主義」政権が崩壊した。
 一方、中国は革命当初から農民の位置づけが大きかったが、政策的には当時のコミンテルンの司令もあって基本的にソ連型に準じた労農政府ができた。したがって、やはり党独裁政府による上意下達的労働の形態からくる労働者や農民への軋轢は大きく、1960-80年代にはそれによる矛盾の噴出を「大躍進運動」や「文化大革命」で押さえつけようとしたが、いずれも失敗した。そして1980年代末には、文革で一時失脚した鄧小平の復活による「改革開放」ということになったのである。
 しかしその直後、学生・労働者による「自由化」要求の波が起こり、党・政府はこれに対して徹底的に力で押さえ込み、「天安門広場事件」という惨劇となった。以後、党の強権体制が維持されたまま、国家主導による急速な資本主義化が始まったのである。
 つまり中国では、党官僚の監督下に資本家階級がありこれらの支配階級が政府による統治を通じて二重に労働者階級や農民階級を支配するという形態が続いている。
 社会主義経済は「市場経済原理」とは本来相容れないものであって「社会主義市場経済」などありえないはずなのだ。
 問題は社会主義計画経済がなぜ失敗したかであろう。この問題は重大かつあまりに大きな歴史的課題であり、筆者の力量ではその問題のほんの一部について触れることしかできない。そこで僭越であることを覚悟の上で、次に社会主義計画経済とは本来どんなものであるべきなのかについて筆者の考えを述べてみようと思う。
(続く)

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2018年12月17日 (月)

「市場経済原理」の根本問題について考える(その5)

 こうした「市場経済原理」は、その「自由市場」という性格上、資本家企業の利己的利潤追求同士が互いに競争し合うことで、その無政府的競争が生みだす「市場原理」によって、いわば「自動的に」社会的に必要な労働が確保され、必要なモノ(労働力商品も含めて)が「適正な価格」で売買されていく、というイメージを持っている。
 しかしこのスミスなどの古典派経済学の主張を背景とした「自由な」市場原理が19世紀末までには世界規模に拡大され、それぞれの国や地域での資本主義経済化の度合いの違いによる軋轢が増し、利害の衝突に至った。
 そしてこの市場原理が金融市場を主な活躍舞台とするようになることで、その矛盾が一気に爆発し、その「自動調整」の原理は完全に崩壊するということが歴史的事実(20世紀前半の世界恐慌や2度の世界大戦)として証明された。
 そのため、危機に立たされた「先進資本主義国」の資本家階級はその苦い経験を元にして、すでに成立していた「社会主義圏」の計画経済を横目で見ながら、国家の指導力を強める方向に舵を切った(その背景にはケインズによる理論があった)。
 それによってそれまでの資本主義経済体制は、「総資本代表政府」の指導力を強め、インフラなどの公共事業や軍事産業などに莫大な国家予算を投入する経済政策を実行し、これを引き金にして、労働者の雇用と賃金水準の引き上げを図り、それをサポートするための貨幣価値の恣意的調整などの金融財政政策を採り、それらの政策がもたらす、消費拡大による資本家企業の活性化を図った。
 つまり個別資本家同士の「自由競争」によっては成し得なくなった資本主義経済体制の維持発展を国家が介入することで再生して行こうとしたのだ。
 この「修正資本主義経済」は「国家独占資本主義」とも呼ばれ、アメリカや、イギリスなどそれぞれ国によってその形態は異なるが、一時期資本主義陣営で成功を収め、特にアメリカは経済的にも軍事的にもそして文化的影響力でも世界一の資本主義大国となった。
 しかし、アメリカではソ連に対抗するため増大させた軍事・宇宙開発への国家予算の額が膨大にふくれあがり、1970年代からはベトナム戦争などで学生労働者たちの反戦運動が高まり、深刻な社会問題となった。また、右肩上がりに上昇し続けた労働賃金水準と経営陣に大きな影響力を持ち始めた自動車産業などの労働組合が資本家階級にとって大きな足かせとなっていった。
 そしてイギリスでは社会保障(健康保険など)に大きな国家予算が投入され、社会保障が行き届いて行くにしたがって、労働者が資本家企業での労働意欲を失って行くという「イギリス病」が資本家階級を悩ました。
 その間、第2次大戦の敗戦国だったドイツや日本では、戦争による破壊で「ゼロ・リセット」をかけられたことがかえってまったく新たな設備の投入を可能にし、国内の労働需要の増大などによって急速に新興資本家企業が成長し、1970年代にはアメリカやイギリスなどの先進資本主義国を世界の工業生産物市場において凌駕するようになり、やがて1980年代に日本では、”Japan as No.1”に浮かれた資本家や富裕層たちがあり余る儲けを金融市場に回してさらに「根無し草マネー」を拡大することによる「バブル景気」の時代が訪れた。
 しかしそのため、国際市場では貿易のアンバランスを調整するため変動為替製が導入され、急激な円高などによる金融企業の混乱が生じ日本のバブルは一気にはじけた。
 一方でアメリカやイギリスでは「自助努力」による経済が強調されるようになり、いわゆる「新自由主義」的雰囲気が登場した。
 そして1990年代には「社会主義圏」崩壊という歴史的事件があり、その後、「勝ち組」となった資本主義国陣営はこぞって「新自由主義経済」に突入していったのである。
 その後は世界一の労働者人口を抱える中国の「社会主義市場経済」による世界市場への参入など大きな変化があるが、資本主義陣営では基本的にはこの「新自由主義経済」が主流となっており、国家間や国内での労働賃金水準の差(格差)を利用した膨大な剰余価値の搾取とその回転によって、世界で増大する流動過剰資本がもたらす金融市場の活況、そしてそれの持つ本質的不安定性がもたらす世界経済の不安定性が常態となっているのである。
 つまり「市場経済原理」はいったんその本質的矛盾を露わにし挫折したにも拘わらず、再び「自由市場」こそが経済の普遍的原理であるかのように振る舞っているのである。
 しかしそれもいまや、トランプのアメリカや東ヨーロッパ諸国、そしてロシアなどでのナショナリズム的資本主義、そして「社会主義国」を自称しながら実質的には、国家主導型の資本主義経済体制(つまり賃労働と資本という矛盾を積極的に採り入れた「社会主義」という矛盾した体制)を採っている中国などとの間で激しい世界市場での軋轢が増大している。その軋轢の中で富裕国のエゴによる差別化の最底辺に置かれ、悲惨な状況のパレスチナやシリアやイエメンの人々がいる。
 「市場経済原理」に基づく世界経済はさらに大きな矛盾を拡大再生産しつつあるといえるだろう。
(続く)

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2018年12月16日 (日)

「市場経済原理」の根本問題について考える(その4)修正版

 これまでに述べたように、社会的生産活動が私的所有を前提とした商品市場を通じて行われるということによって、「市場経済原理」においては、たえずアンコントローラブルな市場での需要と供給の動向に左右され、それが経済活動を規定する最大の要因となる。
 まず、人々の生活に必要な消費財における商品市場では、労働賃金を主体とした人々のいわゆる「所得」が商品を購入するためにどれだけ余裕があるかによって、いわゆる個人消費市場の動向が左右される。
 次に、それら生活消費財を生産する生産手段商品(機械・設備や原材料など)の市場では、当然これら生活消費財市場の動きに左右される。
 そして最後に、労働力市場では、労働力商品の需要と供給の関係で、資本家の生産活動に必要な労働力が足りなければ、労働賃金を上げて、つまり労働力商品を高値で買わねば労働力が獲得できなくなるし、過剰になれば、人員整理などによる「人手減らし」が必要となり、賃金は最低限度までどんどん落ち込む。
 このほかに、金融市場というのがあって、これは資本家たちが獲得した剰余価値をいかにうまく回転させることで効率よく増やして行けるかという目的から発展してきた市場である。そこでは有価証券などの売り買いで価値が増殖したように見える(実際の価値増殖は生産的労働の場でしか行われ得ない)ので、経済活動への影響が大きくなる。
 資本家たちにとってはこれらすべての商品市場は私的な富の増殖と蓄積のための手段であるが、労働者たちにとっては、自らが日々生きるために必要な生活手段を、労働力という商品を売ることで確保することしかできない市場なのである。
 これらの商品市場でいかに多くの利益を獲得できるかが資本家達の唯一の関心事であって、これらのどの分野に自分の私財を投資するのが有利かを彼らは常に「自由に」考えて行動する。そのため、私的利害のみに目が向いている資本家同士の競争(自由競争)が互いに衝突し合い、社会全体としては経済危機をもたらすことも多い。
 そこで資本家代表政府は、これを全体として、つまり総資本の立場で調整するために、労働賃金をできるだけ上げて生活消費財商品の売れ行きを良くし、そのために必要な生産手段商品の市場もそれにつれて需要が高まり、金融市場も活気づく、という知識(ブルジョア経済学者たちによる)から、個別資本家たちに労働賃金を上げさせようとするが、各資本家企業においては、市場での競争をにらみ、できうる限りの「経費削減」をしなければならないので、労働賃金はできうる限り上げないようにする。
 その代わり、少なくとも生産性が高まる様に設備の「合理化」を行う。AIやロボットの導入による生産の自動化などである。そのために設備投資は増えるが、賃上げしなくてすむ分、労働賃金への投資は減る。
 「合理化」の対象となって解雇された労働者は困難な生活に追いやられるが、運良く生き残った労働者は、賃金は上がらないが、合理化された生産でコストを削減された生活消費財商品を買うことができるようになるので、ひとまず生活は維持できる。
 しかし、資本家は困ったことに雇用する労働者数が減れば減るほど、同じ生産量ではそこから得る剰余価値の量が減っていくことになるので、コスト削減した商品をより大量に販売しないとやっていけなくなる。すると商品市場は供給過剰になって売れ行きがダウンする、という悪循環に陥ることになる。
 そこであの手この手を使って利益を増やそうとするのだが、そのもっとも単純な方法は、労働者階級の購買欲を刺激し、生活資料商品の購買増を促すことで商品市場の回転率を高めることである。だから猛烈な宣伝合戦やモデルチェンジがつねに行われる(デザイナーはそのために必要な頭脳労働者である)。
 さらに資本家が採る方法は、国内市場に頼らず、海外の市場を開拓することである。商品の輸出によって海外での購買増を促し、それと同時に、生産コスト削減のため海外の安い労働力による生産を考え、海外に生産拠点を移す。その方が国内での生産合理化よりはるかに安いコストで、多くの剰余価値を獲得できる(つまりより多くの低賃金労働者を使って剰余価値量を増やせる)からだ。
 こうして国内の生産拠点が縮小し、その分労働者は解雇されるか、あるいはクビにならなくとも販売部門やサービス部門などに配置転換される。
 こうしてある程度の「雇用」は維持されるかもしれないが、社会的分業種の構成は「ものづくり型」から直接価値を生みださない「サービス業型」に変貌して行く。
 そこで他の国々の労働者たちが生みだした莫大な剰余価値を獲得するのはそれに投資した資本家たちであり、国内の労働者たちは資本家階級の経営を補佐分担する形の労働など(販売部門、金融機関など)でいわばその「おこぼれ」を頂戴するか、観光業やサービス業など非生産部門での労働に従事し、そこで海外や国内の「富裕層」や比較的余裕のある労働者へのリフレッシュのために行う労働で彼らが「顧客」として落としていくオカネを頂いて生活しなければならなくなる。
 つまり産業の「寄生化」であり、労働の「寄生化」である。この非生産部門が多くの非生産的労働により利益を上げている間、むしろ人手不足となっていくことさえある。
 その一方で高学歴化した労働者たちからは、社会インフラの建設やメンテ、そして農業などのキツイ・キタナイ労働(3K労働)は嫌われ、そこに新たな労働力が社会的に必要となる。
 そこで資本家階級代表政府としては3K労働も厭わずやってくれる海外からの労働者を導入しようという話になっていく。しかしそれらの海外労働者はこうしたインフラ、メンテ、農業などの分野で稼ぐ資本家企業で低賃金労働者として雇用され、それらの企業がこれによって利益を獲得していく。
 こうして資本家達の利益は順調に増えて行くが、労働者階級の生活は不安定で寄生的なものとなり、若い労働者やその予備軍たちは、仕事において生きがいを感じることができず、スマホの「仮想現実」の世界に逃げ込むことでその不安から少しでも逃れようとする。こうして労働者たちは活力ある階級意識を失い、「親方日の丸」的な意識になって行き、「資本家代表政府」への支持率は維持される。
 しかし、こうした「市場経済原理」の矛盾はいつか必ず何らかの形でドラスティックに爆発するのである。
(続く)

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2018年12月15日 (土)

「市場経済原理」の根本問題について考える(その3)

 このように、市場経済社会とは、社会的生産物すべてが私的所有にもとづく商品として現れる社会であり、それらを生産するために日々働く労働者までもがその労働力を賃金と引き替えに買われる商品として扱われる社会である。
 この社会は、私的所有者間が平等で自由な商品交換によって成り立つことが「原則」とされているが、実際には生産に必要な手段(機械設備や原材料など)を所有する人々(資本家)が、労働力しか持たない人々(労働者)からその労働力を商品として購入して、資本家の意図のもとに生産手段と結びつけられた労働を行わせ、それによって生みだされた生産物は資本の私有物となることによって、資本家はそれを売ってさらに富を増加させるが、労働者つねに自分の労働力しか売りに出せるものがない、という形で社会的生産活動が行われており、基本的に平等ではない社会である。
 労働者たちは労働者として役に立つための教育(ここでもすでに受験戦争という形で労働力予備軍の選別が行われる)を受けたのち、今度は労働市場に出て、自らの労働力を商品として資本家に買ってもらわなければならない。いわゆる「就活」あるいは「就職戦線」である。
 ここでは労働力商品同士が市場で競争することになる。そこでの「勝利者」は如何に自分の労働力を高く安定した企業に買ってもらったか、ということであり、「敗者」はこの段階で「差別化」され、劣った労働力商品として社会的に評価されることになる。
 しかしこうして労働者予備軍内での激しい競争の結果、やっと就職した企業では、労働者の労働力は資本家の所有物であり、労働者はそれを資本家に売ることで(資本家と契約という形で)受け取る賃金によって「自由な消費手段購入者」となるが、その自らの社会的存在意義を表明する手段であるはずの労働力が資本家の支配下にあるため、労働における自己表現は資本家の自己表現となってしまう。労働の場においては完全に資本家に隷属した状態であり、本来の自由も平等もない。だから「消費者」として資本家の商品を買うことにおいて自己表現するしかない。
 こうしてこの社会では基本的に社会的生産の場において平等ではない関係が前提され、それによって「自由な市場」が成り立つというパラドックスが存在しているのだ。
 労働者は資本家から「消費者は王様である」などと持ち上げられて、資本家たちが労働者を使って生みだした生活消費財商品を購入し、「お客様」として扱われることで、「平等な社会」と勘違いさせられている。実は彼らが購入する商品は彼らの仲間の労働によって生みだされたものであって、それが資本家の所有物として市場で売られているのであり、いうなれば、労働者階級全体としてみれば自らが作ったものを自ら資本家から「労働力の代償」として受け取った賃金で「買い戻している」だけなのである。
 しかもその労働の過程で、生みだされる剰余価値部分はつねに無償で資本家の手に利潤をもたらし、それによってつねに資本家達は自らが必要とする生活消費財の他に生産手段や労働力を商品として買うことができ、それを用いて富を増やしていくことができるのである。このようにして資本家と労働者の関係は、基本的に不平等な階級関係として生産と消費のサイクルの中でつねに再生産されている。
 つまり「自由で平等な市場経済社会」とはこういう不平等な階級関係が前提となって成り立っているのである。
 だからいかに資本家代表政府(利己的思惑で動く各資本家達のうごきによって生じる矛盾や軋轢を社会全体として調整するために必要な政府——安倍政権やトランプ政権などはその典型)が、「雇用を促進する」とか「消費者の生活を豊かにする」とか「消費拡大によって経済を活性化させる」とか言っても、その本意は結局、この賃金奴隷という形の階級関係をいかに維持し、労働者階級の不満をいかに逸らしながら、資本の成長を図っていくかということに過ぎないのである。
 まず基本的にこのような事実を踏まえた上で、この社会が依って立つ「市場経済原理」の矛盾をさらに考えてみよう。
(続く)

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2018年12月12日 (水)

「市場経済原理」の根本問題について考える(その2)

 市場経済原理」では「私的所有の自由」を原則としており、私的所有者間での所有物の交換が「商品」という形で価値の具現的表象化である貨幣を媒介として行われる。社会的に必要な生産物の生産や流通を行う場合にもこうした「原則」が貫かれる。必要な生産手段商品を買うことができるだけのオカネをもっている者が、それを買い、同時に生産に必要な労働力をも商品として買う(賃金契約を行い雇用する)。ここで労働力商品の価値は、その労働力を日々再生産できるために必要な労働者の生活資料の価値である。生産手段の所有者はそれと「等価」な賃金を労働者に支払い、その労働力を買う。そして自分の買った商品同士を生産現場で結びつけて生産を行う。そこで生みだされた生産物は雇用者である企業の所有する商品として市場に投入され、そこから企業の経営者(所有者)は利得を得る。
 しかしこの生産の過程で生みだされた生産物にはその過程で生産的に消費した生産手段の価値部分(不変資本部分)と労働者に支払った労働力の価値部分(可変資本部分)だけではなく、労働力の再生産に必要な価値を超えて支出された労働の価値部分(剰余価値部分)を含んでいる。
 資本家にとって労働力は「自ら価値を生みだす商品」であり、その価値(賃金として支払われる)よりも多くの価値を生みだすという使用価値をもった商品だからだ。この剰余価値部分は剰余労働時間の労働によって、生産物として無償で労働者の知らぬ間に企業の所有者の手に渡っている。だからこの生産物を商品として市場に投入すれば、それがたとえ「等価交換」のように見えても、そこに剰余価値分の利潤が含まれているのである。
 実際には資本家はこれを「生産費用」という形で「必要経費」とみなし、市場の需要と供給の関係から、その商品を実際の価値よりさらにどれだけ高くまた多く売ったかによって利益を計算する。
 この市場の「原則」が貫かれていることにより、できるだけ高く売りたいにも拘わらず、競争相手が値下げで対抗し、自社の商品が売れなくなれば、できるだけ経費を削減して市場価格を下げなければならなくなる。つまり市場では商品は不当に高い価格では売れないことになり、つねに「適正な価格」に自動的に調整される。これがいわゆる「神の手」であり「市場経済原理」である。
 実はこの「神の手」は「自由市場」だから生じるというわけではなく、むしろ私的所有によって本来は社会的であるべき生産が行われているという矛盾から来るということが重要である。
 社会全体にとって必要なことを企業の私的で利己的な生産・販売行為によって生じるアンコントローラブルな「市場の法則」を通して調整する世界を「自由市場」というのである。当然ここでは「神の手」ではなく生臭い私的欲望が社会全体を動かす駆動力になっている。そのため、この「神の手」はしばしば、とんでもない経済危機を呼び起こすのである。
 ところがその反面、企業内部では、できうる限り計画的かつ効率よく利益を稼ぐことが目指され、冷酷な合理的利益計算が行われる。私的欲望による駆動力をもとにアンコントローラブルな競争の元に置かれた市場と、企業内部でのそれに勝ち抜くための冷酷な計画性といういわば相対立する矛盾の両極(矛盾的自己同一)によって社会全体が動いているのである。
 こうした基本的矛盾の中で、経営者の「統治能力(ガバナンス)」とは実際に現場の労働で価値を生みだす労働とはまったく異なり、その生みだされた価値をいかに企業の収益として吸収できるかという視点からの方略を合理的・計画的に考える能力である。
 これこそまさに「人格化された資本」の姿である。
 確かに、各従業員の仕事がどのような内容であって、どのようにそれを配置するか、どれだけ働けば良いか、などについて下っ端の従業員たちは知らない。あらかじめそれらを決める能力はそれらの従業員たちからは取り上げられていて「能力ある経営者」の「専業」とされているからである。実際には、「管理職」と呼ばれる、選ばれた「有能な従業員」がこれら経営者の仕事の一部をそれぞれ分担する頭脳労働者としてこれを行い、経営者はCEOとしてただ「決断」を下すだけである。
 一方でその経営者の統治のもとで日々必要な労働を行っている多くの労働者たちには、あらかじめ決められた賃金しか支払わない。そしてアンコントローラブルな市場の動きによって経営がうまく行かなくなり、「合理化」によって首を切られた従業員は残った従業員との間でいわれなき格差をつけられ、失業や不利な職場への配転という形でそれを見せつけられる。同じ労働者仲間であるにも拘わらず、「労働力商品」として互いに競争させられることの悲劇である。
 一方経営者はたとえ経営に失敗してもそれまでに貯め込んだ私財によって再起もできるし悠々自適のリタイア生活もできるのである。
(続く)

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